第9話 病の花 <2>

「―――ジョシュ将軍、あちらです」

 傷病者の幕舎の入口を抜けてすぐ、少年は衛生兵の案内を受けて奥に眼をやった。

 安っぽくて不潔な寝台が左右に分かれて並んでいる。その上にはまばらながら主に風邪や食中毒などの患者が体を丸めていた。これが交戦期間中ならば血まみれの包帯人間や四肢などを欠損した兵士が呻きをあげているのだろう。そんな、戦士しか使わないはずの幕舎の奥に、即席の布張りで周囲から隠された寝台が一つあった。

「ずいぶん大袈裟じゃない? 女を拾ったとは聞いたけど……」

 ジョシュが訝しげにつぶやくと、兵士は「見ていただければご理解いただけると」と返しながら先を行く。

 垂れ下がる布を手で除けるようにして内側に踏み込み、ジョシュはその大きな両目を円くした。

「ど、どうしたんだよコイツ…………」

 今もちょうど軍医が看ているところだった。うつ伏せに寝かされた少女の背中ははだけられており、触れれば氷のように冷たそうなその肌には青黒い痣が何ヶ所も散っていた。

「凍傷……とは違うよな、それ」

「はい、これは外的な暴力によるものだと思われます。実は体の前面にも、また脚の方にもこういった痕が多数あります。その薄着であの渓谷を抜けてきた割には奇跡的に凍傷は患っていないのですが……」

 医者が顎をしゃくったので眼を向けると、寝台の脇にまるっきりボロとしか言えない服が放り捨てられていた。

 ――こんな物だけであの寒さの中を?

 軍医の「馬の体温のお陰でしょうね」という言葉を聞きながらもう一度彼女に視線を戻す。そして改めて気が付いたのは、肩の横へとどけられている長髪の異質さ。一瞬、残雪にまみれているのだと思った。だが違う。生え際から毛先まで一切ムラのない、まるで雪のような白がそこにあった。自分の漆黒の髪とは正反対で……美しいと感じた。

「……彼女を見つけたっていう兵士達が何かした可能性は?」

「それはないと思います。この痣は昨日今日負ったものではないようですし、飛び込んできた時の彼らの様子はただただ必死でした」

 彼はふと微笑みを浮かべてジョシュを見上げた。

「将軍、血の気の多い彼らとて、国の為に闘おうと決めた戦士達です。決して山賊ではありませんよ」

「……そうだな。たぶん、ね」

 少年は鴉の濡れ羽のような黒髪を軽く掻いた。



 ……温もり。

 身体の周りにある、温もり。

 背中の下に感じる柔らかさ。

 世界に忍びこんでくる雑音……喧騒?

 瞼の向こうには明るすぎない光が滲んでいる。穏やかな、心地好い光が。

「―――あっ……やっと目を覚ました」

 まだぼんやりとした世界の中に、黄白色の天幕と、それを背負って覗きこんでくる顔が見えた。少し陰になっている顔だが、徐々にその目鼻立ちが見えてきた。

 男―――。

 直後、少女は悲鳴を上げて横に身をずらし、自分が寝台の上に居るということも気付かぬままに遠ざかろうとした為……

「あっ、あぶなッ」

 衛生兵の彼が伸ばした手も間に合わずに、見事に床へと転がり落ちた。

 今さっきの悲鳴と今の物音で何人かが駆けつけてくる。仕切り布が開いて現れた、男、男、男、男……。打ちつけた身体の痛みを堪えながら身を起こそうとした少女は、自分を見下ろす彼らに気付いてもう一度悲鳴を上げ、そして気を失い直した。


 美しい筋肉をしなやかに伸縮させて巨躯の黒豹が陣営の中を駆け抜ける。その後ろ脚が昨日降り直した軟らかな雪を次々と蹴り上げた。

 傷病者の幕舎に辿り着くとその上から黒尽くめの少年が飛び下りる。

「ありがと。足冷たいだろ? あの辺に居な」

 ジョシュは愛豹に雪のない場所を示すと、ぎゅっぎゅっとブーツを鳴らしながら入口に向かった。


「―――気付いたね。何もしないよ、ここは傷病者の陣幕さ」

 再び意識を取り戻した白髪の少女に、ジョシュは笑みを浮かべて話しかけた。彼女は僅かに怯えたものの先刻ほどには取り乱さなかった。一度見た光景だからなのか、それとも眼前の男が少年のようであり、むしろその笑顔が少女のごとく可憐だからなのか。

「ここはダナスの国境際。あんたは二日前の明け方にダナス関に着いて、ちょっと前まで眠っていたんだ。この幕舎はダナス軍の一部隊の陣中。停戦中と言っても関の警戒は怠っちゃいないからね」

 ジョシュは慎重に言葉を選んで説明した。見た目通りの女性なら安心させてやらなければならないが、万が一にもレストリアが送り込んだ間諜ならば隙は見せられない。

「取りあえず素性を教えてほしい。じゃなきゃ保護も協力もするわけにはいかないんだ」

 しかし、彼の深慮とは裏腹に目の前の少女は何の反応も示さない。何かを思慮しているという風ではなく、ただゆっくりと戸惑っているような感じだ。

「……ふぅ……。オレはジョシュ、この部隊の将軍だ。あんたは……?」

 溜息を挟んで、彼は自分から歩み寄ってみた。

 すると、少女はその淡いエメラルドの双眸を向け、少し唇を割り、一度閉じ、また微かに開き、まるで胸の中につかえている何かを探すような数秒の果てにようやく言葉を紡いだ。

「……リリー……。私は……リリーです……。でも……他には何も……分かりません―――」



 二日後、衰弱から回復したリリーを連れてジョシュは陣中を案内した。冬晴れの空の下、空気は冷たいが敷き詰められた雪は眩しく、汚れた陣幕も佇む男達も繋がれている馬もどことなく生命感に輝いている。

 周囲の視線には驚きも好奇も情欲も見えた。それは仕方がない。男しか居ないこの前線で、短い者でもすでに三ヶ月ほどの時間を過ごしている。厳しい環境で共同生活を営み結束を高め、日々の訓練で一日も早く“ダナス四軍”と呼ばれるに相応しい力を付け、そして春になれば命を懸けた戦争に飛び込まなければならない。誰もが贅沢や色恋をばっさりと切り捨ててここに来たのだ。個人差はあれど、様々な禁断症状との闘いがそろそろピークに達して来た時期でもある。そこにこの清廉な美人が突如現れたのだから。

 しかし彼らがどんなに好奇心を抱こうと、この少女は自身の名前以外の記憶を完全に喪失しているのだった。

 ジョシュはちらりと横目で見る。

 これまでに一度も出会ったことのない真っ白い髪の毛。肩より下まで流れ落ちているその長髪は凍りついた滝のようだ。眉まで白いところを見ると先天的なものなのだろうか。それらが少し齢を判りにくくさせているが、おそらく20歳前後というところだろう。背はあまりジョシュと変わらない。と言っても彼女が高いのではなく彼が低いのだが……160センチ少々。まぁ、そもそも細かく測る理由もない。

 体格に関しては華奢の一言だ。栄養失調気味。着てきたボロは処分したので男物のシャツとズボンを身につけているが、その中にある脚も腕も本当に細い。手首などジョシュの腕力でも技抜きの一捻りで楽に折れそうだ。その先にある指はすらりとして美しい。それを見ると凍傷にならなくて本当に良かったと思わされる。細さは腰にも見られるが胸もまた小振りのようだ。これも栄養の所為なのか、元々それくらいなのか……。

「……あの……」

 リリーが彼の視線に気付き、躊躇いがちに呟きながら顔を向ける。その切れ長の目はまなじりにかけて柔らかなラインを描き、優しさと、どこか哀しさが常に描かれている気がする。二重瞼の下、伏せ気味の睫毛も白く、そしてよく見れば長い。歪みのない綺麗な鼻梁は低くはないが高すぎもせず、なんとなく控え目な性格を思わせる。そして少しだけ突き出した可愛らしく清楚な唇。小さめで、ようやく桃色を取り戻し始めたらしいその唇が、また動いた。

「……あの……ジョシュさん……」

「―――ッ! んんッ……な、なに?」

 つい人形の造形を見るように観察してしまっていた彼は軽く咳払いを入れて、何食わぬ顔で応える。

 リリーは微かに怯えの色を滲ませていたが、彼の黒く美しい瞳にしっかりと理知の輝きがあるのを見て、安心したように“なんでもありません”と頭を振った。

「そう。じゃあこれで取りあえず一巡りってところだ。何か気になったことはある?」

 その問いに、彼女は逡巡を見せてから答える。

「人の……視線が」

 ジョシュは後頭部を掻いた。

「それは……まぁ、慣れてもらうしかないね。御覧の通り男しか居ない場所だから、あんたみたいなのが来たらそりゃ皆見るよ」

「でも……なんだか怖いんです。何故か分かりませんけれど……刃物を突き付けられているような感じがして……」

 少年の瞳に憐憫が浮かぶ。軍医の話では人の手による暴力を受けた可能性が高いということだ。記憶がないのはむしろ幸いかもしれない……が、心の奥に眠る何らかの傷が彼女に無意識の警戒心を抱かせているのだろう。

「前線の異変は全部王に届けている。あんたのことも王都に遣いを送ったから、そのうち指示が返ってくる。そしたら町に移ることになるんじゃないかな。ここに女が居ても仕方ないしさ」

 ジョシュはせいぜい明るく聴こえるように言った。大してその甲斐もなく、リリーは張りつめた面持ちのままうなずく。

「……で、それまでの間、テレンス軍医の手伝いをやって欲しい。もう二、三日静養してからでいいけどさ、ここじゃ誰でも何かの役割を果たして共同生活してるんだよ。だから、それでいいかな?」

 覗きこむようにして尋ねる彼に、リリーは目を逸らしながら再びうなずいた。

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