第16話 轍に咲く花 <2>

「いやああああああッ―――!」

 リリーの口腔からこれまでにない悲痛な叫びが飛び出した。

 ライゼンは疑いようもなくあの黒い雨に包まれ、そしてトッドもそこへ身を躍らせて行った。

 彼女はもう一度白馬に全力を出させる。硬直していた周囲の兵士達は慌てて彼女を止めようと追いかけた。その彼らを一騎の馬が追い越して彼女の背に迫る。

 一度斉射を終えた弓部隊が二の矢をつがえ、右の壁からは再びライゼンとトッドの位置を狙って二射目が放たれる。そして左の壁から射ち出される二の矢は次なる標的にリリーと兵士達を選んでいた。緩い山形を引いてそれらがもう一度絶望の雨を降らせる。

「―――うおおおッ!」

 力強い声と共に二筋の光が縦横無尽に暴れた。その光景をリリーは呼吸すら忘れて瞳に吸い込んだ。

「大丈夫か!?」

 七、八本もの矢を切り落としたその騎士が振り返って怒鳴る。跨る黒馬、二振りの剣、金の装飾を施した鉄鎧、獅子を模る兜、その奥にある精悍な顔……。それは紛れもない金獅子隊将軍、ケイオス・オブ・スタンフォードだった。

「だ……大丈夫です、ありがとうございます」

 一瞬覚悟した死と、目の前で見せられた強烈な絶技に呆然としていた彼女。しかしすぐに我に返り、前へと向き直った。

「……あ……あああ……!」

 その瞳に映ったのは倒れている二頭の馬と、二人の騎士。

 救いたかったライゼンは、全身に無数の矢を生やして微動だにしない。その身体の下に赤黒い水溜りが広がり始めていた。

 リリーは顔面蒼白になり、口元を両手で覆い隠しながら言葉にならない喘ぎを漏らした。華奢な全身が激しく震えだす。

「……もう、駄目だろう……」

 ケイオスが絞り出すようにつぶやいた。

 周囲の兵士達もまた同じ確信を抱いたのだろう、足を止めて愕然と四つの死体を眺めている。ある者はいま受けた矢を肩や脚に生やしたまま。ある者は胸や首を貫かれて虫の息で地面に伏したまま。


「―――ぬ!? 全員退却せよ!!」

 遠巻きに広がっていたレストリア兵から戦意が膨らむのを感じ取り、ケイオスは指揮官を失った猛虎兵団に急遽将軍代理として指示を叫んだ。直後、敵兵も刃を構えて動き出す。

「リリー殿しっかりするんだ! ここは俺が指揮を執る、貴女も全力で退くんだ!」

「……生きています……生きています!」

 彼に応える前に彼女は双眸を見開いて叫んだ。なに?と彼もその視線を追う。

「トッドさんが生きています! お願いです、救けてください!」

 彼女の言葉は事実だった。

 倒れていたトッドが苦しそうに起きあがる。矢を三本ほど受けているが、肩と脚、そして背中のそれは鎧を貫きつつも致命には届かなかったようだ。

「……分かった、だから貴女は早く逃げろ!」

 ケイオスがトッドへと黒馬を駆る。そして、その生存に気付いた猛虎兵団の兵士達もまた戦意を盛り返して周囲の敵兵を抑えにかかる。せめて副官の命は奪わせない、その強い想いが全員から迸っていた。

 リリーは、しかし、逃げることなど出来ずに彼の生還を待つ。それを確かめずに自分だけ退けるのならそもそもこんなところまで踏み込んではいない。それに猛虎兵団の皆が必死で抗っているのだ。形だけの官位とはいえ将軍補佐官である自分が彼らを見捨てて離れるなど許されない……と、大凡彼女らしくない戦場の使命感をほんの一瞬だが覚えてしまった。


 右剣を鞘に納めながらトッドの元に辿り着いたケイオスが、鞍上から腕を伸ばして彼の手を掴み、そのまま力任せに馬の首の付け根へ引き上げた。激痛が走ったのだろう、トッドの口から呻き声が漏れたが、とにかく命があればそれ以上は無い……いまはそういう状況だった。

 すぐさまレストリア兵士が斬りつけてきたが、間一髪それを左剣で打ち返すと同時に愛馬に駆け出させる。次々と追い縋ってくる敵兵……何しろトッドは猛虎兵団の副官、そしてケイオスは金獅子隊将軍だ。その二人がこの単騎に跨って目の前にいるのを千載一遇のチャンスと思わないわけがない。まさに“休戦直前の大功”だ。


 トッドが落ちないように右手で押さえながらケイオスは左剣一本で激しく凌ぐ。敵兵二人に囲まれれば馬も護らねばならない為にかなり厳しい。だが、それでも彼にとってこれは僥倖だった。レストリアの歩兵や騎兵がこうして功を焦って群がってくるお陰で崖上の弓手が矢を放てなくなったのだ。今の状態では矢の雨を注がれる方が遥かに恐ろしい。

「副官は確保した! 全軍退却せよ!」

 左右の敵を辛くも斬りはらい、ケイオスは改めて指示を叫んだ。そしてリリーの姿を目に留める。彼女は退くどころか迎えにこようとすらしていた。

「何をしている! 退却だ、反転しろリリー殿!」

 彼女は兵士達のことも気にかかっていたようだが、さすがに足手まといになることを理解したらしく背を向けた。

 だが、その瞬間に敵の騎士が一人、ケイオスを追い抜き彼女を目指す。

 ――まずい!

 こちらは名馬とはいえ重装備の二人を乗せている。慌てて全力を命じるも追い抜くどころか少しずつ先へ行かれる。

「伏せろリリー!」

 ケイオスが叫んだ。

 騎士が剣を振りかぶった。

 リリーが振り返った。

 駄目だ―――ケイオスがそう思った一瞬、しかし、騎士は彼女の顔を見て剣の始動を鈍らせた。


 ―――ガキィィンッッ!


 その僅かな躊躇いのお陰で追い付いたケイオスの一振りが、後ろへ振りかぶっていた騎士の得物を弾き飛ばした。さらに返す刀で首も刎ねんとするが、

「ッ……!」

 咄嗟にその一閃を止めた。

 騎士の首は皮一枚が裂けただけだ。死を意識したのだろうその血の気の消えた顔はずいぶんと若かった。ケイオスもリリーも若いが、この青年はまだ20歳にもなっていないように見えた。それが思わず刃を止めた理由の一つ。もう一つ理由と呼べるものがあるとすれば彼がリリーを見て剣を鈍らせてくれたことへの義理か。ケイオス自身は明確に自覚していたわけではないが。

「―――去れ! この戦はおそらく今日で休戦だ、出来れば……出来ればもう戦場には来るな……!」

 そのケイオスの言葉に青年は驚きを浮かべた。だがそれは彼だけではない。リリーもまた目を円くして金獅子将軍の顔を見た。

 これまでまともに会話をしたこともないこの男。

 戦場では“ラット”と呼ばれて死体の轍を作り続けてきた男。

 彼に対してリリーは漠然と非情な猛将のイメージを抱いていた。レストリアにとっては恐怖の象徴、ダナスにとっては戦と勝利の体現者……そんな、リリーとはとても相容れない存在のはずだった。

 しかし、彼はいま敵兵を逃がし、しかも「もう来るな」と言った。言葉を素直に読むならば、殺したくないから……という意味なのではないだろうか。

 それでもまだ今の光景が飲み込めずにいたリリー。しかし、次の出来事がそんな迷いを払拭した。

「……ッ! 待て―――!」

 ケイオスが叫んだ。退き始めていた青年がびくりとして振り返る。その二人の間にダナスの騎士が一人飛び込んでいた。

 リリーは息を呑む。喉の奥から細い風の音が漏れた。

 騎士は剣を振り抜いてしまい、青年はさっきは皮一枚で済んだその首筋に深々と刃を通過させてしまった。

 凍りつく表情。それが絶望に変わり、そしてとてつもなく深い哀しみを浮かべた瞳がケイオスとリリーに向けられ、直後にその頭部は喉元から別れてゆっくりと落下していった。馬だけが先へ進み、彼の身体も数秒遅れて仰向けに転げ落ちる……。

 リリーも、ケイオスも、その結末に言葉を失っていた。

 青年を討った騎士は二人の表情を見て戸惑う。ここは戦場、自分の行いは当然のことだったのでは……と。

「あ……あの……て、敵兵ですよね。まさか化けた味方だったとか……」

「……いや、レストリア兵だ。よくやった……退却を続けろ」

 騎士はほっとした表情で馬を走らせた。


 リリーはケイオスの横顔を何も言えずに見つめていた。

 少しだけ馬を進めて、ケイオスは右手に持ち替えた剣の先を使って何かを拾い上げる。青年の遺体の、その本来なら頭部があるべき辺りから。そして手に握ったそれを軽くいじってパチンという音を立てる。思わずリリーが視線を移すとそれは首飾りのようだった。

「どうやら向こうも追撃をやめたようだ……。退こう、リリー殿…………」

 そう言って振り向いた彼の表情は、“遣り切れない”という想いを隠そうとして隠しきれずにいる余りにも重苦しいものだった。


 リリーは退きながら一度振り返る。その瞳に映る青年の遺体に、そして遠ざかるライゼンの亡骸に、ゆっくりと大粒の雪が舞い降りる。それは痛みも悲しみも一切の結末を白く染め変えていった。

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