拾弐の章 結界崩壊
小野宗家の裏手にある黄泉の井戸が鳴動していた。
(早く封を張り直さぬと、黄泉の井戸が……)
楓は、妖気を撒き散らす土御門晴信を気にかけながら、井戸の様子を伺った。
『晴信よ、
建内宿禰の声が言う。すると晴信はニヤリとして、
「只今」
と言い、袂から呪符を取り出す。
「来るか!?」
楓はその呪符をなぎ払うために剣を中段に構えた。
「急急如律令!」
晴信の呪文と共に、青白く光る呪符が宙を舞った。
「え?」
楓は呪符が井戸ではなく、別の方角へと飛翔するのを見て、唖然とした。
『何と!』
建内宿禰の声が叫んだ。晴信の呪符は、建内宿禰の妖気を押し留めていた。
『何を致すのだ、晴信?』
建内宿禰の声が怒りの波動を発する。晴信はフッと笑い、
「もう用済みにございます、建内宿禰様。いや、建内宿禰よ。お前の世は永遠に来ぬ」
『おのれ、我を
建内宿禰の声が次第に弱々しくなる。
「
晴信は更に呪符を投げつけた。先程とは違い、それは赤く輝いている。
『おのれえ!』
建内宿禰の気配は、その声を最後に感じられなくなった。
「……」
楓には訳がわからない。晴信の意図が理解不能だった。
「小野宗家の者よ、これでつまらぬ邪魔者はいなくなった。始めようか?」
晴信は先程以上の邪悪な顔をし、楓を見た。
「晴信殿……」
建内宿禰の気配が消えても尚、晴信から発せられる妖気は衰えていない。
『あの者は、すでに己自身が魔になってしもうた。すでに救う事は叶わぬぞ、楓』
倭の女王が楓に囁いた。楓もその現実をひしひしと感じていた。
(源斎とは違い、建内宿禰に取り込まれはしなかったが、その力を己のものとし、更に妖気を増すとは……)
楓は晴信の底知れぬ能力に戦慄していた。
「何をしている!?」
晴信の怒声が楓の思索を破る。彼が放った呪符が次々に式神に変化し、楓に襲いかかる。
「はあ!」
楓は気を爆発的に高めて輝きを増し、式神を押し戻した。
「てい!」
更に楓は目にも留まらぬ速さで突進し、式神を斬り裂く。
「ならばこれでどうだ!」
晴信が放ったのは、
「たあ!」
楓は飛翔し、五芒星をかわす。五芒星は旋回して再び楓を襲う。
「姫巫女流古神道奥義、神剣乱舞!」
楓の構える剣から剣撃が無数放たれ、五芒星を弾く。しかし五芒星は砕けず、また楓に迫る。
「無駄よ。それはそう簡単には砕けぬ」
晴信はニヤリとした。
「ならば!」
楓は剣撃を止め、五芒星に接近した。
「死ぬるつもりか?」
晴信は楓の行動を嘲笑った。しかし、楓は死ぬつもりなど毛頭ない。
「えい!」
彼女は剣で五芒星の中心を突いた。黄金色のそれがぐにゃりと歪む。
「む?」
晴信の顔色が変わる。楓に突かれた五芒星はびいどろが弾けるように消滅した。
「たあ!」
楓は次々に五芒星を突き、消滅させる。
「おのれ……」
晴信は歯軋りし、楓を睨んだ。
「どのような呪術も、この剣の前には無力。退かれよ、晴信殿」
楓は地面に降り立ち、晴信を見据えた。
「その程度で、この私を追い詰めたと思うな、小娘! 我が怨み、晴らすまでは退かぬ!」
「怨み?」
楓はその言葉に眉をひそめた。
(晴信殿が、小野家を怨んでいる? 妙な……)
「如何なる事ですか、晴信殿?」
楓は剣を下げ、尋ねた。しかし晴信は、
「そのような事、答える義理なし!」
と言うと、袂から呪符の束を取り出した。
「あの
晴信はそう叫ぶと呪符を一斉に投げた。呪符は夜空を舞い、井戸に向かった。
「いけない!」
楓は慌ててそれを止めに走った。
「無駄よ!」
晴信が高笑いをする。無数の呪符は、周囲の結界を突き破りながら、確実に井戸に近づいていた。
「神剣乱舞!」
楓が剣撃を放ち、呪符を斬り裂く。しかし呪符の数は減らない。増殖しているのだ。
『元の呪符を見つけよ、楓』
倭の女王が言った。楓は目を凝らして宙を舞う呪符を見た。しかし動きが目まぐるし過ぎてわからない。
(どうすれば……?)
楓は焦っていた。
『目で見るのではない、楓。感ずるのだ』
倭の女王の声が聞こえた。
「はい」
楓は目を閉じ、飛び交う呪符を感じた。数え切れない程飛び交っている呪符が、目を閉じる事によって次第にその数を減らして行く。
(そうか、その多くが、まやかしであったか!)
そして楓は、ようやく呪符の元を感じた。
「そこ!」
剣撃が、大元の呪符を斬り裂いた。
「ぬう!」
晴信は術が破られたのを知り、驚愕した。
「まだだ!」
それでも尚、彼は止めなかった。呪符が再び宙を舞い、最後の結界を揺るがす。
「お止め下さい、晴信殿!」
もはや晴信が人の世界から離れてしまったのを知りながらも、楓は晴信の心に叫んでいた。
耀斎と亮斎は、途中馬を借り、宗家まで後もう少しのところまで来ていた。
「楓お姉様……」
亮斎は楓の気の乱れを自分の事のように感じていた。
(お姉様にもしもの事があったら……)
そんな嫌な思いを打ち消し、亮斎は手綱を
「楓様」
耀斎は楓を心の底から尊敬しているため、亮斎のように心配はしていない。
(しかし、相手は土御門家。陰陽道の名門。楓様が敗れるとは思わぬが)
もし、美しい楓の顔が傷つくような事があれば、誰が許そうと自分はその者を許さないと思った。
そして、海原を進む蒸気船。その舳先に立つ一人の少年。土御門宗家の跡取りの晴栄である。彼はお供の者達が船内で休んでいる時も、ずっと海を見ていた。
「晴信……」
只祈るしかない今の状況が、何とも歯痒い晴栄である。
(父上、晴信をどうか……)
亡き父晴雄を思う。
「晴信、お前のなそうとしている事は、父上も望んではおらぬぞ」
晴栄は、晴雄が生前、晴信について語っていた事を思い出していた。
「まさかとは思うが……」
それを晴信が聞き知ったとすれば、小野一門に仕掛けた事に合点が行くのだ。
「しかし、それは逆恨みぞ、晴信」
晴栄は拳を握りしめて呟いた。
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