第3話 漆黒と純白
(ダナス歴93年 晩春)
―――美しい筋肉をしなやかに伸縮させて、巨躯の黒豹が陣営の中を駆け抜ける。
疾い。
そして猛々しい。
しかし、兵士達の誰もその前に立ちはだからないのは、仔馬ほどもあるその豹に恐れをなしているからではない。
ひとつの陣幕の直前で猛獣は砂煙を立てながら四肢を突っ張った。
そしてその背から、一人の戦士が軽やかな身のこなしで舞い降りる。
ふわり……と音もなく地を踏んだのは騎士のブーツではなく軽い革製のロングブーツ。
物々しい重装備の騎士達が多く行き交うこの場所で、全身を軽装備に包んだその戦士は豹を抜きにしても否応なく目立つ。
なんと言っても、全てが黒一色に統一されているのが衆目を呼ぶ大きな因だった。服だけでなく肩当てや肘当て、腰や膝に装着しているそれらも、尻の少し上で交差している二つのダガーケースも。
そして首から上。
男……と知っている者すら、改めて向かい合うと戸惑いを覚える。
彼は齢こそ22の立派な青年なのだが、面立ちはまるで少年だった。それどころか、その中性的な造りは角度一つで少女と見紛うことすらある。
小顔の中央へ綺麗にまとめられた小さめの各パーツの中、双眸だけは大きい。二つのぬばたまの瞳は磨かれた黒曜石を埋め込んだかの様に輝いている。
加えて漆黒の頭髪。短めだがばらばらと不揃いでところどころクセ毛。いつも無造作に振り乱され、それが時おり雨に濡れた女のように艶っぽく映るせいでいっそう周囲の煩悩に爪を立ててしまうのだった。
しかし、本人はまるっきり人目を理解していない。
黒豹の背に乗って派手に現れ、軽業師のように飛び下りて飄々と歩き出すと、陣幕の前に立つ兵士の眼前にトンと足を止めた。
「リリーは中?」
自分より年上であろう正規兵に対して、小柄な彼はズイッと見上げながら不躾な一言。そのボーイソプラノの美声は、闇深い全身から凛と鳴る鈴が転げおちたかのようなミスマッチの妙を生む。
兵士は速やかに端へ身を寄せると、緊張からか僅かに掠れた声で答える。
「ジョシュ将軍、お疲れ様です! リリー様はいつものように戦傷者を看ておいでです!」
「そっか、警護ご苦労さん」
敬礼する彼の前を悠々と横切って、ジョシュと呼ばれた若き将軍は陣幕に踏み入る。
――リリー様か……相変わらずだね
ふと浮かんだ微笑みは彼を完全に美少女へと変えてしまっていた。
「す……すみません、リリー様。僕なんかの血でお召し物を……」
赤味がかった毛髪の青年が、頬にも朱を差しながら目の前の女性に頭を下げている。
女性……リリーは彼の右上腕に巻いた包帯をその白魚のような細指でしっかりと留め、ふぅっと一息吐き出してにっこりと微笑んだ。それはまるで雲間から落ちる陽ざしのなかに一輪の花が揺れたかの様。
「気にしないでくださいね。服なんて汚れたら洗えばいいんですから」
そう言いながらそっと手を離していく包帯はじんわりと紅の染みを滲ませ、さっき自分のスカートに飛びついたそれの源である傷にもう一度視線を注ぐ。いまは隠れているとはいえ、目にしたばかりの生々しい斬傷は布を通して記憶が見せてしまう。
「……でも怪我は洗って落とせるわけではありません。それに、服は着古したら新しいものに替えられるけれど……身体はどんなに疵だらけになっても一つしかないんですよ」
青年は息を呑む。胸が震えるような想いに、言葉を返せない。
彼女は将軍だ。自分のような一兵士とは圧倒的に隔たる高位にいる。それなのに、戦の後には必ずこうして負傷者を看てまわり、自ら衛生兵と変わらぬ仕事に携わる。古参の仲間に聞けばずっとそうして来ていると言うではないか。
さっき事もなげに「洗えばいい」と言ったその服だってその人形のような自分の細腕で手入れしている。同じ兵卒同士ですら先輩の汚れ物を新兵達が持ち回りを決めて洗ったりしているのに。
哀しげな微笑み。深い慈しみが憂いとなって浮かぶ、淡いエメラルドの瞳。
吸い込まれるように見惚れる彼は、ほとんど無意識に彼女の唇へ眼差しを這わせてしまう。桃の季節に出会ったようなふっくらと瑞々しい、そして控え目に小さい唇。ずっと戦場に身を置いているのになぜこんなにも潤いがあるのだろう……。
その口元がふいに割れて、ゆっくり動いた。「あの……ランスさん……?」
「ぇ……? えっ……あ、す、すみません、俺、僕、あの……!」
我に返った彼が血の気を全部顔に集めて身を引くのを見て、リリーは自分も首筋から熱を這い上がらせると身を縮めた。
「―――あ、いたいた! リリー久しぶり!」
おかしな空気の中に、男とも女ともつかない明るい声が飛びこむ。ふたりが弾かれたように視線を向けると、黒尽くめの小柄な若者が満面の笑みで手を振りながら歩いて来ていた。
「あ、ジョ、ジョシュ将軍! お疲れ様でありまぐっ……!」
「ありまぐ? あ、腕怪我してんのに敬礼なんかするから……いいよいいよ安静にしてて」
ジョシュは満面の苦笑に変えてランスという兵士に手のひらをかざす。
周囲の怪我人たちも出来る限りで敬礼を取りながら、内心で彼の登場にほっと安堵の息を漏らしていた。憧れの紅一点が自分達と同格のランスに対して少しいい雰囲気になりかけていたのだ。気が気ではなかった。
「ジョシュさん。こんなところまでどうされたのですか?」
リリーは微かな動悸を一秒でも早く鎮めんと胸元を押さえながら、麗しい少年に目を向ける。
彼はそんな彼女の透き通るように白い頬に僅かな残り火を見つけ、小さく眉を浮かせた。
――ははぁ、また紅くさせられたな?
「ったく、罪作りだね、リリーは」
くすくすと肩を揺らすジョシュに彼女はきょとんとした表情で小首を傾ける。そんな仕草がまた彼の言う“罪作り”になっていることにも気付かずに。
「ああ、ごめん。もちろん大事な話があってすっ飛んできたんだ。とりあえずリリーの幕舎に行こ。……ちゃんと在るよね?」
将軍に推し立てられてもう一年半ほど経つというのにまるで変わらない彼女に、さすがにあり得ないような不安を覚える。
「ええ……断っても却ってご迷惑をおかけしてしまうみたいなので……」
「当たり前。将軍が他の皆と同じ幕舎で寝泊まりとか、隊の規律にも悪影響だよ」
しかもリリーは……という言葉は敢えて言わなかった。まぁ周りで聞いている男共も間違いなく同じことを妄想しただろう。
「じゃあ急ご。トッド副官も居るかな?」
「はい、色々と……隊の編成とか新しい戦術とか考えてくださっているようです」
ジョシュを追うためにスッと立ちあがった彼女は、ランスに向かって一度丁寧にお辞儀をした。
「ではすみませんけれど行きますね。無茶せず安静にして早く治してくださいね、皆さんも」
オルゴール人形のようにその場で体ごと回りながら陣幕の怪我人全員の顔を確かめる。誰もが高揚した声で返事を返した。自分の声を一番印象付けようという健気な勝負がそこに隠れている。
安心して小さな歩幅で足早に歩き出した彼女の背中には、後頭部でまとめた長髪が馬の尾を思わせて揺れる。それも白馬。結えてなお腰ほどまで落ちるその髪は、まるで雪の中に佇んでいたかのように汚れない純白だった。
手の届かない気持ちにさせる神秘的な美しさ。
手垢をつけることなど許されないと思わせる清楚な白さ。
誰かが独占してはいけないと思わずにいられない清廉な心。
ランスはどんなに近くても遠く感じてしまう彼女の背に、居た堪れなくなって気付いたら口を開いていた。
「リリー様!」
周りがやや驚いた表情で見る。
そして足を止めた彼女も少し目を円くして振り向いた。
「こんな怪我すぐ治して、必ずレストリアの奴等を追いはらってやります! 強欲非道な悪党を倒しまくって、グレゴリア様とリリー様に勝利を捧げます! 見ていてください!」
一気にまくしたてた彼の宣誓に、手負いの兵士達が気勢を煽られて鬨をあげた。幕がビリビリと震える。
リリーは肩を跳ねさせ気を呑まれたように身を硬くした。
それからほんの刹那だけ悲しげな色を浮かべたが、興奮している彼らはその一瞬を拾えない。
彼女はほぅっと息を吐くと優しく笑んで答える。
「ありがとうございます。私は……」
全員が聞きもらすまいと口を噤み、続きを待つ。
「皆さんが無事に戻ってくれれば……私はそれでいいです」
彼女がもう一度深い慈しみを湛えて、ゆっくりと頭を下げた。
兵士達は一様に目を見開き、中には潤ませている者までいる。ランスは右腕の包帯をそっと押さえ、震える下唇をぎゅっと噛む。
陣幕の出口で外光を背負う黒尽くめの美少年は、彼女の白い後姿を見つめながら優しく口元を綻ばせていた。
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