第17話 轍に咲く花 <3>

 ライゼン戦死の報が衝撃と共に各陣営へ広がった、その翌朝。

 まだ明けたばかりの空は昨日から変わらず分厚い雲に覆われていた。

 猛虎兵団陣営の小さな幕舎から現れた細いシルエットが、薄暗がりの中へと足を踏み出していく。

 柔らかく沈んだブーツ。冷気が脚に伝わり、静かに身体を上ってくる。押し上げられたように喉の奥から温かな息を吐き出して、リリーは冷たく寝静まっている陣中を眺めた。

 何もかもが一色に塗り替えられていた。陽光が弱く篝火もないそれは銀世界と呼ぶにはまだ暗く、ただ灰色が全てを包み込んでしまったようにすら思えた。彼女はもう一度深く息を吐く。もやもやと広がる淡い白を見ながら、この目に映る全てが幻だったならどんなに……と思った。ライゼンの死も、昨日の一戦も、この戦争も、自分がここに来てしまったことも、それ以前の記憶の欠片も全部……いまそこにある光景と共に本当の朝の目覚めへ飲み込まれ、何処か遠い場所の穏やかな寝床で瞼を開けることが出来たなら……。人が人を殺さない、ただそれだけの事が当たり前に続く世界で。

「永遠に続く……平和……」

 誰かに祈るように呟いた空から、再び百万粒の結晶が舞い始めた。


 二日後、断続的に降り続く雪はダナトリア山脈を完全に凍りつかせ、三日前まで多くの血に濡れていた渓谷も今や清廉な純白に染まっていた。

 谷の半ば辺りまでの遺体はあの一戦の直後に運び出した。ダナス兵の亡骸は可能な限り親類縁者の元へ還すが、損傷激しく身元が判らないものとレストリア兵の遺骸は火の熾せる内に荼毘に付した。長時間炎を守って彼らを火葬している時、そしてそれを遂げた後、煙を吸い込んだ空から降ってくるものは誰の目にも雪ではなく灰のように見えてしまった。

 ライゼンの死から四日後、本格的な冬の到来を認め全軍に休戦宣言が出された―――。



 リリーは帰都の準備を終え、愛馬ローザに朝食を与えていた。

 将軍を失った猛虎兵団はどうなるのだろうか……。トッド副官が王都で静養した後に将軍に繰り上がるだろう。そのとき自分はどうすれば良いのだろうか? また戦傷者陣営で救護班として戦を支える? この終わらない戦を……?


「……銀世界に立つ貴女達は本当に美しいですね。まるで雪の精霊のようです……が、少し御顔が優れませんね」

 甘く柔らかい声と共に雪を踏み固める音が近づき、リリーは思考の海から顔を上げた。

「スピナーさん……」

 そこに現れた銀色の騎士。彼は名を呼ばれたことに応えるように優しく微笑む。男とは思えないその美しさと色っぽさにリリーは思わず頬を熱くした。

「ふふ……そうしているとまるっきり乙女ですね。ここが戦場であることを私も忘れてしまいそうです。居残り組の私は気を緩めすぎてはいけないのですが」

 休戦期間は最低限の警戒の為に、主力四軍のうち一軍を月交替でダナス関に置く。今回は最初の10月の護りを銀鳳隊が請け負うことになっていた。

 リリーは「よろしくお願いします」と深く頭を下げる。

「お任せ下さい。それより、貴女もこれから大変でしょう……。ライゼン将軍の殉死は間もなく王に伝わる頃だと思いますが、トッド副官が静養を必要とするいま貴女が御前に立たなければならないでしょう」

 スピナーが憂いを込めて言う。リリーは眉を曇らせた。

「はい……。私は形だけの上官……正直、荷が重いです。それが無事に済んだとしても、この先どうすればいいのか分かりません。ライゼンさんの死は―――」

 急に……悲しみが込み上げた。同時に幾つもの思い出も。あの闘志に満ちた顔や、時おり見せた豪快な笑顔、トッドと言い争う光景、酒席で彼女にだけ漏らした親友マルク将軍との昔話、その時の懐かしそうで、寂しそうな表情……

「……大丈夫ですか?」

 優しい男がそっと肩に手を置いてくれる。リリーは頷くが、同時にライゼンが励ましてくれた時の肩の痛みも甦った。“心配するな嬢ちゃん、俺の後ろに敵はやらんよ。それにトッドの隣に居りゃ安全さ。理屈っぽい野郎だが信頼できる”……そう言いながら叩いてくる手は彼にしてみれば加減していたのだろうが、余りの重さに骨が折れるかとつい顔をしかめてしまった。彼はそんなことに気付きもしないままその後に一言付け加えた。今のはトッドにゃ言わないでくれよ、と。そして豪快に笑いながら去っていくその記憶が、あの血塗れで倒れ伏している姿に重なっていく。

「……だい……じょうぶです……。すみません……」

 眦を何度か拭い、声が震えるたびに下唇を噛みしめて堪えながら、彼女はなんとか強がった。スピナーの憐れみの瞳を受け止めて必死に微笑みを作った。

 彼はしばらく彼女の顔を見つめていたが、やがて深く溜め息をつく。そして少しだけ逡巡したあと口を開いた。

「実はこれを渡そうと思ってここへ来たのです」

 彼は腰の皮袋から取り出したものを差し出す。受け取ったリリーはその一枚の紙切れを開いて中身に眼を落とした。

「地図……ですか?」

「ええ。これから猛虎兵団は金獅子隊と共に帰都するのでしょう? 到着し、王への報告を終えたらすぐにその場所を訪れてごらんなさい」

 不思議そうな顔で見上げるリリーの肩をスピナーはもう一度優しく叩き、微笑みと会釈を残して雪原の中を去っていった。

 紫のマントを揺らす優雅なその背中と、手の中の手書きの地図を、リリーの眼は交互に見つめ続けた。

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