第4章 二つの動き

           


              本当は強いカンナ



「カンナ! お早う!」

 後ろから美里の自転車がカンナを追い越して止まった。

「お早うございます」

「ねえ。早速だけど」カンナは美里が何を聞きたいのか薄々わかっていた。

「そんなに慌てなくても私は逃げないわよ」

 カンナは笑いながら歩くと美里は自転車を少し先へ進め、つま先立ちして振り向いた。

「ねえ。錦乃祭でイケメンさんに会えた? そこが、そこが一番気になるのよね」

「あら。期待に添えなくてごめんなさい」

「えーっ! またそれなの?」美里は自転車に乗ったまま、「はぁーっ」と、長い

ため息をついた。

「残念ながら会えませんでした。でも素敵なプレゼントを頂いたの」

「えっ、それ。詳しく聞きた~い。ところで。一人で行ったの?」

「ああ。多智花君と行ったわ」

 カンナは人差し指を口の前にピンと立て、「クスッ」と、笑ったのだけれど、美里はさっと自転車を降りて驚いた顔でカンナを見つめた。

「はっ? そそそそ、それ。めっちゃヤバくない? どういう経緯でそうなったのよ。自転車置いて来るから昇降口で待ってて!」

  カンナは美里の慌てぶりが酷く可笑しかったもののそれより、もうすぐ神田君に会えかもしれない気持が何倍もカンナを弾ませていた。カンナは空を眺めた。一面に濃淡色の灰色雲が連なっている。天気は昼頃から雨予報だ。譬え鬱陶うっとうしい梅雨でも今のカンナは大地を潤す恵みの雨に思えたから不思議である。

「カンナ、お待たせ。なぜそうなったか教えて下さいな」

 カンナは掻い摘んで多智花と行った理由を語った。

「あはははは……。つい話を聞きたくてカンナの教室まで来ちゃった。って、これ何の集団?」

 何か事件だろうか。カンナと美里は互いに顔を見合わせた。教室の前に女子が集まっている。

「おおっ! 噂の彼女が来たぜ!」

 カンナと美里はきょろきょろと辺りを見回した。

「えっと。噂の彼女って、誰なの?」美里が囁いた。すると、どこのクラスか分からないけれど、「あなた。英賀谷さん?」と、怖い顔した女子がカンナの前に現れた。

 カンナは、「はい。そうです」って、素直に返事をしたのだけれど、

「多智花がこんなのと二人でいたの……」

 呆れた顔でいちゃもんをつけられたから、

「ちょっとそれ酷く失礼よ。あなたの方が余程こんなのよ!」

 美里も負けずに言い切った。

「はい、そこまで。そこでお仕舞にしようぜ。しかし女子の戦いは陰険だな」

 猪一が真ん中に入って両手で二人の肩を軽く叩いた。

「もう。せっかくカンナから素敵な話を聞いたのにめっちゃイライラする。カンナの方がずっと可愛いわよ。楽しい気持ちが一瞬で壊されたわ」

 ああ……。美里の腹の虫が治まらず、かなり憤慨して教室へ向かった。

 実は女子の妄想は酷く多智花の変貌も問題視されていた。つまりどうやって茶髪を変えさせたのか。いろいろな憶測が飛び交い朝までに噂が流れた。

 錦乃祭の後、カンナと多智花はハンバーガーショップで向かい合わせに座ったことがとんでもないことになっていたのである。


「久美さん。お早うございます」カンナは机の横に鞄を掛けた。

「カンナ。昨日何があったの? あなたの噂が酷くてさ。もしかして多智花と付き合ってる?」

「付き合ってないわよ。錦乃祭へ一緒に行っただけだわ」

「ねえ。あの多智花の髪型はカンナが頼んだの?」

 久美は鞄を机に掛けるとカンナと彼を見つめた。

「多智花君の髪型は私の意思でないから安心して。彼自身で変えたの。最も私も彼の姿に驚いたわ」

 カンナが多智花を見れば、杉田と楽しそうに会話していた。

「ただ。帰りにハンバーガーショップに寄って二人で食事したの」

「ああ。それだわ」久美は何か合致したようだ。

「えっと。何が?」

 カンナが首を傾げると久美は笑って小さな声で囁いた。

「あのさ。その妄想が勝手に膨らんで付き合っちゃった的になっていたのよ。挙句にキスしたって噂よ」

「はっ? それ、困るわ。多智花君に多大な迷惑よ」

「と言うことは、カンナは全然彼に興味いの?」

「興味ないと言うか。イメージとちょっと違ったけれど意外といい人だったかな。確かに多智花君はモデルみたいでカッコイイわ。でもそれだけです」

「ふーん。ねえ、前にさ。屋上で箒を持って逃げた日に海の話をしたでしょ? ほら、カンナが海と男性が一緒だって言っていたこと。それ、カンナが心から思っている特別な人でしょ?」

「久美さんの勘は鋭いわ。それに、もうすぐ彼に会えそうなんです」

 カンナは、「クスッ」と笑い、楽し気に窓から海を眺めた。

「へえ。叶うといいね。でも良かった。もしカンナが多智花君に気が合ったら私は困るかも。なぜならちょっとだけ多智花を気に入ってたから。あら、噂をすれば彼が来た」

 席へ着きながら久美が口に手を当て囁いた。


「カンナ。お早う。猪一から話しを聞いたんだが、俺のことで迷惑をかけたらしい。ごめん」

 多智花はそれだけ言うと席へ戻った。

「どういうこと? た、多智花君がすんなり謝った……」

 久美の目が丸くなり彼の背を眺めつつ椅子へ座った。

「ところで。廊下にいた女子に酷いこと言われたの?」

「大丈夫です。だって親友が言い返してくれたから」

 カンナが淡々と言えば、

「えーっ! あの、あの、突っ張り女子に言い返したの?」

 久美は今にも呼吸が止まりそうな表情でカンナを眺めた。

「それにしても、その友達は度胸あるわね」久美は少し笑いながら呟いた。

「だって、空手二段ですもの。だから安心でしょ?」

「な、なるほどね」と、久美は両腕を組んで二度頷き納得した。すると席へ戻ったはずの多智花が何の用か再びカンナへ近付いた。

「カンナ。話がある。放課後に話したいけどいいか?」

 突然声を掛けられてカンナは勿論のこと、久美まできょとんとした。

「放課後、大丈夫か?」多智花は念を押した。カンナは顔を上げて、「分かったわ」と、返事をした。「良かった。断られると思った」多智花は少し笑ったと思えばカンナの頭を撫でた。

「ねえ。どうなってるの?」と、半ば気絶しそうな顔で久美はカンナを覗き込んだが……

「えっと。どうなってるって……」

 カンナは頬に人差し指を当て少し首を傾げ、何気に多智花を視線で追いながら、「やっぱりクラスメイトよ」と、呟いた。

「ねえ。多智花君さ。カンナに気があるんじゃない?。そんな予感がするの」

「でも。私はやっぱり友達よ」

 カンナははっきり言った。

「そうか。ゴホンッ」久美が咳払いした。

「私は多智花にちょっと好意を寄せている人。なんだけど、こういうのも三角関係かな?」

 久美は小さなため息をついて笑った。

「そうだ。空手の友達に放課後に教室へ来てもらったらどうかな?」

「彼女は部活動なの。それに全然大丈夫よ」

 カンナは心配ご無用と両手を振って久美に笑顔を見せた。


ところでこの日の夕方、カンナは多智花と話が出来なかった。というのも彼は試合のことで、顧問の先生に呼び出されそのまま部活動をする羽目になった。だから多智花がカンナに何を伝えたかったか。頗る興味津々の久美は、「ああ、とっても残念だわ」と、力を落としてバレー部の活動へ行った。

 カンナも部活動だった。平穏無事に教室を出たカンナは華道部の部室へ急いだが、あらまあ。朝会ったつっぱり女子と運悪くすれ違った。カンナは俯き加減で歩き、難なく素通りしたかったもののそうは問屋が卸さなかった。いきなり腕を掴まれて、「いい気にならないで」と、酷く睨まれればずるずると階段を下ろされ廊下まで引っ張られた。その場でカンナはどうでもいいことをずかずか言われた。要約すれば、「多智花に近寄ったら許さないわよ」それが言いたかったようだ。

「あの。話は終わりましたか?」

 全く動じないカンナに遂に嫌気が差したか、今度はカンナの襟元を掴み片手を上げて暴力で訴えようとした。彼女の手が微妙に震えていた。

「何かと問題になるから、暴力は止めた方がいいわよ」

 カンナがにこやかに言うと更に気に入らない顔をして、とうとう腕を振った。しかしながらカンナは造作なくそれを弾いた。

「ふっ……」カンナは微笑した。

「な、なにが可笑しいのよ」彼女は自信たっぷりのカンナに少し怯えた。

「先生が来たわ」カンナがぼそり呟いた。

「そこの女子生徒!」男の先生の声だ。彼女はハッとして振り向いた。

「空手二段の英賀谷に暴力は止めた方がいいぞ。骨の一、二本、容易く折られる。ついでに言っとくが、居合道もしている。刀でスパッと切られるかもな」

 それを聞いた途端、彼女はわなわな口を震わせ青い顔をした。それから目だけカンナに向け、二、三秒眺めるとじりじり下がり走り去った。

「先生。有難うございます。私が同じことを言っても彼女は信じなかったと思います」

 カンナは彼女の背を見つめ呟いた。

「まあ。取り敢えず問題を起こさなくて良かったな」

 カンナ先生に助けられた。

「先生。ところで私は空手三段です」

「そ、そうだったか」

 先生とカンナは笑った。先生は空手部の顧問でカンナをよく知っていた。理事長の孫娘ということも勿論知っていた。

「そうだ。華道部の花が職員室前に届いていたな。部室へ運んでくれるか?」

「はい。分かりました」

「そう言えば。カンナの花が入ってたぞ」

「それは光栄です」

 カンナは先生に会釈をすると階段を下りて職員室へ急いだ。

 華道部は、週に一度だけ外部の先生が指導に来る。最初は母の希望で入部した華道部だったけれど今は活動が大好きなカンナだった。何より静かな時間が気に入っていた。そのうえ剱山に刺す作品は恰も一つの花のように調和と華やかさを演じつつ風情もあった。

 さて翌日からカンナの傍に突っ張り女子が現れなくなった。しかしながら多智花の話もないまま数日が過ぎた。

 

 六月三十日。

「久美さん。もうすぐ念願の高校と試合ですね。とても張り切ってるわ」

「レギュラーメンバー入りになったから。とにかく頑張るわ!」

「頑張ってね! さて私は約束があるから急ぎます」

「ありがとう。あら。誰と約束かな。気になるって言うか、カンナ。多智花君よ。例の話かな?」

 彼はカンナの隣で止まった。

「カンナ。あのさ。この間、言いそびれたことを話したい」

 カンナはバスの時間を気にした。

「ごめんなさい。私、友達と約束があってちょっと急いでいるの。だからまた明日ね」

 カンナは荷物をサッと掴むと多智花にお辞儀をし、久美へ軽く手を振って一歩足を踏み出した。ところがその途端、多智花に腕を握られ進行を阻まれた。カンナの心はバス停に酷く行きたがっていた。

 多智花は友達以上に、「カンナと付き合いたい」と、伝えるつもりだったが、大胆な行動に焦り誤差が生じてとんでもないことを口走った。

「カンナが好きなんだけど」

 久美の目は大きく開き両手で口を押えながら多智花とカンナを眺めた。

「わかったわ。じゃあ、また明日……」

 なんて淡白な返事だろう。言うやいなやカンナは風のように教室を出た。

 残された二人は唖然とした。

「あいつ。俺の話を全然聞いてない。会う奴に嫉妬する。誰に合うか知っているか?」

「さあ。少なくとも部活動じゃないみたいね」

「俺もそう思う」

 多智花はカンナの席へドシッと座った。

「ああ、もしかして。恋する乙女かしら」久美が何かを思い出したように呟けば、

「何それ。気になる言い方だ」

「憶測だから全然気にしないで。さて、私は失恋したし落ち込んでいられない。部活動を頑張らなきゃ!」

「へえ。お前失恋したんだ」

「そうよ。気軽に言わないでよね」

 久美は笑顔で教室を出たけれど、まるで大きな擦り傷を心に負ってどんなに傷口を押さえても血が滲むように涙がこぼれた。

 多智花は自分の席へ戻り机にふさった。

「多智花。何ぼーっとしてんだよ」と、猪一の声で顔を上げた。

「お前も確か試合があるんだろう?」

 猪一は、「ポン」と、多智花の肩を叩いた。

「まあな。だがその前に練習試合があるんだ」

 彼は立ち上がって荷物を掴み猪一の顔を見た。

「予定では今度の土曜日さ」

「へえ。俺は部活動だから応援出来ないけどさ。対戦相手はどこなんだ?」

「錦木高校……」

「マジ? と言うことは。女子テニス部大人気の……?」

「神田のことか? あいつはレギュラーだ。絶対に来る」

「そっか……」

 猪一は呟きながら忘れ物がないか机の中を確認した。

「これで、よし。しかし多智花以外に女子が夢中になるとはね。一体どんな奴か会ってみたいな」

 多智花は鞄を肩に掛け猪一より先に歩き出したが、不意に振り向いてこう言った。

「試合はうちの学校でやる。運が良ければ眺められる、かもな」

「なるほど。それなら部活中に覗けそうだ」

 二人は笑いながら教室を出た。


「四時五十分よね」

 カンナは靴を出すとチラッと時計を眺めた。

「あと三分だわ。神様お願いです。どうか時刻通りに乗れますように」そう呟きながらカンナはバス停まで一気に駆けた。カンナは肩に掛かる荷物の重さを感じつつ夢中で足を上げ前進した。彼女の瞳はバス停に続く道しか映らなかったが花壇のシロツメクサは、昼に降った雨で程よい滴を被り挙って背比べをしながら走り抜けるカンナを遠目に眺めた。

 バス停へ続く路面は濡れて決して走りやすくなかったのだけれど、もわっとする湿気を腕や顔に受けてカンナはわき目もふらず、ただ確かめたい気持ちに惹かれひたすら駆けた。

「はぁ、はぁ……」心臓の鼓動が激しく動き体から汗がどっと出た。カンナは両腕で鞄を抱えバクバク動く胸をぎゅっと押さえながらバスが来る方に顔を向けた。すると数十メートル先にそれが見えた。時刻は四時四十九分。バスは大概遅れるものだ。果たしてこれに神田が乗車しているのだろうか。もし違ったら……。カンナは一瞬迷った。

 バスのドアが開くと後ろのドアからお客が一人下りた。カンナの心は揺れに揺れて運転手に、「乗りません」と、左右に手を振った。バスのドアは閉まりゆっくり動き出した。ところが後方の窓から錦木高校生がカンナを見降ろしていた。

「嘘でしょ!?」

 茫然と立ち竦むカンナの目にバスは速度を上げて段々離れていくのが見えた。

「大変だわ。追い掛けなくっちゃ!」

 カンナは瞬きを忘れ、「待って下さい!」と、心で叫びながら夢中でバスを追いかけた。しかしながら神田はそんなカンナに気付かなかった。

 カンナは暫くしてバスに追いついたものの大きな車体を通り越して次のバス停まで走り切った。それからスカートのポケットに手を入れてハンカチを出すとツーッと流れる汗を拭りながら向かうバスを眺め片手を上げた。バスは客の前で停まり並び順に乗車し始めた。と同時に、後方ドアが開き神田が降りた。神田は進行方向と逆を眺めていたがふっと前方を向いた。すると片足を上げバスに乗りかかったカンナが目に映った。

「カンナ!」と、神田は思わず叫んでつっと走った。

「えっ? 神田君どこなの?」カンナは乗車しながらバスの中を見回した。

「ここだよ」背後から聞こえた声に続いて、「カンナ。乗って!」と、囁かれたが譬え小さな声であってもカンナの体にふわっと温かく響いた。

 カンナは車内を歩きながら少し振り向いた。

「神田君に会えてよかったわ……」火照ったカンナの顔に神田は心打たれた。

「カンナ。そこへ座ろう」

 二人用の座席に腰掛けるやいなやバスが動き出した。窓から見える景色はいつもと変わりないのに、カンナはまるで違う世界にいるようだった。

「心臓が破裂しそう……」

 夢中でバスを追い掛けたことより今は神田が傍にいるから、カンナの心臓は酷くバクバクしてなかなか治まらなかった。彼と話したいことは山ほどあるのに……

 いつの間にかカンナの降りる停留場を過ぎ、バスは大きな橋の上を走行していた。ここはカンナにとって中学通学以来に通る場所だった。

「懐かしいわ」カンナはボソリ呟いた。

「次は荒野団地前……」アナウンスが流れると、神田はスッと腕を伸ばしブザーを押した。

 神田は読みかけの文庫本に栞を挟み鞄のポケットへ仕舞いながら、窓の方を向いたカンナに、「降りるから」と、一言呟いた。あんなに会いたかった二人なのに神田は普段通り読書をしてカンナも景色を眺めていた。仮に筆者が二人に注目したならば単に異性の高校生が同じシートに座っただけに思えたであろう。はたから見れば素っ気ない二人だった。とは言うものの本当は互いに約束を守り同じ空間にいる嬉しさを思い切り心から表現したかったはずだ。

 神田の後に続いてカンナもバスを降りた。何も語らない神田を黙々と追ったカンナだがこの先にある建造物、寺をよく知っていた。なぜなら英賀谷家の墓石があったからだ。

「神田君。歳行寺に行くのかしら……」

 カンナは心で呟いた。

 坂道を上ると間もなく凸凹した幾つもの墓石が目に映りそれらは二人を静かに見つめていた。神田は寺の門を潜りカンナの様子を窺うため一瞬だけ振り向いた。この時カンナは俯いて足元を見ていた。神田は小さなため息をついて低い段を上りまた歩いた。カンナは白いワイシャツから汗が滲み出た神田の広い背を眺めながら、なぜここへ来たのか自問した。当然知らなかったのだけれど誰かの墓参りに来たに違いないと予想した。不意に神田が止まった。

 神田は鞄のファスナーを開けて中から線香とライターを取り出した。それから扇を広げるようにして線香の端から順に火をつけると、また何も語らずカンナに半分手渡した。カンナはゆらりと白い煙をあげる線香を何となしに眺めながらやはり墓参りだったと思った。しかしながら一体誰なのか……

 墓石に「神田家の墓」と彫られていた。カンナは彼のご先祖様と思うよりほかなかったが何気に首を傾げた。なぜならそれは何十年も経った墓石に思えなかったから。

 神田は墓へ線香を置くと両手を合わせ暫く目を閉じていた。それからカンナに、「線香をあげてほしいんだ」と、囁いた。カンナは敏貴の顔を一瞬見つめ同様に線香を置くと静かに手を合わせた。

 敏貴は、「ありがとう」そう呟くと、鞄に手を入れカンナへ水色の封筒を差し出した。

「覚えているかな。これは神田幸貴からだ」カンナはシンプルな封筒をそっと指先で撮み、「英賀谷カンナ様」と、黒いペンで書かれた美しい文字に視線を向けた。裏に「神田幸貴」と名前が記されていた。

「ではあなたが敏貴君ですね。手紙を受け取りましたが幸貴君は元気ですか?」

 カンナは少し微笑んだ。敏貴はただこう言った。

「その手紙をここで朗読して欲しい」

「ここで?」

 カンナは当然ながら意味が分からず首を傾げた。封はシールで簡単に留められたものだったが、カンナは言われた通り丁寧にそれを開けて中から手紙と写真を取り出した。それは砂の造形大会の記念写真だった。完成させた作品とBグループ全員が写っていた。カンナは持っていなかったから最高に嬉しく、「懐かしい……」と、感嘆の声を上げ敏貴をチラッと見たのだけれど、彼はなぜか虚ろだった。

「カンナ。手紙読んでくれる?」

「分かったわ」カンナは便箋を広げ小さな声で朗読した。


「カンナへ。僕が六年生になって砂の造形大会で会えなくてごめんな。敏貴と僕の家族は偶然同じ団地へ家を建てることになって引っ越したんだ。だからその年の造形大会に参加できなかった。カンナはきっと海へ来てくれたと思う。本当にごめんな。カンナと約束守れなかったこと。そして生きて再会できなかったことを許して欲しい。

「生きて再会できないって……?」カンナはまるで掌にそっと降りた雪が、すーっと溶けたように虚しさが胸に染み入り声が詰まった。

「多分、今僕は、君の前にいる。敏貴はそういうやつさ。ほら間違ってないだろう? 僕は敏貴もカンナも大好きだ。それと僕はカンナに一目惚れしたんだよ。それを言いたかった。この写真はカンナへプレゼントする。一生大切にしろよな。神田幸貴」

 カンナは呆然と立ち尽くし、ただ涙がぽろぽろ零れた。

 カンナは手紙を丁寧に折りたたみ封へ仕舞うと、「どうしてこんなことに……」涙を零しながら神田を見つめたが、彼の瞳も潤んでいてカンナは思わず目を逸らしてしまった。視線の先で線香の煙がゆらゆら上がり強い香りは辺りへ広がっていた。ただカンナの知らない過去が無言で神田の前を流れカンナの心の扉を開けて風のように通った。

 カンナはハンカチで涙を拭くと、もう一度お墓の前で手を合わせこう言った。

「幸貴君。カンナです。たった今あなたの気持ちを、敏貴君と分かち合いました。私のことを大切に想って下さり有難うございます。でも……。本当は三人で笑ってお逢いしたかったです……」

 辺りは相変わらず静かだ。空は薄っすら暗くなっている。

「カンナ。帰ろう」神田が囁くと彼も両手を合わせ幸貴へ祈った。

 

 カンナと敏貴は同じ時間を互いに過ごしている証をしみじみ感じながら、元来た道を歩いた。

「カンナ、僕の家に寄って欲しいんだ」神田がさり気なく片手を出して呟いた。「分かったわ」カンナは抵抗なくそれに手を載せるとキュッと握った。すると神田の手に少しだけ力が加わり互いに手の温もりを感じつつ歩いた。

「本当にありがとう。これで幸貴との約束を一つ果たせた」神田は肩の荷が下りた安堵感でカンナを見つめた。

「こうして歩くと、砂浜でカンナと手を繋いだあの時を思い出すな」

「砂浜を上手く走れなくて、私の手を引いてくれた時のこと?」

「そう。その時のこと。僕は妹が欲しかったんだ。だからあの時カンナが妹のように思えた」

「私は神田君がお兄ちゃんのように思えたわ」

 カンナは笑顔で呟いたものの不意に俯いた。

「あの……。幸貴君のこと。もし差し支えなかったら教えて下さい」

 カンナの手に力が入った。

 重々しかったお墓参りの雰囲気が今は何も感じられなかった。そのため彼は小さく頷き幸貴と過ごした日々の思い出を少しずつ語り始めた。カンナは歩きながら何度も涙を堪えたばかりでなく、敏貴の強さ、弱さ、優しさが手から心臓へ伝っていた。


「失礼します」カンナは心の中で囁いた。

 クリーム色の壁に「KANDA」と書かれたお洒落な表札が見えた。中に入るとレンガで仕切られた花壇とミニトマトやピーマンが生った家庭菜園があった。

 神田は鞄から鍵を取り出し玄関を開けた。

「カンナ。荷物を置いて来るから、少しここにいて」

 神田は玄関ホールの階段を、「タタタタタッ」と、進み、二階へ上がった。と思ったらすぐに降りて今度は一階のどこかの部屋へ入り、生け花用の挟みと薄黄色の包装紙を持って玄関へ戻った。よく見れば包装紙に雛菊のような花模様が描かれていたのだけれど、カンナは神田の繊細な気持ちを知った。神田はそれを床に置き挟みの刃の方を握り靴を履いて玄関扉を開けた。カンナは荷物を抱えたまま彼の後ろを何気に追った。

「あらっ! カンナの花だわ」

 カンナは言い尽くせない程ドキドキしながら鞄をぎゅっと握りしめその陰から赤い花をひっそり眺めた。カンナの足元にオンブバッタが二度跳ねた。

 制服で花を切る神田の姿はずっと再会したかった友達の時を超える、何かキラキラしたものがカンナの瞳の奥に映っていた。

 神田は赤い花を三本切ると場所を移動して鉢植えされた白い小花、カスミソウを切って握った。

「カンナの花を魅力的にする花だ。それが僕なら嬉しい」

 神田がそう囁いたわけではない。しかしながらチラッと横目で見た彼はカンナに感謝だけでない別の想いを寄せたことを、カンナの心の片隅におぼろげながら伝わっていた……

「家まで送るよ」

 神田は呟きながら振り向き玄関扉を開けた。それから湿らせたティシュペーパーとアルミホイールで茎の先端を包みさっきの包装紙に花をくるりと巻いた。

 神田は小さな花束をカンナへ差し出しこう囁いた。

「カンナ。今日は本当にありがとう」

 カンナは両手でそれを受け取り微笑みながら、

「私こそ。再会できたのが嬉しくて。今でも夢を見てるようです」と、言うやいなや誰に囁かれたわけでなく、なぜそうしたのかも分からず神田はカンナを抱きしめていた。あの時と変わらないカンナがいるだけで言葉に表せない何かがそうした。

 玄関の棚の上でカラーの花が白い花瓶に飾られていた。ただステンドグラスの窓が白い花を一層引き立てた。花は森閑とした空間に一に美しく咲いていたものの、その反面ざわざわ心を騒がせる男女がいたのも確かだった。

 どくどく打つ神田の心臓音はカンナの耳へ酷く響いたが、カンナのそれも彼の胸へ振動するほど激しく動いた。ところが、「えっ!?」「はっ!?」カンナも神田も我に返り互いに突き放すように離れた。二人の顔は酷く赤くなり言うまでもなく目のやり場がなかった。

「あのさ。カンナ。ごめん」神田は頭に手を当て俯きながら謝った。

「あ、あ、あの。私こそ。えっと……」カンナもしどろもどろな返事を呟いた矢先、玄関のドアが、「ガチャリ」と、開いた。神田に似た端正な顔の女性が現れた。紛れもなく神田の母である。彼女はショートヘアーの良く似合う上品な女性で、買い物へ出掛けていたのか、片方の手に食品の透けた袋を下げていた。

 カンナはガバッと鞄を掴んで思いがけず顔を隠したものの、神田の母はカンナの仕草にクスリと笑い、「こんばんは。敏貴のお友達かしら?」と、挨拶をした。

 カンナの心臓はまだどきどきしていたが、

「お願い。静まって……」

 カンナは心で強く祈り深く息を吸いゆっくり吐いてから頭を下げた。

「こんばんは。初めまして、英賀谷カンナです」

「まあ。あなたがカンナさん!?」

 神田の母は何とも嬉しそうに答えると、丁寧にまたお辞儀をした。

「敏貴から話を聞いたかしら。敏貴はあなたに助けられたのよ」

「助けられた……の?」

 カンナは何の気なしに呟き、きょとんとして神田を見つめた。

 カンナは何年も眺め続けたキラキラした海と波の音が脳裏に広がり、楽しかったあの時がそのまま爽やかな風になって果てしなく吹き続けていた。風は焦がれた舟と巡り合えることを願い続けついに叶ったものの、焦がれた舟とはカンナのそれと違って決して爽やかな風で進んでいたわけではなかった……


「敏貴の会話に登場する女の子は、カンナさんだけなのよ。どうぞ家に上がって下さいな」

「ありがとうございます。でも明日も学校ですから」

「あら、残念。今度ゆっくり遊びに来て下さいね」

 神田の母は潤んだ瞳で微笑んだ。

「じゃあ、母さん。今から英賀谷さんを送るから」

 神田が玄関のドアを閉めると、「行こう」って、歩き出した。空はまだ真っ暗でなかったけれど微かに星が瞬いてた。

「カンナ。さっきはいきなり抱きしめてごめんな」

「どうしたらいいか困りました。でも……」

 カンナは俯きながら呟いた。

 二人はバスに乗らずそのまま大きな橋を歩いて渡った。足元の川は静かに流れすれ違う車の音は自然に溶け込み、何気に二人を邪魔しなかった。

 不意に神田が立ち止まり橋から川を眺めた。

「カンナへ伝えたいことがある。さっき母が言い掛けたことだけど僕は本当にカンナに救われたんだよ」

 神田は星を眺めそれから照れ臭そうにカンナを見つめた。

「幸貴が他界してから僕は生きる意味を失って暫く立ち直れなかった。母が庭の手入れをして偶然カンナの花を切り取って来た。僕に花の名と真夏の日差しに負けない強さから、『情熱』という、花言葉を呟いたんだ。それを知った瞬間。僕は幸貴の約束を思い出したんだ。必ずカンナを探して手紙を届ける約束だ。ただ……。それだけじゃない」

 神田の手にギュッと力が入った。

「カンナさえ良ければ傍にいさせて欲しいんだ。僕はカンナをずっと大切に想っていた。心の片隅にそれを隠していたつもりだったが幸貴は気付いていたな。『カンナに気持ちを伝えろよ』って、亡くなった後、僕宛の手紙に書いてあったんだ」

 カンナは俯きながら川を眺めじっと神田の言葉に耳を傾けたのだけれど、カンナの抱く想いは敏貴のそれに比べほんの序奏だった。とは言え体は酷く火照り高熱で起こる震えと違う震えが両腕に起こった。

 神田はカンナの方に顔を向けるとこう言った。

「カンナ。あの時から僕の気持ちは変わってないんだ。それどころか、もっとカンナが好きになった。今はただ。その想いを伝えられて十分なんだ。カンナの気持ちの邪魔をしないから見守らせて欲しい」

「私の気持ちの邪魔をしないって、どういうこと……?」

 カンナは心で呟いた。

「カンナ。僕は」そう言いかけるやいなやカンナの両肩をそっと掴み、ゆっくり顔を近付け頬へキスをした。

「えっ!?」カンナの目は丸くなり思考力が全く鈍ったのだけれど、神田が、「ごめん。もうしない」と、囁いた声が耳に残った。

「もうしないって、どういうことなの?」

 カンナはますます混乱した。

 神田の瞳を見つめ、「あの……」と、尋ねると、

「カンナ。お願いだ。このままでいたいからそれ以上は何も言わないで欲しい」

 神田は微笑みかけた。ふっと彼が動き、「歩こう」と、呟いた。

 カンナは心に何か引っかかったまま黙って神田の隣を歩いた。二人はカンナの家まで何も語らず歩き続けた。

「ここで大丈夫です。送って下さり有難うございます」

 カンナはお礼を言うと丁度三十メートル先にバスが見えた。

「神田君。そこにバス停があります。あのバスに乗って下さい」

 カンナの両足が少しバタバタした。

「分かった。すぐに乗る。僕こそ本当に有難う!」

 神田は清々しい笑顔で片手を振り、駆けてバスへ乘ったがカンナは神田の姿を追って、訳もなくバスが見えなくなるまでぼーっと立っていた。



           


           寄せては引く



「今度の土曜日。テニスの練習試合を見に行かない?」

「どこでやるの?」

「東部学園高校のテニスコート」

「何時からなの?」

「午前九時。行けそうかな?」

「この日は用事があるの。でも十時過ぎに行けそうよ」

「分かったわ。じゃあ、特に多智花の応援を宜しくね!」

「久美さんは行かないの?」

「勿論行くわよ。この日さ。午後から部活動で良かったわ。どうやら激戦になるって噂よ。顔も……」

「はっ? 顔ですか? 意味が分かりません」

「それはいいとして。錦木高校の『神田』が相当強いらしい」

「か、か、神田? ねえ。久美さん。その下の名前を知ってる?」

「残念ながら、知りません。とにかく応援に行きましょう!」

「行く。応援に行くわ!」

 久美とカンナのメールのやり取りだったのだけれど結局この日、道路が渋滞してカンナは予定時間より大幅に遅れた。

「もう、終わってるかもしれない」

 カンナは時計を気にしながらバスを降りると夢中でテニスコートへ駆けたが、偶然前方から錦木高校生がぞろぞろ校庭を歩く姿が目に映った。

「残念。試合終了だったわ……」

 カンナの歩幅が徐々に狭まりゆっくり歩きながら、ポケットからハンカチを取り出して顔の汗を拭いた。錦木高校のテニス部員とすれ違うとハンカチの陰から何気に彼らをチラ見した。カンナの歩幅はかなり狭くなりほぼ止まったに等しかった。

 カンナは、「はぁっ」と、ため息をついてふっと目を丸くした。去ったはずの団体から一人残った者がいたのである。

「やあ。カンナ。この間は有難う」

 照れ臭そうに立っていたのは、まさに神田敏貴だった。

「こちらこそ。有難うございました。あの。また逢えて嬉しいです」

「僕もです。ところでカンナは多智花の応援に来たんだよね」

「あっ、そうです。でも……」

 カンナは神田の瞳をじっと見つめた。

「そうだ。メモするものある?」

 カンナはリュックのファスナーを開け、それを取り出して神田に渡した。

「じゃあ。もしかしてまた会えるかな」

 神田はカンナの手にメモを握らせると、「よかったら」と、言い残し皆のところへ駆けて行った。


 その翌朝。

 猪一は靴を脱ぐとスタスタ階段を上り握った鞄を肩へ掛けなおし、不意に多智花の横へ並んで挨拶をした。

「お早う、多智花。土曜日さ、練習試合見に行けなかったが噂では応援が凄かったらしいな」

 多智花は、「ふっ」と、笑った。

「まあな。テニスコートの周りは何時になく賑わった。それに女子も多かった」

「本当かよ。残念だな。部活動を欠席してそっちへ行くべきだった。俺の花咲く恋があったかも……」

「それ。到底無理なんだろ?」

「その通りだ。柔道部は鬼コーチだからな」

 二人は笑いながら廊下を斜めに横切り教室へ入った。

「それで試合結果はどうだったわけ?」

 猪一はさり気なく尋ねた。

「俺は神田と当たらなかったが、当たったメンバーはぼろ負けだった。神田と競るのは俺ぐらいだな」

 多智花はボソッと呟き席へ着いた。すると背後から、

「多智花お早う。土曜の試合はどうだったんだ?」

 声を掛けたのは学級委員長の杉田だ。

「またそれか? 無事にすんだよ」

「なんか素っ気ない返事だ。そうだ。カンナを見かけたぞ。テニスコートへ向かってた」

「はっ? それ本当か?」

「本当だ。ただ試合が終わった後だったよ。なぜなら反対側から錦木高校生が挙って歩いてたからな」

「あいつ。俺を応援するために来たのか?」

「それは分からないが少なくとも我が高校を応援しないわけがない」

「そうか……。実はカンナは俺に気があったのか……」

 多智花は頭に手をやりニヤッとした。杉田は思わず、「プッ」と、噴き出した。

「うぅん? 多智花君。どうやら君と会話が嚙み合わない、ようだ」

 杉田は席へ戻りかけたが、つっと止まってこう言った。

「そう言えばあの時グランドで錦木高校生と会ってたな」

「ちょっと待て! どんな奴だ?」

「男子、だ。それしか分からん」

 楽し気な女子の笑い声が廊下から聞こえ教室後方へ通り過ぎた。

「そんな気になるのか? と言ってもだな。高が一分だ」

「されど一分だろ。俺にとっては、長すぎだ」

「ふ~ん。されどか……。その時間の価値が全然分からないが、まっ、そういうことだ」

 杉田は笑顔で多智花の肩を軽く叩き席へ向かった。

 教室はほぼ半数の生徒が出席し何の話題かひそひそ会話をしたり、黙々と勉強する者もいた。

 多智花は謎の人物にイラっとし机に鞄を載せたまま、「ドンッ」と、椅子へ座り何気にカンナの席を眺めた。

「俺の初恋は思うようにならない」

 カンナは家のポストに入っていたチラシを広げ新しく開店した店の話を久美としていた。


「多智花、何考えてんだよ!」

「なんだよ」

「妙に不貞腐れているな」

「うるさいよ」

「金曜日に借りたジュース代だ。ありがとう」

 猪一は笑いつつ小銭を机に載せたのだけれど、ふと多智花の視線の先に気付き含み笑いをした。

「ああ、カンナってさ。もともと可愛いけど綺麗になったって思わないか? お前もそう思って見てたんだろ。もしかしてカンナに好きなやつがいるかもな。ははははははっ……」

 豪快に笑うと猪一は席へ戻ったが、一方の多智花は、「俺の気持ちも知らないで」と、後味が悪く項垂れた。


「日曜日は確か、部活動が午前中だけなの。その後にこの店にいこう! カンナの都合は大丈夫なの?」

「大丈夫です」

 カンナは海を眺めながら返事をした。

「ねえ、カンナ。幸せそうね。何かいいことでもあったかな?」

「えっ? そう、見えるの?」

「とっても見える」

 久美は何かを勘ぐった。カンナは一瞬目を丸くしたがすぐに元に戻し、

「あのね。初めて男子からメールアドレスと電話番号を手渡されたの」

「えぇーっ!?」

 余程驚いたのだろう。久美はカンナより更に大きく目を開いた。

 久美の瞳にはフリーズしたカンナとベランダの柵へ降りた一羽のスズメが映った。スズメは二秒後に羽を広げまた空へ飛んだ。外はいい天気である。

「えっと。多智花君じゃないわよ」カンナは微笑んだ。

「ど、ど、どこの高校生なの?」

「錦木高校なの」

「めっちゃ憧れのエリート高校生だわ。ところで何年生なの?」

「二年生よ。でもね、本当は三年生よ」

「なぜなの? 中学浪人したの?」

「事情があって留年したの……」

「そうなんだ……。それで名前は何て言うの?」

「神田です」

「へえ。偶然ね。カンナは間に合わなかったけれど、土曜日にテニスの練習試合があったでしょ? そのメンバーに同じ苗字でかっこいい人がいたのよ。かなり強かったからカンナに観てほしかったわ」

「そんな強い人とは知らなかったわ。あのね。その人だって言ったら驚く?」

「えぇーーーーっ!? ど、どどどういうこと?」

 久美の驚きと言ったら半端なかった。なぜなら手項垂れた多智花さえ頭を持ち上げるほど、クラスの注目を一気に浴びたのである。久美は少しばかりアタフタしたが、ひそひそ声でこう尋ねた。

「それでいつ、返事をしたの?」

「ついさっきよ。『おはようございます』ってメールを送ったの」

「はっ?」そう言うやいなや久美は、「ふふふふふふっ」と、今度は声を殺し空気が抜けたような笑いを込み上げた。

「笑ってごめん。何て言っていいか。実にカンナらしいわね」

 楽し気な二人の会話に惹かれたか、多智花が席を立った。「それでどうなった……?」久美の視線がふっと上を向いた。カンナの後ろから多智花が来て横へ立ち止まった。

「お前ら楽しそうだな」久美を眺めて少し頬を緩めた。

 久美の心臓は訳もなくドキドキした。

「な、なによ。女子会中です。男子は禁止です」

 久美は多智花に失恋したにせよ傍にいるだけで心が弾んだはずなのに……

 敢えて彼に迷惑顔をした。

「男子は禁止? ここは女子トイレか?」

「そんなこと、どうでもいいからここを離れてよ。多智花君はあっちへ行って! とにかく男子禁止よ」

「まるで害虫扱いだな。そう言われても俺はここがいい……あっ、この店知ってる。へぇーっ、ここにオープンするんだ」

 多智花は少し屈んで興味深くチラシを覗いた。

「多智花君。行ったことあるの?」

 彼はチラッとカンナを眺め楽しそうに呟いた。

「前に住んでたマンションから歩いて五分ぐらいだった。そこは親父の勤務先だった」

 カンナと久美の女子会が知らぬ間に三人の会に変わった。

「ふーん。じゃあ、お父さんは単身赴任してるの?」

 多智花は僅かな時間だが黙った。そして姿勢を変えずに呟いた。

「いや。親父はもういないんだ。一年以上前に亡くなった」

 なんてことを聞いてしまったんだろう。久美の顔色がサーッと青ざめた。

「ご、ごめんなさい。失礼なことを言っちゃった……」

 久美の体は小さくなりもう一人の久美が、「気まずい、気まずい、気まずい……」と、連続して頭の中で呟き、次の言葉を見つけられないままおどおどした。するとカンナがこう言った。

「あの。多智花君も一緒に行きませんか?」

 カンナは微笑みながら自然に誘った。

「無理に誘わなくていいよ」

 多智花は、「フッ」と、軽くため息をついたが、「考えておくよ」と、笑った。

「久美さんの部活動が終わってから行くの。だから、もし行くなら連絡は久美さんからよ」

 多智花は交互に二人の顔を眺め、コクリと頷いた。

「了解。じゃあ、後で連絡先を教えるから」

 すると上手い具合にチャイムが鳴り多智花はサッと席へ戻った。





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