第8話 病の花 <1>
(ダナス歴 89年 冬)
「―――どう? これでもオレは若僧?」
己より十は年上の男の首筋にダガーを押し当てながら、黒髪の美少年は足元の雪よりも冷たい笑みを浮かべた。
「ま……参りました」
男の降参宣言で少年は刃を引く。敗者がホッと安堵を浮かべるのに対して、勝者は冷たい笑みを苦々しい表情へ変えていく。いや、どちらかというと飽き飽きという表情か。
「あ~~~……あと何人相手しなきゃならないんだろね。叩きのめされないと認められないとか、お前ら山の猿と変わんないよ」
試合を見守っていた20人くらいの兵士に苛立ちを向ける。
ジョシュ18歳。2月3日の雪に覆われた夜、黒尽くめの彼から白い溜息が溢れた。
一昨年、先王重篤の為に20歳の若さで国を継承したグレゴリア王が、その翌年、もう五年以上も続いているレストリアとの戦争に突破口を求めて新しい部隊を作らせた。
これまでダナスの最前線を担っていた主戦力三軍に、機動力に特化した新軍を加えて主力四軍とする。そこに集められたのは馬術に優れ、身のこなしが軽く、格闘を得意とし、視力聴力などの五感もある程度の高さにある者達だった。結果としてどちらかというと騎士には向かないはみ出し者ばかりとなり、下手をすると山賊さながらの集団が出来上がる。
そしてそのならず者を統率する役割を任されたのが、18歳になったばかりのジョシュだった。
冬の到来と共にダナトリア山脈は真っ白な化粧をする。それは戦争の舞台である渓谷にも塗りたくられ、脚が呑まれるほどの積雪と自由気ままに滑り込む吹雪は戦どころではなくならせる。それでも一年目の冬は互いに攻撃を試みたが、概ね相手の刃ではなく環境の厳しさで戦闘不能になったり命を落としていった。そのため、その後は冬の間をどちらからともなく停戦期間とするようになった。要は雪が降り始めたら戦争は出来ないということだ。
昨年も10月上旬に大雪が降り、そこから本格的な冬が始まって両軍が剣を引いた。
ダナスは三軍のうち一軍をダナス関の監視に残して王都へと引き揚げさせたのだが、王はこの四~五ヶ月は続く停戦を利用して新軍を完成させようと考えた。肝心の馬術を活かした訓練は春を待つとしてまずは戦の意識、様々な規律、そして何より隊の結束を育てるために、この“黒狼隊”を環境厳しいダナトリア渓谷に侍らせた。それが11月中旬。
以降二ヶ月半、ジョシュはならず者数百人を相手に、毎日のように殴って、蹴って、挫いて、絞めて、仕舞には刃を交えて、一人一人に“若僧がボスである”ことを納得させるための教育を余儀なくされていた。まさに猿の世界だ……。
そして2月4日。
東の空の黒が微かに薄まり始めた明け方。
後に振り返ればこの戦争の転機ともなる、一つの事件が起きようとしていた。
ここ二日ほど晴れ間が続いたために積雪量の減っているダナトリア渓谷を警戒し、黒狼隊の見張りは谷の三分の一ほどまで踏み込んでいた。簡易的な小さいテントを設置して四人が交替で睡眠を取りながら西を監視する。
聳える岩壁と、雪。それ以外に何もない景色。大抵の兵士はものの数分もすれば飽きてしまい、闇の静けさの中で闘う相手は“退屈”という姿なき強敵となった。積雪量が減っているとはいえ、この足下では馬が馬らしく駆けることは到底叶わない。人っ子一人現れるはずがないという気持ちがある分、なおさらに闘いは激しかった。
――っても、ちゃんとしないとあの小僧ヤバイしなぁ……
兵士は眠気に抗いながら、沸かした紅茶をゆっくり啜る。
彼も一月ほど前にジョシュに試合を挑み、見事にぶちのめされてダガーの刃先を見つめながら汗をかいたばかりだ。あの汗が冷たかったのは真冬の所為だけではない。少々挑発が過ぎてジョシュを怒らせていた為に、あの少年が内に秘める危険な殺気の片鱗を覗いてしまったのだ。
――スピナー将軍の推薦っていう噂も本当かもな
流しこんだ紅茶に胸の奥を焼かれて、ほうっと白い息を泳がせながら夜空を仰いだ。雲のない冬の夜は、この渓谷に天井が作られたかのごとく美しい幕を被せる。両岸の絶壁に切り取られた天空は星の大河のようにも見えた。夜明け前にいま一度見納めて、これだけは悪くないなと思いながら彼は視線を下ろした。
「…………ッ!」
紅茶に温められた手のひら側ではなく、冷え切った甲側の手袋で目をこすった。ひやっと瞼や額が刺激されるが、やはりとっくに目は覚めている。ということは遠くに見えるあのシルエットは……本物―――。
「おい、お前ら起きろ! 誰かが近づいてきてる!」
テントの中の仲間を叩き起こしてから、彼は足下に寝かせていた弓を手に取る。傍らに揺れる小さな火を消すべきか迷ったが、接近者は軍ではなくたった一人。それに、その輪郭はどうやら馬のようだった。だがその背には何かが乗っているような膨らみが見受けられる。停戦期間を利用してダナスを目指した旅人か、あるいはレストリアの間諜か……。
「そこで止まれ! 何者か名乗れ!」
弓を構えたまま彼は怒鳴った。本来なら声の響きやすい渓谷だがこの時期は雪のクッションで大声も呑み込まれる。テントから出てきた寝ぼけ気味の仲間達は彼の横に立って人影を眺めた。
「止まって名乗れと言ってるんだ! これ以上の接近は敵と見なすぞ!」
まるで対応のない相手に対し兵士はさらに声を張り上げた。しかし、その馬らしき影はのろのろとではあるが歩みを止めずに接近してくる。
「おい、なんか変じゃないか?」
別の兵士がそうつぶやき終えるか否かというタイミングで、弓から矢は解放された。仲間が「馬鹿ッ」と叫んだが射た本人も寒さと緊張で手元が狂っただけだった。
その矢はよりにもよって綺麗に馬の胸へ吸い込まれた。憐れないななきで冷たい空気を震わせながら、彼は敷き詰められた雪の中へと横倒しに埋もれる。そして、その背から何かが転げ落ちたのを四人は確かに見た。
慌てて駆け寄った彼らの顔に驚愕が張り付く。
囲んで見下ろすそこには、真っ白な長髪を雪に溶け込ませながら眠る、一人の少女の姿があった……。
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