拾参の章 晴信と楓
小野宗家最大の危機。そう言っても過言ではあるまい。宗家の裏手にある「黄泉の井戸」を封じる結界は、まさに全て消滅しようとしていた。稀代の陰陽師、土御門晴信によって。
「晴信殿、そのような事をなせば、如何様な事になるか、わかりませぬか!?」
楓はあらん限りの声で怒鳴った。しかし、すでに魔と化してしまっている晴信には、その悲痛な叫びは届かない。
「わかっておる。小野が滅び、我が土御門家が再び栄華を取り戻す事になる!」
晴信の目は血走っていた。
「させぬ!」
楓は一足飛びに晴信のそばへと近づいた。
「はあ!」
楓は剣ではなく、掌底で晴信を打った。
「ぐう!」
意表を突かれた晴信は後方へ飛び、地面を転がった。
「おのれ……」
口から垂れる血を吐き出し、晴信は楓を睨みつける。
「やはり、どこまでいっても、小野宗家はこの私の邪魔をする存在。お前だけはと思うていたが、それも誤りか」
「え?」
晴信の不思議な言い回しに、楓は疑問を感じた。
(何の事だ?)
楓は眉をひそめた。
「急急如律令!」
晴信はまた呪符を放ち、結界を破ろうとする。
「させぬ!」
楓はその呪符を剣で斬りつける。
「無駄よ。その呪符はすでに結界の中」
晴信は楓の行動を嘲笑った。
「斬れない……」
剣を振るっても、呪符に届かないのに気づいた楓は、焦っていた。
「黄泉の井戸は解放される。小野家が滅ぶは、もう間もなくだ」
「……」
楓にも、ジワジワと結界が破られて行くのがわかった。
(どうすれば?)
楓は思わず耀斎を思い出した。
(耀斎様!)
その楓の心の叫びは、確実に耀斎に届いていた。
「楓様!」
耀斎は馬を蹴り、更に急ぐ。
「耀斎様!」
それを見た亮斎が慌てた。
(お姉様が、耀斎様を呼んだ……。危ういというのか?)
「む?」
蒸気船の甲板で海を眺めていた土御門晴栄は、小野家で起こっている異変を感じていた。
「黄泉への入口が開くというのか? それを晴信がなそうとしているのか?」
晴栄はギュッと右手を握りしめた。
「晴信……」
彼は遥か東にいる晴信に呼びかけた。
黄泉の井戸の結界は、まさに破れようとしていた。楓は井戸から下がった。
「もう少し。もう少しよ!」
晴信が狂喜して、けたたましく笑う。楓はそれを苦々しそうに見ているしかない。
(
彼女は倭の女王に呼びかけた。
『もはや、封は破れる。黄泉の魔物を全て斬り捨てるしかない。気を引き締めよ、楓』
倭の女王の声が言う。
「はい」
楓は大きく頷き、剣を中段に構える。
「はははあ!」
晴信の高笑いと共に、結界が破れた。
「来る!」
楓は更に身構えた。その次の瞬間、黄泉の井戸の蓋が吹き飛び、井戸の底から雄叫びが聞こえて来た。それはあまりにもおぞましい声で、楓は身震いした。
「ぐおお!」
最初に飛び出して来たのは、真っ黒な人型の魔物だった。その魔物は、すぐそばにいた晴信に襲いかかった。
「愚か者め、自分の主もわからぬのか?」
晴信は呪符を放ち、魔物の額に貼った。魔物はそれによって晴信の操り人形となったらしく、楓を睨む。
「行け!」
晴信の命令で、魔物は楓に突進した。
「えい!」
楓はそれを剣撃で吹き飛ばす。晴信は次々に湧き出て来る魔物を呪符で操り、楓に仕掛けた。
「はああ!」
楓は走り出し、襲いかかる魔物を連続して斬り捨てた。
(キリがない!)
一気に片をつけようと考えた楓は、晴信に接近した。
「待っていたよ、出て来るのをな」
晴信はニヤリとして言った。
「何!?」
楓がハッとして足を止めた時は、すでに遅かった。
「ふおお!」
楓の足元から、湧き出すように現れた式神が、彼女に襲い掛かったのだ。
「黄泉の魔物は、囮よ。死ね、宗家の小娘!」
晴信が叫ぶ。
「くう!」
式神の鋭い爪を剣で受け止めた楓だったが、その勢いに押され、後ろに倒れてしまった。
「止めだ、小娘! お前を殺めれば、小野家は滅ぶ!」
更に式神が楓に迫り、馬乗りになった。
「きゃあ!」
爪の攻撃を辛うじてかわした楓だったが、長い髪が幾本も切れ、宙を舞った。
「え?」
楓は、式神が止まってしまったので、不思議に思った。
「ぬ……」
晴信は、式神を退かせた。そして、
「次は許さぬ」
と言うと、姿を消してしまった。
「これは一体……?」
楓は合点がいかなかったが、すぐに気を取り直し、黄泉の井戸から溢れる妖気を封じ、結界を張り直した。
「何故?」
楓は、切られた髪を触った。
(あと一撃入れられれば、私は……。何故退いたのだ?)
晴信の不可思議な行動に、楓はすっかり面食らっていた。
晴信は、式神に乗り、元いた洞窟に向かっていた。
「あの小娘、やはり……」
晴信は楓と過去に会っていた。それが彼を退かせた理由だった。
「楓様!」
「お姉様!」
楓が結界を張り終わり、邸の方に戻って来た時、耀斎と亮斎が駆けて来た。
「耀斎様、亮斎」
楓は驚いたと同時に、自分が耀斎に助けを求めたのが伝わったと思い、嬉しくなった。
「何故、お戻りに?」
照れ臭そうに尋ねる楓に、耀斎も照れ臭そうだ。
「楓様のお声が聞こえました。それで……」
「私もです、お姉様」
亮斎が言う。楓は、自分の気持ちは取り敢えず置き、勝手に戻った二人を諌めようと思ったが、それはできなかった。嬉しさの方が勝ったからである。
「して、土御門晴信は?」
耀斎が周りを見て尋ねる。
「退きました。
「そうですか」
耀斎は、楓が土塗れなのに気づき、
「お怪我はございませぬか、楓様?」
「はい、耀斎様」
見つめ合う二人を、亮斎は見ていられなくなったのか、
「黄泉の井戸が騒がしかった様子でしたが?」
と口を挟んだ。楓はハッとして、
「ええ。私が封を張り直しましたが、まだ安心できません。お二人にも力を貸していただきたい」
「わかりました」
亮斎はサッサと歩き出す。その様子に疑問を感じた耀斎が、
「亮斎様は、何をお怒りなのでしょう?」
と楓に尋ねた。楓は首を傾げて、
「さあ」
と応じた。
「退いたか、晴信」
晴信が小野宗家を去ったのは、晴栄も感じていた。
(そのまま、大人しくしてくれれば……。しかし、もし彼奴の小野家に対する怨みが、彼の一件にあるとすれば、事はそれ程容易くはない)
晴栄はそう思いながら、船内に戻った。
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