第3章 神田 敏貴

           

             

              敏貴と幸貴




「先生から砂の造形大会参加用紙をもらったぞ!」

 五年四組。最後の戸締りをしていた当番に、元気な男の子が息を切らせ教室へ飛び込んだ。当番はベランダの鍵をぎゅっと閉め声の方へ振り向いた。

敏貴としき! あと二人らしいぜ。先生が言うに今年は希望者が多いらしい。急いで提出しなきゃ、参加出来なくなるぞ!」

「うん。分かった。今書くよ」

 当番の名前は「神田かんだ 敏貴としき」と言う。クラスで一番背が高く算数や理科の得意な男の子だった。そして教室へ飛び込んで来たのが同じクラスの「神田 幸貴こうき」だ。中肉中背で読書好きな男の子。彼らは漢字一字違いの名前だけれど、双子や身内でなく同じ社宅に住む大親友だった。

 敏貴は鞄から筆箱を出すとHBの鉛筆で学校名、住所、氏名をコツコツ書いた。なかなか綺麗な文字である。

 二人は小学校一年生の時から、このイベントに参加し続けていた。そればかりか五回目の優勝を狙おうと記録更新へ意気込んでいたから、不参加は到底考えられない。

 二人がイベントに参加した当初は、先生に勧められて何となく行ったのだけれど、形のない砂が形のあるものへ変化する面白さと、作り上げた満足感を皆で味わえる造形にすっかり魅了された。

「六年生までずっと出ようぜ!」二人は約束していた。


「僕が提出してくるから!」

 今度は敏貴がランドセルと荷物を廊下へ放り投げ、幸貴から書類を受け取って大慌てで階段をするする駆け下りた。

「こらっ! 校舎の中は走らない」すれ違った男の先生に注意され、

「すみません」敏貴は速度を落として歩いた。しかしながら先生の姿が見えなくなるとすぐに駆け降りた。それから職員室の前でゆっくり歩き、「失礼します」と、頭を下げて担任の先生を探した。正面に大きな窓ガラスがありそこから庭や校門が眺められ、担任の机は部屋の端の窓側だった。敏貴はスタスタと歩いた。

「先生。僕と幸貴は砂の造形大会に参加します。宜しくお願いします」

 敏貴は笑顔でそれを提出した。

「分かった。二人とも参加だな。今年も頑張れよ。先生も見に行くからな」

「はい。頑張ります」敏貴は満面の笑みをした。



            

              砂の造形大会




「カンナ。荷物持ったの?」

「うん。全部車に入れた」

 七月三十日の金曜日。カンナは家族旅行で海辺のホテルへ外泊である。目的地へ車で向かい途中の港でカーフェリーに乗って三十分揺られたのだけれど、カンナは初めて乗るカーフェリーに大興奮だった。心地よい風で煽られた帽子を片手で押さえつつ船のデッキから時にかかる水繁吹みずしぶきに心を躍らせ、鱗のような小さな波をキラキラした瞳で眺めていた。

 陸についてからホテルまで一分足らずで到着した。時間は十二時だった。

 カンナはピンクのリボンのついた麦わら帽子を被り赤いリュックを背負って、姉の隣を歩きながらホテルの自動ドアを通り抜けた。カンナはワクワクして床の絨毯に足を載せ広い空間と太い柱を物珍しく眺めたが、ふっとフロント背後に貼られた大きなポスターに目を奪われた。

「海祭り。七月三十一日。午前八時より砂の造形大会。参加者募集中。午後八時から海上花火大会」

 カンナは文字を追ってぶつぶつ呟いた。

「お客様のお部屋は八階です。十二階にレストランがございます。ご利用時間は……」

「ねえ。お母さん。私。砂の造形大会に参加したい。だってここに募集中って書いてあるわ」

まだフロントで説明されてる時にカンナは母の背をトントン叩いた。

「まあ。カンナ。まだホテルの方が説明している最中よ」と、母に叱られたものの、

「お客様。砂の造形大会でしたら飛び入り参加可能ですよ。宿泊者で小学生に限り

有効です。宜しければ申し込まれますか?」

 カンナは天にも昇る思いで、「やった、嬉しい!」と、万歳して飛び跳ねた。

「しーっ。カンナ。声が大きいわ」姉が囁きながら、「クスクスッ」と、笑った。すると、

「そうだな。せっかくだから参加してくるといい」父がカンナを見つめ頷いた。


 カンナの家族は海水浴と観光のためにこの町へ来た。

 実のところカンナは小学校入学した年から毎年決まった場所で海水浴をしていたわけなのだけれど、今年はホテルの改装工事で予定を立てなかった。とは言うもののカンナ達の強い希望で母と密かに海水浴計画を進め、少々距離があったものの結果的に別の町で可能にした。無論、母が父を説得した。殊の外、海上花火に魅力を感じたのは間違いない。

 カンナ達も二泊三日の外泊に憧れた。そのため夏休みの宿題をそそくさ終わらせた。子どもなりに海水浴と花火だけで十分楽しめたが、砂の造形大会へ不意に参加できたカンナは願ってもない話で酷く喜んだ。それはまるでイチゴのかき氷に甘いミルクがたっぷり掛かったようだった。何はともあれ明日は造形大会をしてから海水浴になった。

 部屋に入ってカンナは窓から海を眺めた。そうであろう。カンナはソワソワと落ち着かない。

「ねえ。カンナ。砂浜を歩かない?」

 カンナの気持ちを察して姉が誘った。

「お姉ちゃん。私、外へ行きたい」

 姉の誘いでホテルを出ると祭りの準備で辺りが賑やかだった。身長より高く交互に吊るされた赤白提灯は、ずっと先まで飾られ海風に揺れている。眺めるだけで胸が膨らんだ。

 二人は砂浜に下りた。そこもまた賑わっている。町の小学生であろう。造形大会の準備が終わったようだ。

「敏貴。造形大会終わったら一緒に絵画の宿題やろうぜ」

「うん。それで夏休みの宿題は終了だよな」

 カンナ達は黒く焼けた二人の男の子とすれ違ったが、一人は抜き出て背が高く思わず、「わぁ。中学生みたいね」と、呟いた。

「でもあの人達も参加するみたいよ」姉がカンナに微笑んだ。

 二人は波へ向かって歩いた。ただ水平線上に見えるもこもこした白い雲が、妙に可笑しくて笑いながら眺めていた。


 翌朝、カンナは誰よりも早起きをした。服を着替え髪を一つにまとめてポニーテールにすると窓から海を眺めた。辺りはまだ暗かったが雨は降っていない。どうやら砂の造形大会はできそうだ。寝具横の時計は五時半だった。

「カンナ。もう起きたの?」姉が欠伸あくびをして両腕を真っすぐ天井へ伸ばした。

「お早うございます。もう私、支度しちゃったの」

「カンナ。早過ぎよ」姉はクスクス笑った。

「だって。そうしたかったの」カンナは足をバタバタさせた。姉は立ち上がって、

「そう。楽しみなのね。毎日それがあったらカンナはずっと外で遊んでるね」

 そう言いつつ姉は髪を梳かし一つに縛った。

「うん。毎日だったらいいのにな……」

 カンナは両腕を上げてドンと寝具にうつ伏さりまた足をバタつかせた。


 さて待ち焦がれた砂の造形大会。集合時間は七時五十分だった。

 カンナはレース付きのTシャツとデニムの短パンに麦わら帽子を被りホテルを出た。姉とカンナはいそいそと砂浜へ向かったのだけれど、カンナは全然物怖じせず、むしろ友達へ会いに行くように楽しげだった。カンナは受付の手前で姉と別れた。

「英賀谷カンナさん。シーサイドホテル宿泊。四年生ですね。カンナさんはCグループです。ゼッケンをつけてプラカードの後ろへ並んで下さい」

 カンナは言われた通りそのプラカードを探した。それから参加者に倣って「C」と書かれたゼッケンを上から被り列の最後尾へ並んだ。ゼッケンには学年も書かれ女子二人。男子八人。六年生はいなかった。

 開催者の挨拶が終わるとグループリーダーと打ち合わせだった。七時五十五分。天気は曇り。

「Cグループの人。聞いて下さい。僕はグループリーダー五年生の神田幸貴です。一昨日、皆と相談した通りに作っていきます。僕たちはドラゴン造りに挑戦します。優勝目指して頑張りましょう!」

「えっと。英賀谷カンナさんはいますか?」

「はい!」カンナは片手を上げて返事をした。すると背の高い男子が寄って来た。

「僕はサブリーダの神田敏貴です。カンナさんはリーダー幸貴の手伝いをお願いします」

 カンナは作業の範囲と手順を敏貴から簡単に説明を受けた。ただカンナは鉛筆描きの絵に吸い込まれるように覗いていたから、

「これ。僕が描いたんだ」何気に敏貴が呟いた。するとカンナは、

「あなたが? 想像していた人と違うわ」

 カンナは敏貴の足から頭の先まで眺めた。カンナの想像は悪戯好きな男の子だった。敏貴を隅々眺めてもそんな風に見えない。

「悪かったな」敏貴は不機嫌になったもののカンナはまるで頓着ない。

「王子様とお姫様の世界ね」

 カンナはダークな童話の世界をイメージするやいなや恋物語を思い浮かべ両手を合わせて、「この絵の中へ入りたい」と、付け加えた。

「はっ?」

 同級生にない雰囲気を醸し出すカンナを敏貴は不思議な女の子と思った。

「皆さん。造形場所へ移動してください」開催者の声だ。

「やばい。説明が途中だった。分からないことはリーダーに聞けば教えてくれるから」

 敏貴はプラカードの横へ並ぶとチラッとカンナを見た。カンナは下を向いていたが、敏貴は言葉で言い表せない新鮮な印象をカンナへ感じた。


「では、始めます。『ピーッ』」

 笛の合図で競技が開始された。初めに敏貴が輪郭を描いた。何とも素早く滑らかに描く様にカンナは驚いた。

 敏貴は数歩下がって全体を眺め、尾の先を消してもう少し長く描いた。そして頷くと、

「これで大丈夫だ。みんな宜しくお願いします!」と、叫んだ。

 カンナは首から下の鱗の部分を手伝った。砂がサンダルに入り時々それを出したがカンナは面倒に思わなかった。図画工作の得意なカンナは顔から汗が流れようと夢中で作品へ取り掛かった。そのうえバケツで水を運ぶのも楽しかった。足に掛かる小さな波はカンナをワクワクさせた。

 所要時間は二時間。サブリーダーは時々皆の作業を見回り一緒に作っていたのだけれど、カンナのところへ殆ど来なかった。なぜならリーダーの手伝いをしたカンナはきっちり綺麗に仕上げていたからその必要がなかった。とは言うもの、敏貴はカンナが気になっていた。

 三度目の水分補給でテントへ入るとすぐに、

「カンナさんはどこの小学校?」

 リーダーの神田に尋ねられた。カンナはタオルで汗を拭きペットボトルの水を一口飲むとこう言った。

「私はずっとずっと遠くの小学校なの。東部学園小よ」

 カンナはリュックのポケットへタオルを仕舞った。

「ふーん。知らない小学校だ。それでさ。どこのホテルに泊まってんの?」

「すぐそこよ」カンナは指差した。

 リーダーの隣に同じ苗字のゼッケンをつけた男子が、静かにスポーツドリンクを飲んでいた。カンナは彼らの名前に注目した。

「あの。サブリーダーの神田君と漢字が一字違いなんですね」と、呟けば、

「そうさ。敏貴とは漢字が一字違い。それに幼馴染なんだ。敏貴は成績優秀」

 リーダーは明るく笑ったが敏貴は素っ気ない。

「それは幸貴も同じだよ」ボソッと呟いた。敏貴はカンナを不思議な子と見ていたから余り関わりたくなかった。とは言え綺麗に仕上げるカンナの作業に興味津々なのは確かだ。敏貴はそれだけ質問しようと思った。

「カンナさん。造形得意なの?」その聞き方も素っ気ない。

 カンナは一瞬テントの柱を眺めたが二人へ視線を戻すとこう言った。

「うん。図画工作大好きだから。でも二人とも上手だわ」

 カンナは笑った。

「私ね。お兄さんが欲しかったの。二人ともお兄さんみたい」

 明るく素直なカンナの物言いは彼らをぐっと近づけた。それから三十分後に笛の音が鳴って造形大会は終了した。

 カンナ達の作ったドラゴンは、今にも空へ威勢よく飛び出して空へ真っ赤な炎を吐きそうなくらい生き生きしていた。とは言え、どのチームもなかなかの力作。それだけに幸貴も敏貴も発表されるまで落ち着かなかった。しかしながらカンナは自分のチームのみならず各チーム作品を強く目に焼き付け感動していた。

 さて十人の審査員はいろいろな角度から入念にチェックをして用紙へ記入していた。そして集計が終わると再び整列した。

「それでは、発表します。準優勝はAグループ!」

「きゃーっ!」と、Aグループが飛び跳ね手を叩いた。

「続いて優勝は……」参加者は静まった。

「優勝はCチーム!」

「わぁーっ」天まで届きそうな歓声が上がり、「今年もやったぜっ!」と、幸貴が空へパンチした。二人の神田は抱き合って喜んだ。それから一人ひとりにハイタッチすると喜びを分かち合った。

「カンナさん。参加してくれてありがとう。カンナさんのお蔭だな」幸貴が笑顔で呟いた。

「そんなことないわ。それにカンナでいいわ。私はただ手伝っただけ。でも楽しかったわ」

 カンナは俯きながら心嬉しく答えた。

 カンナがふっと頭を上げると少し高い位置で大きな手を広げ、ハイタッチを構えた敏貴が立っていた。

「ありがとう」体の割りに小さな声だった。「どういたしまして」そう答えると、

カンナはハイタッチのために少し膝を曲げ跳躍した。ところが触られたはずの手が外れた。正確に言えば外されたのである。カンナの瞳が大きくなった。カンナは一瞬、敏貴に嫌われてると勘違いしたのだけれど敏貴の表情は楽しそうだ。

「どうして手を高くしたの?」カンナは真剣に尋ねた。

「なぜかな。カンナは面白い女子だ」

 敏貴はとうとう我慢できず下を向いて、「ククククッ」と、笑った。つまりカンナは揶揄からかわれていた。

「ねえ。なぜ笑ったの?」カンナはきょとんとした。相変わらず敏貴の笑いは止まらない。

「だってさ。ケルト調の曲を鼻歌してた。あれ、面白いよ」

 小刻みに震える敏貴のハイタッチの手に、カンナは、「パシッ」と、気持ちよく叩いた。

「当たったわ!」何とも清々しいカンナの笑顔である。敏貴はハイタッチされたと同時に不思議な気持ちが心に涌いた。

「敏貴君。それはね。ドラゴンだったからよ」

 カンナは両手を後ろへ組んで真っすぐ彼の瞳を見つめた。単に敏貴はカンナの瞳を見つめ返すだけでなくその眩しさに自ずと心惹かれていた。



               花火大会 


「カンナ!」水色のワンピースが海風に押されている。姉が迎えに来た。

 カンナはリュックを背負い皆に別れを告げると姉の方へ歩いた。

「造形大会はどうだったの?」

「楽しかったわ! ねえ、見てよ。ほらあのドラゴン。優勝した私達の作品なの」

 一直線にカンナは指さした。

「まるで生きてるみたいね。でもどの作品も素晴らしいわ」

 姉はそれらを眺めた。

「でしょ? 私のチームは敏貴君の絵を基にみんなで考えたって」

「ふーん。一丸となったわけね……」姉は感心した。

 

 暫くして姉とカンナがホテルの玄関へ入ろうとした時である。「カンナ、待って!」と、男の子の声だ。二人が振り向けば幸貴が、「はぁ、はぁ」と、言いながら立っていた。

「あのさ。えっと。今夜八時から花火大会があるんだ。その前に子供花火が七時半からあってさ。良かったらなんだけど、それに来ないか?」

 カンナは姉の顔を眺めてようすを窺った。そして一呼吸置くと、

「楽しそうね。私。行きたいけどお父さんに聞いてからだわ」

 すると姉が頷いた。

「じゃあ、七時二十分。ホテルの玄関で敏貴と待ってるから」

 爽やかな幸貴の声だった。

「分かったわ、ありがとう」

 カンナは丁寧にお辞儀をすると姉とホテルへ入った。自動ドアが静かに閉まったが、カンナは何気に玄関の外を見た。幸貴の姿はもうなかった。

 一方で敏貴はカンナを追った幸貴をゆっくり追った。敏貴が道路へ出るとホテル側から幸貴が走って来た。

「敏貴! 花火大会で会えるかもしれないぞ!」何とも嬉しそうな顔である。

「幸貴さ。妙に積極的だな」

 敏貴は頬の汗を拭った。

「だってさ。もう会えないかもしれないじゃん」

「そうか。僕はそれが当たり前だと思ってた。だけどまた会えるかも……?」

「可能性はある。カンナが同じ小学校だったら良かったな」

「そう、だな」

「敏貴は素直じゃないな。そう思ってるくせに」幸貴は笑いながら空を見上げた。

「まあ、な」

「そうだって言えよ」幸貴は背の高い敏貴の背を両手でぐっと押した。


 部屋へ戻るとカンナは父に花火大会の話をした。

「お父さん。私ね。造形大会の友達と子ども花火に行きたい」

「どこでやるのかな?」

「ホテルの前の砂浜よ」

 カンナはドキドキして答えた。すると父はこう言った。

「わかった。ただし九時までに戻ってくること」

 

 あれから数時間後カンナはエレベーターに乗り一階へ降りた。カンナはフロントを素通りした。それから花柄ティーシャツにピンクの短パン姿が玄関扉に写ると自動ドアがスーッと開いた。カンナは数歩前進して、もわっとした空気を肌で感じドアの横へ立った。神田の姿はなかったが造形大会と同じ場所だったから、全然不安にならなかった。

 カンナは両手を後ろへ組んで夜空を眺めた。カンナはお気に入りの白鳥座を探そうとしたが、所々白い雲に星が隠され大きなデネブさえ見つけられなかった。しかしながらカンナは雲の切れ間から覗く小さな星へ顔を向け、天を仰ぎながらくるりと三百六十度回って空全体をもう一度眺めた。

「何やってんだ?」二人の神田はカンナの動きが可笑しくて笑った。その声にカンナは、

「あのね。星を眺めているの」と、呟き姿勢を正した。そして、「こんばんは」と、楽しそうに笑った。

 幸貴はこの時、力まない素直なカンナがまるで桜の花の精霊に思え何気に思いを寄せて、敏貴と並んでいた足がつっと止まった。敏貴は二歩前に進んではっと振り向いた。幸貴は微塵も動かない。どうしたのだろう。敏貴は肩を軽く叩き、

「カンナを誘いに来たんだろ?」と、呟いた。幸貴は我に返り、「こんばんは」と、お辞儀をした。敏貴も釣られてお辞儀をした。それからカンナは二人に案内され子どもがわんさか集まった会場へ入った。


 ライトアップされた砂浜は昼間とまるで違う世界だった。打ち寄せる波は静かでただ子どもの声と花火の音がそれを消していた。

 三人は手持ち花火を握り横へ並んで大人に点火してもらった。「シューッ」て、勢いよく火花が飛び白い煙がもわもわっと上がって辺り一面白くなったのだけれど、三人は宝物を見つけたみたいに明るい表情で、「キャッ、キャッ」と、楽しんだ。

 幸貴、敏貴、そしてカンナはいつも一緒に行動した。誰が早く終わっても離れず互いに待っていたのだけれど、何時しかカンナは二人に守られその間に立っていた。ただカンナは勢いよく流れる光の線を楽し気に眺め時折二人の顔を見ていたものの、まさか幸貴と敏貴に愛おしがられていたと思ってもなかった。次々変わる花火。ゆらゆら揺れる光。一途な心……

 最後は線香花火だった。三人のうち誰が一番最後まで残るか競った。線香花火は清楚であり物柔らかく最も美しい花火だとカンナは思いながら、「ぱちぱち」している先をじっと見つめた。

「終わっちゃった」幸貴が呟いた。「僕もだ」敏樹も呟いた。最後に残ったのはカンナだった。二人はカンナの線香花火を息を潜めて眺めた。

「落ちそうだ……」

 赤くて丸い先が膨らんで重くなりつつ精一杯その存在を表せば、「ぽとっ……」と、遂に砂浜へすーっと落ちて小さい花火は消えた。と、同時に海上から一発目の花火が上がった。誰もが夜空に顔を向けた。

「カンナ。こっちへ来て!」幸貴が急に走り出した。敏貴はカンナと目を合わせ、「クック」と、笑った。それからカンナと敏貴は走ったのだけれど、慣れない砂浜にカンナの足はままならなかった。敏貴は不意に止まってカンナの様子を見た。予想通りだ。カンナは思うように走れなかった。敏貴は後戻りするとカンナの横へ並んだ。

「有難うございます。置いてけぼりになると思ったわ」

「そんなことしないよ。カンナの息、荒いね」

「砂の上って走りにくいのね」

 カンナは、「はあはあ」と、言いながら歩こうとした。すると、「ほら。掴まれよ」って、敏貴が大きな手をカンナの前へ差し出した。

 空で咲く大輪の花火は水面にも大きく咲きより二人を照らした。

「掴まらないの?」じっと手を見るカンナに敏貴は笑みをこぼした。

「幸貴が待ちくたびれるからさ……」敏貴はカンナの手をぎゅっと握ると唐突に走り出した。カンナは考える間もなく敏貴と一緒に走っていたが、敏貴の広い背を眺めつつ妙に気持ちが華やいだ。お兄ちゃんてこんな感じだろうか……。敏貴が恰も本当の兄のように思えていた。やがて前方で幸貴が大きく手を振っているのが見えた。

 三人は人気の少ない場所へ来た。

「座ろう」と、幸貴が砂浜へ腰かけ夜空を見上げた。「うん」横へカンナが座り続いて敏貴が座った。カンナは二人の男子に挟まれたのだけれど全然嫌じゃなかった。

「海の上の花火。私、初めて見るの。綺麗だわ」カンナはうっとり眺め呟いた。幸貴と敏貴は同時にカンナを見つめた。確かに花火は綺麗だった。しかしながら彼らはカンナの呟きに何かを気付かされた。

「毎年見ている花火なのに、友達が増えるとワクワクするな」

 幸貴が敏貴に言った。敏貴は糸のように落ちる光の滴を眺め、「パチパチッ」と、鳴る音が静まると、

「カンナ。また来年もここで花火を見ないか?」ぼそり尋ねた。

「そうだよ。またここで一緒に見よう!」幸貴が拳で掌をガツンと打った。

 カンナは、「うん」って、笑顔で返事をした。

「私。お父さんに相談してみるわ。それに砂の造形大会に出たい」とは言うものの必ずしも約束は出来なかったが、光の粒を映したカンナの瞳は宝石のように輝いていた。それから三人は花火が上がる度に色や形や動きに各々の感想を呟いて、一緒の時間を大切にした。

「今日はありがとう。俺たち楽しかった。同じ学校だったら良かったな」

 ホテルへ向かいながら幸貴が二人へ話し掛けた。

「そうだな。また会いたいよな」敏貴も照れくさそうに呟いた。

「敏貴君と幸貴君。もし、私が来年の夏もここへ来れたら、絶対、砂の造形大会に参加する。約束するわ」

「本当か? そしたらもっと凄いのを造ってさ。また優勝するんだ。小学校一年生からずっと優勝。それって凄いだろう?」

「うん。凄いわ!」カンナは楽しそうに答えた。

 カンナは知り合ったばかりの友達が実は最初から友達だった、と言っても過言でない程解け込んだ。だから楽しい時間が瞬く間に過ぎホテルへ到着した時の名残惜しさと言ったらどう表現したらいいのか。カンナは頗る複雑な想いだ。譬えるなら牡鹿の鳴き声が奥深い森で細く響き渡るような切ない想いが、カンナの心へしーんと染み入ったと言っておこう。

「じゃあ、来年ね。どうかまた逢えますように」カンナが祈る気持ちで両手を合わせると、幸貴が不意に、「カンナの誕生日はいつ?」と、尋ねた。

「七月よ」カンナは何の気なしに答えた。

「やっぱりな……。カンナ。えっと、元気でね。また造形大会やろうな」

「うん!」

 ここで返事したのが後にも先にもそれっきりだった。

 翌年カンナは彼らとの約束を守りお祭りの日にこの街へやって来た。しかしながら幸貴と敏貴の姿はどこにもなかった……



              神田 幸貴



「父さん。家を建てるって本当なの?」敏貴は喉にご飯が詰まりそうだった。

「まあ。敏貴ったらそんなに驚いて……。本当よ。お父さんが言った通り、丁度いい物件があったからそうしたのよ」

 母は湯呑にお茶を入れながら嬉しそうに笑った。

「母さん、いつ引っ越すの?」

「来年の春休みね。幸貴君の家も同じ団地に引っ越すから不安にならなくても大丈夫よ」

「幸貴の家も?」敏貴は腰掛けた椅子が急に消えたようだった。確かに新しい家の生活は飛び跳ねる程嬉しかったが、ただ最後の砂の造形大会で、「優勝しよう」と、カンナと約束したことが心残りだった。敏貴は赤と青の糸がぐちゃぐちゃに絡み合った心持ちだ。止む終えないとは言え酷く胸が痛んだ。

 ところで世間は狭い。カンナの家から千メートル先に大きな川があったのだけれど、橋を渡って数百メートル歩くと原野を開拓した新しい団地が広がる。一年もしないうちに何軒も家が建ち並び、そこから比較的近い場所に公立の小学校と中学校があった。つまり川を挟んだその場所へ桜の花の咲く頃に敏貴と幸喜は引っ越した。

 小学校へ通い始めて二日目。校門前でテニススクールの案内書をもらった。運動好きの彼らは学校帰りに橋を渡って見学に行った。それから数日後。二人は週に二回スクールに通うこととなったもののカンナと全く逢わなかった。しかしながらカンナは何度もそこを通り過ぎていた……

 やがて一年が過ぎ敏貴と幸貴は団地近くの公立中学へ通った。

 一方カンナは東部学園中へ進学。学校は川向うにあり橋を渡って右へ二キロ進むとレンガ造りの建物が見えてくる。カンナはバスで通った。ちなみに神田家の団地は左へ進みカンナの学校と逆方向である。何てことだろう。逢えそうで逢えない。

 真に歯がゆいのがこれである。

 敏貴と幸貴は硬式テニス部に入部した。練習熱心な彼らは週に一度だけ自転車で夜間のテニススクールへ通っていた。

 ある日カンナは定期を忘れた。仕方なしに歩いて帰ったのだけれど美しい星空に引かれ橋の上でうっとり眺めていると、「チリン、チリン」って、ベルが鳴った。その方を向けば電灯点きの自転車が二台通過した。敏貴と幸貴だった。残念ながら互いに遠い存在と感じていたせいかまるで気付かなかった。

 歳月人を待たず……

 敏貴と幸貴は新しい家に住んでから四度目の夏を迎えた。中学三年生だ。相変わらず仲の良い二人は勉強もスポーツも卒なく熟し、難関校で有名な錦木高校へ受験すると決めていた。そうである。二人は共に高校時代を謳歌するはずだった。ところが天のひがみか戯れか、暗礁あんしょうに乗り上げた。

 中学最後の地区大会が終わり県大会出場が決まった二人は、限りない喜びに満ちたのだけれど幸貴に異変が起きていた。地区大会の会場でふらっと倒れた。会場が一瞬どよめいたものの貧血か疲れと思い医務室へ運ばれた。幸貴は間もなく会場へ戻ったがまさか深刻な事態だったと誰が想像したであろう。

 幸貴の体調は見る間に崩れ県大会で試合することが出来なかった。敏貴は幸貴の分まで頑張り、とんとんと勝ち進んだ。あと一人勝てば全国大会出場だった。

 翌日。敏貴は幸貴に大会結果を報告に行ったが家は留守だった。敏貴は妙な胸騒ぎを感じた。実はこの日に幸貴は検査入院し、それから数日後に病名が判明した。カンナの姉と同じ白血病だった。余命半年と宣告された幸貴は敏貴にそれを明かさなかった。なぜなら同じ高校へ進学する希望を捨てなかったから。

 敏貴は時々病院へ見舞いに行った。幸貴はベッドでよく勉強していた。

「勉強し過ぎるなよ、な」敏貴は笑った。ただ彼の笑顔の下で幸貴の容態は芳しくないと薄々感じていたが、敏貴も同じ希望を捨てなかった。

 その年の暮れに幸貴は家へ戻った。雪が深々と降る寒い日だった。

「病気治して、また高校でテニスしよう」

 敏貴は学校から受け取った手紙を幸貴に渡したのだけれど、ほっそりした指に敏貴の手が震え一つも言葉が出なかった。敏貴は天を仰いだ。すると幸貴は布団の上で微笑みながらこう言った。

「敏貴。カンナのこと憶えてるか?」

「憶えてる。元気いっぱいの女の子だった」

 敏貴は静かに目を閉じて懐かしい造形大会の日を思い描いた。

「そうだ。天使のような女の子だ」

「それになかなか器用だった……」

 幸貴は純粋な目で敏貴を見つめ呟いた。

「俺。六年生の夏にまた逢えると信じてたからさ。あの時に連絡先を聞いておくべきだったと後悔した。出来ることならもう一度逢いたい。カンナは元気だろうか?」

「そうだな。カンナなら誰からも好かれそうだし……。きっと溌剌としているよ」

 敏貴が笑いながら呟くと幸貴も笑った。敏貴は彼の笑顔に少しだけ安堵したがふっと畳に視線を向けた。

「幸貴はカンナを気に入ってた。そう言えば、『好きなタイプだ』って、言ってたもんな」

「何言ってんだ。敏貴もだろ? 俺は知ってたさ」

「そうか? やっぱ幸貴に隠し事は無理か……」

 敏貴は俯きながら頭を掻いた。不意に幸貴が姿勢を正した。

「敏貴。お願いがあるんだ。俺はもうカンナに逢えない。だが、敏貴はきっと逢える。もし逢ったら、『あの時の約束を破ってごめん』って、伝えてほしいんだ。それから」

「何言ってんだよ! 幸貴も一緒だ。一緒だからそんなこと言うな。お願いだから二人でカンナを探して伝えよう……」

 敏貴は足の上で拳をぎゅっと握り声を殺して泣いた。幸貴も泣いた。

「そんな事、言うなよ」敏貴は涙で畳が見えなくなった。

「敏貴……。ごめんな」

 

 深々と降る雪がこれほど敏貴に重く、鉛のように圧し掛かった日はなかった。

敏貴は傘も差さず何かを打ち消して家まで歩いた。ただあの時に幸貴が言いかけたことばを最後まで聞かなかった自分に敏貴は後悔していた。


 年が明けた。学校初日に幸貴が登校しクラスの雰囲気が明るくなった。幸貴は久しぶりに級友と会い、「学校はいいな」と、笑った。

 幸貴は年の暮れに敏貴へ見せた自身の弱さを悔いた。幼稚園、小学校、中学校。ともに切磋琢磨せっさたくまし生きて来た大切な友へ感謝すべきだったと……

 幸貴は盧生ろせいの夢へ一生の命を懸け最期まで友であり続けることを決心した。

 幸貴は午前中だけ登校したが級友はどちらかと言えば病気が少し回復して良い方へ向かっていると信じていたから、幸貴を助けながら自然に接していた。敏貴も心から信じたかった。しかしながらどこでぶつけたのか、幸貴の手の甲に紫色の酷い痣があり妙に不安に駆られた。というのも普通の内出血なら日増しに色が薄くなるはずだが、幸貴のそれは一向に治らなかった。

 二月末日。午前中の授業が終わり敏貴は幸貴の荷物を片手に持って下駄箱まで並んで歩いた。

「幸貴。手の内出血がなかなか消えないな」

「ああ。でも大丈夫」幸貴は痣のない掌でそこを覆った。

「心配してくれてありがとう。そう言えば試験日まであと五日だよな」

 幸貴は何気に話を逸らした。

「絶対合格して、また幸貴とテニスをやるんだ!」敏貴は太陽のように生き生きと幸貴を見つめた。

「だから一緒に合格しよう!」敏貴は昇降口で待っていた幸喜の母へお辞儀をすると荷物を渡した。

「合格する。約束は守る」幸貴は痣のない手を前に出した。敏貴はそっと彼の手を握ったものの、折れそうな手に驚きを隠せなかった。

「そんな顔すんなよ。鉛筆は持てるから。それより敏貴こそ約束を守れよ。もし破ったら一生、『へたれ者』と、呼ぶからな」

「それは困る」二人は笑った。

 

 迎えた試験日。高校の許可を得て幸貴の母は図書室にいた。母は無事に試験が終わり我が子の願いが叶うように心で祈り続けた。

 社会のテスト中に幸貴は鼻血を出した。試験中に何度も手を挙げてテッシュペーパーを要求した。最後のテスト科目を根性で乗り越えた幸貴に敏貴は酷く心を打たれた。そして終了のベルが鳴ると同時に敏貴は血に染まった大量のテッシュペーパーを拾い幸貴を廊下へ連れて行った。幸貴の母と父がいた。父は誠心誠意で敏貴に礼を言うとすぐさま幸貴を背負った。幸貴は細い目で敏貴を見つめ小さな声で、「ありがとう」と、囁いたが体力を使い果たした幸貴は即、入院だった。

 

 一週間後。錦木高校の合格発表があり敏貴は先生からその知らせを受けた。

「やった! 幸貴やったぞ……」

 敏貴も幸貴も見事に合格した。敏貴はともに喜ぼうと学校帰りに病院へ走った。ところがあるはずの幸貴の名前が病院になかった。敏貴は容態が良くなり退院したと思い喜び勇んで鞄を持ったまま幸貴の家へ向かったのだけれど、家の手前で敏貴は茫然とした。なぜそこに葬儀屋がいるのか。こんなに人が出入りしているか……

 敏貴は無意識に歩き、足が地から離れているようなふわふわした気持ちで漠然と玄関前に立った。すると、「お友達ですか? 中へどうぞ」と、小奇麗な白いエプロンをした女性に通された。

 敏貴はまだ気付かなかった。線香の香りが強すぎ知らない家にいるようだったが、ただ座敷へ足を入れた途端、敏貴は自分の目を疑った。「ありえない!」敏貴は心で叫んだ。

「こんなのありえない」

 高熱を出した幼い子どもが全身をガタガタと震えさせ、次の瞬間、敏貴は魂も肉体も抜けた恰ももぬけの体のごとく自分が何なのか分からなくなった。敏貴は鞄をするりと落としガクッと手と膝をついた。

「こんなの嘘だ。だって一緒に。合格を喜びに来たんだ……。なのになぜ」

 敏貴は唇をぎゅっと噛んだ。誰が何を言ったわけでない。敏貴の目から湧水のように涙があふれたが、不意に敏貴は心を静かにしてきちんと正座をした。それは幸貴が見せたであろうか……。不思議なことに高校受験をともに過ごした貴重な日々が敏貴の頭へ艶やかに浮かんだ。敏貴はしゃんと背筋を伸ばし両手の指を揃えて畳へ載せると幸貴へ最敬礼をした。それから小さな声で囁いた。

「僕達のために支えてくれてありがとう。幸貴は掛け替えのない友達だ」

 敏貴は音を立てず立ち上がった。敏貴は玄関で幸貴の父と母へ静かに頭を下げ外へ出た。

 三月十二日 午前九時五分。幸貴は二人の合格を母から聞いた後に安心したように息を引き取ったという……

 ところで敏貴も級友も幸貴が僅かな命だったと知らされてなかった。なぜなら高校受験を控えた大切な時期を幸貴が最も分かっていたから。だからこそ幸貴は、「合格発表のその日まで生きられない」と、告げられつつも皆のために命を延ばしたのである。全ては葬儀で明らかになった。


 四月九日。春爛漫、錦木高校入学式。しかしながらその席に敏貴の姿はなかった。海辺の街に住んでいたあの時からずっと親友だった幸貴。彼の死を悼み敏貴の心は何をしても満たされず大きな穴が開いたままだった。敏貴は中学卒業してから殆ど家を出なくなった。


           


                カンナの花



「ジージリジリジリ……」アブラゼミが暑苦しく鳴いている。

「あっ、せみだ」

「どこ、どこにいる?」

「ほら。あの木の幹に止まってる!」

 二、三人の小学生か……。蝉に負けない元気な声が道端から聞こえた。

 七月末。小学生が帰宅するには早い時間だった。おそらく明日から夏休み。今日は終業式なのであろう。敏貴の母は楽し気な子どもの声に涙ぐんだ。

 敏貴は庭の見える部屋でソファーに腰掛け本を読んでいた。幸貴を失った敏貴は次第に口数が減った。そのうえ来る日も来る日も空虚に苛まれた。やがて季節は春から夏へ移り変わり庭のサクラソウがしおれ今はナスの花が咲いていたが、敏貴は引きこもった同じような日々をただぐるぐると送っていただけだった。しかしながら敏貴は父や母の気持ちも分かっていた。


「ジリジリジリジリ……」蝉の声が急に途切れた。

 夏になって敏貴の苦しい思いは僅かに読書で紛らわせていたものの決して癒されていたのではない。だからと言ってずるずると哀しみを引きずりながら高校生活を送りたくなかった。つまるところ敏貴はこの流れを変えなければいけないと葛藤したのだけれど、どういうわけか浮かんでくる小さな勇気を心へ押し込んでしまった。そのせいで未だ錦木高校へ通っていない。このままでは単に留年もしくは退学の恐れや不安を抱えるだけである。敏貴は口に出さない両親へ申し訳ない思いでいっぱいだったがそっと胸へ仕舞いつつ、「いつか前向きな敏貴に戻る」と、幾度も言い聞かせていた。両親も心の奥でそう信じていた。

 敏貴は本を置いてソファーからつっと立ち上がった。そして大きな窓を開けると、もわっとした熱い空気を肌で受けた。着ていたティーシャツが薄い毛布のように感じるやいなや体からじんわり汗が出た。敏貴は庭を眺めた。すると母が庭の手入れをしていた。

 敏貴の姿に気付いた母は向かって右側へ移動した。それからハサミで赤くて綺麗な南国の花を数本切って歩きながら敏貴にこう言った。

「ねえ。この花を玄関に飾りたいの。だから花瓶に挿してくれるかしら。カンナと言う花よ。玄関が華やかになるわ」

「今、いま何て言った?」酷く驚いた顔で敏貴は尋ねた。ここ数カ月間、会話らしい会話をしていなかった親子だ。

「えっ? あっ……。カンナの花を玄関の花瓶に挿しくれるかしら」

「花の名はカンナ? それ本当?」

 敏貴の体へ一気に熱い血が流れ指先がじんじんした。

「そうよ。話せば長くなるけど。暑い日差しに負けないで美しく華やかに咲く花なのよ。確か花言葉は『情熱』とか『永遠』だと思ったわ」

 敏貴の脳裏に小学校五年生の造形大会がありありと映った。真夏の太陽にきらきら輝く女の子……

 幸貴が昨年の暮れに、「カンナのこと、憶えてるか?」と、純粋な目で敏貴を眺め、ほくそ笑んだ幸せな顔を敏貴は決して忘れられなかった。

「暑い日差し、情熱……。カンナ。カンナ、僕はどうすればいいんだ」

 敏貴はドキドキする心臓を片手で押さえ目を閉じた。冷静になるどころか心臓の鼓動は激しくなり胸から飛び出しそうだった。それに輪をかけ、「ミーンミンミン……」と、蝉がけたたましく鳴いた。

 敏貴はふっと葬式の日を思い出した。喪服を着た大人たち。制服姿の級友。涙ぐんだ幸貴の母。

「あの時、幸貴の死を受け入れられなかった」

 そう呟くやいなや自分の部屋へ無我夢中で駆け込み、思い切りドアを開けて机の一番下の引き出しを引っ張った。敏貴は奥に手を突っ込み仕舞った何かを見つけた。

「あった! 幸貴。本当に、ごめん……」

 彼の目に涙が浮かんだ。それは幸貴のお母さんから葬式の日に手渡された物だった。敏貴はすぐに袋を開けた。中に二通の手紙が入っていた。敏貴は自分宛の封筒をハサミで切ると、震える手で便箋を広げ文字を読み始めた。

「敏貴へ。いつもありがとう。勉強で忙しいのに見舞いに来てくれて、年末にも会いに来てくれて、本当にありがとう。あの時『一緒にカンナに会おう』と言ってくれたことがどんなに嬉しかったか。でもやっぱり無理だ。だから敏貴に頼むよ。カンナへ手紙を届けてほしい。その時は一緒に見て笑っていいぞ。俺は生きて気持ちを伝えられなかったけれど、敏貴は出来るはずだ。だから必ず見つけろよ。お前の告白を天国で聞いてやるからな。諦めるなよ。それと同じ高校へ行けなくてごめんな。神田幸貴より」

 敏貴の頬に今までの思い出と、すぐに手紙を開かなかった後悔が入り乱れ涙が止めどなく流れた。そして何度も何度も幸貴へ謝った。

 敏貴は赤い花を玄関の花瓶に入れながら強く決心した。必ずカンナを探して幸貴の手紙を渡すと…… 。敏貴は今までの遅れを取り戻すため猛烈に勉強した。しかしながら父と母に一年留年させて欲しいと願った。なぜならカンナと同学年になれば、「より探しやすいはずだ」と、思ったからである。

「あの時確かカンナは、『東部学園』って、言っていた。もしかして東部学園高校にいるかもしれない」敏貴の鋭い連想は行動へ駆り立てたものの問題があった。実は彼の知り合いに東部学園高校生が一人もいなかった。どうやって情報を入れればいいのか。何とも歯痒かったのだけれど簡単に諦める敏貴ではなかった。敏貴はその年にテニススクールへ通い、一日数時間練習に励んだ。もともとテニスが上手かった彼だけに再度一年生になった四月は、すぐに主力選手として活躍した。彼の名前はあっという間に地方の高校に知れ渡った。そうである。どこかでカンナが「神田敏貴」の名前を耳にしてくれたらと願ったのである。それでも敏貴は学校周辺をさり気なくウロウロしたり、二年連続で学校祭へ行ったのだけれどカンナと遭遇しなかった。何と健気な心の持ち主か。幸貴の願いを叶えるため彼は諦めなかった。


 二年生の春。とうとうその日が来た。カンナと偶然バスで巡り逢い、この驚きは口で言い表せなかったが自身の直感を信じて間違いないと思った。ただカンナの記憶にどれだけ二人の存在が残っているのか。いきなり、「久しぶりだね」「元気だったかい?」「綺麗になったね」と、言い出せなかった。単に敏貴は、「僕らを思い出して欲しい」と、願いを込めて栞とメモを渡すのが精一杯だった。



                贈り物



 カンナは女子生徒から手渡された紙袋を家に戻るまで開こうとしなかった。

 多智花は、「その紙袋。気になるな」と、口にハンバーガーを頬張り何度も視線を向けた。

「そもそも名前を名乗らないのが怪しいよ」

 多智花はアイスコーヒーをグイッと飲んだ。カンナも野菜ジュースをストローで少し飲んだ。

「確かにそうなんだけれど……。何だかその人の気持ちがいっぱい入っている気がしてならないの。だから家で見るわ」

 カンナはアップルパイを一口食べて微笑んだ。

「えーっ! そ、それ、酷く気になる言い方じゃん」

 多智花は片手を前髪に当てると頭を掻いたが、カンナに嫌われまいと必死の振る舞いだった。それでも傍から見たら仲の良い二人に見えたであろう。

 カンナが店を出ようと椅子から立ち上がると、「これ。俺が片付けるから」多智花が二人分をトレーに載せた。

「私のは自分で片付けますから」

「いいから。俺が誘ったからさ、俺がやるよ」

「あ……。ありがとうございます」カンナはちょんと頭を下げ微笑んだ。

 多智花は嬉しそうにトレーを持った。その後へカンナが歩いた。彼がゴミの分別して捨てるのをカンナも手伝った。すると大体こんな展開になる。「多智花!」と、女子に呼び止められた。東部学園高校の制服だったのだけれどカンナは面識がなかった。

「へえ。女子と二人だけでいるなんて珍しいわ」見るからに睨まれていた。

「俺が誘ったんだ」

「ふ~ん。多智花が女子一人を誘うなんて、今までなかった。あなたのこと覚えておくわ」

 彼女は再びカンナを睨むと友達のところへ戻った。一方カンナは心で、「どうか私のことを忘れて下さい」と、切に祈っていたが……


 カンナと多智花は店を出てすぐにバスに乗った。カンナが一人席へ座ると多智花は横へ立った。

「次は杜若公園前……」バスのアナウンスが流れた。

「カンナ。ここで降りるからさ。それと食事に付き合ってくれてありがとう」

「私こそ、学際に付き合ってくれてありがとうございます。多智花君は予想よりいい人だったわ」

 カンナは座席から多智花の顔を眺め微笑んだものの、多智花は何気に苦笑いした。

「あのさ。今度また二人でどこかへ行かないか?」

 多智花は喉元まで出掛かったデートの誘い文句を別れ際に言えなかった。

 多智花は片方の手をポケットに入れて後ろ髪を引かれながら空しくバスから降りると、「はぁ……」と、長いため息をついた。

「カンナさん。俺の初恋の人なんだけど、全然気づいてないな……」

 多智花は寂しく呟いたもののカンナは、「本当にありがとう」と、窓から友達へ軽く手を振っただけだ。無理もない。カンナは手渡された贈り物が気になり、多智花の気持ちなど知る故もなかった。


「ただいま」

 玄関へ靴を揃えると、ダダダダダッと二階へ駆け上がった。急に走ったせいもあったがカンナの心臓は酷くドキドキした。そして恐る恐る紙袋を開き震える指で中を確かめた。水色の包装紙に包まれた直方体の箱が一つと白い封筒が入っていた。

 カンナは深呼吸をした。それから封筒のシールを外し便箋を抜いてゆっくり開いた。手紙は、「良かったら使って下さい。それと六月三十日。午後五時十五分のバスに乗って下さい」と、書かれどこの誰とも記されていなかった。

「どうして名乗らないのかしら」

 カンナはそこから何か見えて来ると思い、じっと眺めたが流れるような文字が印象的でそれ以外頭に浮かばなかった。

「きっと、どこかに名前が隠されているわ」

 カンナはあれこれ勘ぐって角度を変え文字を眺めた。

「ふーん……?! 違うわ。そうじゃない。ああ、どうして私、すぐ気付かなかったのかしら」

 慌てて机の真ん中の引き出しを開けた。

「大切な記念品だから使用しなかったレターセットがこの中にあるはずよ……」

 カンナはぶつぶつ呟きながらゴソゴソ狭い箱の中へ手を入れて探した。

「あったわ!」

 引き出しから取り出しすと懐かしさで胸がじんわり熱くなった。神田君達と出逢った年の造形大会記念レターセットだった。白い便箋に薄く海の絵が描かれ文字は一切書かれていないものだ。カンナはこれで彼らに手紙を書こうと思っていたのだけれど、結局二人の住所を聞き忘れていた。ただ翌年にまた会えると思いそのままだったのである。

「同じだわ。まさか……。神田君? どちらの神田君?」

 カンナの体に七年前の記憶が一気に流れ顔が火照った。

「それとも、偶然に造形大会へ参加した人、なのかしら」

 カンナは便箋を机に載せると今度は直方体の箱を開けた。小さいけれどそこそこ重みがあった。カンナは指先で撮み丁寧に机へ置いた。それは栞と同じ「ひまわりと子ども」の絵が描かれたマグカップだったが。

「この絵をもっと前から見ていた気がするの」カンナは天井を眺め何かを取り戻そうと必死になった。

「どこかしら。もうスッキリしない。どこだっけ……」

 カンナはまた便箋を眺め、天井を眺め、カップを眺めた。

「砂の造形大会は本当に楽しかったわ。あの頃に戻りたいな……」

 カンナはペン立てから鉛筆を抜くと、棒に刺さったアイスクリームの絵をメモ紙に描いた。

「確か、こんな形のアイスクリームを頂いたけど。暑さですぐ溶けちゃって。手に垂れて海水で洗った……」

 カンナが鉛筆をペン立てに戻した時である。

「思い出した! これ、敏貴君が持っていたハンカチの絵よ。ああ、何てことなの」 彼がカンナに貸してくれたハンカチだった。風でふわり飛ばされたハンカチを二人で追いかけた。砂の上に落ちた時にカンナの手に敏貴の手が一瞬だけ重なった。カンナはあの時の想いが込み上げ、また胸の内が熱くなり心臓の鼓動が激しくなった。

「バスで会ったのはきっと敏貴君だわ。ああ、どんなに逢いたいと思い、毎日教室の窓から海を眺めていたか。幸貴君は今どこにいるのかしら……」

 カンナは再び彼の書いた文字とカップを眺めると、「クスッ」て、笑った。なぜならあの時より酷く無口になった気がしたから……

「これが敏貴君の精一杯の伝え方だったのね」

 カンナはそう解釈した。あの日あの時からのメッセージ。敏貴はたった一日の出会いをどれほど大切に思っていたか。カンナも全く同じ価値だった。

 カンナは巡り合いに心から、「ありがとう」って、感謝し、三十日の指定時間にバスへ乘って過去と現在と未来の話を語りたいと強く思っていた。








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