第5話 月下の病 <3>

 十数メートルほどの絶壁を一筋の滝が伝い落ちている。その足元から流れを作る澄んだ水は、底で緑に苔生す岩々をゆらゆらと歪ませる。小魚がせせらぎの水流に戯れるように行ったり来たりを繰り返していた。

 小川の縁に黒くてしなやかな前脚が二本置かれる。その上から伸ばされた首は水面に美しい獣の姿を映しながら、冷たい水を求めて舌を伸ばした。そして、彼の隣では少年が片膝をつき、清流へ無造作に手を差し入れる。涼やかな水音が立つ。ゆっくり体を波打たせていた小魚達が矢のように散った。

 一掬いの涼で少年は唇を濡らす。こくりと上下する喉。口の端からツゥっと一筋が溢れ、細い顎先を離れて川に還る。彼は濡れた右手でそのまま黒髪をかきあげた。それは雨を受けた鴉の翼のように美しく艶を帯びる。


 黒豹がのそりと反転し、低い唸り声を漏らした。少年は立ち上がると、腰の後ろで交差しているダガーの柄に両手を添える。

「……綺麗なところですね。小さな滝、澄んだ小川、生命感に満ちた木々、降り注ぐ木漏れ日……その絵の中に貴方たちの姿もよく似合っています。美しい、とすら思いますよ」

 葦毛の騎馬と共に現れた銀髪の騎士は、穏やかな微笑みを浮かべながらこの光景を讃えた。

「ですが、貴方たちの手や牙はいま人血に染まっている。それだけは……不似合いです」

 黒豹が一度軽く吼え、そしてコロロロと喉鳴りを奏でる。同時に少年の小柄な身の内から千の刃のような殺気が放たれた。

 これまで静かに囀っていた野鳥が競い合って飛び立つのを見上げ、銀髪の騎士は産毛を逆立てる。

「恐ろしい程の殺気ですね。その若さにして……いえ、だからこそそれだけ純粋な濃度を持てるのかもしれませんが……。私の名はスピナー・フォン・オルトラス。貴方の名も教えて頂けませんか?」

 言い終わるや否や、少年が疾風の速度で間合いを詰め二刀を抜き放ちながら跳躍した。

 力みもなく静かに下ろされていたスピナーの槍が目にも留まらぬ素早さで薙ぎつけられる。

 宙にある少年は二刀を盾にしてそれを受け止め、跳ね返されながらトンボ返りを入れて着地した。

「なるほど、昨夜もあの闇の中でそうやって受けたのですね。しかし真正面から飛び込んで私を倒せると思わないでください―――」

 愛馬アッシュが後ろ脚で空気を蹴破る。それを辛うじて躱した黒豹が数メートルの間を空けた。

「―――真後ろも、簡単ではありませんよ?」

 少年の双眸が微かに膨らんでいた。自らが飛び込んで囮になり愛豹を背後に回らせて背中を襲う……これで終わるという自信があったのだろう。片やスピナーも内心では二人のコンビネーションに目を瞠っていたが、面には出さなかった。


 じりじりと時計回りに動く少年と、常にその反対側を回る獣。中心に置かれたスピナーは右手で双刃の長槍を横一文字に構え、左手で手綱を握っている。二人に合わせて回転することはなく、ただじっと前だけを向いていた。しかしその目付けはどこか遠くを見ているような焦点の曖昧さを含んでいる。

 完全に90度の角度で線が交わった瞬間、二つの黒が地を蹴った。今度はどちらも低い。

 スピナーは先に左側の豹へと突きを放つ。その切っ先が触れるぎりぎりで獣は足を止める。

 少年があと二歩まで接近し馬の横腹を狙って右手のダガーを引き絞った。しかしそれが打ち出される直前に馬が微かに膝を沈め、そして前へと跳躍した。見上げた彼の眼に、振り下ろされてくる槍刃が輝く。少年は咄嗟に地に伏せて紙一重でそれを避けた。

 ガカッと蹄を鳴らして騎馬が着地する。だが馬首を返すより早く豹が飛びかかる。

「アッシュ!」

 スピナーが一言叫ぶと、馬は大きく右に尻を振った。己の前脚を軸にして独楽の如く身体を廻旋させる。爪と牙を剥き出しにしていた獣は、目の前の尻肉が遠ざかる代わりに槍の刃が掬いあげるように迫ってくるのを見た。

 少年が咄嗟に二本しかないダガーの一本を投擲する。

 スピナーはそれを弾くために強引に槍の軌道を変え、黒豹は左耳を掠められただけで逃れた。

 キィンッッ―――

 主を失った短剣が回転しながら宙を飛んでいく。それを取り戻そうと駆けだした少年にアッシュを駆ってスピナーが追いすがる。

 槍の制空圏に入り刃が振り抜かれるが、小柄な身体はそれを躱して跳躍していた。そして樹の幹を蹴りつけると三角飛びの要領で方向を変え、ふわりと着地した場所は滑り込んできた黒豹の背上。しかもその手に落下前のダガーをしっかりと収めていた。

 互いに相棒の背の上でもう一度対峙する。


「すごいですね……。今の攻防で結局貴方は何も失わなかった。その子の左耳も大した切り傷ではないでしょう?」

 しかし、その言葉で愛豹の怪我を凝視した少年の気配が変わる。

「ッ―――!」

 スピナーは目を剥く。それはさっきまでの純粋な殺気とは違った。これはもはや……

 ――人間ヒトではない。殺気は人間だからこそ持ち得るもの……。この凶暴さは言うなれば―――

「……獣気」

 彼はその碧眼に微かな悲哀を浮かべた。眼前の少年がこの若さにしてこの強さを備えている意味。殺気以上の獣気を得てしまった理由。それを何となくではあるが理解してしまう。

 次の瞬間、黒豹がこれまで以上の速度で襲いかかってきた。背中に人を乗せたというのに脚力が増すなどさすがのスピナーも想定の外。まるで少年の昂りに呼応して潜在能力を爆発させたかのようだ。

 おどろきのあまり咄嗟に薙いだ槍は手加減を忘れてしまっていた。

 ――しまっ……!

 彼を胴の部分で真っ二つに、と錯覚する。だが違った。黒豹がまるで潰れたかのように身を沈めて急停止し、そして少年は慣性も味方につけてスピナーの目の高さに跳び上がっていた。

 内に振り抜いた槍を右手首の捻りで風車のように顔の前へと戻す、戻そうと試みる。少年の体が短剣の制空圏まで接近するよりこちらの方が速い……と思えた。が、少年は右手のダガーで顔面を打つのではなく槍の柄を打ち払ってきた。硬質の音が弾けて空気が震える。

 スピナーの動きが一瞬止まる。目に映る光景が刹那、スローモーションに見える。

 少年が左手に握るダガーの刃圏はまだ二十センチほど遠い。投げてきたなら首の捻りで避けるか、兜で受け止めるか、その際どい選択肢がスピナーの頭をよぎった、と―――

 ―――ゴッッ!

 繰り出されたのはなんと左脚による空中回し蹴りだった。咄嗟に身を捩ったが躱しきれず、側面を打たれた兜が脱げ飛んでいった。

 蹴った反動で離れて落ちていく少年から左の短剣が投擲される。標的はアッシュの首。スピナーは軽い眩暈の中でほとんど勘任せに槍を振り下ろしダガーに掠める。軌道がずれた刃はアッシュの左脚の付け根辺りに浅く刺さった。首じゃなくて幸運……だが痛みには変わりない。甲高いいななきを吐きながら立ち上がるその背で、彼は振り落とされないように手綱ではなくたてがみを掴んだ。

 その時、視界の左下に黒いものが映り込む。

「ッ……させんっ!」

 最前の急停止で身をたわめていた黒豹が再び爪と牙を剥き出して飛び込んできたのだ。狙われているのはまさに今さらしている馬の胴。

 スピナーは鐙から左足を抜き、豹の顔面に向かって蹴り込んだ。それは上手く鼻面に命中したが、打ち落とされる最中に豹の右の爪が彼のふくらはぎを引っかけた。革製のプロテクターが引き裂かれて肉にまで及ぶ。

 激痛と焼けるような熱。野生動物の爪に潜む危険度が脳裏を過ぎるが、しかし怯んでいる暇はない。アッシュが前脚を下ろすと同時に、スピナーは左手を伸ばしてダガーを引き抜いた。そして愛馬に右へと距離を取らせる。

 黒豹が少しよろめきながら身を起こす。少年はそれを待たずに単独で歩いてくる。身にまとう気配はいよいよ凶暴さを膨脹させていく。


「まったく……荒々しいですね。その瞳も表情もまさに獣です。確かに強い。ですが……」

 そこまで言うと、彼は何を思ったか左に身体を倒して優雅に馬を下りた。地に着いた左脚が鋭痛を走らせるが、一瞬顔をしかめただけでそれを黙殺する。

 少年が足を止めた。そこに微かな戸惑いが見えるのは錯覚だろうか?

「……私は“人間”としてお相手いたしましょう。貴方の豹は左耳と鼻面に軽い怪我を、私の馬は脚に刺し傷を……これで彼らは痛み分けにしてください。貴方と私、一対一で決着を付けましょう……受けてくれますか?」


 重苦しい沈黙が生まれ、数秒の静寂が流れた。

 そよ風に揺れる葉のさえずり、流れる小川の水の音、そんなものが耳に戻ってこようとした、時――― 少年が身を低く奔りだした。

 軟らかい土が次々と踵で蹴りあげられ弾けていく。

 スピナーは握っていたダガーを捨てると左脚を前にした半身になり、沈めた腰で槍を構えて先端を突きつける。

 間合いまで待つ。その圏内に相手の身体が触れるまで、微動だにせず意識を集中させる―――。

 槍の制空圏に少年の身体が侵入した。瞬間、電光石火の突きが繰り出される。

 しかし少年は左脇腹の皮一枚裂かれただけで横に躱し、その勢いのまま一歩、二歩、踏み込むと右手とダガーを胸当ての奥に在るモノを目掛けて奔らせる。

 だがスピナーは踏み出していた左足を外へ開き上半身を引きながら、槍身を握る左手を上に引き、右手を下から押し出す。縦の円運動を描く槍は逆端にも刃がついているのだ。それが少年の胸を斜めに撫で上げた。

 血飛沫が舞う。

 黒尽くめの少年の胸部と、スピナーの左の肩口から、共に鮮血が溢れた。そして膝を落としたのは当然、前者だった。


 浅く突き立てられたダガーを抜く。

 スピナーは静かに息を吐き出すと槍の切っ先を項垂れる少年の脳天に向けた。

「これが……人としての技術です。我を忘れて獣になどなっていなければ、貴方ならば今のも避けられたかもしれません。あるいはその獣気の圧力で私が冷静さを失っていても貴方は勝利出来たかもしれませんが……」

 少年が血の気の薄い顔で悔しそうに見上げる。憎しみの籠った瞳。

「狂気など、勇気を奪うことが出来なければ脆いものですよ。貴方は獣としては強かった。ですが、人としては余りにも弱い。そしてそれ以上に……哀しいです」

 見下ろすスピナーと刹那のあいだ見つめ合い、少年はフッと睫毛を伏せると疎らな草の上に倒れた。

 主の敗北を理解したのか、離れたところで見守っていた黒豹が怒りの咆哮を上げた。


「―――こっちだ! こっちから聴こえた! 隊長ッ――隊長いますか!?」


 不意に幾つもの気配と叫び声が右手から近づいてくる。スピナーにとって聞き覚えのあるそれは、賊ではなく部下のものだ。待機するように言っておいたが、どうやら戻りの遅さに心配して捜しに来たのだろう。

 彼は眼前の豹に顔を戻した。

「大丈夫、お前の主は死なせません。だから、今は逃げなさい」

 獣に言葉など通じるわけがない。ないが……彼はこの豹ならばもしかしたらと思った。おそらく長い間この少年と過ごしてきたのであろうこの豹ならば……。

 三秒ほど、繋がれた眼差し。その瞳は少年と同じように底深い闇色だった。だが、あるいは気のせいかもしれないが、その奥に知性にも似た温かい光が潜んでいる気がした。

 おもむろに豹は左手に横たわるあの小川を飛び越えて林の中へ消えていく。数名の部下がここに辿りついた時には、怪我をしたアッシュとスピナー、そして彼の腕に抱き抱えられた意識のない少年だけが残されていた。

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