韻文編纂
紡芽 詩渡葉
賓
「賓(まれびと)、というのを知っているかい?」
「知りませんよ。珍しい人、みたいな意味合いではないんですか?」
「違うね。賓というのは稀に訪れてくる、神……、または聖人のことだ。云うならば僥倖(ぎょうこう)、思いがけない幸い、偶然や、奇遇……、有名な英語で言うならばラッキー。そこらの意味合いだ」
「遠回しですね。要するに本を買ったら偶々キャンペーンがやっていて特典をもらえるようなものですか?」
「頭の悪い比喩を使うな、君は。まあそれを幸運と言うのかは知らないが、確かに私の言い方が少し迂遠すぎた。分かりやすく言おう。例えば今君が淹れている、日本茶だが。君はもし、茶柱が立っていればどう思う?」
「それこそラッキーだと思いますよ。今日1日、何かいいことがあるんじゃないかって期待したりします」
「そうだろうね。だけど、私はそれを吉兆だとは思わない。ただ、飲むのに邪魔な茎だ、と感じるだけだ」
「先生、もしかして僕を誑(たぶら)かしてます?」
「まさか。まあ、私の言葉に顔を顰(しか)め仏頂面になる君の表情には情趣を感じる」
「それを誑かすっていうんですよ。それで、先生の持論の続きはどうなったんですか?」
「ああ、私が幸運という言葉を忌避するのはね、事実的に幸運は起こらないからだよ。もしその1日、その人間にとって幸運なことが起こったとしよう。普段なら何気ない僥倖だとしても、茶柱が立ったという既成事実に結びつけ、この幸運はそれのおかげだと妄信する」
「星座占いのようなものですか?」
「そうだ。それだって、外れていれば何の気にも止めないのに、当たっていると、占いの信憑性が増す」
「でも、僕。この間、ライブの抽選、落選しましたよ。朝の星座占いでは一位でした。何の気にも止めないことなんてありません」
「それは君が心の何処かで神頼みに……占いの結果頼みにしていたからだろう。幸せを得るための前提としての条件があってこそ、幸せは成立する」
「難しい話ですね」
「まあそういうな。それに、前提と言ったが、昔から言われる、いわゆる祖母の知恵袋のようなものでも言える。茶柱にも様々な説を使えば『茶柱が立てば人に知られないようにしなければならない』、『茶柱を立ったことを他人に話すとその人に幸運が移る』、『立った茶柱は着物の左袖に入れる』など、有名な俗信が多々ある。これらの条件が、幸運の概念を形として提唱している」
「そうですか。なら、その条件を踏まえると、今の僕は幸運を得られないわけですね」
「そうだ」
「でも、幸せの概念に関して言うと、人それぞれじゃあないですか。さっきの茶柱だって感じる幸せの大きさは変わるはずです。でも幸せを一つも感じないなんて、先生はやはり変わっていますね」
「確かにそうかもしれんな。だが、私が茶柱に対し幸運を感じないのは、私自身がそれを吉兆ではないと信じ込んでいるからだ。茶柱を幸運と思った過去の人間が、そうした説話を現代にまで持ち込み、現代人は幸運の本質を理解しないまま、それを鵜呑みにしている。即ち、幸運の在り方を決めるのは文化なのだよ」
「それも、先生の持論ですか」
「その通り。だが、世の中に満ちている幸運というのは、大抵が過去の人間が感じた幸運を状況を変え複写しただけにすぎない。先の賓の話に戻すが、この賓が来ると幸福も共に来訪するという言い伝えからなる”信仰”から来ている」
「なら、先生には幸運というものはないんですね」
「ないね。私が感じるのは幸運ではなく偶然だ。幸運というのは本来確立しない。人間進化のメカニズムにおける生存と繁殖の中で、それを得るための刺激を幸運と呼んだに過ぎない」
「そんなことだから、先生は一生独身なんですよ」
「君はいつもそうして私が独身なのを揶揄し卑下にしているが、私は望んでそうしているんだ。進化に必要なのは生存と繁殖だが、今の私は生存するので精一杯だ」
「その言い分は認めましょう。所詮、結婚なんて僕には口にするのも烏滸がましい言葉ですから。やっぱり生まれる次元は大切ですよね」
「ふむ、やはり君の偏った思考は、私の理解する域を超えているらしい。そうだな、なら次は次元論の話でもしようか?」
「結構です。それより結婚が幸運じゃないってどういうことなんですか。好きな人と結ばれるなんて最高じゃあないですか」
「ふむ確かにそうかもしれないが、生憎私には結婚を幸福だと感じる''一般論”は持ち合わせていない」
「でも、一般論や信仰、文化が創り出した幸運の定義を僕達が使っていても、別にいいじゃありませんか」
「なぜだ?」
「幸せの概念があるからこそ。幸せを求めるからこそ人は楽しく生きていけるんですよ。そんなこと言っていたら、先生はいつまでも人間社会の溝底で、凋落の運命を辿るのみです」
「こう見えて、私は日々漸進している。渺茫(びょうぼう)とした未来へ懊悩するより、先人の煩悶を記した述懐を眺める方が……、そうだな幸せだ」
「そうですか。……あ、先生、お茶が出来ました」
「いつも助かるな……。ふむやはり素晴らしい覆い香だ。……おや、これは。ふっ、君もなかなか味な事をしてくれる」
「あれ、バレました?」
「当然だ。私に茶柱の事を言うように誘導し、君に幸運が行くようにしたのだろう」
「だって、せっかくの幸運なんですから、勿体ないじゃないですか。先生は幸運を感じないのなら僕がそれを貰うまでです。よく言うでしょ、その物の価値は人によって違うのなら、価値を感じる者の方へ譲渡すべきだって」
「幸福は香水のようなものである。人にふりかけると自分にも必ずかかる、か」
「変な言葉ですね」
「エマーソンの言葉だ。幸福というのは、人を通して伝播していくものかと、ふと思ってね。まあ、何か幸運なことがあればまた明日、教えてくれ。ちなみに少年、お茶を淹れたついでに今晩の夕飯の食材を買い出しに行ってほしい。今日は何故か気怠い」
「いつもですよね、それ。それなら、今日はここで夕飯を済ませることにします」
「ほう、なら私が先日読み終えたスノッリの『エギルのサガ』についての批評を聞いてもらおう」
「またですか、1時間以内に収めてくださいよ」
「バカを言うな、30分で全て言い終える」
「それ、僕の理解できる言葉を一切使わないという意味になりますよね」
「だから、早く私の語彙レベルにまで追いつけるよう君を幇助(ほうじょ)しようというのだ」
「まあいいです。出かけます。お茶の片付けしておいて下さい」
「茶柱はどうする?」
「一緒に捨てておいて下さい」
「やれやれ。それにしても、幸運か……。む、思えば1日といっても、あと5時間程しかないではないか。まあいい、行きがけに何か僥倖を得ているかもしれない。一つ帰って来た時にでも聞いてみよう。楽しみだ」
「……あの少年も、私にとっては稀に見る異邦人だからね」
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