第6話 鉄壁と疫病

 騎馬一つに対して歩兵が最低二人、それぞれの大盾に己の体重をあずけて体当たりをする。

 さらに後ろに並ぶ兵達も盾で壁を作り、押し込まれる仲間の背を支える。

 硬い壁に激突した馬はよだれを巻き散らしながらいななきを響かせ、その背に跨る騎士はこの壁を穿たんと長槍を突き下ろしてくる。

 しかし防御に比重を置いている大盾は覗きこまれでもしないとそうそう刃先を身体に届かせない。万が一届いたとしても首までしっかり覆う兜と鉄の肩当てはまず肉体まで傷つかせはしない。


 レギューヌ隊の一波目を白馬隊は見事に堰きとめた。だが、その後ろからは第二波、第三波と敵騎兵が溢れ出てくる。

「踏ん張りどころですな」

 兵達の戦いぶりを凝視しながらトッド副官は呟いた。

 隣で白馬を従えるリリーは小さく「ええ……」と返しつつその瞳に全てを映している。今の彼女には少し前までの憂いや躊躇いといったものはなく、引き締まった表情に感じるのは将としての覚悟だった。

 こっそりと振り返っていた後列の兵士は戦場にもかかわらず見惚れている。

 何度この時を目の当たりにしても、これが戦傷者を看病したり兵達の相談に応えたり皆の食事に混ざったりしている時の奥ゆかしい女性と同一人物とは思えない。彼女がこんなに凛とした佇まいを見せるのは白馬隊が剣閃に晒されるこの時だけなのだ。

「右翼の六を!」

 白いグローブに包まれた細い五指を反らして、彼女の右手が自軍中央からやや右寄りへと突き出される。盗み見ていた兵士は慌てて視線を前へ戻す。

「中曲右翼の六、詰めろ!」

 トッドの深みと張りのある号令が金属音を破って響きわたる。

 敵兵との衝突時、実際に肉体的接触をしているのは壁の前衛二列ていどだ。その後ろで味方が何列も身構えて待機していた。その中から指示を受けた者が素早く動く。


 リリーは兵法家ではないし、2年前に将軍補佐に祭り上げられるまでは軍事に関して完全な素人だった。

 そんな彼女の役割は求心力の一点に過ぎず、当時の白馬隊(猛虎兵団という名だった)の将軍ライゼンの傍らに身を置いて凄惨な光景を見守るだけだった。

 だが、やがて自軍の綻びなどの予兆を目敏く察知するようになり、彼女の訴えを受けて陣形の局所の厚みを操ると猛虎兵団の粘り強さは飛躍的に増した。

 しかし、そうして徐々に飾り以上の意味を彼女が持ち始めたある日の一戦……“馬斬り”の異名を取るほどの豪傑だったライゼン将軍が敵陣奥へ迫りながら壮絶な憤死を遂げた。

 再編を必要とした部隊は当初トッド・ゾブリ副官がそのまま将軍に繰り上がるかと思われたが、王の判断でリリーを将軍に戴くことになる。そのことにトッドはおろか兵の誰からも異論・不平はあがらず、戸惑う彼女を口々に説得してその座に就かせた。

 その後、彼女の戦場感覚に合わせた部隊になるべく訓練を重ね、今の鉄壁の白馬隊へと変身を遂げたのだった。


「左翼の一! 左翼の四!」

 二十画に数字を割り振られた横長の陣の前衛から劣勢の箇所をつぶさに拾いあげるリリー。

「中曲左翼の一、詰めろ! 左翼の四、詰めろ! 後曲、中曲を埋めよ!」

 それをトッドが全兵へ届く号令で的確に指示する。時には機を見て前衛を入れ換え、岩のように硬い壁の内側を水のように柔軟に動かした。

 レギューヌの騎馬隊は堤防に砕ける河水のようにことごとく進撃を阻まれ、もがきながらその嵩を徐々に増やしていった。

 そして―――。


「―――レギューヌ将軍、なかなかの奮闘ぶりでした」

 ひと際強い衝突音を弾けさせ互いが一旦距離を開けると、スピナーは馬の足を止めさせて突然馬上で一礼をした。その優雅な動作はあまりにも場違いで、レギューヌは思わず動きを失う。

「ハァ……ハァ……なんの真似だ、若造……。我が槍術に敵わないと悟って命乞いでもしているつもりか?」

 肩で息をしながら右手の槍を突きつけるようにぐっと伸ばす。ふと、自分の槍が思っていた以上にボロボロになっているのが目に入る。

「いえ……そろそろ貴方につける稽古も終わりにしようかと思いまして」

 そう言うとスピナーは視線をレギューヌよりさらに奥へと延ばした。そちらには白馬隊の陣がある。

「なんだと……?」

 予想もしなかった物言いに血管を浮き立たせたその直後、周囲の自軍兵から気勢が消滅した。レギューヌは何事かと辺りを見回し、兵達が一様に揃えているその視線を追いかけた。

「なッ……あ、あれはまさか……!」

 いつの間にか白馬隊の壁が門の開く姿を見るように中央から割れて退き、その向こうに新たな、鈍色の重装備に身を包んだ騎馬軍団が出現していた。

 レギューヌ隊の誰かが、恐怖に駆られた声で叫ぶ。

「き、金獅子隊だッ……“ラット”がいるぞ―――!」

 それが引き金となって、騎士達は馬首を返すと後方へ退避しようとし始めた。

「くっ……退けい! 後陣まで退却せよ!!」

 鞍上の弱気は馬に伝わる。崩れだした隊はもはや押し留められぬと悟り、レギューヌは進撃を捨てる判断を下した。

「……残念ですがそれは不可能です。見えませんか、後方部隊がどうなっているか」

 しかしスピナーの冷たい言葉を浴びて、最悪の予感を覚えながら遠方を確かめる。そして将軍は己が罠にはまったことを知った。



 15分ほど前。

 レギューヌ隊が銀鳳隊の引き波に釣られて突撃を開始してからしばらく後、縦の勢いによって横の厚みが減った隊の後部を、突然左右から黒い風が挟みこむように襲った。

 展開していた銀鳳隊の両翼の陰に隠れて、無双の機動力で駆け上っていたその疾風。黒色の軽装備に身を包んだ騎馬団“黒狼隊”。率いるはダナス史上最年少で将軍になった経歴を誇るジョシュ=プレイグだ。

 彼には姓はない。

 戦場を駆け抜ける漆黒の青年――あるいは少年――はその恐ろしさの余りに忌名としか思えない二つ名を敵から冠された。


「さぁ、始めようか」

 黒い風のさらに十メートルほど先を単騎で疾駆するブラックパンサーの背で、黒尽くめの若者は愛豹の逞しい筋肉に片足を立てた。

「こ、こいつまさか―――!」

 目で追うのも至難なほどの彼を眼前にして、レストリア騎兵の一人が怖気をふるわせる。

 黒豹の背中から少年が凄まじい速度で跳躍した。腰の後ろに交差している二本の鞘から、シュッという鋭い音と共にダガーが引き抜かれる。

 彼の足が一頭の騎馬の臀部を蹴りつけ、三角飛びの要領で次の騎馬へと跳んだ。蹴られた馬はいななきを上げながら仰け反り、それを制御するべき背中の主は何もせずに転げ落ちる。地面に弾むと同時に兜ごと首が離れ赤黒い血液が噴き出した。

 漆黒の少年に飛びつかれた騎兵はそのあまりの速度に何の反応も出来ないまま次々と首を斬られ、或いは急所を貫かれていく。あっという間に積み上げられていく死体、無秩序に散り始める空馬、中空の足場が増えるほどにさらに捉えどころなく縦横無尽に吹き抜ける彼は、まるで死を蔓延させるために訪れた悪夢の黒風。

「―――“プレイグ(疫病)”だ! 誰か止めろぉッ!」

 完全に敵の進撃を切り裂いたジョシュの背に続いて、速度ではダナス軍一を誇る黒狼隊が死神の大鎌のごとく敵騎兵を刈り取っていく。

 地上の色を塗り替えていく己の部隊の空で、短剣の刃まで黒く染めた少年は戦場を支配する。時に宝石のような瞳で無邪気に笑い、時に花も恥じらう微笑みで男の心すら融かしてしまうその顔には、今は一切の光も映えない冷酷な笑みだけが浮かんでいた。

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