第15話 轍に咲く花 <1>

(ダナス歴 91年 初冬)



 ―――それは、黒い雨のように降り注いだ。



 レストリア戦争が始まって八年目、10月5日。

 ダナトリア渓谷から見上げる切り取られた空を分厚い灰色が埋め尽くし、そこから抱え切れなくなったように白い粒が零れ落ちてきた。

 刃を構えたまま斬り結ぶ相手を探していた者の眼前にも、今まさに火花と金属音を生みだして命を天秤にかけ合っていた者達の間にも、一切の分け隔てなくその静謐な粉が舞い、揺れ降りる。いつしか両軍に暗黙の了解となっていた、それは休戦の到来を告げる初雪。

 そしていつも、この瞬間が、多くの兵士を生と死の分かれ道に立たせた。

 共に雪を合図として剣を引く光景。

 どちらかが気を緩めもう一方がそれを隙として最後の一閃をねじ込む光景。

 休戦になる前に、と功を急いて我を見失い身を滅ぼす光景。あるいは見事に首級を稼いで勲を得る光景……。


 投入されていた主力三軍の内、最も渓谷深くまで進入していた猛虎兵団、その指揮官であるライゼン将軍はこの初雪を瞳に映すなり大きく気炎を上げた。

「まだ休戦の銅鑼は鳴っていない! 士気の緩んだレストリアどもを捻り潰せえ!」

「しょ……将軍ッ―――!」

 士気が緩みかけたのは何もレストリア軍だけではなく、彼に従う周囲の騎士達も同じだった。その彼らにとってここでの突撃の合図は想定の外。僅かに出足の遅れた猛虎兵団の頂きで、猛将ライゼンは半ば単騎の格好で斬り込みを展開する。

 しかし、立ち塞がるレストリア兵はその単騎に悉く薙ぎ払われていく。普通より一回りは大きい片手剣と鉄製のハンマーを左右の手に構え嵐のごとく振り回すライゼン・ユダイ。その竜巻の中に入れば騎士も馬もなく斬り分けられ、叩き潰される。他のどの将を相手にするよりも騎馬の犠牲が甚大になることから、レストリアは彼を“馬斬り”と忌み嫌い、その強大な蛮勇に恐れを抱いていた。

「ぬぅ、腰ぬけどもがぁ……アイツを討った時の威勢はどうしたあッ!」

 引潮のように崩れ始めた敵兵たちにライゼンは腹の底から怒号を吐き散らした。それは渓谷の両壁にまで届き、反響して大気を震わせる。彼の赤味の混じる瞳には、一年前の春に壮絶な戦死を遂げた親友の姿がはっきりと浮かんでいた。


「―――トッドさん! ライゼンさんが突撃を……!」

 猛虎兵団の中央部で指揮をしていた彼に、隣に佇む雪色の髪をした美しい女性、リリーが焦燥感露わに叫んだ。

「くっ……! 伝令、後陣に走り退却の合図を要請してこい!」

 指示を叫んだ直後、彼はきつく歯軋りをした。その半分はライゼンが久しぶりに見せた暴走に対してだが、残る半分は己の甘さに対してだった。

 ――なぜこの可能性を想像していなかったのだ……!

 自己嫌悪が胸の奥を焼く。

 この五ヶ月、ライゼンは以前までの無謀な突っ込みを慎んでいた。4月の終わりにリリーが補佐官として部隊に加わると兵士達が見る間に一枚岩と化していき、ライゼンもまたかつてのように後方を意識しながら武勇を揮うようになっていた。その変化を逃さずにトッドは己の軍略を乗せ、猛虎兵団を本当の“軍”として上手く制御してきたのだ。

 しかし、ライゼンは変わったのではなかった。

 身の内に巣食うレストリアへの憎悪を必死に抑え込んでいただけだったのだ。

 彼に妻子はいない。おそらく戦争の終わりや外交的な勝利など望んではいない。ただ一点、親友マルク将軍の仇であるレストリアの兵と将を一人でも多く殺したい……それだけがあの死から一年半という時間が育てた望みとなっていたのだろう。

 そして舞い落ちてきた初雪がその戦場を奪い去ろうとしたこの瞬間、彼は抑えつけてきたものを一気に解き放ってしまったのだ。


 前曲がライゼンを追って突撃していく。中曲、後曲はトッドの指示を受けて待機している。猛虎兵団が縦に伸び始める。敵を穿ち切り崩しながら、また己らも布を裂くようにほつれていく。

 最後方から退却の銅鑼が、凍りつきそうな寒気の中を波打ちながら届いてきた。

「よし、後曲は速やかに退け! 混在する敵兵には応戦のみ行い極力距離を取れ! 中曲は前曲と将軍の戻りを待って退がる! 殿隊、準備を!」

 銅鑼が繰り返される。同程度の位置まで攻め込んでいた金獅子隊ではケイオス将軍が同じように指示を叫んでいる。そして後方に位置する銀鳳隊は両部隊の退却を幇助すべく道を作ってくれているだろう。

「あッ―――」

 リリーはダナトリア渓谷の奥、僅かに見えるレストリア関の辺りに視線を伸ばして小さく叫んだ。トッドが何事かと顔を向けたその時、こともあろうに彼女は白馬を叩いて前方へと駆け出した。

「リリー殿! なにを―――!」

 驚きに眼を見張る彼の声も、咄嗟に伸ばした手も、人が変わったように飛び出していく彼女には届かなかった。周囲や前方の兵士達も驚き、呆気に取られて思わず見送ってしまう。

 そしてトッドは彼女の行く先に別の危機感も覚える。確かに鳴り響いている退却の銅鑼……にも拘わらず、ライゼンはさらに奥へと猛進をやめていなかったのだ。

 ――馬鹿なッ! それでも指揮官か……貴様!

 死地へと追従してしまっている兵達を一顧だにせず己の感情のままに闘う将軍を、副官としてトッド・ゾブリはもはや許すわけにはいかなかった。強烈な憤怒に全身を焼かれながら、彼はリリーを追って馬を走らせる。彼女をあの場所まで踏み込ませるわけにはいかない。将軍は自分が止める。殴ってでも、最悪彼の騎馬を殺すか、彼自身に一太刀喰らわせてでも。あるいはその闘気に反応して将軍の刃がこちらへ襲いかかってくるかもしれないが……仮にそれで自分が死んだとしても彼が我に返って止まればそれでいい。そこまで覚悟しながら彼は叫ぶ。

「リリー殿、将軍は私が連れ戻します! 戻られよ、リリー殿ッ!」

 だが彼女は止まらない。聴こえないほど離れてはいないはずなのに、こんな無鉄砲な彼女は今まで見たことがなかった。なぜそこまで我を忘れて将軍を止めに突っ走っているのか……。トッドは前方の兵士たちにも彼女を止めるよう怒鳴る。


 ライゼンはいよいよ勢いを増して斬り込んでいく。敵は完全に逃げ腰で退いていく。後方から退却の銅鑼は聴こえている……が、今やこの道を妨げるものはないに等しく、このまますぐそこのレストリア関すら突破し敵の総司令官までも討ち取れると思えた。いや、実のところそんな風に可能性を量る気持ちは存在していなかったかもしれない。ただ行けるところまで行く、その決意に全身が支配されていたのだ。


「駄目です、ライゼンさん! 上を、上を見てください―――!」


 もはや前しか見ていなかった彼の耳に、戦場では聞き慣れない美しくも悲壮な声が飛び込んできた。それは戦士達が吐き出す気合いに比べれば細くて迫力もない……にも拘らず。退却の合図すら聞き流していた彼がその瞬間に思わず視線を上げた。


 リリーに追いつく寸前、トッドは総毛立った。彼女の叫びで彼も眼差しを上げ、そして視認したのだ。レストリア関直前の両脇、絶壁の半ばにある足場に敵兵がずらりと並んでいるのを。全員がその手にクロスボウを構えているのを。

 トッドはそのままリリーを追い越し、全力で馬を駆った。彼女が自分の名も叫んだのが聴こえた。まるで悲鳴のような声で。

 レストリア兵が完全に背を向けてライゼンから逃げ、彼が射程距離に入るその機を待ち侘びていた両壁から一斉に矢が放たれる。

 数十本の矢が一度僅かに浮きあがり、山形やまなりを描きながら地上のただ一点に殺意を向け、それは黒い雨のように降り注いだ―――。

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