第2章 多智花 一

           

                 初恋



 カンナはいつもと同じ時間にバスへ乗った。普段通りの混み具合だったから容易に錦木高校生を探せたはず、と言いたいところだけれど、

「あら。いないわ」

 生憎なことに錦木高校生はバスに乗っていなかった。

「ああ、聞きたい事がいっぱいあったのに。錦木高校生さん。私はあなたの名前も知りません……」

 バスから降りて水色の空を眺め大きく深呼吸したカンナは、一人ぶつぶつ呟きながら校門へ向かった。

「カンナ!」背後から美里の声だ。

 校門を通り抜けて三メートルほど歩いたところで、美里の自転車が急ブレーキをかけた。鞄についたペンギンのマスコットが籠からはみ出して大きく前後に揺れ、美里はつま先を地面につけたまま笑顔で振り向いた。

「カンナ。お早う!」相変わらず溌剌としている。

「お早うございます。パンクを修理したのね」カンナは笑顔で挨拶した。

「お陰様で直りました。でも残念。私もバスに乗りたかったわ。ねえねえ。あのイケメンさんに会ったの?」

 美里は自転車から降りてカンナの隣に並ぶと、両手でそれを引きながら一緒に桜の木の下を歩いた。

「それはね」カンナは目をクリッとさせた。

「うんうん」

「ご期待に添えずごめんなさい」カンナは微妙に首を横へ曲げて少しおどけた。

「えーっ! ということは、会ったけれど話し掛けられなかった、とか。それとも元々バスに乗っていなかったとか。どっちなの?」

「答えはバスに乗っていなかったわ」

「それは残念。今日はどんなハプニングを巻き起こしたか楽しみだったのに……」

 美里はクスクス笑ったけれど、カンナは小さなため息をついた。

 珍しくカンナの何気ない仕草を察した美里は、

「あら? 実は彼に会いたかったとか?」と、静かに尋ねた。

「そうなの。確かめたいことがあったの。だから正直なところ会いたかった、かな」

 カンナは前髪を指で梳かしつつ美里を見つめた。

「それ、カンナにとってすっごく意味あり気よね」

「意味不明なの」

「いやいや、こっちが意味不明ですけど」美里は少し怪訝な顔して、それからクスッと笑った。

「そのことだけど。私、『錦乃際』に誘われちゃって」

「えーっ! ちょっとそれ詳しく教えてよ。ああ残念。こんな時間だわ。もう駐輪場へ行かなくちゃ。また後でね」

 遅刻でなかったけれどカンナも少し急ぎ足で教室へ入った。遅かれ早かれまた美里が訪ねて来るだろう。そう思いつつカンナは机の横に荷物を掛け窓から見える青い海へ、「お早う」って、挨拶をした。暫くして、

「英賀谷さん」可笑しいくらいに上ずった声だ。それにめったにない苗字で呼ばれた。最近そういう呼び方をするのは先生だけである。

 カンナがハッとして振り向くと、噂のモテモテ男子、多智花が傍に立っていたのだけれど、カンナは随分離れたところから見つめられている気がした。それだけ多智花が霞んで見えた。

「あのさ……」彼の声が妙に震えた。

 多智花は渾身の力を振り絞りカンナに話し掛けたものの一体何をするつもりだったか、思考回路がプツリと途切れ度忘れした。おまけに体が思うように動かない……。つまるところ多智花の頭に真っ白い世界が映し出されただけで、どうやら心は瞬間的に知らない世界へ移動していた。そのせいか過剰に心臓がバクバクして額に玉の汗をかきカンナと会話が全く出来なかった。こんな経験は初めてだ。教室で苦労なく女子に囲まれ、気遣わずに会話をしてた彼なのになぜだろう。カンナの前でまるで金縛りにあったように声も出せない。

「多智花君?」カンナは不思議な顔をした。すると多智花は束縛していた何かがするりと解け体が軽くなったと同時に、何を言いたかったかふっと思い出した。「スーパーボールを返してほしい」と、言うつもりだった。ところが、

「さ、桜餡蜜食べたことある?」と、すこぶる妙な質問をした。桜餡蜜とは先日カンナが「勘太郎」で買った和菓子である。多智花の背筋に要らない悪寒が走った。

「桜餡蜜。それがどうしたの?」不思議に思って多智花を見つめれば、

「ああ。数日前、たまたま英賀谷さんが店で買うのを見たからさ」

 あの時、スーパーボールのためにカンナを追っていたと流石に言えなかった。

「多智花君も勘太郎にいたの?」カンナは驚いた顔で彼を見つめた。

 

 ちやほやされるのが当たり前の多智花。どういうわけかその有り様を次々乱されていく。それにもかかわらず言葉で言い表せない、白い羊雲のようなほんわかした愛おしさをカンナへ感じた。多智花は我知らずして目を下へ向けた。すると机の上にあったカンナの白い指先が微妙に動き彼の心へこれまた惹きつけた。もう大変である。多智花の頭の中へ知らぬ間に恋という欲望の起爆装置が設置された。

「桜餡蜜は美味しかったわよ。私は好きよ」カンナが屈託ない笑顔を浮かべれば、「好き」という言葉へ敏感に反応した。「好き? 俺のことも……」多智花は余程そう尋ねたかったに違いない。しかしながら全くちぐはぐな言動である。

「俺も好き。カ、カ、カンナは店によく買いに行く?」

「ええ。時々行くわ。それに……そんなに緊張しなくても自然にカンナでいいわよ」彼女がクスッと笑っただけで多智花の心は程よい甘さのソフトクリームを口にしたようだった。

「その店がどうしたの?」

「いや。何でもない。何でもないんだ」

 何か言いたげだった彼にカンナが少し首を傾げたのだけれど多智花は黙って席へ戻った。


「多智花、お早う!」

「おは、よう……」

 まるで浮かない返事に杉田は不審に思った。多智花の視線がカンナへ

向けられていた。「なるほどね」杉田はカンナを見つめ一人納得した。それから多智花へ顔を向けると、

「で、例の物を返してもらったのか?」と、覗き込んで尋ねた。

「もらってない」そう呟くと多智花は席にドカリと座った。そんな多智花を見て、「しょうがないな」杉田はため息をついたがカンナの席を通り過ぎるふりして、

「カンナ。おはよう」挨拶したもののどうも応じてない。決して無視したわけではなかったけれど、カンナは青い海以外何も頭に入らなかった。

「カンナ。聞こえてるか?」

 杉田は脅かすつもりは微塵もなかったがカンナの前へ不意に顔を出したものだから、互いに目が丸くなってギョッとした。その結果余りに顔を接近し過ぎて杉田は何しに来たのか一瞬で忘れ赤面した。

「あの……。海が見たいです。どいてくれませんか?」

 カンナがあるがまま微笑めば杉田は、

「そうだよな。邪魔、だよな。ごめん」と、呟きスーパーボールのことを心に仕舞ったまま多智花の席へ戻った。透かさず、

「顔を近付き過ぎだ。もうちょっと離れろよ。どんだけカンナに近付くんだ。俺だって……」多智花は空気のような相手に強く叫んだけれどやはり皆無である。多智花は杉田の行動に無性にハラハラしてぎゅっと拳を握ったが、思い通りにならない自身へ酷く殴りたいと気が立った。当たる場所が違うと分かっていたものの、

「何しに行ったんだよ。余計なことするなっ!」と、文句を言った。

「悪いな。スーパーボールのことで多智花が悩んでいたからさ。だから話しに行ったんだ。でもさ。笑っちゃうよな。顔を近付き過ぎて何も言えなかった」

 全く頓着ない返事だ。杉田は頭をぽりぽり掻くと続けてこう言った。

「カンナって不思議だな。カンナの波長に吸い込まれそうだ」

「俺もそう思ったんだ。カンナは不思議だ」多智花の心臓がまたバクバクした。

「でも俺さ。悪いことしたし謝りたい」

「はっ? どういう風の吹き回しだ」杉田は驚愕した。大概のことは突っ張る多智花なのだけれど、今の彼は杉田が知る限りどうかなっている。カンナと言う人物に一体どんな奇術を見せられたのか。スーパーボールを当てたのがそれに当たるのか……。到って素直すぎる。

「杉田。あいつ。海ばかり見てるな」多智花がボソリ呟けば、

「海が好きなんだろう」今も海を眺めるカンナへ杉田は他人事に答えた。

「海が好きか……。男は好きなんだろうか」

「さあな。これから分かるさ」

 始業のチャイムが鳴った。杉田は自分の席に腰掛けようと椅子を引いたが、ふっと多智花の方を向いた。

「まさかカンナが好きなのか? いや。有り得ないだろう。気になるのはスーパーボールだからな」杉田は笑ってペンケースを机に置いた。


             

              掃除と多智花


「おはよう!」

 カンナが進級して数日たった月曜日。教室へ入るやいなやカンナは後方の緑色の壁を眺めた。壁は容易に画鋲がびょうが刺さる。そこに今月の予定やお知らせ、他校の催し物が貼られていた。勿論、「錦乃祭」も含まれていたが、それと同等に気になるのが掃除の確認表だった。

「えっと今週は……」カンナは指で辿った。

「やった!」たかだか掃除場所である。しかしながらカンナの心は小躍りした。カンナは教室担当だったけれど、たとえ僅かな時間でも海が見えるそこはカンナの最も好きな場所だった。

 二年生になってカンナは親友の美里とクラスが別々になったものの、海のせいか将又はたまたカンナの気質か、両方か。寂しさなんかなんのその。一見何の変哲もない女子高校生と思いきやカンナは相変わらず授業を受ける姿勢も態度も良かった。そのうえ天然で人懐っこい。間もなく友達が出来た。それは全く自然な姿で男女問わずカンナへ集まった。しかしながら若干その輪に入れず外から指をくわえ眺めていた男子、多智花がいた。確かに彼の周りにしょっちゅう女子が集まったけれど決して憩いの場所でなかった。特に最近の多智花は心と体がちぐはぐで気持ち悪いほど均整がとれていない。見かけ上は人気者だったが気持ちはブランコのようにゆらゆら揺れていた。どうしたらいいのか……。多智花の葛藤が続いている。女子の前で笑う多智花。けれど心の目は明らかに窓辺の席を追った。もし多智花の腕がゴムのように伸縮するなら、有無を言わず強引にカンナを引き寄せたであろうか……

 

 さて楽しい掃除の時間。

 カンナは担当者と机を後ろへ寄せて教室の隅にある掃除道具入れから短い柄の箒を一本取り出した。カンナは海へ向かって端から掃きその後ろから高木久美たかぎくみが水で濡らしたモップで床を拭いた。教室は男女合わせ六人で掃除したが、予想外にすんなり終わりそうだった。あとは机を元に戻すだけである。カンナは箒を仕舞おうとした。すると久美が小さな声でカンナを呼び止めた。カンナはてっきり掃除のことと思った。

「ねえねえ、カンナ。学級委員長の杉田君さ、どう思う? 真面目で女子に人気があって素敵よね」

 海しか興味のないカンナは何のことやらと首を傾げた。

「そうなの? 人気者だったなんて知らなかったわ」カンナは目を丸くした。

「へぇー。知らなかったの? 女子なら誰でも知ってると思ったけれど」

 男子が窓側から机を運び始めた。久美はそれを眺めながらモップをがしゃがしゃと洗い水を絞った。

 「まだあるのよ。女子にいつも囲まれている人気者の多智花君。意外と悪なんだけど知ってた?」

「えっと。悪だけど人気者? そんな風に見えなかったわ」

「とんでもない。気が短くてすぐ喧嘩するのよ。それをいつも杉田君が止めてるの」久美はモップを持ち上げ柄の先端部分を床に着けた。それから雑巾を外した。

 カンナは数日前に多智花と会話をしたばかりだが、寧ろ影の薄い人に思えた。カンナは気になって、

「ねえ久美さん。人気者の基準て何なの?」と、質問した。

「そうね。それは顔と性格と身長と雰囲気がいい人」そう言いつつ久美の目は天井を見ていた。

「えっと。顔と性格と。それから身長と雰囲気……?」カンナは無性にむず痒くなった。

「まあね。そう言うことよ。それでカンナは杉田君と多智花君のどちらがお好みですか?」

 久美は調子に乗ってモップの絵の部分をマイク代わりにカンナの口元へ持ってきた。

「それ。答えないとダメかしら?」

「ただいま。マイクのテスト中。はい。是非とも人気者アンケートに口頭でお答え願います」久美が妙に接近してきた。

「別の人ってのはどうかしら?」カンナは冗談を言ったつもりが、久美は酷く驚いて、

「それは初耳よ。彼ら以上にカッコイイ人がクラスに存在していたなんて驚きだわ。その人は誰なの?」

「あぁーっ、もうむずむずする。ちょっとモップ貸りるわ」

 そう言うやいなや、カンナはまるで刀を差すように体の横につけて、礼をしてから呼吸を整えると、見えないものに向かって二回空を切った。

「ああ、すっきりしたわ」

 カンナは森の中で深呼吸をしたように清々しい表情だったけれど、机を運んでいた男子や女子はその音に足を止めカンナの美しい動作に目を見張った。カンナは海に向かって一礼した。

「す、すごいわ! カンナにそんな特技があったの。カッコイイわ。ねえ、もう一度やってみせてよ」久美はまるで子どものように瞳をウルウルさせた。

 そこで止めておけばいいのにカンナはつい調子にのって、再び両手でモップを握りさっきより集中して思い切り振った。何てタイミング!「バシッ!」結構いい音が鳴った。ところがそうそう感心している場合でない。そこにいた生徒達の顔は見る間に青ざめた。なぜなら当たった先が悪すぎだ。友達と話しながら教室に入った多智花の背と足に文句なしにそれを当てた。思い掛けない出来事でカンナの目は点になり咄嗟に手で口を押えた。

「誰だ!」多智花は足を押さえ体を震わせ激怒した。喧嘩っ早い彼だけに誰もが静止し怒りの矛先を残念に眺めた。カンナもついさっき久美から噂を聞いたばかり……

「すみません。それ私です。ごめんなさい」

 カンナはモップから手を放し慌てて謝ったものの、多智花の顔を真面に見れず床にあった箒を掴むと無意識に上下をひっくり返し、ぼさぼさの繊維で顔を隠した。そうやってもたかが知れてる。誰が見ても顔以外丸見えだから。ただカンナの前から彼の顔が見えなくなっただけで傍にいるのは変わりない。

 カンナは冷や汗をかき箒に顔を隠したまま立ち竦んだ。すると久美がカンナの制服を引っ張り、「ここから逃げよっ」と、小さい声で囁いた。カンナはそのまま横歩きで少しずつ入り口へ移動した。

「イケメンは何があってもやっぱりイケメンですね。多智花君のその顔も素敵

よ」

 久美は精一杯愛嬌を振舞った。そして、「逃げましょ!」と、カンナの手を引き二人と箒一本で廊下を走り階段を駆け上がって一気に屋上まで上った。

「あ~あっ。きっと多智花に嫌われちゃったわ。ちょっとショック。でもカンナのせいじゃないから気にしないでね。それはそうと、ねえ、カンナ。何ていい眺めかしら……」

 清々しい風に髪を梳かされ、久美の微かなため息と同時にカンナの瞳に開放的な百八十度の景観が映った。

 カンナは海の先の地平線に誘われるように箒を握りしめ、緩やかな風に髪をなびかせながら屋上の端へ歩いた。菱形の柵の間から青く輝いた海が広がっていたが、まるで柵がないように一繋がりの絵に見えていた。

「海。好きよ」カンナは箒を横に置くとぼそっと呟いたが、久美は遠い世界の誰かに問いかけてると思った。二人は暫く風景を楽しんだけれど、久美はカンナの様子が気になってとうとう尋ねた。

「カンナってさ。いつも海見てるわよね。ねえ。もしかして男子より好きだったりして?」

「そんなことないわ。ただ。海と男性は一緒なの」

「ふ~ん。って、それどういう意味なの? 海のように広い心を持った人が好きなの?」

「優しい人がいいわ」

「そうじゃなくて、海と男性の関係よ。そこに何かあるんでしょ?」

 久美の意外な質問にカンナは少し戸惑った。誰にも明かしたことのないカンナだけの想いが海を見るたびに繰り返し思い出す……

「あのね。海は約束の場所だったの。でも……その人に会えなかった。今でも逢いたいと思ってるの。海を眺めていると落ち着いて、それにもしかしてまた逢えるかもしれないって」

「へぇ。カンナを夢中にさせるその男性とは余程魅力的なのね。ところで、それ初恋?」

「初恋じゃないわ。私の初恋は小学校一年生の担任の先生だもの」

「キーンコーン、カーンコーン」チャイムが鳴った。

「大変! カンナ、授業が始まるわ。教室に戻らなくっちゃ!」

 カンナは箒を掴み久美と笑いながら階段を駆け下りた。

「その話の先に、どうか素敵な物語が続きますように」

「私も、そう思いたい。ありがとう……」


 さて放課後である。

 カンナは久美とファッションの話をしていた。どこで服を買うとか選ぶとか……。久美の持っていた雑誌を広げ二人はあれこれ指差しながら呟いていた。

「この靴可愛いわ。それにピンク色のスカートよくない?」

「そうね。モデルさんが着るとどれも素敵に見える」

「そっか。モデルね。そう言えばカンナってすらっとしている。十分モデルになれるわね」

 久美が笑いながら時計を気にした。

「そろそろ、部活動の時間だわ。ところでカンナは何部に所属しているの?」久美が雑誌を閉じながら尋ねた。

「華道部よ。私は花が、好きだから」

「ああ、納得だわ。カンナにお似合いの部活動ね。それと自然が好き?」

「海も山もみんな好き」カンナは、「クスッ」と、笑った。

 教室にいる生徒が徐々に減って来た。カンナも立ち上がると鞄を肩に掛けて久美に質問した。

「久美はどの部活動に所属しているの?」

「私はバレー部。だって顧問がカッコいいもの」久美は雑誌を鞄へ仕舞うとファスナーを静かに閉じて微笑んだ。

「久美はイケメンが好きなのね」

「一理ある、かな……。ねえカンナ。多智花に、「バシッ」て、当てた剣裁きならずモップ裁き。どこで習ったの?」

「あれは居合道よ。中学の時に習ってたの」

「でも高校の居合道部に入部しなかったんだ。カンナって不思議だわ」

「そうかな。でもそうかも……」カンナはほんのり頬を赤らめた。

「では、部活動へ行きましょう!」久美が荷物を持って振り向いた時である。カンナのすぐ後ろに男子が立っていた。それまで笑顔だった久美が急に青い顔になり黙った。

「どうしたの?」カンナは久美の表情の変化に懸念を抱いた。久美は瞬きをせず化け物を見るように目を開いたままだ。妙に気になったカンナはゆっくり久美の視線の先を見たけれど、多智花が立っていたたけである。モップで叩かれたからきっと文句を言いに来たのだろう。カンナは焦らず慌てずじっと多智花を見つめた。

 多智花はどうしたことか黙ったままだ。それは時計の秒針が繰り返し同じところを打っているように進みそうで進まない。しかしながら多智花の頬の色が微妙に赤くなり遂に彼の片手がひょいとカンナの胸の辺りへ差し出された。 

 大きな手は上向きに少し曲がり、それはまさに大福を掌に一個載せたような程よい恰好である。また爪は指先に沿って卒なく切られ意外と小奇麗だったものの感心している場合でない。多智花は声を荒げ二人に圧力をかけるに相違ないと久美は予想した。ところが今の彼は単に多智花と思えない態度だけに唖然とした。圧力どころか妙に謙遜している。差し出した手はどんな意味を持っているのか。恰も小さな子供が物をねだる仕草で、「ちょうだいな」と、言わんばかりだ。

 久美は何気にくっきりした多智花の手相に目を奪われた。

「俺のスーパーボール返して欲しいんだ」多智花は心でカンナへ呟くも顔は明後日の方を向いていたが、カンナは暫くその手を眺めると昔を懐古した。そして、「クスッ」て、笑うとこう言った。

「もしかして紙袋に入っていたスーパーボールのことかしら。やっぱり多智花君

のだったのね」すると彼は二回首を縦に振った。

「俺のだ。ちょっと反省してる。バチが当たったんだ。カンナに叩かれたし」

「えっ? あれはバチじゃなくてモップよ」

「おい! 俺を怒らせる気か? いや、その、ごめん……。カンナの背中にスーパーボールを何度も当てたことを謝る。俺にとって大事なものなんだ。だからそれを返して欲しい」

 こんなしどろもどろな多智花は久美の想定外だ。素直に謝るとはどういう風の吹き回しなのか……

 多智花は本当はいい人なのかもしれない。様々な憶測が勝手に浮かぶと今まで杉田ファンだった久美は多智花ファンにたった今変わった。

 それはさて置きカンナは鞄のポケットに手を入れスーパーボールを取り出すと左の掌に載せて、「これですか?」と、質問した。多智花は軽く頷いた。

「多智花君。私もこれと同じ物を持ってるの。ずっと前、お祭りで二つ手に入れたの。それを見ず知らずの男の子に一つあげたわ」そう言うやいなや、

「まさか、カンナが……」

 多智花の表情が急変し彼の心臓が激しく鼓動した。しかしながらカンナはスーパーボールに隠された、遠い記憶の絵巻を広げ愉し気に眺め微笑んでいた。

「あの時、『大切にするから』って、指切りをしたんだけれど。男の子は夜空を眺めていた……」

「それ、俺だよ。カンナは俺の初恋の人だ」多智花は心で囁いたが、どういうわけか、「それマジか?」と、かすりもしないことを呟いた。カンナは真剣な顔で、

「本当の話よ。少なくともスーパーボールを人に当てたりしないかな。懐かしい思い出です」

 カンナは多智花の掌に視線を向けた。それから、「これをお返しします」と、彼の手の真上へ左手を移動しコロンと載せるつもりで掌をゆっくり下へ向けた。カンナの小指は微かだが多智花の曲がった指に触れた。スーパーボールは確かに掌へ載ったはずだったけれど、どういうわけか床へ落下し代わりにカンナの小指と薬指が握られていた。

「ごめんなさい」カンナは落としたスーパーボールを目で追ったが、多智花は自ずと何をしてたか……

 我に返ってカンナの指を放し片手でそれを掴んだ。多智花は、「いいんだ」と、悲し気に呟き、「お、俺、部活動へ行くから」

 慌てて教室を出た多智花にカンナはきょとんとした。


 多智花は茫然としながら階段を下りた。階段がゆらゆら揺れて見えた。なぜならあの時の女の子がカンナだったとは夢にも思わなかったばかりか、十年も心の奥で温めていた恋、初恋という淡い想い出が一瞬でガタガタと崩れたからだ。

「あぁ……。マジかよ。俺は何て言えばいいんだ」

 多智花は踊り場で壁に寄りかかるとガクッとしゃがんだ。彼は酷く落胆した。

 今の多智花は笑いながら目の前を通る生徒も、黙って行く生徒も意味なく過ぎる単なる映像でしかない。そのうえ彼の心は小さなガラス瓶の中で小さい半透明のクラゲがぷかぷかと浮いているようだった。とは言え多智花は壁に背を当て漸く立ち上がると、あやふやな足取りでテニスコートへ向かった。


「へえ。珍しく壁打ちしてるな」

 杉田は偶然野球の球拾いに来たのだけれど、テニスボールを無心で連打していた多智花が妙に思え話し掛けた。すると、「クソッ!」と、杉田に気持ちをぶつけようとしたか、あるいは漂う気持ちを抑制できずふっと言葉にしたか、ポーンと、ボールが弾けてグラウンドの奥へすーっと流れた。

「何かあったのか?」

 杉田はいつもの喧嘩じゃないと直感して尋ねた。

 多智花は顔の汗を腕で拭い、ハアハアと荒い呼吸を少しずつ整えながらこう呟いた。

「俺。大切なものを失ったんだ」

 杉田は何のことかさっぱり分からなかったが、思い当たることが一つだけあった。

「スーパーボールが返って来なかったのか?」杉田は半信半疑で尋ねた。

「それはカンナに謝って返してもらった。ただ……」多智花は急に口を閉じた。吹奏楽部の音階練習が校舎の窓から流れた。一音四泊伸ばすとまた半音上がった。リズムカルな響きなら心地よいけれど、単純な調べは多智花を明るくさせなかった。

「俺さ。酷いことしたんだ……」多智花はしゃがみこんだ。

「どういうことか、話してくれないか?」そう言った時に、「おーい杉田。早く戻ってこい!」遠くで先輩の怒り声がした。

「すみませーん。すぐ戻ります!」杉田は大声で叫んだ。それから、「話の続きはまた後でだ」片手を上げて、グラウンドへ走った。

 多智花はゆっくり立ってラケットを片手に持ったまま、グラウンドへ転がったテニスボールを探しに行った。

 今は暖かい春。けれど彼の心に大きな穴が空きここぞとばかり北風がゴーゴーと吹いた。

 スーパーボールを返してもらった代償が余りに大き過ぎて、こんなことならカンナにあげれば良かったと死ぬほど後悔した。なぜならそれは、「失恋」と、言わざるを得なかったから……


 さて、あれから二カ月経ち明日は錦木高校の文化祭。渡された栞のメッセージから何を得られるのか。しかしながらカンナは栞をもらったあの日以来、彼と逢えてなかった……


           

           

               錦乃祭



「ここは大事なポイントだから、しっかり勉強しておくように。今日はここまで」

 午前最後の授業が終了した。久美は両腕を天井へ引っ張られるように上げると背筋をグイッと伸ばした。

「数日雨が続いたけれど、今日はいい天気ね」

 久美はカンナが席にいると思い込み話し掛けていた。

「ねえ、カンナ。お弁当を外で食べない? って、カンナがいないわ」

 久美は疎らになった生徒からカンナをすぐに見つけた。カンナはお知らせが貼られた壁を見つめ、錦乃祭のポスターを眺めていた。

「カンナ。どうしたの? もしかして錦乃祭に行きたいとか? ああ、練習試合じゃなかったら私も行くのに」久美の人差し指がポスターの文字をちょんと押した。

「そっか。久美は練習試合なのね」カンナはため息をついた。

「なんか、がっかりしている。ところでカンナは誰かと行くの?」

「一人で行くの。それはとても勇気がいるわ」

「ちょっと待って! ひ、ひとりであの学校へ入るつもりなの?」

 久美の目が点になった。

 カンナは美里と錦乃祭へ行く約束だったのだけれど、美里も不意に練習試合が入り一緒に行けなくなった。美里はどちらかと言えば謎の高校生に逢いたいと妙に気が入っていた。それだけに残念がっていたが……

 一方カンナは錦鯉が池の上で力強く跳ねたポスターから一向に目を離さず、掌をそっと鯉の尾びれに当てて無意識に、「待ってる」と、呟いた。

「ふーん。誰を?」久美は思わず問いかけた。

「えっ?」カンナはポスターの鯉が突然池に落ちて、水しぶきが、「バシャッ」と、胸の辺りにかかったような顔をした。

「カンナ、目が丸くなっているわ。それで誰を待ってんの?」

「誰も待ってないの」

「はっ? 意味分かんない。とりあえずお腹空いたわ。お弁当を外で食べましょ!」

 久美はカンナの驚きに驚いたが、かび臭さを飛ばす笑顔で校庭へ誘い階段を下りながら、

「錦木高校へ行ける人を探しましょ。一人で行くのは、孤独すぎるもの」

 久美はクスクスと笑った。


 放課後、杉田が個々に英語のプリントを配布していた。クラスメイトはそれに目を通し、課題の多さに嘆きブツブツ文句を言ってたが、彼はそれらを横目で見ながら一番最後にカンナの席へ持って行き、「ゴホンッ」と、一つ咳払いした。

「カンナ。久美からの依頼でカンナの悩みを解決してほしいと言われたんだが……。最も解決できるか分からないがどんな悩みかな?」

 カンナは杉田の言い方に、「クスッ」と、笑った。

「久美がそんなこと言ったの?」

「まあね。僕も気になったんだな。海好きのカンナが海を見てないからさ」カンナはまた笑った。

「ありがとうございます。実は明日のことなの。錦木高校の文化祭なんだけど、行くべきか悩んでたの」カンナは両手を机の上に合わせ呟いた。

「行けばいいじゃん。だって誰かと一緒だろ?」

「それが、急に親友が練習試合で行けなくなっちゃって」

「なるほどね」杉田は少し屈んでこう言った。

「じゃあ。僕と行く? と言いたいが、実は僕も試合なんだ。あいつなら付き合うんじゃないか?」と言って、指差した方を見れば男子とじゃれて騒いでいた多智花だった。カンナはポカンとした。

「あの……。出来れば男子じゃなくて」

「おい、多智花。明日部活動がなかったよな?」多智花は手を止めて声の方を向くと、

「明日。休みだ。なんか用か?」と、叫んだ。

「えっと。あの。あのあのあのあっ、ちょ、ちょっと待って下さいな」

 カンナは杉田に必死で拒否したつもりだったものの、ほんわかした言い方はぬかに釘だった。

「ちょっと頼みがあるんだ」と、杉田は何気に嬉しそうだった。

「暇じゃない。家の手伝いがある」

 多智花は机の上の携帯を持つとこっちへ歩いた。

「それさ。都合付かないか?」「何でだ?」

「多智花に合わせるからさ。付き合って欲しいんだ」

「杉田君。そんなこと言ってないわ。本当に大丈夫だから」

 カンナは懸命に断ったつもりだけれど全く無視された。

 ところで最近の多智花はカンナを避けていた。多智花はカンナにした酷い行為を自分で責めて苦しんだ。もしあの時の少年が多智花だと知ったなら、カンナは紛れもなく嫌うだろうから。そうなる前に気持ちを整理して暫く距離を置こうと思ったのだけれど、そうは問屋が卸さない。易々と捨てられない恋が心を揺さぶり、今だって出口の分からない迷路に入り右が正しいか左が正しか頭を抱えてうろうろしているように、光と闇の相反する気持ちに挟まれた。しかしながら今し方杉田がカンナの傍へ多智花を引き寄せた。


 あの晩。つまり多智花が無心で壁打ちしてたその日の話。杉田は多智花のことが気になり直接電話をかけた。

「多智花。何があったんだ?」

「俺。約束を破った。そのうえ調子にのって何回もスーパーボールをぶつけた」

「ぶつけた? カンナと何か約束してたのか?」

「そう。してたんだ」

「よくわからないが、それは転校して間もない頃か?」

「もっと昔。俺が小学校一年生の時だ。大事にする約束で、ある女の子からスーパーボールを譲ってもらったんだ」

「それが、どうした?」

「なんていうか、浴衣が似合って眩しくてドキドキして、俺は女の子に一目ぼれしたんだ。初恋さ。ずっと忘れられなかった」

「なうほどな……。まさかと思うがそれがカンナだった、というわけか?」

「杉田。俺さ。好きな子がいるんだ」

「道理で。なんか悩んでる気がしてた。って言うか、それとこれとどう関係があるんだ」

 杉田は足を組み替えた。

「まさかと思うが、それもカンナなのか?」

「図星だ。初恋もそれと今、俺が好きだといった人物は同じだったんだ。おまけに失恋したんだ」

「はっ?」

 杉田は手から携帯が外れ床へ落ちる直前に変てこな格好でそれを受け止めたが、傍に多智花がいたら有無を言わさず爆笑したであろう。ただ、今は違った。

「俺。粗末にしたんだ……」手の先からがっかりした声が響いた。

 多智花は電話の向こうで額に手をやると更に寂しげにこう言った。

「親父が亡くなってさ。大事だったものがどうでもよくなった。だからこの時、初恋相手に巡り合う可能性も無しに変わったんだが、なぜかそれを捨てきれず代わりに煮え切らない気持ちをぶつけた」

 多智花は大きなため息をついた。

「スーパーボールを俺に返しながら、カンナがそれに因んだ当時の思い出をたまたま語ったんだ。俺は青ざめたよ。『それ、俺だよ』って、喉まで声が出掛かったんだが、、『これを譲った男の子は人にぶつけたりしない』って、言われたんだ。だから到底名乗れない。ただ。大事なもの、カンナと巡り合えたチャンスはまだ健在だった……。自分が情けなくて地獄の底へ一気に落ちた。失恋は当然だ」

「なるほどな。しかし……」杉田が呟いた矢先、

「互いに違う小学校だった。受け取るとき、カンナが俺に気付かなかったのが唯一の救いだったけど、もう顔を真面に見れなくなった。俺さ。どうしたらいいんだ」

「なるほど納得だ。しかしそれは正直にカンナへ話すべきだな。だいだいカンナに嫌われたかどうかカンナの口から聞かない限り不確かじゃないか。っと言うか、お前いつからカンナに惚れてたんだよ」

「スーパーボールをぶつけた日からだ。酷く可笑しいだろ?」

 多智花はふっと笑った。

「確かにな。それは可笑しい」杉田にそう言われたけれど多智花は、「怖いな」って、呟いた。「喧嘩より全然怖いな」と、笑った。すると杉田も笑った。


さて、話は元に戻る。

「俺に合わせる? そんな都合いい用事ってなんだよ」

 多智花は机と机の間を縫って最短距離で杉田の傍へ来たのだけれど、カンナへ近付くにつれ多智花の心は薄い氷の壁に覆われた。ほんの少し温かくすれば自然に溶けるはかないものと暗示をかけたものの、多智花は遠慮する気持ちが先立ち無意識にカンナの真後ろへ立っていた。当然カンナから多智花は見えない。

 カンナは目茶目茶焦って、「あ、あの。本当に大丈夫よ」って、杉田の顔を見つめながら必死で伝えたのだけれど、もはや座っていては駄目であろう。カンナは腰を少し浮かせ立とうとした。すると多智花はカンナの机に両手を静かに置いてこう言った。

「分かった。まあ、要件による」

 多智花の心臓は激しく動き振動が両腕まで伝わった。しかしながら可能な限り杉田の目に意識を集中させた。さて、こうなるとカンナは二進も三進もいかない。と言うのも両腕で塞がれたうえに、席を立ったら明らかに多智花の顎へ頭のてっぺんが当たる。すると杉田は多智花の肩をとんとん叩いて、

「明日さ。錦乃祭へ行って欲しいんだ」と、笑顔で頼んだ。

「はっ? 俺が優等生で且つ男子の占める割合が九十五パーセントの学校へ行くっていうのか? 俺さ。全然用ないし」

 多智花はカンナの存在をすっかり忘れ呆れ顔をした。カンナは二人の間でただ小さくなっていた。

「まあ聞けよ。カンナと行って欲しいんだ」

 杉田は真面目に言った。その一言が多智花の心の氷を僅かに溶かしたが一方でカンナはアタフタしていた。多智花は暫く目を閉じ考えた。それから視線を下に向けて、

「制服と私服。どっちで行く?」と、カンナに尋ねたけれど、「制服に決まってる」と、杉田が口を挟んだ。

「やっぱそうか」「当たり前だ」

 多智花の声は相変わらずカンナの頭上から聞こえた。

「あの。本当に一人で大丈夫ですから」

 仕方なしにカンナがゆっくり顔を上げたなら、十センチと離れてない俯いた多智花の瞳と合ってハッと驚き固まった。

 カンナは目を瞬いた。それから口元をきゅっと上げて強張った顔からあるがままのカンナに変えた。

「ねえ、多智花君。顔が近いです。それに赤い顔してますが……。風邪ですか?」

 淡々とした口調で話すカンナに何をそこまで驚くことがあろう。いや不自然さがないから多智花は寧ろ心臓がドキドキしたに違いない。そればかりか真っ赤に熱した鉄板を不意に触れたように、目を丸くし反射的に目に見えない速さで机から両手を離して片足を半歩下げたが、多智花は勝手に動いた体に愕然とした。それに彼の心臓は酷く鼓動し指先までどくどく血液が流れてた。

 杉田は多智花の胸の内を知っていたとは言え、優にぎこちない素振りに、「ぷっ」と、吹き出した。

「多智花。どうかしたか?」

「な、なんでもない。なんでもないんだ……」

 多智花は上げた両手をゆっくり下げて、杉田を見てこう言った。

「待ち合わせ時間と場所を指定して」

「多智花。俺に言ってどうすんだよ。俺は試合で行けない。行くのはカンナだ」

 杉田の瞳は多智花を誘導するようにカンナを見た。

「そうだった。カンナ。その……。携帯番号を。じゃなくて何時にどこで待ち合わせする?」

 多智花にとって決死の覚悟の言葉だった。なぜなら断られるかもしれない恐怖感を背中合わせにしていたからだ。多智花の指が震えた。多智花は辺り一面濃い霧に包まれ底の見えない高い崖から飛び降りた気分だったが、杉田の瞳をじっと見て徐々に心を落ち着かせた。それから重い足を二歩動かしカンナの机の横へ恐々並ぶと、カンナが多智花の方を向いて、

「ありがとう。では十時に錦木高校の校門で会いましょう」と、言った。

 カンナは椅子を下げて立ち上がり、机に掛けた荷物を持つと二人へ丁寧にお辞儀をして静かに教室を出たのだけれど、多智花はカンナの姿が見えなくなるまで目で追っていた。

「多智花。うまくいきそうだな。よかったな」杉田は彼の肩を叩いた。

「俺さ。もしかして嫌われてないかもしれないな」

 多智花は両手を机に載せて酷い緊張感から解放されへなへなと床へしゃがんだが、そんな多智花へ杉田は背を一発叩いて、「まあ。頑張れよ!」と、応援した。


 さて、その翌日。

(喧嘩っ早くて問題を起こす人。でもクラスの人気者。良いのか悪いのか分からないけれど一人で行くべきだったかな……)

 カンナはバスの窓に寄り掛かりそんなことを思った。錦木高校に仲の良い友達はいないし、どこもかしこも男子ばかりだから確かに一人で行きにくい。そう思えば知った人が傍にいるだけで安心なのだけれど、カンナがそもそもここへ来た理由は見ず知らずの彼に、「待ってる」と、言われたこと。かと言って彼に逢えるか確信できないままカンナはバスに乗った。当然多智花に知らせてなかったが本当にこれで良かったのか。

「次は錦木高校前。品揃え豊富な文具店、『ノートブック』へご用の方はこちらでお降り下さい」

 カンナは移り行く景色を眺め、ため息をつくと左手を伸ばしブザーを押そうとした。ところが、「ピンポーン」と、誰か先に押した。気づけばバスの中は中学生や高校生が多く乗車していた。なるほど、カンナと同様に錦乃祭へ行く人達であろう。

 バスを降りて顔を上げるとバス停からおよそ数十秒。ぞろぞろ揃わない行列が錦木高校へ続き、予想通り校門前は人でごった返していた。

 カンナは校門を通り過ぎ敷地を横目で眺めながら少し外れた人の少ないところへ立ったものの、敷地内から伝統校の趣と何とも言えない重圧を感じた。カンナはドキドキした。

 地面には芝生と数本の植木があり、中でもイロハモミジが黄緑の葉を涼しげに広げ、その横に校訓の刻まれた重々しい石碑が置かれていた。

 時刻は間もなく十時。天気は良好で相変わらず人が入る。カンナは俯き加減で立った。

「カンナ!」

 多智花の声がした。カンナは辺りを見回したけれど多智花が見つからない。同じ学校の男子生徒が偶然カンナの横に並んだ。

「カンナ」また呼ばれた。

「俺だよ」

「えっ? 本当に多智花君なの? その髪の毛どうしたの」

 カンナは彼の顔を穴の空くほど覗き込んだ。

「そ、そんなに見るな。恥ずかしいだろ」

 多智花は少し赤面してよそを向いた。

「多智花君。すごく似合ってるわ。昨日までの多智花君もいいけれど、私は今の方が素敵だって思うわ」

 カンナと約束した昨日の放課後。多智花は携帯から行きつけの美容院へ予約を入れ、部活動を早退してまでそこへ駆け込む前代未聞の行動をした。

 多智花は頭髪の色をダークブラウンに変え、ぼさぼさ頭をカットして身なりもきちんとした爽やかな青年へ変身していた。

 今までの恰好ならきっと変な注目を浴びてカンナへ迷惑をかけてしまう。そう考えて多智花は、一言でいうと好きな女の子のために並々ならぬ努力をしたわけである。

「なんか、俺じゃないな」

  多智花は下を向いて呟いたのだけれどカンナは、「クスッ」と、笑った。もし東部学園高校生が彼とすれ違ったなら誰も気付かず通り過ぎるのは火を見るよりも明らかだ。とは言ってもイケメンだから人目を引くのも事実であろう。ただカンナが、「喧嘩っ早い男子高校生なの」と言ったら、誰が信じるだろうか。それ程ギャップがあった。

 カンナは多智花より一歩下がって歩こうとふっと思った。なぜなら平凡なカンナが多智花の横で歩いたなら、人は彼女と勘違いし彼に迷惑をかけてしまう。そう思うと別の意味で歩き難くなった。

「カンナ。急に黙ったけど、どうした?」

「えっ? 何でもないわ。えっと。中へ入りましょう」

 気のせいだろうか。多智花の声まで違う人に思えた。カンナは多智花の後ろをついて行ったが、校内に入ればどっち向いても男子生徒ばかりで異様な雰囲気である。これでは謎の男子生徒を探すどころか数分と耐え忍ぶことが出来なかったであろう。カンナは多智花がいたことに感謝しつつ、すれ違う人、立ち止まっている人を注意深く観察していたのだけれど……

 時に多智花がカンナを気遣い後ろを振り向いてたのに気付かなかった。

 突然多智花が止まってこう言った。

「この学校。男子ばっかで威圧感あるんだけどさ……」それからカンナを見て、

「さっきから気になってんだけど、誰か探してる?」

「えっと。実はそうなの。ある人を探してるの。何も言わなくてごめんなさい」

「いや。いいんだ。友達?」多智花の顔が一瞬曇った。

 錦木高校生三人がカンナとすれ違った。カンナは多智花の質問を考えていたものの、視線は彼らを見ていた。

 カンナはどう答えていいのか言葉に詰まった。すると、

「いらっしゃいませ!」稀な女子の声だ。カンナと多智花は声の方へ顔を向けた。「東部学園高校さん。洋菓子研究同好会です。今ならいろいろなクッキーがそろっていますよ。ハーブティーもあって、たったの二百円です。いかがですか?」

 ハーブティーと聞いてカンナの瞳がきらっと輝いてある思い出が甦った。


 カンナは小学校四年生で祖母からお茶の作法を習い、お茶会に何度か行ったことがある。カンナは抹茶も好きだが寧ろ好んで上品な和菓子を食したのだけれど、だからと言って決して大人びた子どもでなかった。

 カンナの姉もお茶の作法を祖母から習ったが、姉はピアノのレッスンでお茶会に行く機会がなかった。とは言うものの和菓子よりピアノの方が何倍も好きだったからそれでよかったのである。ただ姉も抹茶が好きだった。それとよくローズヒップティーを飲んでいた。カップにティーパックを入れてお湯を注ぐものだった。

 一方カンナは赤いお茶を不思議な顔して眺めるだけで一度も飲んだことがなかった。


「ハーブティー? あの。ローズヒップティーはありますか?」

 カンナはワクワクして尋ねた。

「もちろんです」女子高生ははっきり答えた。

 カンナは綿毛の上にころんと寝転がったように幸せな笑顔をした。多智花はそれを見逃さなかった。

「カンナ。ここへ入ろう」さり気なく呟いた。

「いいの?」

 多智花は黙って頷いたのだけれど、「そんな顔されたらそう言いたくなるよ」と、密かに呟いた。

「お客様です。席を案内してください」

 女子高生に導かれ二人は中へ入った。窓は白いレースのカーテンで覆われ、各々のテーブルにはサーモンピンクのテーブルクロスとフラワーアレンジメントの可愛いバスケットが置かれていた。実に清楚で甘い香りの部屋だった。

「こちらのお席へどうぞ」

 二人は窓側の席へ案内され恋人同士のように向かい合って座ったのだけれど、二人が座ると同時にひっそり席を立った者がいた。その者はこの学校の生徒会役員で巡回しつつカフェへ寄っていたが、勿論、気休めで寄った訳でなく役員用の席が設けられていたうえでのことだった。

 彼は両手を合わせ、「ごちそうさま」と、呟き椅子を中へ仕舞いふっと顔を上げた。彼の瞳に東部学園高校の男女の制服が映り、ほんの僅かだが二人を眺めそれから洋菓子研究同好会のスタッフに、「ありがとう」と、囁いて静かに出口から去った。ただ彼の心は寂しさで震えた。待ち遠しかった春の訪れが、やっと咲いた小さなタンポポが、不意に降った冷たい雪に覆われ全て幻に変わり今にも大切な想いが消えそうだった。

「カンナ。驚いたよ。気持ちを整理するのに時間がかかりそうだ」

 彼は心でカンナへ囁きながら人混みの廊下を歩いていた……


 カフェはカンナと多智花以外にも客はいたものの、鳥の囀りと心地よい水流の調べが部屋を森林の雰囲気に変えて静かなものである。その影響か多智花までひそひそ声に変わり、「カンナ。さっきの話の続きだけどさ……」顔を近付けて囁いた。

「なんて説明したらいいのかしら。友達じゃないの。どちらかと言えば知り合い、かな……」

「かな? 意味分かんないな」多智花は片肘を着いた。

「そうよね。だから私もそれを探しているの」

「はっ?」多智花はますます困惑し眉間に皺を寄せたのだけれど、カンナはただ、「クスッ」と、笑った。

「お待たせいたしました。ローズヒップティーと紅茶とクッキーです」

 花の絵の付いたお洒落な紙コップとセロファンに入ったクッキーを並べた。透明な袋に丸い形のクッキーが五個入っていた。

「カンナは熱いの平気? 俺ちょっと苦手」

 多智花は紙コップを覗きながらカンナへ尋ねた。

「私は大丈夫よ」そう言いつつカンナは初めて味わうローズヒップティーにワクワクした。

「意外と酸っぱいわ。でも美味しい」

 カンナは紙コップを置きながらたった一回瞬きして、「こんな味だったのね」と、満足気な顔をした。すると多智花の心臓にドクンドクンと激しい血の巡りが起こった。咄嗟に胸の振動を抑えようと片手を伸ばし、肩に手を置き指先に力を入れ腕で胸をぎゅーっと押した。多智花の顔色がみるみる赤くなった。

 カンナの黒くて長い睫毛まつげが上下に動く。たったそれだけでどんなに愛おしいか…… 

 それまで調子よく振る舞っていたが急にぎこちなくなった。今の彼は片腕でどうにか気持ちを抑えたのだけれど、いつか抑制出来ない日が来るに違いないと多智花は自身を恐れじっと紅茶を見ていた。

「多智花君。どうしたの? 紅茶が口に合わなかったの?」

「何でもない。大丈夫だ」多智花は俯いたまま答えたが内心、

「カンナが原因なんだよ。俺の気持ちが分かるか?」と、呟いた。すると、

「分かんない」と、カンナは答えた。

 多智花は青白くなった。多智花は心を見透かされたと勘違いした。

「きっと、無理して私に付き合ったのよね。本当は疲れているのにごめんなさい。今だって顔色が酷く悪いわ」

 カンナは責任を感じ両手を合わせ素直に謝った。

 それはさて置きいつの間にか部屋は女子高校生で埋まった。イケメンの多智花へ自然と視線が集まったが、注目は多智花にとって単に邪魔なだけで早くここを離れたかった。それにカンナも謎の高校生と出会うまで結局落ち着かないのである。

「カンナ。ここを出よう」冷めた紅茶を飲み干すと小さい声で囁いた。

「うん。私もそう思ってた」


「一体どこにいるの?」

 カンナは多智花から一歩下がった位置を歩いていた。カンナは瞳を満遍なく動かして、謎の彼を探し続けているとふっと目に留まった部屋があった。部屋の看板に、「錦木高校の歴史」と書かれ、横には謎の彼からもらった栞と偶然同じ絵が飾られていた。

「もしかして、ここにいるのかしら」カンナはその絵に引き寄せられ、「多智花君。待って!」と、彼を呼んだ。多智花が振り向くとカンナは指先で、「ここよ」と、合図して一人でドキドキしながら中へ入った。しかしながらなぜか歩幅が狭まり足が竦んだ。部屋の窓は暗幕で覆われていたものの、室内は蛍光灯で明るかった。入ってすぐ左手に受付があった。

「いらしゃいませ。住所、氏名をお書き下さい」女子生徒に笑顔で声を掛けられた。

「貴重な美人女子だな」

 多智花はロングの黒髪に色白な彼女へボソリ呟きカンナの横へ並んだ。カンナはペンを持って住所を書き始めれば、「高校生は学校名も記入して下さい」と、お願いされた。カンナはさらさらと流れるように記入し多智花へペンを渡した。

「あの。カッコイイ彼ですね」受付の人は恋人と勘違いしてカンナに囁いたのだけれど、カンナは、「いえ。普通です」さらりと返答した。カンナは、「普通に友達です」と言う意味で、言ったつもりだったがそう理解する人はまずいないであろう。受付の人は、「はぁ」と、呟いた。

 カンナは多智花の横顔を眺め、「そうか。カッコイイ人とは、こういう人を言うのね」一人納得していた。

 多智花が高校名まで書き終えると、

「すみません。確認させて下さい。そちらの方は東部学園高校の英賀谷カンナさんで間違いありませんか?」

 突然の質問で二人は顔を見合わせたのだけれど、カンナは何か仕出かしたかと不安を抱いた。

「そんな顔をしなくても大丈夫ですよ」受付の人は、「クスクスッ」と、笑った。

「こちらですが、『カンナさんへ渡して欲しい』って、言われたんです」

 彼女は机の下から茶色の紙袋を出した。カンナはゆっくり自分の鼻を撮んで、「痛い。夢じゃないわ」って、呟いた。

「面白い人ですね。どうぞこれを受け取って下さい」彼女はクスクス笑いながらカンナへ渡した。カンナの瞳は彼女に言われるまま手提げ袋を無心で眺め、ロボットのように両手で受け取った。

「あ、あああの。これを下さった人にお会いしたいのですが」

「えっと。今は留守中です。それに……。生徒会役員だからいつ戻ってくるか分かりません」

「嘘でしょ?」

「本当です……」

「せ、せめてその人の名前を教えて下さいませんか?」カンナはどうしても知りたかった。いや、本当は逢いたかった。その気持ちを彼女へぶつけてみたが容易たやすく跳ね返された。ただ微笑むだけで次の接客に勤しんでいた。

「カンナ。忙しそうだから先へ進もう」紙袋を気にしつつ多智花はカンナの肩を軽く叩いた。

「そうね」心から彼の名前を知りたかったカンナ。深いため息を一つついて、部屋に展示されたモノクロの写真や説明文を読みながら多智花と部屋を出た。

「カンナ。その中、気になるんだけど。何入ってんだ?」多智花が手提げ袋に視線を向けると、

「さあ。何でしょうね」

「ちぇ。教えてくれないんだ」多智花は少し不貞腐れた。しかしながらこの送り主が男子生徒と知ったなら、多智花はどんな渋い顔をしていたか……。知らぬが仏である。そんな多智花であるが、さっきまでカンナの顔を真面に見れなかったのは記憶に新しい。ところが今はどうであろう。以前から慣れ親しんだ友達のような気である。

「ねえ。廊下の窓から外を眺めていいかしら」

「どうぞ。何ならその荷物預かろうか」

「お気遣い有難うございます。大丈夫です」

 カンナは手提げ袋を腕に掛けると窓から景色を眺めた。屋根のない渡り廊下を疎らに人が通る。カンナは前向きに窓側へ寄り掛かり窓のさんに両腕を載せ、更に顎を載せると窓越しに謎の彼を探していた。

 多智花も両腕を組んで壁に寄り掛かり、今し方入った部屋をボーっと眺めていた。

「どこを見ても男ばっか。おれには地獄だ」

 彼が独り言を呟けば、錦木高校の男子生徒四人が右側からその部屋へ入って行ったが、すんなり入らなかった生徒がいた。背の高い凛々しい男子である。彼は不意に立ち止まり多智花をじっと見ていた。

「はっ? こいつ。神田じゃないか……」

 多智花にとって最もやり難い錦木高校テニス部の選手だった。

「何だよ。そんなに俺の姿が変わったかよ。じろじろ見んなよ」

 多智花は心で文句を言った。ただ神田の視線が多智花でなく別の方を向いてたのに何の気なしに気付いた。神田は横向きで暫くカンナを見ていたが静かに部屋へ入った。

「へえ。あいつ女子に興味あるんだ」多智花が呟いた。

「えっ? 女子がどうしたの?」

 外ばかり眺めていたカンナが振り向けば、「いや。こっちの話」多智花は苦笑いした。その途端、多智花の腹の虫が、「グーッ」と、鳴った。

「ところで俺さ。朝ご飯を食べてないんだ。腹減ったんだけど何か食べない?」と、呟いた。カンナは自分のことばかりで、思えば多智花へ何も気遣ってなかった。

「ごめんなさい。帰りますか?」

「帰る? せめてハンバーガーとか食べようよ」多智花はとても楽し気だった。「分かったわ。じゃあ、食べましょ!」カンナが微笑むと多智花は大きな手を出して、「ちょっと嬉しい」と、カンナの頭に載せた。

「あの。馴れ馴れしくないですか?」

 カンナは多智花がこんなに懐っこい人と思わなかった。


「神田君。カンナさんが見えたわ。それで紙袋を渡しましたが、まだその辺にいるんじゃないかしら」彼女は受付帳を開いて彼に見せた。

「多智花 一か……」神田はボソッと呟いた。

「あら。ご存知ですか? モデルさんみたいな人でカンナさんの彼氏かしらね。それと、あなたの名前を聞かれたけど言われた通り答えなかったわ。それで本当に良かったのかしら」

「それでいいんだ」神田は静かに答えた。


 













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