第7話 月下の病 <5>

「―――王、なにゆえあの少年を出したのですかッ……。あんな若僧に何が出来るというのですか? 監視を怠って住民に死傷者を出すのが関の山です!」

 王の執務室を訪れた中年の文官が興奮気味に訴える。

「……ザウル、そなたはスピナーを目の敵にしているのか? 彼の父アルヴァとは過去に色々あったらしいな……」

 羽根ペンを軽やかに走らせながらグレゴリア王は視線も向けずに返す。その声には叱るというよりからかうという響きが感じられた。


 ザウル・ソルリアとアルヴァ・フォン・オルトラスが一人の女性を巡って争ったことは、実のところ高官から庶民まで広く酒の肴に重宝されているエピソードなのだ。二十余年前、当時城下で評判だった美しい娘がアルヴァの妻となったことで、絶世の美男子スピナーが後に生まれた……という結末付きの。


「そ、それは関係ありません! 私は目の前の事実を冷静に直視しているのです。あの少年は監房でいよいよ人らしさからかけ離れていったではありませんか。あの底なしに淀んだ瞳は見ましたか? あれを獄から出すなど危険すぎます!」

「だからこそだ、ザウル」

「は……?」

「あの監房にある限り、あの少年は人を、民を、世の中を自分と切り離し続ける。そして自分さえも手放そうとしていた。このまま朽ち果てさせたなら世界は彼の幼い心の中で完結しているそのままだ。それはまさに我々の敗北だ」

 ザウルは言葉を失った。それで殺人鬼を釈放したのか、という理性の抗議と、何か大事なものがそこに在るように思えてしまった心の熱と、どちらか片方だけを握ることが出来なかった。

「―――と、スピナーの言葉だがな」

 王が悪戯っぽく目配せをした。ザウルは口をあんぐりと開けて顔を上気させていく。

「しかし余は任せてみたくなった。これでもし、そなたの言うように新たな犠牲者が出ることになったなら、それは余の責任だ。全力を以て解決に当たり、果たせる限りの償いを果たそう。その時はそなたも存分にこの身を批難してくれ」

 ザウルはしばらく固まったまま狼狽していたが、一つ深い溜息をつくと目を閉じた。

「御意……。そのように心得ておきます」

 そして諦めの微笑みを浮かべると、深く敬礼を捧げて退室した。



 城下町の北の外れにある、オルトラス家別邸。周囲は畑に囲まれ、普段は人通りの殆どないとても静かな場所だ。

 邸宅の前の道は遠くタクト鉱山まで敷かれている重要な街道。そこに立って周囲を見渡せば、南に城下町の波打つ屋根や、東には巨大な製鉄所が横たわっているのが見える。

 この屋敷に、昨日からスピナーが滞在していた。しばらく任務はなく休暇を与えられたため保養の目的で……と周囲には説明してあるが、彼がここにいる本当の理由は別にあった。


 街道に面した正門を抜け奥に進むと慎みのある上品な小庭園が見られる。それをコの字型の建物が囲っている。右手、奥、左手……繋がっているその建物は二階建てで、落ち着きを持つ明るい茶系に塗られていた。その右手側一階の大きめの部屋。カーテンの開かれた窓に昼前の光が差し込み、寝台の上の少年を暖かく染めていた。

 ノックの音が響く。少年は視線も向けなければ返事もしない。そして扉は元からそれを期待していなかったかのように、二度目を試みず開かれた。

「昼食をお持ちしましたよ……。使用人が腕に縒りをかけて作ってくれました」

 そう言って室内に入ってきたスピナーは、寝台脇のテーブルに置かれた朝食を見て眉をひそめた。

「せっかくの料理に手もつけないとは……ずいぶん罰当たりなことをしますね」

 少年は枕の上の板に背中を預けるかたちで半身は起こしているが、明るい中庭をぼんやりと見つめたまま何の反応も示さない。


 昨日連れてきたときは衰弱の極みにあった。強制的に湯浴みをさせ、着替えさせ、柔らかな布団に横にならせるとあっという間に眠りに落ちた。さすがに限界だったのだろう。温まった身体が一度疲労を全て表に浮かびあがらせ、曲がりなりにも吸収した水分が多少はその身を回復させたようだった。

 だが、夜に運んできた食事は朝の時点で手つかずのまま残っていた。あるいは一度も目覚めなかったからかもしれない、と思ったのだが……どうやら何も口にしないという意思は変わっていないようだ。


「貴方の腕はもう拘束されていない。その足にも枷は付いていません。ここは山ではなく、そして人を殺さなくてもこうして食事が手元に揃っています。いいですか? 貴方は獣ではなく人間です。そしてもう山賊でもありません。いつまでも現実を否定していないで、ここで生きる努力をしなさい」

 少し厳しい口調で言い、スピナーは朝食をどかして昼食を置いた。

「一口でも構いません。まずは食事から始めてください」

 そして膳を手にドアへと歩き出した。

「……在るところでは……」

 掠れた、しかし確かな言葉に、スピナーは動きを止めるとゆっくりと振り返った。

「……雨もろくに凌げないような歪な木造りの家で生まれ……物心ついた時には食料は人から奪うものだと理解し……やがて人を殺すことと生きることは同じになる……」

 それは紛れもなく少年の声だった。彼は相変わらず窓の外を見つめたまま、しかし確かにスピナーに語っていた。

「……また在るところでは、ただ寝るための部屋が木造りのボロ家よりでかく……食事は飢えてもいないのに何度も摂り……清く正しい生き方を議論し合う余裕まである―――」

 彼は、静かにその眼差しを、佇む銀髪の美丈夫へと向けた。

「―――“ジョシュ、世界は二つ在るんだ”」

 そう言った少年の双眸は……例えるならば“無”だった。何の希望も映しこむ余地のない、完全な闇。その闇でスピナーを見る。

「こんなメシを食って生きてきたあんたにはオレたちのことなんて解らない……。“別の世界”の人間、だろ……?」

 少年の眼は完全に彼を拒絶していた。次の瞬間には死の望みを口にするだろう。最後だから本音を吐いたのだ。それがスピナーには分かった。そして、彼の半生が己の推察通りであることも。

 ――“やがて人を殺すことと生きることは同じになる”

 あの山の中で、彼は殺気を超えて獣気を放った。殺気とは相手の命を奪うことに対して気負いがあるからこそ生まれる。殺しが特別な行為であるからこそ滲み出るのだ。しかし少年は我を失った時に人であることも失った。獣が日々殺しと食事を自然に営むように、スピナーを殺すことを呼吸と大差なく行おうとしていた。あれこそが彼の本当の姿だったのだ。人として生まれながら余りにも哀しい獣……。

 だがスピナーの心中には憐れみ以上に沸々と湧いてくるものがあった。それは一気に燃え上がり、これまでにない厳しい双眸で少年を睨みつけた。

「どの世界でも、人は縛られています。たとえ寝床と食事があっても人の命を奪い続けなければならない人生もあり、その苦しみから眼を逸らさずに延々と向き合い続ける人間がいます―――」

 脳裏に浮かぶ、ある光景。

「私は、裕福であろうと貧しかろうと、その中を必死に生き延びようとする人間に正邪はないと考えています。しかし、いま生きられるのに命を手放そうとする人間だけは認められません……。世界は二つ? 何も映さない瞳で世界を語る資格などない。私を否定したければまず生きてからにしなさい!」

 少年の淀んだ双眸がわずかに揺れた。結ばれていた唇が微かに割れた。

 スピナーは激しい焔を宿した眼でもう一度睨みつけ、そして部屋を出ると荒々しく扉を閉めた。



 五月の陽が傾いていく。建物の影はゆっくりと東へ伸び、中庭に咲く白や青や黄色の草花を少しずつ隠していた。

 スピナーはノックを二つ鳴らし、返事を待たずに扉を開いた。

 西日の強い窓際の寝台に……少年は変わらぬ姿勢で佇んでいる。だが、窓の外を眺める横顔は心なしか血色が良くなったように見えた。

 彼の傍まで歩み寄ったスピナーは食事が綺麗に平らげられていることに気づく。少年を一瞥し、そして無言で食器を持ち上げた。

「あんたが……」

 まるで、ずっと待っていたかのように、少年が口を開いた。

「あんたが一番欲しいものって、なんだ?」

 唐突な質問。スピナーは数秒のあいだ言葉を失っていたが、ふぅと息を漏らすとそれに答える。

「最高の栄誉、です」

 少年の顔が彼に向けられる。

「最高の……栄誉? なんなんだ、それ」

「分かりません」

 その答えに両目が大きく見開かれ、黒い瞳が円く露わになる。

「それが何なのか問い続けるのが……私の人生です」

 そして今度はスピナーが問いかける。

「では、貴方が一番欲しいものは何なのですか?」

 少年は正面の壁に視線を移し、瞼をゆっくりと下ろした。

「本物の、自由」

「本物の……」

「それがどんなものなのか分からないけれど……いつか感じてみたい」

 すっと睫毛が持ち上がり、二つの眼差しが紡がれる。そしてどちらからともなく笑みを零した。

「改めて名乗らせて頂きます。私はスピナー……スピナー・フォン・オルトラス。貴方は?」

「……ジョシュ。それ以外は持たない」

「では、ジョシュ……。これからよろしくお願い致します」

 優雅に会釈をし、スピナーは顔を上げると窓の外に眼を向けた。ジョシュもそれに釣られる。

 夕焼けに染まる朱い中庭に現れた一頭の黒い豹が、静かな瞳で二人を見つめた後、ゆっくりと芝生の上に寝そべった。



 約一年半後、グレゴリア王の命により機動力に特化した部隊が四軍目として結成される。その将に史上最年少の記録を以てジョシュが任命された。

 数えきれない紆余曲折を経て、五年後……彼と黒狼隊は十年戦争最後の戦場を決死の覚悟で駆け抜けてゆく。




                     四将伝其の弐-月下の病- 了

                     四将伝其の参-病の花- へ続く


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