肆の章 土御門晴信
土御門晴信は、元々土御門の血筋の者ではない。土御門家の分家の一つが跡継ぎに恵まれなかった折、土御門宗家の当主である晴雄がどこからか連れて来た孤児である。
晴信は自分の名前も知らないような境遇であったが、生まれ持ったその霊力と勘働きの鋭さは、当初は彼との養子縁組に難色を示していた一門の者達を黙らせた。晴雄はその子に晴信と名づけた。
「跡継ぎは晴信を置いて他になし。ご異議ありませぬな?」
晴雄の言葉に反論する者などいなかった。
「もし、宗家に何事かある時は、晴信を迎えるように」
晴雄はそこまで晴信を買っていたのだ。だから晴信は晴雄の期待に応えようと努力した。そしてその期待に立派に応え、晴信は晴雄に絶賛された。
「これで土御門家は未来永劫安泰だ」
晴雄がそう確信した十数年後、明治維新で徳川の世が終わった。
維新政府の隙を突き、自分達の地位の確保に暗躍した晴雄であったが、道半ばで逝ってしまった。晴信は晴雄の死を知り、目の前が真っ暗になった。
「今は晴雄様のご嫡男である晴栄様をお支えするのが我が役目」
晴信は晴雄の忘れ形見である晴栄を何としても守ろうと決意した。
しかし、時代はそれを許さなかった。
晴栄は要職を解かれ、土御門家は政府の中心から遠ざけられてしまった。
晴信は激怒した。千年以上の長き年月、日の本と帝を陰から支えて来た土御門家に、何という仕打ちをするのか?
彼は、土御門家と入れ替るように要職に就いた神職者達を怨んだ。
「土御門家を追い落とした者共は、
晴信の暴走を察知した晴栄は、彼を宗家に呼んだ。
「時の流れに逆らう事はできぬ。滅多な事は致すな、晴信」
晴信は晴栄の心遣いが嬉しかったが、退くつもりはなかった。しかし、当主である晴栄に逆らう態度は取れないので、
「はい」
と答えた。
(宗家にこのようなお言葉を頂くのも、彼奴らのせいだ)
晴信の怒りは冷めるどころか、更に強くなった。
朝になった。耀斎は昨日の楓の言葉が耳から離れず、ほとんど寝られなかった。
「おはようございます」
彼が部屋を出ると、廊下で楓が正座して待っていた。
「お、おはようございます」
耀斎は慌てて正座し、頭を下げた。
「昨夜はゆるりとお休みになれましたか?」
楓が微笑んで尋ねる。耀斎は欠伸を噛み殺して、
「はい、お蔭様で。出雲の家の布団より、こちらの布団の方が相性が良いようです」
「そうでございますか」
楓はにこやかに応じてから、
「朝餉の支度が整っております。どうぞお召し替えなさいませ」
「はい」
楓はお辞儀をしてスッと立ち上がると、廊下を歩いて行った。
(この程度でこれほど難儀するようでは、楓様と添う事などできぬ)
耀斎は自分があまりに情けないのを嘆いた。でもその反面、片恋に終わると諦めていた楓への思いが叶う事を実感し、つい顔がにやけてしまう。
「楓様」
耀斎は誰もいないと思って呟いた。人の気配に驚いて振り返ると、そこには楓の甥の亮斎が立っていた。
「おはようございます、耀斎様」
亮斎は笑いを噛み殺しながら、廊下を歩いて行った。
(聞かれたのか?)
耀斎は顔から火が出る思いがした。
食事をすませた耀斎は、楓が台所から出て来るのを待っていた。
(やはり、土御門家の者の事が気にかかる)
考え事をしている耀斎を楓が先に見つけ、
「
と声をかけて来た。耀斎はハッとして顔を上げ、
「あ、その、昨夜のお話が気になりまして」
「え?」
今度は楓が顔を赤らめた。
「な、何でございますか?」
「部屋でお話致しましょう」
耀斎は歩き出した。
「はい」
楓は後に続いた。
二人は耀斎の部屋に行き、向かい合って座った。
「土御門の者の事なのですが」
耀斎がそう切り出すと、楓はポカンとしてしまった。
「どうなさいましたか、楓様?」
「あ、いえ、別に」
楓は自分の早とちりに気づき、慌てて言い繕った。
(恥ずかしい。このような有様で、出雲に嫁ぐなどできない)
彼女は自分を恥じていた。しかし、耀斎はそれには気づかず、
「昨夜はお心遣いを頂き、お話が途中でしたので、続きをお教え頂けませぬか?」
楓はハッと我に返り、
「承知致しました」
と居ずまいを正す。耀斎も正座し直した。
「土御門晴信と申す人物は朝敵であるとの事です。土御門家が小野家同様、朝廷を陰でお守りしていた事から、朝廷の職に留まりし小野家をとりわけ怨んでいるのでは、とお話を頂きました」
耀斎は呆れていた。あまりにも一方的な逆恨みだからだ。
「小野家は、確かに朝廷をお支え申しておりますが、何の官位も何の職も頂いておる訳ではございませぬ。そのような思い込みだけで怨むとは、何と浅はかな男でしょう」
小野家一門は、朝廷に命じられて朝廷を守っている訳ではない。飛鳥の昔から、誰に言われた訳ではなく、仕えて来ているのだ。怨まれる筋合いではないというのが、耀斎の考えだ。
「そして何より、我らが朝廷に仕え始めしは、土御門家より遥か
耀斎の言う事は至極もっともな事であるのは、楓にもわかる。しかし、逆恨みとはそのような理屈で治まるものではないのだ。この時の楓にも耀斎にも、何故土御門晴信が小野家を怨むのか、はっきりとした理由はわかっていなかった。晴信が小野家を憎しみの対象にしているのは、決して逆恨みからではなかったのだ。
「小野楓。どれほどの術者か、この目で確かめてやろう」
晴信は森を出て、東京を目指していた。
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