第2話 月明かりの轍 <後編>

 約15分後、辿り着いたのは城下の少し外れに在る共同墓地だった。


 迷わず入っていくケイオスを見送りながら、スピナーは心寂しく広がるその全体を外から眺める。さっきの酒屋とは違い、こんなところには近づいたこともない。オルトラス家には一族の葬られている私有の墓地がある。スタンフォード家も代々の名門、先祖を弔うのならここではないはずだが。

 ケイオスの背中がどんどん奥へ入っていくのを見て、スピナーも外柵とアーチの内側へ足を踏み入れた。

 ――もしや……誰か大切な人の墓が? 町の友人や……あるいは―――

 彼の生い立ちまでは知らないし調べたこともない。過去に想い人が事故や病で亡くなってここに葬られている、という可能性がないとも限らない。何しろ前線から凱旋帰還して我が家にすら戻らずに訪れるくらいだ。

「ッ……!」

 想像を馳せながら墓碑の間を進んでいると、いつの間にかケイオスが歩みを止めて一つの石の前に佇んでいることに気付いた。スピナーは慌てて周囲を見回す。そこで改めて認識したのだが、ここは墓地のかなり奥であり、半ば林のようになっていた。近くの太い木の陰に身を隠し、もう一度ケイオスの様子を窺う。

 あまり上等な墓碑ではなさそうだった。ケイオスの身体にほとんど隠されてしまっているような小ささだ。そもそもあんな寂しい場所に造られていることを考えると、かなり貧しい者の慰め程度の墓と推し量って誤りはないだろう。下手をすると故人は世間には顔向けできないような人間だったのかもしれない。周囲の林は遠めならば間違いなくあの石を覆い隠してしまっているだろう。


 しかし、思いの外その弔いの時間は長かった。10分か、20分か……オルトラス家の美しい墓地とは違うこの薄気味悪さの中、耳が痛くなるほどの静寂はただ見守るだけの時間を数倍の長さに思わせた。スピナーは思わず太陽の位置を確かめてしまう。眩しい正午過ぎの陽ざしの下に出たはずが既に夕陽へと移り変わってしまっているのでは、などと不安になったが、太陽は相変わらず高い空から白々とした木漏れ日を届けていた。

 さらに5分くらい経ったか、ケイオスが紙袋を抱えたまま墓地を戻っていく。木陰に隠れてやり過ごしたスピナーは彼が遠い先のアーチを出ていくまで見送る。それから奥を目指して軟らかい土を踏みしめた。

「……これは……」

 辿り着いたその墓碑を見て、彼は驚きの声を漏らさずにいられなかった。


  “レストリア兵士慰霊碑”


 それが、この不格好な墓石に刻まれている文字だった。不格好……そう、まるで素人の手で造られたような歪さを持つ墓石なのだ。誰にも頼るわけにいかず、知られるわけにもいかず、が自らの手で石を用意し、削り、磨き、そして墓碑銘を彫り込んだかのように。

 スピナーはゆっくりと右手を持ち上げる。その手が微かに震えることに戸惑いながら。

「この……香りは……」

 墓石を頭から濡らしている液体を指で拭って鼻先に近づけ、記憶の引き出しから正解を探す。酒は12の時から嗜んでいるが、まだ戦争が始まっていない頃に父が自慢げに分けてくれた“あの果実酒”の香りと似ている気がした。

 ――“葡萄やチェリーはサイゴン産が一番だがな、ネーブルだけはレストリアだ”

 帰るケイオスが脇に抱えていたあの紙袋の中には、すでに空と化した酒瓶が入っていたことだろう。墓石を濡らしているそれと、足下の黒っぽく染まっている土を見れば判る。よくよく見れば周囲の名も無い雑草にもきらりと反射する光がいくつもある。

 ――“人を殺して強くなったと思うか?”

 スピナーは右手を下ろした。ぎゅうっと握りしめた両の拳。今日、二度閉じ込めた想いのどちらとも違う、静かな熱が手の中に、そしてゆっくりと全身へ広がっていった……。


 帰り道の景色は憶えていない。飛び込んでくる色づいた声は相変わらず無視した気もするし、無意識におざなりな素振りで応えた気もする。とりあえず、今日のスピナーは様子がおかしかった……と誰かに噂されることは間違いないだろう。

 心ここに在らずのまま椅子に座るとすぐにウェイトレスが駆けつけた。

「何になさいますか?」

 その子を見上げ、スピナーはふと我に返る。頭が現状に追い付いてくるまでの間、図らずもジッとその顔を見つめてしまった。とりたてて美人でもないが清潔感と真面目さに好感を持てる素朴な少女。その微かにそばかすを残す小さな鼻と頬が徐々に赤く染まっていった。その頃になってやっと、彼はここが食堂兼酒場であることに気付いた。

「あ、ああ……失礼しました。では……ワイ―――」

 そこで言葉を切った彼に、ウェイトレスは真っ赤な顔で小首をかしげる。

「ワイン……でよろしいでしょうか?」

「……いえ……ネーブル酒はありますか?」

 少女は滅多にない注文に視線を宙へ泳がせ、それから慌てて首肯した。

 パタパタと去っていく彼女を見送って、スピナーはテーブルの上に目を落とす。知らぬ間に組んでいた両手がそこにある。少し心が落ち着いてきた……そんな気がした時、不意に近くの席から耳を引く会話が飛び込んできた。

「あの勝利は格別だったよなぁ! 退いていく連中の顔、痛快だったぜ」

 ちらりと見やると、騎士と思しき青年が三人。どうやら帰還したばかりのケイオス中隊の者のようだ。上役以外は報告の仕事もなく、散開後すぐに身内の元へ帰る者もいれば、待ち切れずに酒場へ直行して労いの宴卓を囲む者達もいる。彼らは後者、今日は勝利の美酒と言うところだろう。

「……ところでお前らさ、攻め込んでいる時の隊長の顔見たことあるか?」

 しばらく耳を傾けていると話の流れが変わる。ウェイトレスが恥じらいのある笑みと共に置いていったネーブル酒に右手を添えたまま、スピナーは唇も濡らさず聞き入っていた。

「無ぇなぁ。だって隊長は先陣切っていくし、追い越すか隣に並ばなきゃ見れねぇだろ? でもそこまで前に行ったらそれこそ余所見する余裕ねぇよ」

「まぁそうだよな。けどよ、あの一戦でたまたま目に入ったんだよ。敵を一撃で次々倒していく真っ最中の隊長の顔! 俺さ、てっきり血に飢えた怪物のような凶暴な顔をしていると思っていたんだよ……」

 違ぇの?と同席者が返す。目を円くしているのは声だけで想像できた。

「それがよ、ひどく辛そうなんだ。いや、たぶんだけどさ、そう見えたんだ。だって一瞬どこかやられちまったのかと思ったくらいだもんよ。でも実際はあの将との一騎討ち以外じゃ怪我負わなかったろ? 確かに鬼気迫るものはあったんだけど、なんつーかなぁ……死の轍が出来る、なんて恐れられる怪物には、俺には見えなかったんだよな……」

 その先の会話はスピナーの頭には入ってこなかった。彼はいまの言葉を反芻しながら、ケイオスという男に対する確信を揺るぎないものへと育てていた。

 軍閥の名門に生まれ、図らずも国の命運を掛けた戦争に時を重ね、恵まれてしまった天稟を以て戦場を突き進んでいく。しかしそれはきっと、彼が望んだ生き方ではなかったのだ。ただそれしか選択肢がなかったのだ。

 彼が強くなったのは、恐れられる為。

 彼が恐れられようとしたのは敵を遠ざける為。

 戦場に出れば必ず命の遣り取りをする。だが彼は最前線にいながら出来るだけ人を殺したくないと願い続けているに違いない。だから“死者の轍を生む者ラット”などというおぞましい呼び声も流れるに任せている。

 そして、剣を交えざるを得ない者にはせめて一太刀で苦痛まで奪い去れるよう、あれほどの強さを磨き上げてきたのだろう。

 ――貴方は……人を殺さぬために強くなり続けているのですね……

 瞼を下ろし、胸の中で自分の浅はかさと彼の強さを噛みしめた後、少し濁りのあるネーブル酒を瞳に映して唇へ運んだ。鼻をつく香り、やや熟しすぎたような甘み、柑橘系特有の強い後味。いつか隣国で最高のそれを飲める日が来ることを祈り、スピナーはゆっくりとグラスを傾けた。


 翌日、ケイオスは主力三軍の一つ勇獅子隊の副官に任命された。

 同日、スピナーは父が便宜を図ってくれた小隊長の座を謹んで辞退した。

 真の栄誉とは何か。

 最高の栄誉とは何か。

 全てをもう一度見つめ直し、本当に戦場に出るべき時が来るまで一歩一歩重ねていこうと胸に誓った。17歳と4ヶ月……血気盛んな若者が確かな男へと変わり始めた瞬間だった。



 約二年後、小隊を率いて山賊の討伐に向かい、彼はもう一つの運命に巡り合う。

 それから間もなく中隊を任されて戦場に送りこまれ、鮮やかな活躍を経てその翌春、銀鳳隊を翼に主力三軍の一翼を埋めることとなる。

 出会いの日から何一つ変わらず気高く闘い抜いていた無骨な騎士。ようやく隣に並んだ憧れは、その時も、それから先も、スピナー・フォン・オルトラスにとっては追い続けるべき背中のままだ。




                   四将伝其の壱-月明かりの轍- 了

                   四将伝其の弐-月下の病- へ続く

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