弐の章 時代の軋み

 明治の御世。

 

 慶応年間から続いた動乱は終息し、人々はようやく安寧を手に入れ始めていた。

 しかし、誰もがそう感じていた訳ではなかった。徳川の世が長過ぎたのか、それとも新しい御世の訪れが急過ぎたのか。様々な所で、軋みが生じていた。


 平安時代の陰陽師安倍晴明の末裔である土御門家は江戸幕府から正式に陰陽道宗家として認められ、後の日光東照宮建立の際などにしばしば用いられた。そのため、土御門家は断絶していた賀茂氏の分家である幸徳井家を再興させ、二家による諸国の民間陰陽師支配を確立する事ができた。更には「土御門神道」という名で外見上神道形式を採ることで広く知れ渡るようになり、絶頂期を迎える事となる。

 それがやがて純神道論者達の怒りを生む素地となり、徳川幕府が大政奉還によって終焉を迎えた時に大きな揺り戻しを受ける事になったのだ。

 維新政府が動き出した時、土御門家の当主は晴雄であった。彼は混乱に乗じて、陰陽寮への旧幕府天文方接収を要望してこれを叶え、天文観測や地図測量の権限の全てを収用した。

 その後、政府が太陽暦(グレゴリオ暦)の導入を計画している事を知った晴雄は、自分達に有利な太陰太陽暦の維持のため「明治改暦」を強硬に主張したのだが、自らの死去によりこの案は日の目を見なかった。一説には、何者かによる暗殺とも言われている。しかし、真偽の程は定かではない。

 こうして、土御門家の衰退が始まる。そう、純神道論者達の反撃が始まったのだ。

 維新政府では、「西洋的な先進技術の導入を進めるにあたり、陰陽寮が近代科学導入の反対勢力の中心となる畏れが強いので陰陽道を排除すべき」とする西洋文明導入論者の主張に加え、「ご親政を行うためにも、臣下がみかどを差置いて実権を行使する蛮行や帝の行動を指図するような非礼は言語道断であり、日本古来の神道があるにもかかわらず外国由来の技法である陰陽道がまかり通ることなど許しがたい」とする純神道論者や攘夷論者の主張が合流し、陰陽道を排斥する意見が多数を占めた。

 晴雄死去の後に就任した陰陽頭おんみょうのかみ土御門晴栄はまだごく幼少のため、到底老獪な者達と渡り合う事などできなかった。


 更に土御門家に追い討ちをかける事が、明治三年に起こる。

 維新政府は陰陽寮の廃止を強行し、天文・暦算を大学・天文台、または海軍の一部に移管した。旧陰陽頭であった晴栄は大学星学局御用掛に任じられたが、同年末にはこの職を解かれ、天文道・陰陽道・暦道は完全に土御門家の手から奪われる事となった。

 土御門宗家の人々は自家の没落を嘆いたが、相手は維新政府。そしてその更に上には帝がいらっしゃるため、逆らおうなどと思う者はいなかった。

 そんな中、先代の晴雄を神のように崇めていた男が動いた。土御門晴信。江戸初期に宗家から別れた分家の一つの後継者であったが、宗家の没落と共に職を解かれ、政府に怨みを抱いていた。

 彼は、朝廷そのものを怨んではいなかった。彼が怨んだのは、土御門家を追い落とし、復権した他の神職者達だった。

おのが地位のため、我が土御門家をおとしめた罪、必ずや償ってもらう」

 晴信は邸から姿を消し、誰もその消息を知る者はいなくなった。彼が恨みを抱いていると思われた神社の宮司達は、しばらくの間、晴信の復讐を恐れて警戒していたが、一ヶ月、二ヶ月と何も起こらない日が続くうち、

彼奴あやつは野垂れ死んだか?」

と思うようになり、やがて晴信の存在すら忘れてしまった。


 そして、姫巫女流古神道の小野宗家も、ようやく京都から東京に移り、落ち着き始めていた。

 宗家を移す事に関しては、各分家の長老達が激論を交わした。しかし、天皇家が東京におわすのに、それを守護する小野宗家が京都に留まるのは理に適いませぬ、と言う楓の言葉で、宗家の移転は正式に決定した。楓自身、京都を離れるのは嫌だったが、宗家を任された以上、最善の策を講じる必要がある。

「東京に宗家を移して京都に新たな分家を興せば、亮斎と享斎を共に後継者とする事ができる」

 楓は亡き兄の忘れ形見である二人の幼い甥達の将来も考えていたのである。

 そしてもう一つの難題であるそもそも江戸にあった武蔵分家をどうするかも話し合われた。幸いと言っては差支えがあるのだが、武蔵分家は後継者がおらず、仕来りにより、他の分家から養子を迎えるはずだった。そのため、宗家が東京に移るのは、その難題を抱えていた武蔵分家にも渡りに舟だったのだ。使用人達のほとんどはそのまま宗家預かりとなり、希望者は京都分家に行かせた。楓は、事の流れがあまりに順調なので、怖くなったほどだ。

 そんな彼女の元に「土御門晴信には気をつけられたし」という書状が届いた。

 楓は、土御門家が陰陽師の宗家だと知っているくらいで、その内情までは知らなかった。

「どういう事でございましょう?」

 客間で使いの者と面会した楓は、どうにも合点がいかないため、尋ねた。

「土御門晴信は、ご親政に仇名す者にございます。朝敵にございます」

 使いの者の言葉に楓はギクッとした。

「朝敵、でございますか?」

「はい。幕府が倒され、自分達の地位が侵された事を逆恨みしておるのです」

 楓にはその使者の言葉も、晴信の考えもよくわからなかった。

「小野宗家は、帝を守護する家系なれば、尚の事、晴信の恨みを買っておりましょう。お気をつけ下され」

「はい」

 楓は、何も恐れる必要はないと思ったが、自分一人の事ではないので、第一分家の耀斎に文を送り、どうすればいいか尋ねた。

 楓からの文だと大喜びした耀斎であったが、内容を知り、がっかりした。それでも、これは良い機会だと考え、東京に行く事にした。楓も耀斎の来訪を喜んでくれた。しかし、それがまた、晴信を刺激してしまうのである。

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