第10話 病の花 <3>

 ジョシュに陣中を案内されてから二日後、リリーは自分が寝泊まりしていた場所以外の傷病幕舎に初めて訪れた。

 交戦中に比べれば遥かに穏やかな光景だが、それでも命懸け一歩手前の訓練の日々で様々な怪我人が寝台に臥している。中には少々重い怪我を負ってしまった者もいる。

 初めてそこに踏み込んだこの時、リリーはひどく身を硬くして立ち尽くした。顔色は直前の日の下で見られたそれからは明らかに悪くなっていて、連れてきたジョシュは一旦幕舎の外に出させたほどだ。その後、少しして再び中へ戻ったリリーはなんとか落ち着きを取り戻していた。テレンス軍医の元へと案内されて、見習いのさらに見習いレベルから仕事を始める。

 最初に彼女が身を竦ませたのは“戦場”を感じた時に誰もが抱く恐怖心によるものだろう……見ていた者はジョシュも含め皆そう解釈した。特に女性なのだから。


 一週間も経つとリリーもだいぶ手慣れてきて、他の衛生兵と比べてもさほど遜色のない働きが出来るようになっていた。

「呑み込みが早いですし、しっかり考えて自分から動いてくれます。このまま続けたら有能な助手になってくれそうですね」

 テレンス軍医は奥で負傷者の怪我を消毒しているリリーを振り返る。幕舎の入口に立つジョシュもその視線を追った。

「記憶は相変わらずのようです……が、もしかするとけっこう学のある育ちなのかもしれません。言動や仕草の端々に品性が覗いている気がします。ただ……」

「ただ?」

 テレンスは躊躇いがちに続けた。

「……いつもどこか逼迫した空気で怪我人を看ています。戦場に在るには、彼女は優しすぎるように思います」

 ジョシュは小さく首を傾げると奥を目指して踏み入った。

「―――あんまり無理しないでくださいね。もし大きな怪我をしたら大変ですし……相手に怪我をさせては良くありませんから」

 包帯を巻きながらリリーは悲しそうな声音で語る。左腕をあずけているその兵士は頬を紅色に染めながら頷いた。

「リ、リリーさんは……戦場は初めてなんですか?」

「はい……たぶん、ですけれど。でもこうして、殺し合うために訓練し傷つく貴方達を見ると……胸が痛みます」

 兵士は言葉を失いうつむく。一つ溜息をこぼして静かに顔を上げた。だが、何かを言おうとしたその口を急に噤んだ。

 彼の視線が自分の頭を越えていることに気付いて、リリーはゆっくり振り返る。

「ちょっと、いいかな?」

 腰に手を当てて立つジョシュがどこか険しい表情でそう言った。そして椅子から立った彼女の腕を掴み、半ば強引に幕舎の外へと連れて行く。


「あの、ジョシュさん、痛いですっ……」

 掴まれている腕に彼女が小さく悲鳴を漏らすとやっと彼の足が止まった。幕舎から少し離れた位置だ。

「ジョシュさん?」

 もう一度名を呼びながら訝しげに見つめるリリーを、彼は先刻よりも厳しい眼つきで振り返った。

「あんたさ、兵士に何を吹き込んでんだよ」

「え?」

「怪我をするな? 怪我をさせるな? 挙句の果てには殺し合いの訓練は胸が痛むだって?」

 きょとんとする彼女に、ジョシュはいよいよ苛立ちを露わにする。

「ここは戦場だ! オレ達は殺さなければ殺される。それはこの国の滅亡に直結するんだよ! 遊びじゃない。戦ごっこやってんじゃないんだ。あいつらの士気を落とすようなことは言うな!」

 ボーイソプラノの甲高くも力強い怒声が響いた。彼にしてみれば精一杯抑えたつもりだが周囲の兵士達や近くの幕舎には聴こえてしまっただろう。

 叱責を受けたリリーは何も返せずにうつむく。身体の前で左手が右手をぎゅっと握りしめていた。



 2月27日、リリーが現れてから約三週間後。王都から百騎ほどの一団が前線基地を訪れた。

 兵士達の最敬礼に迎えられて白馬を降りたのはグレゴリア・ローグ・ド・デイナス……ダナス国の若き君主その人だった。

 彼は視察と慰労の目的で二つの陣を見舞う。一つは猛虎兵団の陣営、そしてもう一つは訓練中の黒狼隊の陣だ。一番の目的は後者、王自身が作らせたその軍がどれだけモノになっているかがこの来訪の見どころだった。そしてもう一点……。

 治療の現場に現れた王は息を呑むと双眸を大きく見開いた。眼前にあるのは純白の長髪を下ろした細い背中。

「……そなたが報告にあった“リリー”か……」

 突然掛けられた言葉に少し驚いて振り向いたリリーは、明らかに周囲の人間とは装いも空気も違うその青年を見上げてしばらく言葉を見つけられなかった。すると側近のような騎士が一歩踏み出して微笑む。

「お嬢さん、この方はダナスの王君、グレゴリア様です」

 その言葉に驚いた彼女は一度自分の患者を振り返り、彼がとっくに敬礼の姿勢を取っているのを見て慌てて王に向き直った。

「す、すみません……リリーと、申します」

 兵士を真似て胸に手を当てる。包帯が絡みついているが自分では気付いていないようだった。王は微かに笑うとそっと手のひらを向ける。

「よい、楽にしたまえ。さっきもジョシュに聞いたところだがそなた、記憶がないらしいな」

 単刀直入に切り出す王の横には、少し退がった位置から冷たい眼を向けてくる少年がいる。リリーは表情を沈めると顎を引いた。

「ふむ……いまも何も思い出せぬのか? 何故雪に覆われた厳しい渓谷を渡って来たのか、自分がどの地の出身なのか、家族の顔や自らの生い立ち……帰るべき場所。どうなのだ?」

 グレゴリア王の優しい口調に、彼女は素直に首を振った。

「すみません……何も思い出せません」

 そうか、と彼は顎に手を当てる。


 しばしの静寂。

 やがて思案を終えた彼は手を下ろして口を開いた。

「帰る場所がないのならば王都に来るが良かろう。ここは最前線。あと一、二ヶ月で渓谷の雪も消え再び激しい戦が始まる。テレンス軍医が褒めていたそなたなら、安全な王宮内の医療班で仕事をするのが良い」

 リリーは思わず薄く唇を開き、それからゆっくりと周囲を見回した。いくつもの寝台の上で、今日まで彼女の看護を受けていた兵士たちが様々な表情を浮かべている。

 祝うように優しい微笑みを浮かべている者。

 どこか寂しげな笑みをぎこちなく向けている者。

 瞳に悲しげな色を滲ませている者。

 ジョシュを見ると、彼はひどく冷えた眼差しを投げていた。“あんたとオレらじゃ棲む世界が違うんだよ”……そう言っているような気がした。

 リリーは視線を足下へ落とすと、細く深く息を吸い、吐き出す。そして静かに、しかしこれまでに見せたことのないような力強さで、グレゴリア王の顔を見上げた。

「許されるのならば……私はここに残りたいです」

 その発言に誰もが驚きを浮かべた。特にジョシュの表情の変化は大きかった。氷のようだったそれが、今は信じられないものを見るように唖然としている。

「……これから皆さんが傷つくのなら、せめて少しでもそれを救えるように」

 まさかこの大人しそうな女性が王の提案を蹴るとは思ってもいなかった。だがそれ以上に、彼女が一言一言噛むようにして紡いだその言葉に皆は何も言えなくなった。

「そう、か。分かった。そなたがそう望むのならば……余は認めよう」

「え……王! 彼女は―――」

 ジョシュが愕然として叫ぶ。“彼女は士気を下げてしまう、ただの足手まとい”―――先刻それをしっかりと進言したはずだった。なのにこうもあっさりと彼女の駐留を認めるとは。

「ジョシュ、どうなるかはやってみなければ分からん。余には別の予感もあるのだ」

 王は少年を振り返らずに、視界の中の負傷兵たちを眺めながら唇を綻ばせた。


 こうしてリリーは前線に残る事になる。

 雪が融け、戦が再開され、大地が新たな血を吸い、渓谷は終わらない剣戟を響かせる。その中を彼女は陣営付きの衛生兵として目まぐるしく月日を重ねた。

 そして一年後、リリーが現れて二度目の春が訪れた時、ダナス軍最前線の士気はこれまでにない充実を見せていた。

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