第13話 病の花 <6>

 突然手強さを増したダナスに跳ね返されてから二週間後、レストリア軍は再びダナトリア山脈に兵を進めてきた。


 戦鼓と同時に、対峙するレストリアの先陣から幾筋もの黒い線が放たれた。それが短い雨となってダナスの先陣に降り注ぐ。

「矢だ! 盾をかざせ!」

 ケイオス将軍の咄嗟の指示に従い、金獅子隊の騎兵達は急いで傘を作った。ガガガガという硬質の音が連弾を奏でる。矢の何本かは騎士達の身に命中した。

「半月ぶりのお目見えかと思えば……“クロスボウ”か。数を増したな……西国め」

 嫌悪感の籠もる舌打ちの直後、ケイオスは全速による突撃の合図を出した。逃げ場のないこの渓谷で相手が飛び道具を使ってくるのなら間を空けていては危険すぎる。だが逆に、空間を潰し入り乱れてしまえばクロスボウなど使えはしない。そして最前線に並べられた射手が引っ込む動きは、それだけ向こうの出足を遅らせることになるはずだ。騎馬と騎馬、先に勢いを乗せた方が一合目を制する―――。

「離れて闘うことを覚えた者は騎士の誇りを失う! ダナスの力を見せつけてやれ!」

 ほぼ水平に放たれた二射目を盾や剣で打ち払いながら金獅子隊は勇敢に突っ込んだ。対して輸入品と聞くクロスボウの戦術自体がまだ熟していないと思しきレストリア軍は、プレッシャーに負けて三射目を諦めた。

 切って落とされた火蓋の中で、猛虎兵団もまた進軍の機を窺っていた。金獅子隊の前進が勢いを失い始め拮抗が見られたところで、ライゼン将軍が雄叫びをあげて馬を奔らせる。そうなるだろうと構えていたトッドもまた素早い指示を放って兵士達を槍のように縦に伸ばしていった。言わばライゼンがその切っ先だ。無双の剛刃。


 ――“兵士達がどれほどの覚悟で命を擲っているか解かっているなら、その闘いから目を逸らすなんて出来ないはずだ”

 動き出した猛虎兵団の後曲で、リリーは自分を背負ってくれている白馬のたてがみを見つめていた。頭の中に繰り返し響く言葉……。


 猛虎兵団のさらに後方で黒狼隊は待機していた。そしてその先頭に一頭だけ馬ではなく黒い肌の豹がいた。ダークの逞しい背中の上で、黒尽くめの少年は険しい視線をあの後姿に注いでいる。

 ――顔を上げろよ。そして現実を見るんだ。自分がいかに甘ちゃんだったか、世界の真の姿を知らずにいたか、それに気付け。そして―――

 “そして、軍を去れ”

 それがジョシュの真意だった。己の居場所ではないことをはっきりと自覚させ、前線から去らせる。そして兵達には再び死を恐れぬ強さを、相手を震え上がらせる怖さを取り戻させるのだ。


 ――“あんたが本当に戦と向き合うなら、あいつらの戦いから目を逸らすな”

 再び響いたあの言葉に、リリーはぎゅっと眼を瞑った後、ゆっくりと顔を上げた。そして瞼を開いた。

「ッ―――!」

 そこに現れた筆舌に尽くし難い光景。人と、人が、本気で互いの命を奪い合う。

 リリーの頭の中がぐにゃりと歪む。凍りついていく四肢に対して、心臓は血を送らんと爆ぜんばかりに脈打つ。周囲の音が、聴き流そうとしていた時には嫌でも一つ一つ飛び込んできたのに、受け止めようと決めた今は壁に囲まれたかのようにただ強烈に圧迫してくる。聞き分けるどころではない、全てが猛り狂う雷鳴と変わらない。

 そして瞳に映る戦場。

 その剣を打ち込んだら、その槍を突きこんだら、その盾で殴りつけたら、その蹄で踏みつぶしたら、もう目の前の人は還ってこないのに―――

 もし自分に魔法が使えるのなら即座に全ての時を止めたかった。

 だが現実は何一つ止まらなかった。

 彼女の視線が捉えていた一人の騎士が、剣を高く振り上げた。

 向かい合う騎士は体勢を崩し、それをただ愕然と見上げていた。

 ――やめてッッ

 剣が、袈裟に斬り下ろされる。

 左の肩から深々と侵入した刃は胸当てを引き裂いて斜めに進み、遂には右の脇腹から抜け出た。

 どちらがダナス兵でどちらがレストリア兵なのかなど、この瞬間のリリーには判りもしなかった。ただ、勝者はこちらに背を見せていて、敗者はこちらに……まるでリリーを見つめるように、その哀しみと絶望の溢れる顔を向けていた。そして仰向けに倒れゆく身体から鮮やかに噴き出す紅の霧。

 瞬間―――リリーの脳裏にある光景が鮮烈に閃いた。

 伴って四肢も背中も首筋も一気に走り抜ける怖気。

 胃の奥から込み上げる酸性の熱。それよりも速く喉を駆け上がる絶叫。そのどちらも全力の足掻きで抑え込んだ。肌が硬くなり骨が内に歪む。馬のたてがみがすぐ近くまで迫る。

 無理矢理押さえつけた胃液と悲鳴の代わりに、両目から涙が溢れ出した。まるで涙腺が決壊したように止め処ない量。ボタボタと激しく零れ落ちるそれに首筋を叩かれて馬はぴくりと頭を動かした。

「……ローザ……」

 手で覆い隠した口元から漏れた一言。それは彼女にも自覚のない一言だった。

 背中を丸めている彼女に気付いた兵士は声を掛けようとして息を呑む。その美しい涙を初めて見たから。


 この日、戦が終わった後、リリーは宛がわれている補佐官用の幕舎から一歩も出てこなかった。いつもなら帰還と同時に戦傷者の陣営へ飛んでいく彼女にはあまりにも珍しい出来事で、兵達は口々に噂を囁く。交戦中に彼女が泣いていた、というその噂は夕飯時にはほぼ全ての兵士に広まっていた。

 ジョシュは愛豹と共に皆から離れて過ごしていた。

 リリーの噂を耳にした彼の顔には、しかし、思惑通りと言う笑みはなく複雑な色が張り付いている。夜空を見上げる黒曜石のように美しい瞳には春の星座が静かに映り込んでいた。

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