Florally -四将伝-

仙花

第1話 月明かりの轍 <前篇>

(ダナス歴 86年 晩冬)



 ―――勝機!

 泥濘に足を取られてバランスを崩したその瞬間を見逃さず、スピナーは渾身の突きを放った。降り注ぐ銀色の雨を切り裂いて槍刃が奔る。

 しかし左剣の刃を当てられるとまるで導かれるように軌道を逸らされ、その為につんのめった上半身の、無防備な喉元に、いつの間にか右剣の白刃が冷たく横たわっていた。

「勝負あり、だな」

 有無を言わせぬ決着を告げて相手は剣を引いた。喉元からゆっくりと遠ざかる白銀の光を見つめながら、スピナーはそれが事実であることを理解する。あれは勝機などではなく罠だったのだ。その誘いに自分はまんまと乗って飛び込んでしまった。勝ちたい、という強い欲を逆手に取られて。

 スピナーは槍を下ろし背筋を伸ばすと、眼前の金髪の男に微笑みを向ける。ケイオス・オブ・スタンフォード……通称“ラット”と呼ばれる男に。

「その騎士の通った後には死のわだちが残る……。さすがに戦場で何百と無慈悲に殺してきた男には敵いませんか」

 それは悔し紛れの皮肉だった。

 スピナーはこの試合を己の目指す栄誉への足掛かりにしたかった。名門オルトラス家の次男として生まれ、いつしか天才と持て囃されるようになった17歳。一日も早く軍に入り、指揮官まで駆け上がって勇名武名を轟かせたかった。二年前に始まった戦争を自分の手で勝利に導き、稀代の勇者として後世に名を残す。それこそが彼の信じる“最高の栄誉”なのだ。その為に、19歳にして戦場に名を響かせ一個中隊を率いているこの男に勝利すること、それが理想の一歩だったのだが……初めての挫折とも言えるこの敗北に思わず負け惜しみが漏れてしまった。

 ケイオスは二刀を鞘に納め、左手で頬の掠り傷を拭うと口を開く。

「人を殺して強くなったと思うか……?」

 薄い紅がついた左手をぎゅっと握りしめ、ちらりとスピナーを見た。

「……お前は戦場に出るべきではないな」

 それは蔑みの籠った一瞥だった。

 雨の中、踵を返して自分を置き去る男の背を、オルトラス家の天才児は怒りに打ち震えながら睨み続けた。



「―――ま、参った。アンタには勝てない」

 突きつけた切っ先に怯えながら剣を落とす騎士を、スピナーは誇らしげな笑みで解放する。これで29戦28勝……己が日々強くなっていく確かな手応え。

 名だたる戦士や武術家に試合を申し込み、その悉くに勝利を収めてきた。今やこの武名はミゲル王の耳にも届いていることだろう。そしてその傍ら、国の中枢に多くのコネクションを持つ父に頼みこみ、自分を部隊の指揮官に抜擢するよう働きかけてもらっていた。もちろんその日の為に様々な学術も弛まず修めている。

 今の自分ならばどんな隊を与えられどんな戦場に向かわされても文句なしの功績を上げられるだろう。その自信……いや、確信と言ってもいい想いが、胸の中に煌々と滾っている。もはや必要なものはたった一つ、戦いの舞台だけなのだ。


 6月に入ったある日、兵法書に向かっていたスピナーの部屋にノックが響く。

「居るか、スピナー?」

 それは父の声だった。本から顔を上げて一息吐き出すと「どうぞ」と返す。品の良い扉が軋みもなく開く。銀の短髪を綺麗に分けて口元には髭を跳ねさせた、気品と威厳の漂う紳士が入ってきた。

「ふむ、精が出るな」

 正装姿の父が彼の手元を見て口角と髭を吊り上げた。

「お父上、その御姿は?」

「城の帰りだ。軍部のフィリップに会ってきた」

 フィリップ・モルディーノと言えば軍における人材登用の責任者にあたる重臣だ。スピナーの心臓が微かに胸を叩く。

 父は壁際の小物を手にとって矯めつ眇めつしながら言葉を続ける。

「新しい小隊の隊長をやってみないか、ということだ。どうだ?」

 僅かに振り向き含みのある流し目を寄こして問う。その笑みには、“お前の胸中などお見通しだよ”と言う悪戯っぽさがありありと浮かんでいる。

「父上……ありがとうございます! 謹んで受けさせて頂きます!」

 スピナーは椅子から立ち上がると敬礼を取りながら答えた。

「分かった。では明日にでもフィリップにその旨伝えておこう。遂にお前も仕官だな」

 置き物を棚に戻し指を振って悠然と出ていく父を見送りながら、彼譲りの銀髪と母譲りの美貌を持つ息子はグッと拳を握りしめた。


 興奮冷めやらぬスピナーは勉強を中断して町に出ていた。

 空気は夏が近付いていることを伝えるように熱を増している。よく晴れた空から降り注ぐ陽光を見上げ、改めて己の想い焦がれる高みを確かめる。その一歩がいよいよ始まろうとしていた。

 こうして外に出れば必ず集まってくる婦女子の視線も今日は気にならない。いつものように涼しい笑みで一つ一つ応える気にはなれなかった。興奮は落ち着くどころかむしろ昂っていくようだ。

 そんな折、不意に城下町西側の大門から歓声が上がった。

 塗り変わっていく町の空気を感じて我に返ったスピナーは、流れゆく人々を見て自分も混ざっていった。

「ケイオス中隊が還ってきたぞ!」

 どこからか飛び込んできたその言葉に、さっきまでの興奮が一瞬で引いてしまう。苦々しい記憶、喉元に突きつけられた銀色の光が甦る。29戦28勝、1敗。唯一の敗北を与えてくれたあの刃、まばゆい金髪、鷲のように力強い双眸……。

 ――“お前は戦場に出るべきではないな”

 忌々しい言葉が甦りスピナーは強く頭を振る。銀の長髪が躍り、陽の光を散らした。

 出迎える民衆の花道を二百弱の騎士が胸をそびやかして馬脚を進める。先頭に立つ金髪の巨漢も脇に兜を抱え、敢然と顔を上げて城影を見据えている。その左頬に大きな治療痕が見られた。鎧の右肩や胸を黒く染めている乾いた血糊は己のものなのか、敵兵の返り血なのか、見上げる者たちに鬼神の闘いぶりを想像させる。

 周囲の囁きから最新の一報が伝わってきた。ケイオス隊は今回、レストリア軍の部隊を一つ壊滅させ、それを率いていた敵将は彼が一騎討ちで倒したらしい。

「あの若さで凄い戦績を上げているよなぁ……。主力三軍の上官に抜擢される日もすぐそこかもしれないな」

 誰かの声に、スピナーの奥歯が軋む。握りしめた拳は先刻とは違う想いを閉じ込めて震えていた。


 何の目的があるわけでもない。

 疲労の蓄積している相手に再戦を申し込んでも意味はないし、手柄に対する祝辞を述べる気など当然ながら一握もない。

 ならばどうして今、城の正門、初代王の名を冠した“ハリス門”が見える店で彼の帰りを見張っているのか……スピナー自身にも分からなかった。

 王への報告に向かう背中を見送ってから一時間弱ほど経っただろうか、毅然と胸を張ったケイオスが出てくるのが見えた。門の両脇を守衛する兵が敬礼を取り、彼が何か応えるように口元を動かしたのが辛うじて判った。スピナーは葡萄酒一杯分の会計を速やかに済まし、あの姿を見失わないよう店外に出る。

 50メートルほど先をケイオスは歩いていく。ひっきりなしに飛び交う挨拶に一つ一つ返しているようだ。愛嬌はないし愛想が良いという感じでもないが、律儀な性格なのは確かだろう。反対にスピナーは周囲の声を悉く受け流していた。人を尾けようという時は目立つ容姿は不利なものだ。

 ――しかし……何処へ向かっている?

 彼の家なら知っている。軍閥の名門スタンフォード家はこの街ではオルトラス家とまた違う知名度を持っている。ケイオスの父も祖父も護国の将を務めてきた、騎士として非常に優秀な家系だ。特に父のダリル・オブ・スタンフォードは怪我による引退さえなければ今でも最前線で隊の指揮を取っていた事だろう。だからこそその使命を継ぐように出てきた息子への周囲の期待は大きいようだ。


 屋敷からだいぶ外れた方角へと歩くこと数分、ケイオスは一つの店へと入っていった。看板を見上げるまでもなくそこが酒屋なのは知っていた。1分程度で再び姿を現した彼の手には紙袋が抱えられている。

 ――なるほど、帰る前に自ら祝杯を用意したのか……いい気なものですね

 スピナーは鼻白むと同時に自らの行為の不毛さを感じ、自分も任官の前祝いでも買ってさっさと帰ろうかと考える。しかし、歩き出したケイオスが相変わらず屋敷とは別の方角へ向かっていくことに気付き、酒屋は帰りに寄ることにしてそのまま追跡を再開した。

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