第14話 病の花 <7>

 時が過ぎ、7月1日。

 黒狼隊が約一ヶ月の休息から再び戦場に戻ってきた。入れ替わりで猛虎兵団が前線を離れて王都へと発つ。しかし、その一団にリリーの姿は無い。


 彼女はこの戦場に残り続けていた。6月中も猛虎兵団の出陣に加わっていたし、そして彼らがここを離れた7月も彼女は戦傷者陣営に残ることを希望した。

 周囲の目には、彼女があの涙以降、何か変わったように見えた。約一週間、レストリア再襲来の報せを受けるまでずっと幕舎に閉じ籠っていた。再び姿を見せた時、一見は以前と変わらないように見えた。しかし誰もが早晩、違和感を覚えていく。だが何がどうと言うのは誰も上手く表現できない。強いて言えば戦場ではその姿勢に以前よりも凛とした雰囲気が感じられ、傷病者の治療や看護にはかつての逼迫した空気が薄まり柔らかさが増したように思えた。

 しかしその反面、危機的状況の患者に対しては鬼気迫るほどの必死さを見せた。ある時など、もはや誰が見ても息絶える寸前の重傷者に対して彼女はこう叫んだ。

 “死なないでください! 生きてください! お願いです、私のために……!”

 横たわる彼は彼女が零す大粒の温もりに濡らされながら、最期は満たされたような微笑みを浮かべて息を引き取った。そして彼女はその遺体に突っ伏して慟哭した。彼は、彼女が閉じこもった日以降において、初めて手当ての甲斐なく死んだ人間だった。

 あの取り乱し方はまるで家族や恋人を眼の前で失ったかのようだった。



 7月半ばのある日、夕刻。

 戦傷者の陣営に、数名の戦士に付き添われて一人の重傷者が身を引きずってきた。

 幕舎に入った彼にリリーが驚きの眼を向けた。

「―――ジョシュさん!」

 彼は右の脇腹を押さえている。そこから溢れる血が黒い軽装備を湿らせている。さらに左目の上から血を流し辛そうに右目だけを開けていた。そしてその瞳にリリーを映すと彼はギリッと歯を軋らせ、駆け寄った彼女の手を激しく払いのけた。

「テレンス軍医はどこだ……彼に診てもらう……!」

 こんな状況なのに信じ難い意地を張って、びっこを引きながら幕舎を出て行ってしまった。呆気に取られる戦士達の間を抜けてリリーは外に飛び出す。


「ジョシュさん! ダメです、早く手当てをしないと……!」

 普段ならいざ知らず今の彼には彼女でもすぐに追いつけた。そして今度は振りほどかれないように両腕でしっかりと彼の右腕に絡み付いた。

「くっ……放せ! あんたなんかに救けられて堪るか!」

 少年はいっそう幼くなったような姿で身を捩った。だがリリーは必死でしがみつく。

「どうしてですか! なんでそんな状態でも私を避けるんですか!」

 躍っていた黒髪がぴたりと止まり、直後にジョシュは血塗られた左目も開いて彼女に殺気ごと向けた。

「お前が偽善者だからだ! 戦場の現実を見ても相変わらず命ばかり説きやがって……! ここでは誰だって誰かの為に闘ってるんだ。でもお前は何も背負ってない。命を大切にしろなんて軽々しく言えるのはその所為だろ。殺す以外にどうしようもない現実を理解してないから簡単に博愛を口に出来るんだよ……!」

 今にも彼女の細い喉笛を食いちぎらんばかりに犬歯をむき出しにして、彼は溜めに溜めた憎悪を一気にぶちまけた。

「手も汚したことのないお前がいつまでもこんなとこに居るのが許せないんだ! だいたい、あいつらやオレを救おうが救うまいがお前には何の意味もないだろ!」

 自分の国じゃないんだから……と続ける前に、彼は咳き込んだ。喉の奥に鉄の匂いがする。必死で息を整える。顔を上げると遠巻きに見ている何人かの兵士が眼にとまり、怒気に満ちた双眸で睨みつけながら強く首を振った。彼らは慌てて離れていく。


 ふと、自分の右腕からリリーの手が解かれていることに気付いた。

 やっと怒りが届いたかという大きな高揚感の片隅で、深く傷つけたかもしれないという小さな罪悪感を微かに覚えながら彼は彼女を見た。そして息を呑む。そこにある表情は反省や悲哀や、まして怒りでもなかった。まるで感情を失ったような空っぽの瞳だけがあった。

「……あの日……思い出したんです……」

 突然、風のない草原を見るような静けさで彼女の口が語り始める。ジョシュは呆気に取られたままそれを聞いた。

「私は監禁されていて……人ではない扱いを受けていました……。いつからなのかは思い出せないけれど……毎日……毎日……非道ひどいことをされていました……」

 彼女はゆっくりと自分の両腕を抱き、その手を少しずつ肩へとすり上げていく。

 少年の双眸が大きく開いていった。

「記憶が……?」

 つぶやいた彼に対してリリーは答えずに、茫漠と言葉を続ける。

「男の人が……剣を付けたまま入ってきたんです。その人は何も脱がずに私を物の様に使って……すぐそこに彼の剣の柄があって……気付いたときには私―――」

 彼女は弾けるように俯いた。胸の前で交差する腕が、両肩に食い込むほど爪を立てている手が、自分という人間を押し潰そうとしているようだ。さらに背中を丸め、両膝も内側へ向いて看護衣に皺を作る。まるで自分の中に棲む何かが出てこないように必死で閉じ込めている……そんな風にも見えた。

 ジョシュは、二年前の2月4日、突然現れた彼女が纏ってきたボロに血糊を見たことを思い出す。冬のダナトリア渓谷を抜けてきたそれはごわごわに固まっていていつ浴びたものなのかは判らなかった。少なくとも彼女自身のものじゃないことは確かだった。しかし記憶喪失のため真相は確かめられず、やがてジョシュも忘れ去ってしまった。

「……じゃあ……キミは…………」

「もう、忘れられないんです。食い込んでいく刃の感触、噴き出してきた血の温度……」

 草原に突風が奔ったように、彼女の声が激しく揺れる。

「奪ってしまった命……私は、人を殺してしまいましたッ……!」

 最後の声は悲鳴にも似ていた。

 ガタガタと震える彼女。ジョシュは無意識のうちにその細い肩を掴んでいた。止血を解かれた右脇腹から再び血の滲みが増すが、構わずに紅い左手で彼女の右肩を濡らす。

「それは仕方なかったんだ。そのとき闘わなきゃキミはその地獄から抜け出せなかったんだろ? 殺すしかなかったんだろ? なら、それはキミの罪なんかじゃない!」

 リリーの雪のような頭部が横に振られる。

「ダメなんです……どんなに自分を誤魔化そうとしても、人一人の命を奪ってしまった重みが身体の奥にずっとあって、私を赦してくれない……! 思い出してしまったらもうこの手の感触は一瞬も消えなくて、どうしても逃げられないんです!」

 足下にたくさんの滴が落ちて土に呑まれていく。

「でも……でも、誰かを救った時だけ、私はほんの少し心が軽くなるんです……。きっと一生こうなんだと思います……。そんな私は生きていてはいけないかもしれない……でも、誰かのために働き続けることでいまも自分を繋ぎ止めてしまっているんです。ジョシュさん、私、やっぱり生きていちゃダメでしょうか……?」

 顔を上げた彼女の頬は流れ続ける痛みで覆われていた。その直後、少年の両手は彼女の頭を優しく抱き寄せた。その左肩で言葉を失うリリー。少年の目の上から流れる血が、彼女の左頬を塗り変えながら温めていく。

「……生きていいんだよ、リリー」

 その、彼のたった一言が、彼女の全てを溶かした。そして泣いた。わんわんとまるで子供のように声を上げて彼女は泣きじゃくった。全身を震わせて、止められないそれをジョシュに受け止めてもらって、彼の背中を力いっぱい抱きしめて。心の底から何もかも絞り出すように彼女は泣き続けた。

 ――リリー……キミはオレと似ていたんだね……

 彼女の小さな頭を抱いたまま、ジョシュは心で語りかける。彼女は自分と似ていた。どちらも“そうするしかなかった”罪の果てに今があり、そしてそれ以外の自分には決してなれない。

 死にまみれて育った彼は、戦場でスイッチが入ると別の自分に支配されたようになってしまう。それに嫌悪感を抱いていながらどうしようもない。

 彼女は自分の行いが罪滅ぼしの代わりという偽善であることを感じながら、そうするしか道がない。

 二人とも過去に囚われたまま……。


 ――でも、オレはキミの支えにはなれない

 ズキン、と胸が痛んだ。

 死を生み出し続ける自分が、死を遠ざけた時だけ生を得る彼女と支え合う存在にはなりえない。

 ズキン、と再び胸が痛んだ。この苦痛が何なのか、彼は少しだけ気付き始めていた。

 少年は密やかに誓う。

 せめて自分はこの女性を守り続けようと。

 いつか本当に彼女の支えになれる男が現れ、彼女が真の幸せを手に入れるその日まで、この命に代えても―――。




                   四将伝其の参-病の花- 了

                   四将伝其の四-轍に咲く花- へ続く

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