ウエイブ モーション(メモリー)

菊田 禮

第1章 二つの波

             

               スーパーボール


 四月七日。辺り一面咲いてた桜の花が、ほろりほろりと散り始め、高校二年生の新学期が始まった。

 カンナは大学進学を目指すクラスだった。このコースは全部で五クラスあった。クラス編成に意図はあるだろうけれど、中学から進級する度に編成されて少なからず胡散臭うさんくさく思う生徒はいた。カンナはどちらかと言えばワクワクしていた方であった……

 カンナは新しい教室に入り指定された席に鞄を掛けた。幸か不幸かずっと一緒だった親友と別々のクラスになって少し心が萎んでいた。

「もう女神さまはどこへ行ったのよ。でもこの席は抜群にいい」

 カンナの席は窓側だった。窓から青い海が眺められ階も上がってぐっと視界が広がった。そのうえモサモサした大きな植え木がなかったから、まさに特等席と言えた。

「友達と引き換えだったかも……」

 カンナは机に両肘をついて無意識に呟いた。そんなカンナと対照的にクラスの一角がガヤガヤ騒がしい。

「また俺は多智花と一緒かよ」同じクラスだった猪一颯太いのいちそうたがぼやいた。

「はっ? いいじゃねぇか」茶髪の彼の掌に猪一の拳が触れた。

 彼の名は多智花一たちばな はじめと言ったが、俗にいうツッパリ男子だった。

 多智花は昨年父親を亡くし母の実家へ引っ越して来たばかりだが、目立つ頭髪と甘いルックスに自然と女子が群がった。以前在籍していた高校でも同じだった。だから傍へ寄らない女子がいると無性に構いたくなるようだ。つまり一人景色を眺めるカンナへ多智花の視線が止まっていた。


 一時間目は始業式。二時間目は学活……。

 出席番号順に自己紹介が始まると特定の男子に人気が集まった。不必要にあれこれ女子に質問されていたのだけれど、カンナは全く興味がなかった。だからこの時も海を眺めていた。となると多智花にはカンナが妙に憂う乙女に見えたからますますイライラしたのである。

「あいつ。気に入らない」着席した多智花はどうにかしてカンナを振り向かせたかった。

 

 一日の授業が終わり放課後になると生徒は部活動へ移動した。教室は殆ど人がいない。相変わらずカンナは窓から外を眺め、景色の色を楽しんでいた。すると、

「いたっ!」硬くて小さな物がカンナの背に強く当たった。

「コト、ポーンポン……」と、床に数回跳ねる音がしたが、カンナはそれが何なのか音から判断した。

「スーパーボールだわ……」大方男子がキャッチボールでもして遊んでいるのだろうと思っただけで、振り向きもしない。多智花は当然苛立った。

 彼はカンナを目掛けそこそこの力でスーパーボールをほおった。

「いたっ!」

 今度は後頭部に当たりカンナは頭をそっと撫でた。普通なら怒る。でもカンナは振り向かなかった。多智花は意固地になり眉間にしわを一本よせて思い切りカンナの右の肩甲骨けんこうこつに当てた。ちなみに多智花は野球部所属。ピッチャーじゃないけれど球の扱いは素人でもない。もしそこに神がいたのなら即、このように宣告されるであろう。「一生女子に恵まれない罰」

 それはさて置きどんなに優しい仏様でも三度目には怒る。そんなことわざがあったけれど、とうとうカンナは後ろを向いた。ある意味アイドル的存在の多智花はニヤッとした。それから彼はスーパーボールを床と天井に一回ずつ当てると片腕を伸ばしてギュッと掴んだ。そして彼は意地悪くにやけた。

 ところでカンナは女子である。こんな仕打ちをされたら男子だって、「いい加減にしろ」とか、「ふざけるな」って、激怒するだろう。けれどカンナは彼の顔をチラッと見ただけで終わった。

「はぁ? あいつしぶとい……」多智花はにやけた。それでおしまいにすると思いきやカンナが反抗しないから図に乗ってボコボコぶつけ出した。

「おい、多智花。女子に何やってんだよ」トイレから戻りハンカチで手を拭いていた猪一が慌てて止めさせた。

「ふん。あいつ、何も言わないんだぜ。神経あるのかよ」

「待てよ。痛くないわけないだろ。自分がやられたらお前怒るじゃん」同じくトイレに行っていた杉田も口を挟んだ。

「そりゃそうだ。俺はめっちゃ怒る。じゃあ、止める」

「多智花さ、性格変えろよな」猪一に注意されたけれど変わりそうもない。なぜなら彼にその気がないからだ。

 多智花はスーパーボールを床に数回打ち付けた。

 一年生の時に同じクラスだった杉田 こうは正義感の強い生徒で、転校したばかりの彼を何気に面倒見ていた。

 多智花は女子だけでなくいろんな悪戯いたずら頻繁ひんぱんにしていたが、杉田はその度に注意をして問題を大きくさせなかった。そんな彼らなのだけれど杉田は多智花を嫌ってなかったし、多智花も杉田を好いていた。

 杉田 亨。本日学級委員長に任命された。

「多智花。女子に謝って来いよな」

「あの。杉田君。私は気にしてないから」カンナは席を立った。海はキラキラ輝き静かにこっちを眺めていた……

「何でだよ。面倒くさい」多智花はスーパーボールを杉田へふっと投げた。

「当たり前だ。ボコボコぶつけたんだから謝れよ」片手でキャッチした杉田はそう言いながら、ものの見事に彼の額へ、「バシッ」と、命中させた。頗る早い。流石野球部エースだ。ボールは跳ね返り床に当たり、椅子に当たりその行方はカンナの机に掛けてあった紙袋の中へ、「スポッ」と、入った。

「いってーっ! 杉田、力入れ過ぎだ!」

「いや、十分加減した。まあ多智花が女子にやったのより軽いはずだ」

「分かった。謝ればいいんだろ?」彼がそう言った時、カンナが突然席を離れたから彼らは焦った。

「やっちまったな。彼女を相当怒らせた」猪一はカンナの去った方を向いて呟いた。実はカンナはあることを思い出した。それで荷物をガバッと掴み顔色を変えて急ぎ足で教室を去ったものだから、それが怒った態度に見えたのかもしれない。

 およそ三秒の沈黙の後、彼らは顔を見合わせた。不意に、

「嘘だろ。あいつ俺のスーパーボールを盗んだ……」今度は多智花が青くなった。

「おい。盗んだとは言い過ぎだろう」猪一は伸びをしながら自分の席へ向かった。

「返して欲しかったら、謝るんだな」杉田が真剣に呟くと、

「あんなのくれてやればいいじゃん」猪一が荷物を持ちながら笑った。

「それはできない。駄目なんだ」

「へえ。何で?」同時に二人が覗き込むように質問したのだけれど、多智花はただ呆然と立ち竦んでいた。こんな姿は珍しい。どうやら予想外な訳がありそうだ。

「どういう理由があるのか知らないが、とにかく謝るんだ」杉田は言い続けた。

「その前に取り返す」妙に慌てる多智花だ。

「お前さ。何言ってんだ。順番が違うだろ?」杉田が言い終わらないうちに、多智花は荷物を纏めて走った。つまり大急ぎでカンナを探しに行ったわけである。教室に残された二人の責任ではないけれど、猪一も杉田もため息をつきながら多智花とカンナの関係を懸念した。

「さてと。部活動だな」

  彼らも荷物を持ち廊下に出たが、

「あっ、そうだ。多智花が野球部を退部するらしい。で、テニス部に入部すると言ってたが、聞いてるか?」猪一はポケットから携帯を出して今後のスケジュールを確認しながら呟いた。

「決めたか……。あいつは小学校高学年からテニスを始め、中学で活躍して何度も表彰されてたようだ」二人は階段を下りた。

「で、なんで野球部に入部したんだ?」

「親父が野球部だったからだ。本人はその供養だと言っていたが……」

「でもあいつ。レギュラーじゃん。野球うまいじゃん」

 昇降口に大きな靴が二足並んだ。

「猪一知ってるか? あいつは時々テニスの練習をしてた。昼休み時間にテニス部とコートにいた」

「で、そんなに熱心な多智花がなぜ野球でもテニスでもないスーパーボールを追いかけたんだ?」猪一がおどけた顔をした。

「ははははっ。俺に理解できないな」杉田は猪一に軽く手を振ってグラウンドへ向かった。


 あれからカンナは夢中で昇降口へ走った。彼らのお蔭で母に頼まれていたお遣いを思い出せたのである。

「スーパーボール、サンキュー。本当にお団子に見えたから……」ぶつぶつ呟き外の階段をササッと降りて、真っすぐ校門を潜りバス停まで一気に走った。

「お遣い忘れたら大変だったわ。天国の姉が悲しんで夢に出てきそう」

 カンナは口から荒い息を出し、肩で呼吸をしながらバスの時刻を人差し指で追った。

「なんてタイミングがいいの。あと三分でバスが来るわ」

 バス停に誰もいない。カンナは屋根の下のベンチにそっと腰掛けた。荒い呼吸が収まると鞄を左側に置いて深いため息をついた。カンナは少しだけ虚ろになった。


 カンナに姉がいた。彼女は三年前に病気で亡くなったのだけれど、カンナと違って物静かな女性だった。将来音楽大学へ進みたいと言っていた姉は、一日何時間もピアノに情熱を注ぐ人だった。

「お姉ちゃんの指は魔法がかかってるみたい。どうしてこんなに早く動くの?」

「カンナも練習すれば上手になるわ」姉はカンナに優しく囁いた。

「でもね。私の手に魔法はかからないみたいなの。だけど私はみんなと歌を歌いたいから練習するの」

 そう言ったのはカンナが小学校五年生の時。姉に倣ってピアノのレッスンを受けたものの、姉に比べ才能がないのか上達の速度がゆっくりだった。その差は歴然としていた。言い換えればカンナのそれは趣味程度。けれどカンナは満足していた。ただし、「それ」とは、もう一つある。それは姉が生存していたからあったようなもの。だから姉を失って積み木が崩れるようにカンナの小さな夢はガタガタと壊れ、それ以来カンナはピアノの重いふたを決して開けようとしなかった。カンナは姉が大好きだった。

 

 ところで、母に頼まれたお遣いだけれど、店の名前は確か「勘太郎かんたろう」と言った。その名から少なからず和菓子店だと想像できる。

 和菓子はすぐに完売してしまうからカンナのあの慌てぶりが理解できるであろう。

 バスが来た。乗車時間はおよそ十分。

 カンナはバスの窓から景色を眺めた。彼女は小さな山と池の見える「杜若かきつばた公園前」で下車するのだけれど、この辺りの歩道は四角く刈った茶の木が膝の高さで植えてある。そのため一年中緑色だったが、春の公園は多種類の花が彩り白や黄色、黒い蝶が舞った。そればかりか水辺に凛とした大勢の女性が、いろいろな友禅の色留袖いろとめそでを着ているように菖蒲しょうぶが咲き並んだ。その美しさは水に映りほのかに揺れた。カンナは春が大好きだ。

 公園に沿って少しだけ右へ進むと一般的に「なまこ壁」と言われる白と黒の幾何学模様が目に映る。それが知る人ぞ知る、老舗「勘太郎」だった。カンナは降車する直前に足首を回し始め数十メートルの距離をせいぜい走ろうと準備していた。いよいよその時が来た。

 カンナは歩道に足が着くやいなや全力疾走したものの、まさか男子高校生が彼女を、いやスーパーボールを追いかけて降車していたと微塵も思わなかったであろう。彼もまた突っ走った。

 カンナは店の手前で歩幅を緩めた。しかしながらなにも多智花まで速度を落とすことはなかった。喉から手が出るスーパーボールは目前だったはず。それなのに彼はカンナの名を呼べなかったばかりか、ネジの切れた玩具のようにぐぐっと停止し単に目視しただけである。

 カンナは呼吸を整えガラスのドアの前に立った。四角く刈られた街路樹とブレザー姿の女子高校生が絵のように映った。

「あいつ店に入るのか……」多智花の片手が額に掛かり「マジか……」と呟いた。ドアがスーッと開くと、「いらっしゃいませ」物腰柔らかい店員の声がした。

 店に入って左側に坪庭が見えた。小さな和庭がカンナはお気に入りだった。

 カンナが奥へ進むとガラスケースの中に上品な和菓子が歌うように並んでいた。右端から海苔で巻かれた団子やみたらし団子、あん団子。その横にルミカップに入ったふかふかの黄な粉餅と、ぷるんとした水まんじゅう。どれも美味しそうだったがカンナの買うものは最初から決まっていた。カンナはこの時季ならではの桜餡蜜を買いたかったのだけれど残念無念。「あらっ」と、心で叫ぶと人差し指を口へ当てた。実をいえばカンナは四人分欲しかったのであるが一人分足りない……

 さて、その頃多智花は外でそわそわとカンナを待っていた。カンナにスーパーボールを当てたあの嫌らしい態度は一体どこへ消えたのか。その陰すらなかった。

 多智花は鞄を脇に抱えながら今度はカンナのある行動が引っ掛かかった。仮に通行人がいたとしたら彼は全くもって怪しい人と勘違いされたであろう。店の手前を振り子のように往復して酷く落ち着かなかった。それでどうしたか。挙句の果てに店へ入る決心をした。ただ彼はこの店をよく知っていた。それもそのはず、ここは多智花の家だった。

 

 店のすぐ手前に細い砂利道がある。道を辿ると立派な門構えがあった。多智花はその道をあたふたと駆けてガラガラと玄関を開けたが、「ただいま」と、挨拶すらしなかった。不行儀に鞄を抛り無作法に靴を脱ぐ様はすこぶるる酷い。ある意味盗人の方が礼儀正しいかもしれない。それからギシギシと廊下を走り突き当りの扉を思い切り開けて店の裏側へ入ったが、運悪く店専用の草履ぞうりがなかった。多智花はその場で頭を掻きむしり右往左往して靴下のまま店へ飛び込んだ。暖簾のれん一枚を超えると閑静な店内だった。

「すみません」いい塩梅にカンナが店員へ呼びかけた。多智花はなぜか両耳を塞ぎ目を閉じた。

「俺は何をしているんだ?」彼は我に返ったが今度は騒ぐ心臓を拳で押さえカンナの様子を窺った。

桜餡蜜さくらあんみつを三つ。抹茶餡蜜まっちゃあんみつを一つ下さい」穏やかな声は多智花の心を半分射抜いた。

「あいつ桜餡蜜、買ったのか……」

 多智花は祖父に言われ桜色の寒天作りを毎朝手伝っていた。

 彼は無心になるこの時間が意外と好きだったが、和菓子店はどちらかと言えば若い女性と無縁だと思っていた。店を訪れる客の層は大体決まっていて、高校生が来店するのは珍しい。つまり地味な和菓子を茶道部以外の高校生が買いに来るとは考がえもしなかった。

 多智花は店まで来た経緯いきさつをすっかり忘れていた。今は嬉しさと同時にカンナがそれを気に入ったかどうか、寧ろ知りたかった。

「有難うございます。またのご来店お待ちしております」客を送る店員の声がした。

 多智花は暖簾の隙間を僅かに開けて店を出るカンナを愉し気に眺めたが、ふっと経路を逆戻りした。

 多智花はこの時ばかり無造作に脱いだ靴を後悔した。と言うのも焦り過ぎて足と胴体が別の動きをしていた。そのためすんなり靴を履けなくて時間を微妙に失った。

 彼がカンナを見つけた時は丁度バスに乗車したところだった。

「俺のスーパーボールがカンナと行っちまった……」確かに多智花はがっかりしたが、彼の心は満更でもなかったようだ。


              英賀谷カンナ


「次は英賀谷えがたに内科医院前。お降りの方はブザーを押して下さい」バスのアナウンスが流れた。カンナは座席の上のブザーを押して抱えていた鞄を肩に掛けると、和菓子の箱を床と平行にして中身を気遣いながら降りた。バス停からカンナの家までは目と鼻の先。

 英賀谷内科医院の外観は白い壁に青い縁の窓が印象的。まるで異人館を思わせ人目を惹いた。そこの医院長はカンナの伯父でカンナの苗字も同じく英賀谷だった。


「ただいま帰りました」カンナは荷物をそっと玄関に置き靴を脱いできちんと揃えた。どこの誰かと大違いである。

「お帰りなさいませ」お手伝いの真理さんが迎えてくれた。

「母はどこかしら?」

「奥様ならお庭でございます」

「真理さん。有難うございます」

 カンナは和菓子を台所の食卓に置いて階段を上がり自分の部屋へ鞄を置くとすぐに母の元へ駆けた。

「ただいま帰りました。和菓子を買ってきました」

「あら。お帰りなさい」

 母は小さなため息をついた。

「もう少し女らしくなさいな。家の中は静かに歩くのです」

 カンナは他界した姉と違ってちっともおしとやかでない。そのことは母の口癖であったけれど、やはりカンナはカンナだった。とは言うものの高校では可能な限りお淑やかにしていた。

 カンナの祖父は東部学園高校の理事長。しかしながら同居をしていたわけではない。だから殆どの生徒に知られずカンナは平凡に高校生活を送っていた。

「カンナ。仏様にお供えしてくれるかしら?」

 カンナは和菓子箱から桜餡蜜を一つ取り出し仏壇に置いて線香を一本供えた。

「ご先祖さま。お姉さま。桜餡蜜でございます。私がお遣いして勘太郎へ行って参りました。急いで家に戻ったので見ておりませんが、杜若公園はさぞかし花が綺麗に咲いていると思います。春の香りと一緒にどうぞお召し上がり下さい」カンナは静かに両手を合わせた。

 

 カンナは二階の部屋へ戻り制服を脱いだ。それから荷物の整理を始め紙袋をぺしゃんこにした。するとボコッと何か手に触った。カンナは袋に手を入れた。

「スーパーボールだわ。これはあの男子のだわ。えっと名前何だっけ?」

 あら。名前を覚えていないとは。女子に大人気の多智花、アイドル的多智花はカンナにとって、どうやらかなり薄い存在だった。彼は今頃くしゃみをしているかもしれない……

 カンナは何気に親指と人差し指でそれを撮み目の高さにあげて、近付けたり遠ざけたり覗き込んだり、角度を変え目の大きさまで変えてじっと見つめた。

「これ。私のと似ている」カンナは呟きながら机の上の木箱に手を伸ばした。細かい花の模様が一面に彫刻され、いろんな色で着色された鮮やかな木箱はカンナの小学校卒業作品で、箱を開けると蓋に四角い鏡が着いていて右にオルゴール、左にちょっとした空間があり赤い小袋が入っていた。

 カンナは指先でそれを撮んだ。小袋は口を紐でぎゅっと結んであったのだけれど、カンナはそれを緩めるとひっくり返して中身をそっと手の上に載せた。まさしくキラキラしたスーパーボールがコロンと転がったが、小さな球はカンナの大切な思い出の一つだった。

「やっぱり同じね。懐かしいわ。もう何年も見ていなかった。小学生の頃を思い出すわ。そう言えば……。あの時の男の子、どうしてるかな。あの時ぽっきりの意地っ張りの男の子」

 カンナはくすりと笑って手の上のスーパーボールと紙袋に入っていたスーパーボールを机にそっと並べて置いた。

 カンナは人差し指で男子のスーパーボールをちょんと押した。


 そう。これはカンナがまだ小学校一年生で、母と姉と三人でお祭りへ出掛けた時の話。

 カンナは買ったばかりの浴衣を着ていた。白地に淡い色のピンクや黄色。水色の蝶が大きく描かれたものだったけれど、カンナも愛らしい蝶のようにはしゃいだ。

 カンナは人込みを上手く避け姉と手を繋いで歩きつつ、茶色の瞳に映る店を興味深く眺めていた。すると突然カンナが止まった。

「ねえ。これやっていい?」

 カンナの目に留まったのは、水の上をごみごみ流れる多彩なスーパーボールだった。

 カンナは姉の手を放し少し前屈みになって流れに任せたスーパーボールを眺めた。黒髪に映える金細工の蝶のかんざし。羽の下には二本のチェーンが垂れ、紅玉こうぎょくと鈴が各々に施されていた。鈴が「ちりん」と心地よく鳴って揺れた。それからカンナは、「あれがいい」と言って、しゃがんだ。カンナの視線は透明できらきらしたラメ入りのボールを追っていた。

「カンナは確か、金魚が欲しかったのよね?」姉が「クスッ」と笑った。

「金魚も欲しいけど……。これも欲しいの」

「ねえ、カンナ。お祭りの約束を覚えてる?」姉がカンナの横で優しく尋ねた。

「うん。買うのは一つだけって約束。ちゃんと覚えてる」

「じゃあ、どちらにするの?」母と姉は微笑んだ。すると紅玉がゆったり揺れた。

「あのね。これにするの」カンナはあっけらかんと返事した。

「あの、きらきらしたのを取るの」カンナはワクワクしてサングラスをかけ箱に座った男の人にこう言った。

「おじさん。すくうの下さいな」母からお金をもらうとカンナはそれを渡したのだけれど、黒く焼けた毛深い男の腕にカンナは一見釘付けされた。母と姉は顔を見合わせ笑いを堪えた。なぜなら、「おじさんの手、熊みたい」と、呟いたからだ。男はサングラスを外し、

「おじさんじゃない。おにいさんだっ! まだ二十歳なんだ」ほんの少し憤ったがカンナの可愛い顔に負けた。するとカンナは首を傾げ、

「だって、学校の制服着てないもの。だからもう、おじさんよ」

 どうやら高校生までがカンナの言うお兄さんの認識であり対象だった。それからカンナは袖を捲って掬う構えをした。

「来るかな、来るかな、今かな、今かな」

 カンナは目が回りそうになりつつも、その瞬間を逃さなかった。「ここよ!」カンナは旨い具合にきらきらボールを一つ掬った。男は目を丸くし、「ほーっ」と、呟いた。

「あと一個欲しいな……」

 慎重に慎重にまた一つ掬い上げた。まだ紙は破けてなかったが次は掬えないだろう。カンナは思った。そして、「おじさん、これでおしまいにする」と、男に渡すと、彼は苦笑いしながらビニール袋へ入れた。それから紐で閉じ黙ったままカンナへ返した。カンナは夜空へ持ち上げて、「わぁーっ」と、感激した。ところが袋の向こうに歪んだ顔が見えた。「あれ?」カンナが横から顔を出すと知らない男の子が袋を覗き込んでいた。

 カンナと同じくらいの年齢だろうか……

「いいな。いいな」男の子がしげしげ眺めていた。驚いたカンナは思わず袋を後ろへ隠した。

「これは、私のよ」カンナは威張った。

「だって。俺もそれ狙ってたんだ」

 男の子の瞳は羨ましそうにカンナを見つめた。

「だって。それ欲しい」

「あげないもん」カンナは外方そっぽを向いた。

 ワサワサした人通りに、「カラン、コロン」と、下駄が鳴った。相変わらず男の子は微動だにせずカンナを熟視した。カンナの頬が膨れた。

「これ。私のだから」カンナは小声で呟いた。すると優しい姉が屈んで囁いた。

「ねえ、カンナ。それ一つ差し上げて。きっとカンナと同じ気持ちよ」

「嫌よ」カンナは後ろへ一歩下がった。「カンナ……」姉は悲しい顔をした。そしてもう一度、「差し上げて」と、言った。

 カンナは心底あげたくなかった。しかしながら姉に諭され渋々袋から一つスーパーボールを出した。男の子は胸のもやもやがすっ飛んでピョンと跳ねた。嬉しそうに小躍りする男の子にカンナはため息をつき暫く眺めていたが、「いいわ」遂にあげる決心をした。

「これ。あなたにあげる。でもね、絶対大切にするって約束して。そうじゃなかったら嫌よ」

「うん。約束する。大切にするから」男の子はせかせかした。

「それ、本当なの? じゃあ指切りげんまんよ」

 カンナは小指を前に差し出したけれど、どういう訳か彼は黙ってしまい一向に指を出さなかった。

「どうしたの?」カンナが尋ねると、

「そんなの。恥ずかしいじゃん」男の子の顔がほんのり赤くなった。

「約束できないなら、あげないわ」カンナが潔く言えば、「分かったよ」俯きながら男の子は態とぶっきら棒に小指を出した。小指の先が微かにカンナの指に触れた。それから小指と小指を絡み合わせ、

「指切りげんまん嘘ついたら針千本飲ます……」二人で歌った。男の子の胸は酷くドキドキして絡んだ小指を茫然と眺めた。

「ねえ。指を離していい?」淡々とカンナは尋ねた。それから三本の指でスーパーボールを撮むと、男の子の手のひらにコロンと載せた。

「あーあっ。せっかく掬ったのに。でも約束だから」カンナは名残惜しそうにそれを見つめた。一方男の子は緊張のあまり明後日の方を向いて、「あああ、ありがとう」と、言った。

「私、空にいないわ。へんなの……」カンナは「クスッ」と笑った。

 あれから10年経ったけれど、男の子は今、どこで何をしているのかしら……。そんなことを思い浮かべながらカンナはスーパーボールを鞄へ仕舞いさっと、階段を下りて台所へ行った。母が丁度お茶を入れていた。

「カンナは、抹茶餡蜜も買ったのね」

「だって桜餡蜜が三つしかなかったの。それに……。買って下さいって書いてあったわ」

「ほんとかしら」

 母は微笑みながらカンナの席に番茶と桜餡蜜を置いた。

「カンナはこれが食べたかったのでしょ?」

 母の席には抹茶餡蜜が置かれていた。「まあね」カンナは微笑んで湯呑を両手で持った。

「あら。茶柱がたっているわ。何かいいことありそう……」カンナは湯呑を口に当てゆっくり茶の香りを味わった。

        

 

               錦木にしきぎ高校生


 翌朝。カンナの利用してる路線バスは珍しく混んでいた。と言ってもカンナが乗車する時間はそこそこ混み、席に座れないのが常であるがどういうわけかこの日は特にいっぱいで奥側へ進めなかった。しかしながらバス停ごとにお客が乗車する。カンナは、「どうか酸素欠乏症になりませんように」と、願った。

 カンナは僅かながら奥へ詰めて立ち乗りした。そして傍の座席に手を掛けたのだけれど、平然と本を読む男子高校生にハッと視線が向いた。カンナは彼の集中力に感心したばかりか不思議と見とれた。そんな時、「カンナ」って、小さな声で呼ばれた。人込みで気付かなかったが一年生の時、同じクラスだった親友、美里がカンナの隣に立っていた。

「あっ、おはよう。自転車で登校しなかったの?」カンナは小声で囁いた。

「そうなのよ。実はパンクしちゃってさ。ねえ、いつもこんなに混んでるの?」

「そこそこね。でも、今日は特別に混んでるの」

「そっか。ああ。運が悪かったわ」美里は少々落胆した。

 バスは進んだり停まったりを繰り返していたが遂に赤信号で停車した。

「ねえ。カンナのクラスにモテモテ男子がいるでしょ?」

「モテモテ?」カンナは一瞬考えた。

「あっ。もしかして仰々しい人のこと?」カンナは「クスッ」と笑った。

 バスのエンジンが吹いて発進した。

「仰々しいって……?」美里はとぼけたカンナに釣られて思わずクスクス笑ったのだけれど……

 唐突にバスが右折して、「おっととととととっ!」カンナはバランスを崩し、肩に掛けていた鞄を読書中の男子高校生の頭へ見事に、「ガツンッ」と、ぶつけた。そのせいで文庫本が足元へ落下した。慌てたカンナは本を拾おうと体を屈めかけたのだけれど一難去ってまた一難。今度は急にバスが停まったから彼の膝上に上半身ごと乗っかった。まさにズリこけた。

「いてっ!」

「えっ、うそ?……」

 カンナは直ぐに起き上がろうとしたのだけれど、揺れ動くバスにどうにも力が入らなかったばかりか悪いことに体重が片側へズルッと寄った。男子高校生の両腕は鋭敏に反応しカンナを両手で押さえた。お蔭でカンナは前の座席の間に挟まらずに済んだものの彼の胸がカンナの背にピタッとくっついた。つまり男子高校生の両腕がカンナを守った結果そうなった。彼の反射神経は大したものだった。

「あの。体が熱いわ。いえ、ありがとうございます」カンナはうつ伏せのまま呟いた。

「参ったな……」カンナを押さえながら男子高校生の小さな声が漏れた。

 美里はどうにか笑いを堪えカンナを起こしたがやはり限界だった。

「だ、だ、大丈夫なの?」美里の目と声は明らかに笑っていた。

「どうしよう……」珍しくカンナが困惑した。美里は笑いながらこう言った。

「それはですね。謝るしかないわよ」

「ですね。その、えっと……。二度も失礼なことしてごめんなさい」カンナは汗顔の至りだった。実に小さくなって座席の陰に隠れたかったけれど、何はともあれ落とした本を拾って男子高校生へ謝った。彼は何事も無かったように平然と続きから読み始めた。この時カンナは相当気分を害したに違いないと思った……

「そうだった。美里。助けてくれてありがとう」カンナは感謝した。

「どういたしまして。でもね、面白いもの見せてもらったから」美里は、「クスクスッ」と笑い、更にこう言った。

「もう一回くるわよ。だって二度あることは三度あるって言うじゃない? ほらほら、カンナーっ、覚悟~!」

 美里がちょっと力入れて脅したせいか、それとも声が少し大きかったせいか男子高校生が「ハッ」とした顔でカンナを見つめた。

「ああ……。今のはちょっと言いすぎちゃったわ」美里は焦って訂正したのだけれど、どういうことかカンナは男子高校生に穴の空くほど見つめられた。きっとこの上なく怒らせたに違いないとカンナはあたふたしたが、どうも男子高校生の様子が変だった。挙句に、

「あんた。カンナって名前なのか?」と、質問された。

「えっ? そうですが……」カンナは瞬きを忘れ彼を見つめた。

「私の名前がどうかしたのですか?」と、尋ねるつもりが余りにまじまじ見つめられていたから、「そんなに見ないで下さいな」カンナはとらえどころなく俯いた。

 男子高校生は穏やかにこう言った。

「まるで花のようだ」

「花? えっと、鼻?」雲をつかむような言葉にカンナは目を丸くした。しかしながら器用に人差し指で鼻先を指し別の手は花をかたどった。どちらにしても間違ってない。

「そう。こっち」彼は指が疎らになった方を指した。

「ところで君の、カンナの誕生日はいつ?」混雑したバスのはずがカンナは男子高校生と二人で一空間にいる錯覚を起こした……

 カンナの記憶が蘇る。そこは真夏の海。子供がわさわ騒ぐ声がする。

「私の誕生日は7月なの」小学校五年生のカンナが出会ったばかりの男の子に楽し気に答えている姿……


 男子高校生は鞄のポケットへ本を仕舞った。

「会ったばかりなのにいろいろ聞き過ぎた。驚かせてごめん」

「会ったばかりなのに……」カンナは無意識に鸚鵡おうむ返しした。

 男子高校生は茫然とするカンナから目を離してため息をついた。彼は凛々しい青年でまた学ランが良く似合っていた。ちなみに制服のポケットに学年を表す四角い赤色のバッチがついていたが、色からして男子高校生は一年生である。緑色が二年生、青色が三年生といった具合に錦木高校は決まっていた。

「夏になると家の庭に赤い花が咲く。カンナという花だ。僕はその花を気に入っている」それはカンナへ何かしらの思いを込めて伝えたかった言葉だろうか。しかしながら独り言にも思えた。

「次は東部学園高校前……」

 バスのアナウンスが流れ、ぼーっとしたカンナに美里がトンと押した。

「カンナ。学校だよ。ではイケメンさん。御機嫌よう!」

 カンナの代わりに美里が笑顔で挨拶をした。


 校門を通り抜けると左右に桜の木が連なる。生徒達はそれぞれの思いで薄桃色の花弁絨毯を歩いていた。

「ああ、ビックリした! カンナったらめっちゃ笑えるわ。隣の人がさ、声を殺して笑っていたの。知ってた?」美里は爆笑である。

「そ、そうだったの?」カンナは頬を赤らめ恥ずかしさで俯いた。

「そうよ。それでさ。あのイケメンさんは憧れの錦木高校生よね。とっても素敵な人だった。こうなったら彼とお友達にならなくっちゃ!」

「そんなの無理よ。とても恥ずかしくて……。声を掛けられないわ」

 春の風に煽られ二人へ花弁が雪のようにひらひら舞った。

「いいな。いいな。私もバス通学に変更しようかしら」美里はワクワクしながら空を見上げて楽し気に笑ったけれど、カンナは反対だった。寧ろバス登校し難くなっていた。「明日からどうしようか……」新たな悩みが出来た。そんな繊細な感覚をまるで察しない美里は、

「カンナ。またね」気分爽快に手を振り昇降口で別れた。「うん」カンナも軽く頷き手を振った。

「エリートの錦木高校生だった……。明日は彼に会いませんように。でも『カンナ』の花を気に入ってる人。会ってもいいかな……」カンナは小さな葛藤を胸に秘めて靴を脱いだ。それから靴箱へ仕舞ったが一連の行動がぎこちなかった。妙な行動を眺めつつ同じタイミングで靴を入れたクラスメイトがいた。

 カンナは、「お早うございます」と、チラッと顔を見て淡々と通り過ぎた。

「おはよう」男子生徒はカンナの姿を目で追いながら呟いたものの、素っ気ない態度が気に障った。カンナが階段を上ると間もなく、「おいっ!」と、呼んだ。決して小さくなかった彼の声だったけれど、カンナは気付かずそのまま三階まで駆け上がった。

「マジか。この俺が無視された……」


「多智花、お早う」後ろから杉田が肩を叩いた。

「昨日。あの後スーパーボールを追いかけて返してもらったんだろ?」当然彼の手元にあると思って尋ねた。

「いや。まだなんだ」覇気がない返事だった。

「はっ? 今ここにカンナがいたよな。で、何も言わなかったのか?」

「うるさいな。これから、なんだよ」多智花が急に不貞腐れた。

「ふーん。そうか。既に多智花の手の中だと思ってたが」杉田は多智花の意外な一面を見た気がした。

「何だよ。何か顔に付いてんのか?」

「いや。喧嘩っ早くて女子にモテるお前がさ、苦手なことあんだな」

「うるさいな。そんなんじゃない。杉田はうるさすぎだ」文句だけ言い残してその場を振り切るように階段を駆け上がった。

「なぜイラついたんだ? 振り向かせたかったから、なのか。カンナを近くで見たら意外と可愛かったから、なのか……」多智花は妙な気分になった。

 確かに杉田の憶測は一理あった。今はカンナに調子を狂わされ自身の思う通りに事が進まなかった。多智花はぎゅっと拳を握った。

 多智花が教室へ入ると、カンナは鞄を机に掛けて窓辺で海を眺めていた。彼の不思議な気持ちときつく握られた拳が自然と解け視線はひたすらカンナへ向いた。


「わぁ。今日は一段と綺麗だわ」カンナの呟きが何気に多智花の耳に聞こえたが、知らないふりして鞄を机にドサッと置いた。とは言うものの多智花は今度こそ名前を呼ぼうと意を決して大きく息を吸った。ところが、「カンナ!」って、誰かに先を越されたから大変だ。彼はいきなり平手打ちを食らった思いだ。そして、「くそっ」と、腹で呟き鞄のファスナーを思い切り開けた。

 カンナを呼んだのは美里だった。教室の後方で手を振っていた。

「借りていた漫画本を教室まで持ってきちゃってさ」手提げ袋をカンナに渡しながら室内をじっと眺めた。

「ほら。噂の多智花君がいた」美里は笑いながら両肩をクッと上げた。

「ねえカンナ。バスで会った錦木高校生は赤いバッチを着けていたわ。彼は二年生ね。私たちと同じ学年だわ」

「えっ? 赤いバッチは確か一年生でしょ?」カンナは首を傾げつつ不思議と頬が赤らんでいた。

「カンナは知らないの? 錦木高校は始業式の日に新しい学年バッチをもらうのよ。それで今日がその日だった」

「知らなかったわ」美里はニヤッと笑った。

「同年齢ね、カンナ。もしまた会ったら今度は名前とか、電話番号とか聞いてみたら?」

「それは無理よ。とても聞けない」カンナが困った顔をした。しかしながら、

「カンナにお似合いの人と思ったわ。じゃあ頑張ってね!」美里はあっけらかんと行ってしまった。

 カンナは「CAT」という雑貨店名が明記された紙袋を握り、ロッカーに沿ってざわざわした教室を歩いた。窓から春風が流れカンナの前髪に触るとふわっと揺れた。カンナの瞳に青い海が映っていた。しかしながらカンナの心はそこになくて、数十分前のバスのことを回想し凛とした錦木高校生を思い出していた。

「私より何倍も落ち着いてた人なのに、同年齢なのね」

 カンナは彼の冷静な態度に感心したがそれとは別に掴めそうで掴めない何かを思った。それは流星のように儚いものだったが、カンナの心を知らず知らず旋回しもう一度輝きたいと発している……

 

 ところで杉田は友達と会っていたカンナに注目した。そしてちらちら眺める多智花へさり気なく問いかけた。

「それほど大事なスーパーボールなら、ちゃんと返してもらえよ」

 杉田の両手が机の角に掛かると腕をぐっと伸ばし体重を前に掛けた。

「大事なスーパーボール、なんだろ?」杉田はもう一度多智花へ尋ねたのだけれど、カンナしか多智花は眼中になかった。杉田はため息をついた。念を押したつもりが暖簾に腕押しで多智花の気持ちが空気のように見えない。

「どういうことだ?」と、杉田は猪一に視線を送ったが猪一も、「さっぱり分からない」と、首を横に振った。結局のところ多智花はその日カンナへ何も話し掛けなかった。杉田と猪一は昨日と打って変わったカンナへの態度に首をひねり不確実の答えがどこにあるのか突き止めたかった。多智花なら女子から物を取り戻すなど容易である。それなのになぜ躊躇したか。カンナに弱みでも握られたか……。あれこれ模索したがどれも適合しなかった。

 最終的に二人は妖怪変化にでもあったのだろうと思うことにして、案ずるより寧ろこのことが可笑しかった。

 

 さて、放課後。カンナは華道部に所属していたが、この日はこれといった主な活動がなく予定より早く終了した。

 カンナが薄ら赤い空を眺めながら呑気にバス停へ向かうと、丁度いい具合に向こうからバスが見えた。カンナは反応よく軽快に走り出しバスへ手を振り難なく乗ると、鞄のポケットから定期を出した。息は少し荒いがそれも苦にならず心は笑って、「セーフ!」と、呟いた。

 カンナは空いた席を見つけた。定期を片手に持ったまま腰掛けようとしたのだけれど、ふっと足が止まった。なぜなら見覚えある制服と文庫本が目に入ったから。カンナはまさかと思い凛としたその横顔をじっと見つめた。流石に人の気配を感じたか、男子高校生は本を読んたまま少し窓側へ寄った。残念ながらカンナと気付いてないようだ。

「どうしよう……。あの、こんにちは。かな」カンナの心臓は急にドキドキした。カンナは静かに腰掛け足の上に鞄と「CAT」と書かれた紙袋を載せるとバスが発進した。カンナは荷物の上にうつ伏さったが、彼に話し掛けるべきかどうかと、シーソーのように気持ちが揺らいだ。

「次は英賀谷内科医院前……」アナウンスが流れた。カンナはガバッと頭を持ち上げ、「降りまーす」と、心で叫んで降車ボタンを押そうとした。ところがこの位置から手が届かず、左手を出したり引っ込めたりした。すると錦木高校生の腕が伸びて親切にボタンを押してくれた。

「あの。ありがとうございます」カンナはやっと声を出せた。それから彼に向って頭を下げゆっくり顔を上げると、錦木高校生は本に挟んであった栞をカンナへ渡してこう言った。

「会った時に渡そうと思っていた。僕のメッセージだ」

 カンナは突然のことに驚き一瞬降りるのを忘れた。運転手さんが、

「お客さん降りますか?」と、声を出した。

「はい。すみません。すぐ降ります!」

 彼を見ながらはっきり返事をしたけれど、不意にカンナの手をぎゅっと握って、

「カンナ、きっとそうだ。待っているから」意味不明なことを囁かれた。

 焦る気持ちで席を立ったカンナは、まるで透明人間に背中をポンッと押されたように開いたドアから外へ飛び出した。心臓の鼓動が想像以上に激しく思わず胸を押さえるやいなや、「プシュー」と、ドアが閉まったのだけれど何を思ったか、カンナはくるりと向きを変えバス特融の臭いを鼻に嗅いで大きなタイヤを眺めた。カンナは不意に呼吸をとめた。

 オレンジ色のバスがゆっくり左へ移動するとカンナは我にもなく顔を上げた。錦木高校生が丁度斜め上の窓に肘をかけカンナを見つめていた。カンナは赤面した。なぜなら彼が微笑んだから。

「どうしよう。とてもバス通学できない、かも……」カンナの心臓は益々バクバクした。

 カンナは去り行くバスの後ろを暫く眺めていたのだけれど、「一日に二度も会うなんて思わないわ」と、嬉しいような恥ずかしいような気持ちを抱きつつ紙袋を握り直して歩いた。それから名前も知らない錦木高校生から手渡された栞へ視線を向けた。よくある細長い栞だったが下の方に「永野みすず美術館」と印字されたものは決してそこらにない。明らかに美術館で購入された商品。栞には「ソライロアサガオと子ども」の絵が描かれていた。帽子を被った男の子としゃがんだ女の子が青い朝顔を眺めている、柔らかいタッチの水彩画だった。

「この絵。見覚えがあるわ。どこで見たのかな……」

 カンナが栞を裏返すと緑色のクリップに折りたたんだメモ用紙が挟まれていた。カンナはまるでラブレターを覗くようにドキドキした。

 指先で恐々開くと、「カンナへ。六月二十四日の土曜日、『錦乃祭』で待っている」と、書かれてあった。

「待っている……?」

 カンナは胸から心臓が飛び出しそうになり顔が火照った。寄りに寄って今日会ったばかりの錦木高校生からこんなメッセージを受け取り、天にも昇る気持ちにならないわけがない。しかしながら何度メモを読んでも書かれた文字はそれだけである。そう、それだけしかなかった。カンナは一体どうやって彼と会えばいいのか首悩んだ。なぜなら錦木高校生の名前も連絡先や場所も、時間さえ書かれていなかった。おまけに整った綺麗な字で書かれ慌てたようすが見受けられないから意図的だと思った。普通なら途方にくれるだろう。

 漠然とした内容がカンナに新たな謎を生んだものの、カンナは一つひとつ宝物を見つけるような好奇心に駆られ心が妙にワクワクした。

「明日、バスで会ったら聞いてみよう」

 カンナは鞄のポケットへ栞を入れて楽し気に家へ向かった。











 

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