第3話 月下の病 <1>

(ダナス歴 87年 春)



 がさがさと青草を踏み分けて、一個分隊規模の騎士団が山を登っている。春に入って暖かくなった山は生命感に満ち、木々や葉の色艶も、足下に咲く花も、柔らかな土や立ちこめる香りも、歓迎の色に満ちている気がした。

 だがその一方では小さな生物から大きな獣まで活動を始めている。油断は許されない。そもそも男達に油断などない。何しろこのタクト山に来た目的は決して遊びではないのだから。

「少し斜面がきつくなってきましたね。そろそろ降りましょう」

 先頭を行く騎士が振り返って言い、葦毛色の騎馬の鞍から降りた。そして手綱を持ちかえると轡を取って進みはじめる。後ろに続く騎士達も彼に倣った。

「剣を抜ける間隔を保ってください。どこから襲って来るか分かりませんからね。さぁ、行きますよ」

 26名の小騎士団はさらなる深みを目指して獣道を突き進んでいった。


 のちに“十年戦争”と呼ばれることになるその開戦から四年が経とうとしていた。レストリアとの国境にあるダナトリア渓谷では多くの同胞が命を落とし、何人もの将が英雄の名と引きかえに散っていた。そんなダナス激動の最中だが、ある小隊が戦場から遠く離れたこの北の山中で全く別の任務についていた。

 ダナスの国力は豊かな鉱物資源を利用した産業の発展によって築かれている。それは今やレストリアとの戦を支えている最重要の部門であった。量産される軍備、否応なく鍛えられていく生産技術。製品は隣り合う同盟国サイゴンにも供給される。そしてそれと引き換えに向こうの特色である豊かな農作物が輸入されてくるのだ。

 ダナスにとって命の源とも言える幾つかの大鉱山。このタクト鉱山もまた、三本の指に入るほどに重要な採掘場だった。しかし、もう随分と前からこの辺りには山賊が棲み付き、時おり輸送中の鉱物や物資を強奪される事件が起きていたのだ。国も当然それを捨て置けずに討伐隊を派遣してきたが、広大なタクト山の中では賊のアジトすら発見出来ないばかりか、巧みに襲ってくる連中によって何度も返り討ちにされてきた。しかもここ二、三年は命からがら生還した兵達の口から“魔物を見た”などと言う報告まで飛び出している。

 今年の一月、ミゲル王が病態の悪化により王位を退き、第一王子グレゴリアがそれを継承するとすぐさま幾つかの政策を打ち出した。その中の一つに鉱山経営の安全確保が含まれていた。この戦のさらなる長期化を予測した彼は、それに耐えるためにもまず、これまであまり大きく扱われていなかった山賊の存在を一掃する必要を感じたのだ。

 そして、このある意味で非常に重要な任務を託されたのが、この一年ほどで逸材との評価を著しく高めてきた若き小隊長スピナー・フォン・オルトラス……19歳の美青年だった。


 山狩りを始めて今日で三日、採掘場を開始地点として東へと地道に登下山を繰り返している。もしこの間に輸送隊への襲撃などが起きれば恐らくは採掘場より西側に賊の隠れアジトがある。その報せが無い限りはまず東側を虱潰しに調査し、時間はかかっても拠点を見落とさないことに最重点を置いた。

 総数50名の小隊は25名ずつの分隊に分け、時間差をつけて山を歩いている。擦り抜けられるリスクを減らすためだ。そして危険度の高い先発の隊をスピナー自身が率いていた。


 今、西の山並みの彼方に赤い夕陽が落ちつつある。

「あと30分もすれば一気に暗くなりますね。この辺りならちょうど野営に良いでしょう。少し早いですが食事にしてください」

 木々がやや疎らで傾斜もほとんど感じない広々とした場所に到り、スピナーは今日の進軍を終えることにした。

 彼の指示を受けた騎士達はそれぞれに馬を休ませる。それから間違っても山火事を起こさないために草を刈って土を盛り、そこに石を積んで即席のかまどを造ると火を焚いた。鍋に水を入れて沸かしながら、進軍中に仕留めた野兎や小さい猪の皮を剥ぎ、肉を切りだしていく。こうして動物を狩れた日は干し肉などの保存食を節約できる。

 手際良く働く部下達の音や声を背中に聴きながら、スピナーは低く鋭く差し込んでくる夕陽を眼前に生い茂る無数の木々の間から見つめ返していた。

 あの彼方にはレストリア国がある。そしてその手前に横たわるダナトリア山脈が、ここからでは到底見えない距離だが彼の瞳には浮かんでいた。この戦がこの先も続いていくのなら遠からず自分もあの渓谷で闘う日を迎えるだろう。或いはこの任務を無事に果たせば次は前線かもしれない。主力三軍のどこかに加われるだろうか?

 ――“彼”はすでに副官……。いえ、今日も無事ならば良いのですが……

 追いかける背中を思い浮かべ、スピナーは黄金色の西空に目を細めた。

「隊長、晩飯の準備が出来ました。早く来ないと猪肉がなくなっちゃいますよ」

「ああ、ありがとうございます。では頂くとしましょうか」

 スピナーは踵を返すと、一度だけ遠い戦場を振り返り、そして部下達のささやかな晩餐に足を運んでいった。その美しく流れ落ちる銀髪に夕陽の波を滑らせて。



 やがて獣達の遠吠えも止み、替わって聴こえてくるのは虫達の求愛の音色や、風が空洞を抜けるようなフクロウの鳴き声。

 夜が深まれば山もまた果てしなく深まる。闇は世界に限りをなくし、同時にすぐ隣を分厚い壁にも変える。

 弱い風が木々を縫い漆黒の傘を揺らせば、夜行性の生き物たちの声もかき消して葉と葉の無数のさえずりが辺りを包みこんだ。その隙間からきらりきらりと覗く天上の星達は、今は、誰の瞳にも落ちてはいなかった。一日を労う穏やかな眠りの時……。


 ―――それは突然、26人から一つの寝息を奪った。

 羽根のように軽い何かが空気を微かに揺らし、不運な騎士にこの上ない不幸を落とした。小さく鈍い音に続いて液体が遠慮がちに溢れ出す音が静寂の中に流れこむ。ゴポゴポと。

 その直後、彼とはかなり離れた位置で今度は草の踏み倒される激しい音が起こり、明らかに人ではない何かの猛りが唸った。そして一秒後、草木も眠ろうという山中に壮絶な断末魔の叫びが木霊する。


「ッ……! 全員、武器を取りなさい! 何かが居ます!」


 跳ね起きたスピナーは傍らの槍を手にし急いで指示を放つ。がさがさと騎士達は起きあがるが就寝中だったために鎧は着けていない。

 また恐ろしい唸り声と共に別の騎士が絶叫した。激しく振り回されている気配。それからぶちぶちという壮絶な音が聴こえて大きなものが草の上に転がる。おそらく人、しかも悲鳴が止んだということは息絶えたか、良くても気を失ったに違いない。そして間違いなくこの暗闇の中に獰猛な獣がいる。戦慄と恐怖が瞬く間に空気を支配し、騎士達の背中に氷のような汗が伝う。


「闇が深い! 焚木の傍の者は火を熾しなさい! 他の者は外側へ剣を構えるのです!」


 スピナーが叫んだ。今日は月が弓状に欠けている。そのうえ薄雲が掛かり朧月と化している。星の明かりだけではまだ辺りを見通すに時が必要だ。火が灯るのが先か、目が慣れるのが先か、獣が次の牙を剥くのが先か。

「―――ッ?」

 何処からか小さな声が聴こえた。“うぐッ”という呻き。絶対に空耳ではない。

 ――獣が動いた……? いや、その気配も音もなかった……

 しかしいま誰かが襲われたのは確かだ。しかもあの声は口を塞がれたような声。たとえば背後から口元を手で覆われ、そして急所に刃を……

 ――まさか……

 獣以外にも何かがいる?

 そう考えたその時、焚火が灯り、周囲に立ちこめる闇をぶわっと押し退けた。そしてスピナーの瞳は視界の端、5メートルも離れていない場所に黒い人影を見た。こちらに向けられている顔、そして、一気に迸る殺気―――。

 ギィンッッ

 一瞬で潰された5メートル弱の距離、しかしスピナーの横薙ぎも閃光のような速度。槍の柄に刃の鉄が接触した激しい音が響き、襲いかかってきたその影は弾かれて再び距離を広げた。

 ――防御された。ダメージは与えていない。それよりなんという速度……

 辛うじて対応した彼の首筋に汗が流れる。今もそこにある人影は腰を落としたままこちらを見ている。息遣いはひどく小さく、殺気は恐ろしく冷たい。隙など一瞬たりとも見せられない。

 と、背後で再び獣の短い咆哮が聴こえた。そして騎士達が動く気配も。どうやら焚火の灯りでその姿を見つけ、力を合わせて狩る態勢へと移行し始めたのだろう。さらに、近くの騎士が数名、スピナーと向かい合っている人影を視認して刃を向け直した。

 燃え種の残りを糧にする炎はあまり成長せず、その弱い灯火が闇を押したり引いたりと揺蕩わせる。二つの襲撃者はそれに微かに浮かびかけては不意に消えかけ、不気味な実像を戦士達は掌握しきれずにいる。恐怖心は少しずつ鎮まっていくが、入れ替わって緊張感がじりじりと高まっていった。もうすぐそれも臨界点に達しようかと思えた時―――

「ぬッ……待て!」

 騎士が怒鳴る。

 スピナーと睨み合っていた人影はまるで山の何かに呑み込まれたかのように素早く闇へ消えた。

 獣もまた悠然と反転して騎士達に背中を向けると、緩やかな歩調で真っ直ぐに木々の間へ吸い込まれていった。その姿には、決して追い払われたのではなく、彼らを見逃してやったかのような傲然さが漂っていた


「火をもっと熾しなさい。それと……死傷者の確認をし、息のある者には応急手当を」

 普段は美しいスピナーのアルトボイスが、今は惨劇の跡に重々しくつぶやかれた。

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