水無き海のラストダイバー【完結済】

鉄乃 鉄機

水無き海の潜航譚

前編「ワンス・ブロークン・アロー」 (1-4話)

ep1/9「青年期の終わり」

 青年は目を瞑り、極彩色に光る〈音〉を見ていた。


 聴覚と五感の連動――――共感覚でえる音は、どれも図形的だ。

 概ね低音は三角で、高音は円環。匂いもあれば色もある。


 瞬く三角形のような低音、高速で回転する淡色円環のような高音――――瞼の裏には、様々な幾何学図形が現れては弾けて行く。

 彼の周りには、前触れも無くパッと光り出す音が溢れていた。その一つ一つの赤い音が、直に神経に触れて来るような感触を持っている。特に蒼くてトゲトゲした音は癇に障るような不快さだ。夥しい数の角張った雑音が、眼球の裏に鈍痛を走らせ続けていた。

 彼は顔をしかめるようにして、更に強く瞼を閉じる。

 いい加減、この鋭さにはもう我慢ならない。

 聴覚、視覚、触覚、嗅覚、味覚、自らの五感を刺して来る〈音〉が、不愉快でたまらない。


「ハァッ……ハァッ……クソッ!」


 青年は、荒い呼吸で肩を上下させながら、ゆっくりと瞼を開いて行った。

 すぐに脳裏に浮かんで来た〈音〉は、全高10mほどの巨人の姿だ。彼がパイロットとして乗り込む鋼鉄の巨人、それはただひたすらに暗い海をたゆたっていた。

 どこまでも深い闇に包まれた絶対孤独の海。

 音が返って来る範囲だけを見通せる、果てしない深さを誇る水無き海。それこそが、青年とその愛機が漂う海の有様だった。

 なのに、耳を苛む雑音が消え去る事は無い。


「この金属海うみはどうして……こうも煩い!」


 彼は見開いた両目で、自らが収まっている狭苦しい閉鎖空間コックピットを見渡す。

 視界前方、そして左右にはモニターが設置され、まるで波がのた打ち回るような白黒映像が映し出されている。機体の音響センサーが拾った情報を映像化しているのだが、何が映っているかなど分かりはしない。機体のソナーが教えてくれるのは、この先1kmにバカでかい障害物があるかどうかくらいのものだ。一瞬たりとも止む事の無い雑音ノイズのせいで、モニターは殆ど真っ暗闇にも等しい。


 装甲を隔てた先にあるのは、深い、深い、一寸先も見通せない液体金属の海だ。


 まだ青年は20代前半に過ぎないから、この金属海うみに身を浸していた時間はたったの数年でしか無い。それでも男の抜きん出た才能は認められたし、この金属海うみの何たるかも並以上に理解している。この数年間、彼が人型機動兵器〈ダイバー〉のパイロットとして向かい合って来たのは、たった二つの選択肢だ。


 ――――沈めるか、沈められるか。


 この金属海うみに広がる戦場は、常に二者択一を迫って来る。


 ――――敵を撃つか、敵に撃たれるか。


 だから、青年は躊躇いなく手元のトリガーボタンを押し込んで来た。何回も、何十回も、あるいは何万回も。


 彼は両手で操縦桿を握り締めると、両脚のフットペダルを思い切り踏み込んだ。機体背部のメタルジェットエンジンを上方に向けて、推進方向を下へ。唸りを上げる電気推進機関から伝わる振動は、男が座すコックピットシートにも伝わって来る。

 大量の液体金属を取り込み、強大な電磁場で高速で噴出させ続けるのがメタルジェットエンジンだ。レールガンにも似た動作原理から発揮される推力・推進効率は、燃料を燃やして反動を得るようなロケットエンジンとは比べ物にならない。その圧倒的な推力に押し出されて、機体は下へ下へと瞬く間に速度を上げていく。

 強引に深度を上げる機体は、脚で液体金属を切り裂くようにしてグングン潜航していった。

 彼の手は正面下部のコンソールパネルへと伸び、受信可能範囲が狭い短距離音波通信を起動させる。


「チャック!」

『おい、なんだよブル! こっちはクソ忙しいんだぜ!』


 ブル――――相棒チャックにそう呼ばれた青年は、コックピットの斜め下方向から聞こえて来る音に目を凝らした。

 チャックが居るのは、摂氏1万度、数百万気圧は下らない液体金属の海に隔てられた向こう側だ。ブルからすれば、チャックはちょうど1kmほど深い地点で急速潜航を行っている。とはいえ、当たり前の話だが、彼らとて生身でこの超高温・超高圧下に居る訳では無い。


 超高温、超高圧の液体金属の海。こんな環境下に平気で潜っていけるのは、巨大人型液体金属海潜航艇〈メタルダイバー〉、通称〈ダイバー〉という名の巨人に乗り込んでいるからだ。


 チャックが乗り込む巨人を追うようにして、ブルも自らの巨人を潜らせて行く。

 しかし、チャック機には四方八方から緑色の音波が襲い掛かっていた。ピンと一直線に伸びて行く音は、チャック機の上からも、下からも、横からも襲い掛かってきており、まるで蜘蛛の巣にでも飛び込んでいるかのような光景だ。

 どこまでも深い闇をバックにして浮かび上がるのは、危うい美しさを秘めた音波の糸。それら一本一本の糸の先には、勿論ブルたちにとっての敵機が控えている。


 チャック機に集中砲火を浴びせているのは、ちょうど四機の敵機だった。

 それぞれ人型を主張する為にスラリと伸びる四肢は、まるで刃のように薄くて鋭い。四肢は真横から見れば、歪んだ菱形のような形状をしており、肘や膝は二つの菱形の連結点に埋め込まれている。本来は液体金属の抵抗を減らす為にそうなっているのだが、真正面から見ればまるで薄っぺらい紙人形のようだ。力強さだとか、頼もしさだとか、そういった要素は決して感じ取る事が出来ない。


「クソ忙しいだって? そんなの見りゃ分かる。だからだろうが!」

『でもさ、こいつらだって所詮はダイバーなんだろうが、ええ?!』


 逃げ回るチャック機に向けて、四機の敵機は上空を抑えるような位置を確保している。そして、敵機全てがその薄い両腕をチャック機に向けたかと思うと、ブルの目には高速で回転する円環が見え始めた。

 円環のような高音が、敵機の腕を巡るように目にも留まらぬ速さで回転。円環は徐々に淡い緑色から赤色へと変化していきながらも、ある瞬間、一気に縮んで消失した。

 途端に、敵機の両腕からは、泡のような球体が爆発的に広がって行った。それを聞いていたブルの鼻孔は、金属が焼けるような焦げ臭い臭いで満たされる。敵ダイバーの周囲で複数の振動モードが励起された事を示す、遅い音と速い音の協奏。ちょうど今のは、速くて焦げ臭い音だ。


 敵機の周りで弾けた無数の球体は、すぐに一本の真っ赤な衝撃波となって一直線に伸びて行く。それは消えかけの三日月のように薄く、どこまでも鋭い威力を秘めた超音速の刃。人体など容易に木っ端微塵にするほどの破壊力を秘めた赤い衝撃波は、殆ど拡散する様子も見せずにチャック機へ襲い掛かって行った。

 通常、この距離で直撃すれば、装甲ごと破砕されてもおかしくはない。ダイバーが主兵装とする〈音響兵器ソニック・ウェポン〉は、液体金属層においてダイバーを撃破する為の装備なのだ。


 だが、チャック機がそう易々と落とされるはずも無い。

 チャック機は上方から降りかかって来た音波に対し、機体を捻るような回避機動を取った。

 機体背面のメタルジェットエンジンから伸びる金属流は40mもの柱を作りだし、機体に爆発的な推力をもたらす。初期波に続いて本命の音波が届いた頃には、既にチャック機の姿はそこにない。機体装甲に掠らせもせずに音波を避けたチャック機には、まだまだ余力を残している気配すらあった。


 そう、チャックが乗り込んでいる巨人は、ダイバーをも超えるダイバー。超深々度対応型極限環境潜航艇〈ヘルダイバー〉規格なのだ。

 従来の機体をあらゆる面で上回るヘルダイバーは、そう簡単にダイバー如きに敗れ去ったりはしない。たとえヘルダイバーの中ではかなり古く、ロクな後継機すら開発されていないこの〈二〇ふたまる海刃かいじん〉であっても変わらない事だ。


 そして、ブルが駆る機体もまた、ヘルダイバーの眷属たる〈海刃〉。

 海刃は敵ダイバーとは異なり、全体的にボリュームのある装甲を纏う重装機だ。鋭い切っ先を膨らませたような四肢が放つ、どこか筋肉質な格闘家を思わせるフォルム。背中に設置された二枚の大型フィン。背部と脚部に設置された高出力メタルジェットエンジン。何もかもが、敵のダイバーなどとは比較にならない性能を秘めている。

 チャック機を孤立させまいと、ブルは相棒の傍目掛けて更に潜航していった。自ら集中砲火の網へと飛び込むことになるが、そんな事に構いはしない。只のダイバー風情に遅れを取る訳にはいかないのだ。


「こっからは、俺が援護する!」

『ブル、もうお前はとっくにエースだろうが。俺ぁ、お前の部下になりたいですー、なんて頼んだ覚えはねぇぞ!』

「敵に囲まれている時にお前って奴は……。万年二位はそろそろ黙っとけ!」


 通信装置に向かって叫び返したブルは、右エンジン推力だけに微調整を加える。

 すると、ブルが操る海刃は、撃ってきた敵機に正面を向けるように体勢を転換。その勢いのまま、機体は両手に構えていた実弾式大型ライフルを上方に向ける。即座に発射体勢となった大型ライフルは、その長く堅牢な砲身を真っ直ぐ敵機に向けていた。


 それこそが、ヘルダイバーだけに与えられた最強の武器。

重力崩壊式実弾兵装ブラックホール・ウェポン〉。


 ブル機に銃口を向けられた敵機は、焦りも露わにメタルジェットエンジンの出力を引き上げようとする。まるで怯えた兎のようだ。しかし、既に恐るべき早さでロックオンを済ませていた彼の前では、あまりに遅い。

 敵機捕捉、装填完了。ブルは躊躇いなくトリガーボタンを押し込んだ。その直後、特大のハンマーで殴り付けるような発射反動がコックピットブロックに襲い掛かり、彼の意識を僅かに遠のかせた。


 全長10mにも達しようかと言う、あまりに巨大で無骨なライフル。

 その砲口からは真っ赤な衝撃波が炸裂し、人間の小指よりも小さく細い針状弾体が超音速で射出されていた。しかし、弾頭重量1tにも及ぶ縮退炭素結晶ダイヤモンド製の針状弾頭は、液体金属の抵抗などものともせずに海を切り裂いていく。

 発射反動の凄まじさを物語る衝撃波面は、ブル機を中心に広がる球体となって拡散していった。


 チャック機の上方に居た敵機は、回避機動も虚しく針状弾頭に食いつかれる。

 傍からすれば、全高10mを誇る鋼鉄の巨人が、人間の指よりもちっぽけな針に怯えるなど、些か滑稽な光景だ。

 しかし、敵機の装甲に針状弾頭が触れようかというタイミングになって、その滑稽さは完全に消え去った。射程範囲外へ出るか、もしくは敵の至近に到達するか、縮退炭素結晶ダイヤモンド弾を起動させる為の条件は既に満たされてしまっていた。


 超高温・超高圧下に耐え続けていた針状弾頭から、無形のかせが解ける。

 次の瞬間には、縮退炭素結晶ダイヤモンドの限界を超えた圧力が解放され、弾体は信じられない程の小ささへと押し潰された。炭素結晶ダイヤモンドが一瞬にして塵と変わり、膨大な炭素原子は圧力に耐え切れなかったものから次々に潰されていく。

 炭素結晶ダイヤモンドから炭素原子へ、そして遂には原子核を形作っていた陽子や中性子でさえ、その途方も無い圧力の前に屈してしまう。既に元サイズの十万分の一、数百nm(ナノメートル)にまで縮んでいるというのに、恐るべき圧縮現象は止まる気配を見せない。


 そうなれば、もう後戻りは出来ない。

 外部圧力が中性子の縮退圧をも超えてしまえば、最後の砦は崩されたも同然だ。結果として、物質は際限なく押し潰されていく。

 瞬きすら許さない短時間の間に、敵機の装甲表面には途方も無く小さなブラックホールが出現していた。1ym(ヨクトメートル)という想像を絶する程に小さなシュバルツシルト半径を持つブラックホールは、あまりにも強力な重力場の範囲内に敵機を捉えている。実に1000G以上という馬鹿馬鹿しくなるほどの潮汐力が敵機に作用し、強力無比な耐圧装甲も一瞬でバラバラに引き裂かれて行った。


 そして最終段階。ブラックホールが蒸発する。

 一億分の一秒、たったの数十n(ナノ)秒と保たなかったブラックホールは、その膨大な質量エネルギーを一挙に放射した。質量から変換されるエネルギー量は、極めて膨大だ。人間の目では見ることも叶わぬ程に小さかったブラックホールは、数千万℃の火球と共に大爆発を起こした。

 その爆発の規模たるや、旧世紀の熱核兵器を一斉に100発ほど起爆させたようなものだ。数百万気圧という液体金属海の重みを押し退けた火球は、敵機のほぼ全てを塵も残さず蒸発させるに至った。深い闇をバックにして浮かび上がる火球は、鼓膜を破るような轟音で暗闇に真っ白い風穴を開けていた。


 その火球も瞬く間に押し潰され、今度は強大な衝撃波が周りにいた2つの敵機をも砕く。安全な距離をとっていたはずのブルすら、コックピットの中で骨を砕く程の振動に耐えなければならなかったほどだ。

 彼が舌を噛み切らないように必死で耐えていると、ブラックホールの蒸発に伴う轟音と衝撃波は徐々に収まって来る。口の中に広がる苦さは、あまりに暴力的な衝撃波や轟音の味であるに違いなかった。


 ――――いや、違う。


 ブル自身とて本当は分かっている。この苦さは、敵を沈めたという苦さそのものなのだ。いくら引き金を引いても、すぐに慣れると言われても、決して彼の口内からは消えてくれない悔恨の味なのだ。

 ブルは大型ライフルの次弾装填を済ませつつも、耳を澄ました。


「おい、チャック。沈んでないだろうな」

『ヘッ、心配ご苦労様。まずは自分の心配しやがれ』


 ブルの返答にすぐさま応えたチャック機は、ちょうどブル機の斜め後ろにつけていた。どうやら、爆発の隙を縫って深度を下げて来たらしい。

 ブルの耳に捉えられたチャック機の姿は、特に損傷も無い様子で無事そのものだ。とはいえ、チャックの減らず口までもが無事に残ってしまったというのは、いただけない。

 チャック機は大型ライフルを構えて上昇しつつも、相変わらず軽口を通信に吹き込んで来た。


『そんな辛気臭いこと言っていると、敵さんのヘルダイバーが来ちまうぜ』

「最新鋭のヘルダイバーだあ? 縁起でも無い事を言うなよ、こんなシケた所にヘルダイバーなんか来る訳ないだろ」

『そりゃそうだ。俺たちが主戦場を回り込んで奇襲を掛けようってのに、こっちが奇襲されたんじゃたまったもんじゃねぇ』


 ブルはフットペダルを蹴り出すように踏み込むと、操縦桿を握って再び大型ライフルを構えさせた。ブルの海刃が狙うは一つ。次は、四機目の敵機を落とす――――。


 しかし、トリガーボタンに指を掛けていた彼の耳に、微かな異音が捉えられた。

 一応は目を開けてメインモニターを確認するが、相変わらず白黒の波がのた打ち回っているだけだ。大して役に立たない機体ソナーの代わりに、彼は自らの耳で以て異音の正体を探る。その間にも、撃ち漏らしていた最後の敵ダイバーが逃げて行ったが、そんなことを気にしている場合では無い。

 ゴウゴウ、と液体金属中を突き破って来るかのような轟音、推進音。それが海刃と同じヘルダイバーの推進音であると確信した時、ブルの背筋には嫌な悪寒が走った。


「なあチャック、これお前にも聞こえているよな?」

『ありゃま……本当に敵さんの最新鋭ヘルダイバーのお出ましだぜ、おい』

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