第6章Bパート_エピローグ


 九月十四日金曜日、夕方の交番。僕は暁さんに一つの契約を持ちかけた。


「ええ。だから暁さん、僕と契約を結びましょう」


「何?」


 暁さんは完全に意表を突かれたという顔をしている。


「契約だって? 君は立場を分かっているのか? ……まあいいさ、面白い、話を聞こう。いつも通りコーヒーでいいかい?」


「はい、ありがとうございます。それで、警察は犯人が僕たちの学校の生徒だとまでは分かっている、で間違いありませんね」


「ああ、君らの学校に俺が出向いたのを見かけたのかな」


「はい、それが決定的でしたが、警察の捜査が近づいたと感じたきっかけはこれでした」


 あの時拾った金属のビーズを暁さんに見せる。春に二人で夜に湖畔を散歩していた、あの時のものだ。


「これは……君もこれを拾ったのか。そう、俺達警察はこのビーズの出所を調べ、これが先住民族のアクセサリー作成体験で使われるものだと分かった。またこれは、毎年デザインが変わる」


 暁さんは僕にコーヒーを淹れてくれた。


「そして今年、その体験をした個人客はいくらかいたが、個人客はすべてこの近辺に住む人間ではなく、団体は君らの学校だけだ。従って容疑者は、君の学校の生徒であることが分かった訳だ」


「なるほど、そういう理由でしたか」


「更に監視カメラの映像から、犯人は女学生だと言うことが判明した。そこで君らの学校の校長に捜査の協力をしてもらい、事件発生の前後から不審な行動や欠席をしている生徒を洗っていたところさ」


「だがまだ個人の特定には至っていない、と」


「ああ、その通りだ。と言うことは、君は犯人が誰か知っている、いや、最近分かったということか」


「はい。犯人の名前は篠原繭。僕と同じクラスの生徒です」


「根拠は?」


「例のブレスレット、そして事件発生と同期した欠席。そして何度か彼女の能力としか思えない現象がありました」


 コーヒーを喉に流し込み、気持ちを落ち着かせる。ここで強運を発揮しないでどうする。この交渉が決裂すれば逆に篠原さんを売ったことと変わらない。落ち着け、落ち着くんだ。


「そして、『一八日に事件の件数が増加する』このことの答を持つのは、おそらく彼女と僕だけです」


「なるほど、それで?」


「一八日、それは僕らの中学校の卒業式の日であり、その日に僕は能力を得ました。僕は彼女を絶望させたことに絶望して能力を得ました。つまり、その時絶望した彼女は、僕同様に能力を手に入れた可能性が高いです」


 自分が能力を手に入れたきっかけなんて、本当は死んでも話したくなかった。だがそんなことも言っていられない。


「能力の代償が大きくなる契約記念日が一八日。更に彼女には犯行の動機がありません。つまり犯行は彼女の意思ではなく、代償による結果だと僕は考えています」


「……なるほど。一応筋は通るな。しかしそれなら解決方法は簡単だな。細かいことは聞かないが、君は彼女が大切な訳だ。簡単に君の『弾』になるじゃないか」


 その言葉を看過する訳にはいかず、暁さんを鋭く睨む。


「そう睨むなよ。それはやりたくないからこその契約なんだろう?」


「はい。僕が彼女の代償を握り潰して正気に戻します。そして彼女を説得します」


 続けて、僕は彼女の能力が記憶を操ることではなく、人間の思考や行動を操る能力である可能性が高いことを説明した。


「ですから正面から挑めば、まず近づくことは難しいと思います。だから、暁さんの能力で彼女の能力の詳細を把握し、二人で彼女に接近戦を挑みます。暁さんに隙を作ってもらい、僕が彼女の代償を消す」


「君の能力で代償は消せるのか?」


「はい、契約に関わることは僕の能力でも触れられませんが、代償は『悪魔の能力を使用するには人間では潜在的な力が足りない』ことから生じる結果らしいので、契約そのものとは関係ないそうです。だから大丈夫です」


これは前回悪魔の館に呼ばれた時に確認したことだった。


「要するに君は、犯人を正気に戻して、これ以上事件が起こらないように説得するから手伝え、と言うのか。で、その契約、俺のメリットは何だい?」


「もし、僕が説得に失敗するか、説得した後も事件が起こったなら、僕を殺して構いません」


「君が殺されに来いと言って、本当に来る保証は? それまでに俺を弾にしない保証は?」


「……ありません」


「っは! 話にならないな。今すぐ帰るんだ」


 暁さんは厳しくそう言い放った。だが引き下がらない。


「暁さん! 聞いてください、彼女の代償を消すには、弾が必要になります。対象は結果、結果を消すとは因果を消すこと。他人の因果を消すには大きな価値の弾が必要で、おそらく暁さんの命では足りません」


「何が言いたい」


「ですから僕は心情的にも、弾の必要性としても暁さんを弾にはしません。その代わり、僕が手に入れた『運』と、『能力を発動すること』を弾にします」


 僕がそう言い放つと、暁さんは大笑いした。


「ははははは! どこにそんなことをする人間がいる!? 他人のために、『能力を発動すること』を弾したとするならば、君はただ誓約に縛られる、人間以下とも言える存在に成り下がるんだぞ? 馬鹿馬鹿しい」


「僕は本気です」


「そんな美しい自己犠牲に酔っているのか? それともヒーロー気取り? 実に愚かだ」


「何とでも言って下さい。確かに暁さんの言う通りだと思います。ただ、一つだけ間違っています。僕はこれを自己犠牲だとは思いません。必要な時に僕がいた、それだけです」


 真っ直ぐに暁さんを見る。


「そして何より僕は彼女を救いたい。この能力のおかげで良いことも、悪いこともありました。でもこれが、僕が悪魔の能力を手にした本当の意味だと思うんです」


 暁さんの視線をいっさい逸らさないままそう言った。これが、僕の本心だから。

 そして沈黙が僕らの間に訪れた。この沈黙は、僕と暁さんが争った時に訪れた沈黙とも、翔と慎と初めて出会った時の沈黙とも、まったく異質のものだと感じていた。

 そして、沈黙は破られた。もちろん能力は使っていない。


「どうなっても後悔するなよ?」


「じゃ、じゃあ……」


「しょうがない昔からの情けだ。君の絵空事に付き合おう。だが情けはこれで最後だぞ」


「あ、ありがとうございます!」


 あんまり嬉しくて、一方的に暁さんと握手し、その手をぶんぶんと振った。


「分かった、分かった。それじゃ具体的な話に入ろうか」


「はい!」




 時計の針は短針、長針ともに頂点を指していた。秒針の音がやけに大きく聞こえる。

 僕は先程暁さんから聞いた篠原さんのもう一つの能力と誓約、代償を思い出していた。

 彼女のもう一つの能力。それは次のような能力だ。


「誓約のハードルを上げることで能力を拡張する。一つは範囲の拡張。能力効果範囲を広げ、またその効果は球の中にいる任意の人数の人間に効果が及ぶ。その代わり、能力の効果は『人間の思考や行動を操る』ではなく、『人間の思考を自分にとって都合のいい方向に働かせる』というものに変わる。もう一つは精度の拡張。より精密に対象をコントロールする」


 と言うものだ。つまりこの前者の追加能力によって今回の記憶障害傷害事件が引き起こされた。記憶障害とは本当に記憶がなくなったのではなく、ただ犯人の都合良くなるよう被害者が犯人の襲撃を忘れていたのだ。

 そして誓約はこのようなものだった


「毎日最低三人に両目を見せる。また追加の誓約は、両目を見せる人数を増やすこと。追加の誓約によって得られる能力は、効果範囲を広げることに使うか、能力の精度を上げることに使うか選べる」


 最後に代償。


「能力を使用した時間、範囲に応じて、睡眠時に一定時間悪魔に体を奪われる」


 能力を使えば使うほど、能力の範囲や強弱に応じて眠っている間、篠原さんの体を悪魔の意思で動かされるのだ。


 自分の自転車を暁さんに渡し、僕はイカロス号に乗った。


「誰も見ていないとは言え、このチャリには乗りたくない」


 と暁さんが言っていたからだ。もっともだ。

 すべて信じてくれた慎。何か気が付いているのだろう。賑やかで、でも繊細な奴だから。

 自分の大事なものを僕に預けてくれた翔。どこからどこまで本気か分からないけど、彼の存在は僕も物語の主人公なんじゃないかと錯覚させ、底しれない勇気をくれる。

 二人ともありがとう。さあ決着をつけに行こう。




 僕と暁さんは自転車で犯人が逃げる方向に急いだ。途中二手に分かれ、袋小路に追い詰めた。だがまだ距離がある。近づけば奴の能力の餌食だ。

 自転車を乗り捨て、ここからは接近戦。暁さんはナイフを構えた。距離にして約五メートル。

 犯人は観念したのか動かない。雲間から月の光が袋小路に差し込み、フードの奥の犯人の顔が露わになる。

 そこには、制服にパーカーを着た篠原さんの姿があった。月光に照らされた彼女の片目には眼帯があり、その顔、袖からはみ出る手、肌の露出した部分全てに青黒い不気味なアザが浮き出ていた。

 それを見た瞬間、寒気に襲われた。そうだった。彼女が誓約を破った時の罰則は、


「目のアザが全身に広がり、完全に体を悪魔に奪われる」


 というものだった。

 そして月光の下、悪魔に奪われた彼女の顔がにやりと醜悪な笑顔を作り上げる。


「よくここまで辿りついたな、人間よ。いや、悪魔の契約者達よ」


「お前が『支配の蝶』……!」


「ほう、よく私の名前を知っているな。貴様らのどちらかが悪魔の能力を知る能力、ということか」


「なぜだ、なぜこんなことをした!」


「なぜ? 不思議なことを聞く少年だ。私はこの娘の契約を結び、そしてこの娘は誓約を破った。ただそれだけだ」


「なら、質問を変えようか悪魔。お前が人間を襲う目的は何だ。快楽か?」


 暁さんは冷静だ。やはり場馴れしているのか、僕が冷静ではないだけか、今は分からない。


「よかろう、余興に相応しい。質問答えてやろう。私の目的は力を手に入れることだ。単純なことだ。契約者に誓約を破らせれば、悪魔は豊潤な力を得ることができる」


 奴が篠原さんの顔と声で話すだけで、はらわたが煮えくり返る。


「契約者が誓約を破りやすいように誓約と代償を決めれば良いのだ。他の悪魔は能力を過剰に使ったがために再び絶望する人間を嘲笑したり、気まぐれで能力を貸したりするが、私は違う。人間との契約は力得る機会なのだ。娯楽ではない」


 身の毛がよだつ感覚を覚える。そんなことのために人間を食い物にするのか。誓約から想像はしていたが、こいつは本当に悪魔だ。


「この娘は面白いぞ、契約者達よ。この契約が自分自身の破滅につながるのを知りながらなお、この能力を行使するのだ。自分自身が、否定も批判もされない、自分が中心のちっぽけな世界を作るために」


 悪魔は甲高い声で笑い、地面に転げ回る。


「これが笑わずにいられるかね? その一方で私に体を奪われることに恐怖し、少しでも寝ないようにしたのだ。だがそうすることで疲労は蓄積し、私に奪われる時間は増える」


 能力を得ても、恐怖と孤独に震える篠原さんの姿が目に浮かぶ。絶対にこいつだけは許してはいけない。


「そして部屋に閉じこもってみても、誓約を満たすために外へ出る。外へ出れば、周りの視線が気になり、誓約と能力を追加する」


 悪魔はなおも冷笑を浮かべて続ける。


「最初この娘は、化け物扱いされないよう目のアザを見えないようにするだけだった。それがいつしか、世界が思い通りにいかなければ満足しないようになったのだ」


 僕と暁さんは気がつかれないよう、じりじりと距離を詰める。


「やがてそんな世界はこの娘自身を食いつぶすのだ。そう、まさにこの娘の名前の通り、私の糧となるための『繭』となったのだ」


 悪魔は高らかに笑った。袋小路に悪魔の笑い声が響く。


「まさか、事件の被害者が記憶を失っていた訳は……」


 怒りで言葉を発した唇が震える。


「人間もよく言うだろう? 豚は太らせてから食う、と。それにこの娘も事件が発覚しないよう能力を行使していたようだがね」


 今まで腑に落ちなかったできごとがすべて一本の線でつながった。殺人事件など大きな事件に発展しなかった理由、被害者の事件時の記憶がなかった理由。

 それは篠原さんを生かさず殺さず扱うためだ。契約者に自殺されると奴は能力の糧を失うことになる。

 そのため奴は事件を能力で誤魔化せる程度に留めた。そして事件が簡単に解決しないよう、被害者が記憶を忘れるようにした。

 だが、篠原さんの意識が表に出ている時、被害者達は忘れていた事件のことを思い出すかもしれない。だから篠原さんは事件の発覚を恐れ、広い範囲で能力を使わざるを得なかったのだ。


「真性のクズめ、消えてなくなるがいい」


 暁さんはそう吐き捨てて突進した。その瞬間、篠原さんの顔の大半に刻まれた印が怪しく光った。

 すると、暁さんは自分自身にナイフを突き立てた。急いで走りだし、暁さんに体当たりをする。僕らは地面に倒れこみ、ナイフが転がる。

 その隙に悪魔は跳躍し、袋小路を抜け出した。僕らもそれを追う。


「くく、またこの町に絶望を振りまいてくれる。私の『繭』は無限に連鎖するのだ」


 悪魔は悦に入った声で大気を振るわす。そうか、今の一言で分かった。

 奴はあえて大きな被害を出さなかったんだ。被害に怯えて自殺なんてされれば、せっかくの契約が無効になってしまう。

 奴がいる限り、この町が絶望に包まれるのも時間の問題だ。


「そんなことはさせない! 僕が彼女を守るんだ!」


 気合いを入れ直し、悪魔に迫る。


「貴様に何ができる? 貴様にこの娘の何が分かる? 何もできまい、何も分かるまい。人間は他者の心を理解することなど永遠にできはしないのだから」


「それでも、僕は彼女を信じる! 信じることが守ることなんだ、信じることは誰にだってできるんだ!」


「だがこの体はもはや私の物だ。貴様らが近づくことなど叶わん」


 悪魔の足を掴もうとしたが、路地に落下した。鈍い痛みが背中に走る。

 倒れた僕に暁さんが近づく。


「悠君、気合いは立派だが、このままやっていても埒が明かない。何か策がなければ奴に近づけないぞ」


「は、はい。あ、暁さん、あいつは人を操る能力と都合良く動かす能力は同時に使えますか?」


「いや、能力を使う時はどちらか選ぶ必要がある」


「じゃあ、あいつがどちらの能力を使っているか、分かりますか?」


「ああ、俺ならそれが分かる」


「……なら、勝算がありますね。あいつは悲劇の連鎖を生むために、人通りの多い場所で殺人を犯そうとするはずです。その時に、まず僕があいつに近づき、攻撃します」


 痛みはまだ消えてくれないようだ。だがここで倒れる訳にはいかない。


「う、く。そ、その瞬間に暁さんが別方向から攻撃してください。ナイフで攻撃すれば奴は操る対象暁さんに切り替えると思うんです」


「そして操る対象を俺に切り替えた瞬間、君が能力で攻撃するという訳か。だが奴の能力の『人間の思考や行動を都合のいい方向へ働かせる』能力から考えると、不測の事態はいくらでも考えられるぞ」


「ええ。でも奴はきっと無尽蔵に能力を使ええる訳じゃない。悪魔は違う次元の住人。体を完全に支配できても、能力の使用は篠原さんが契約した内容に縛られるはずです」


「なるほど、極力人通りの少ない所に誘導し、能力の範囲と精度を下げさせる訳だな」


「はい、そうです。だから、暁さんの存在を奴に感づかれないように隠すことで、能力の範囲を絞らせる。敵の居場所が分からない以上、範囲よりも精度を優先して範囲を狭めるのは当然ですから」


「どうやって俺を隠す?」


「僕の能力で、周囲の音を一か所に固めます。そうすれば狭い範囲ですが、奴に気が付かれないはずです」


「なるほど、やってみる価値はあるな。ところで、彼女の代償を消したところでもう彼女は正気にならない訳だが、それはどうする?」


 篠原さんを救う方法を考えていた時、考えていたことがある。もし既に犯行の動機は代償ではなくなり、手遅れになっていたとしたら――


「それは……何とかします。大丈夫です、任せて下さい」


「悠君、君は変なこと考えているんじゃないだろうな。例えば自分の命を削るだとか」


「大丈夫です。『弾』は前に話した通りのものを使います。さあ、行きましょう」


「まあいいさ。君が失敗すれば、彼女は俺の手で死ぬことになる」


「させませんよ」


 僕達はまた走り出した。発信発光器はいつの間にか壊されているようだったが、暁さんの感覚によると、再び駅前に向かっているようだ。




 九月中旬、本格的に秋が深まり夜は確実に冬に浸食され始めていた。静かな駅前。かたかたと風に揺れる三枚の羽根をモチーフにした銀色のモニュメント。


「悪魔の定めた誓約には従わねばならない」


 そんなルールのために苦しんだ犯人。僕の思い人、篠原 繭。悪魔と僕と彼女の運命に、今こそ決着をつける時だ。

 獲物を探す悪魔の姿を見つける。銀のモニュメントの奥だ。全力でモニュメントまで走る。正直全身が痛くて、怖くて、めげそうだ。しかし諦める訳にはいかない理由がある。

 モニュメントまで走ると悪魔は僕の方を振り向く。赤い光に襲われる。体の自由がどんどんなくなっていくのが分かる。

 全身が支配される前に、掌に意識を集中させ、思い切り宙を握る。頭の中で打ち捨てられた、買ったばかりの自転車を想像した。

 僕の赤く光る手の中には七色に輝くふかふかした雲のような物体。それを思い切り握り潰す。

 同時に、周囲の空間は静寂に包まれる。更に右手から出血。どうやら弾の価値が少し足りなかったようだ。

 僕が静寂を作り出すそのわずか数秒の内に、物陰に隠れていた暁さんが悪魔に一気に近づく。

 僕の体の自由が完全に奪われるとともに、僕らの周りは再び音を取り戻す。悪魔は暁さんの急な攻撃に気付き、暁さんから、大通りから遠ざかる。それと同時に眩い赤い閃光が放たれ、暁さんの動きが停止する。暁さんから僕へのサムズアップ。ゴーサインだ。

 停止状態から急加速への切り替えに僕の全身の筋肉が悲鳴を上げる。だがそんなものは気にしていられない。

 悪魔の目前に迫る僕。無意識の防御動作なのか、悪魔の爪が僕の頬をかすめる。舌に鉄の匂いが充満する。

 悪魔が僕の攻撃に気が付いた頃には既に勝敗は決していた。赤く光り輝く僕の腕が、彼女の肉体を貫通した。同時に僕の意識は掌の印に吸い込まれる。




 気が付くと、つい先日来たばかりの真っ黒い空間に古びた木製の巨大な扉がある場所にいた。

 暁さんと契約する前、自分の能力で他者の悪魔の契約者の代償が消せるのか、そして、能力の発動は弾にできるのか、それらを悪魔に確認を取るためここに来ていたのだ。


「こんな時に何の用?」


 木製のドア開けそう叫ぶと、ヴェールの奥から悪魔の声が聞こえた。


「悠よ、確かにお前の考える通り、他者の代償と同様に、他者の『誓約を失効した』という過去を消すことはできる。どちらも因果かつ、契約そのものに直接関わる内容ではない。同じ弾で実現できよう」


「だったら何でここに呼んだ?」


「悠よ、主は本当にそれで良いのか。過去を一部なかったことにする行為など、主の好むところではあるまい」


「確かにそうかもしれない。だけどさ、あと一回くらい、奇跡が起きてもいいと思うんだ」


「理解できんな、矛盾しか存在しない解だの」


「僕らは人間だからね」


 悪魔は僕の解答を聞くと穏やかに笑った。


「もう会うことはあるまい。今度こそ。永遠にの」


「そうだね。お前のおかげで一度は絶望から救われたと思って、そしてまた犠牲を生んで絶望した。でも、ここで彼女を救える可能性を手にしたんだから、感謝してるよ。それじゃ」


「本当に理解できんの」



 

 意識を取り戻すと、僕の腕が彼女に貫通した瞬間だった。あの館での時間は現実での時間経過には無関係のようだ。

 そして意識を取り戻したその時、乾いた雷鳴のような音が辺り一帯に鳴り響いた。何の音だろうか。だが気にしている余裕はない。

 頭の中で「自分の幸運」と「能力の発動」という、極めて概念的なものをイメージした。今の僕にはそれは容易なことだ。

 そして彼女の肉体から、「誓約を失効した過去」を取り出す。青白い光の球が彼女の体から抜き出され、その光の球の中で彼女が失効の至った一連の映像が流れている。それは走馬灯の欠片とも呼ぶべきものだ。

 その走馬灯の欠片を、粉々に砕いた。走馬灯の欠片、過去の断片が塵となって風に流れる。


「貴様ああ、一体何を!」


「じゃあな『支配の蝶』もうお前に会うことはない」


「お前が何をしようとも、またあの娘はこの力の誘惑に負けるだろう! この力でなくとも、何かにすがり、裏切られ、疑心暗鬼になる。元の木阿弥だ! くかかか!」


「大丈夫さ」


 砕いた瞬間、僕の手を覆う赤い光は失われた。同時に、運を形成する金の粉が僕の体から空中へ霧散した。



 

 僕と篠原さんが地面へ落下していく。しかし、篠原さんを暁さんが受け止めてくれた。僕は全身を打ったが、大丈夫、まだ動ける。

 暁さんが地面に篠原さんを寝かせると、篠原さんが意識を取り戻したようだ。その顔や腕にはあの青黒いアザはない。


「う、ん……」


 そして暁さんが篠原さんの前に跪き、篠原さんの耳元でぼそぼそと何か話している。

 どうやら話し終えたようで、今度は地面に倒れこんでいる僕の所にやってきた。

 暁さんはその場にしゃがみ込み、僕に向かってぼそぼそと話し始めた。


「これで俺の仕事は終わりだ。また同じような事件が起こったら、分かってるね?」


「は、い」


 僕が返事をすると暁さんは静かに立ち上がり、その場を立ち去った。

 その時、奥の建物の屋上で何か人影が動いたように見えた。気のせいだろうか。疲労と痛みで何が何だか分からない。

 ゆっくりと立ち上がる。能力の代償で両手が使えないせいで、かなり不格好な立ち上がり方だ。それに全身がきしむ。


「大丈夫? 篠原さん」


「う、うん。さっきのお巡りさんが自分の悪魔の能力説明してて……そっかあ、悪魔の契約者って私だけじゃなかったんだ」


「うん、僕もそうなんだ」


「お巡りさんもそう言ってた。でも何で、何で末道君が悪魔の能力を?」


 これまでの経緯を簡単に話した。祖父が、ラッキーが僕の能力の犠牲になったことも。

 そして僕の不運に巻き込まれて、篠原さんを絶望させたことに絶望したことも。


「謝って済むことじゃないけど、本当にごめん……」


「ば……バッカじゃないの!? そんなの、そんなのただの加害妄想じゃない! 私の責任を勝手に背負い込まないでよ! 末道君は、末道君は何も悪くないじゃない! なのに、こんなにボロボロになるまで頑張って……」


 そう言って篠原さんはぽろぽろと涙をこぼし始めた。


「あのお巡りさん、悪魔の契約者を殺す印狩りだって言ってた。私なんてそのままあの人に殺されれば良かったのに!」


「傷ついていい人なんていないよ。それに篠原さんの存在は、僕に希望をくれたんだ。最初は責任を感じて、篠原さんを助けようとしてた。でも、それは篠原さんのことを思う口実だったんだ。本当は」


 一度、大きく深呼吸をして――


「僕は君が好きだから、大好きな人を救いたかったんだ。今はさ、ほら、僕の手じゃ篠原さんの手を引っ張って歩くなんて出来ないけど……」


 今の僕は彼女の手に触れようとしても触れられない。代償の効果はまだ続いている。


「だけどこうして、一緒に歩くことはできるんだ。誰も罪から逃れることはできない。だから、支え合って歩いていくんだ」


 そう言って僕は、うなだれる篠原さんをおぶった。


「きゃ!? ちょっと、末道君……」


「さあ、一緒に帰ろう」


「…………うん」


 彼女は小さく返事をし、僕の背中で泣き続けた。




 夜が明けて朝、体は思ったより痛んでなかった。普段から少しは鍛えていたのが幸いしたのかも。

 実は篠原さんを送った後、翔のイカロス号のことを思い出して、ボロボロの体に鞭打って自転車を取りにったのだ。これで心置きなく二人と顔を合わせることができる。

 でもそれ以上に、無理矢理途中で帰らせたせいで怒っているかもしれないけど。でも大丈夫。二人のことを強く信じている。そんなことで仲間外れにするような奴らじゃないさ。

 強運なんてなくても、僕は幸せだ。




 朝食を済ませ、歩いて学校に向かう。僕の自転車はまた弾にして壊してしまった。まさか、高校に入ってから二台も自転車を買うことになるなんて。

 今朝はいい天気だ。昨夜は九月にしてはかなり冷え込んでいたが、今朝は暖かい。

 物思いにふけながら歩いていると、急に後ろから声をかけられた。


「おっはよー、末道君! 朝からこんな美少女に出会えるなんてラッキーだね!」


「え? あ、おはよう!」


 目の前には、眼帯を付けた眩しい笑顔の少女がいた。




 悪魔と戦った翌朝、俺は悠君の学校に来ていた。事件の収束を校長に伝えるためだ。事件が再発しないと確定した訳ではない。結局、根本的な解決などしていないのだから。

 だが、何となく悠君を信じてみたくなったのだ。かと言って俺が印狩りをやめる訳ではない。今回は特別だ。

 そんなもやもやした気持ちを晴らすために、屋上に来た。秋の日差しが暖かく、気を抜けば眠ってしまいそうだ。

 屋上には先客がいた。後姿だけで誰だか分かる。腰まで伸びたさらさらのストレートの黒髪。大人びた長身の体。俺の印狩りのパートナーだった少女、鈴木だ。


「随分早くから学校に来ているんだな、鈴木。いや、今は神田景か」


「私の勝手でしょ」


「お前、昨日事件現場で能力を使っただろ。もう能力を使わないんじゃなかったのか」


「さあ、何のことかしら」


「とぼけても無駄だ。ビルの屋上でお前のその長い髪がなびいていたし、指を鳴らした時の乾いた音も聞いた」


 神田は素知らぬ顔だ。


「夏祭りの夜、俺から悠君の能力について聞いたのは悠君を助けるためか」


「あなたが昔話してくれた不運な子供が末道君だってつい最近気が付いたわ。でも、そんな無粋な真似しないわよ。彼の覚悟を無駄にすることになるもの」




 通学途中、篠原さんに連れられて、丘の上の公園に来た。まだ遅刻をするような時間ではない。でもどうしてここに来たのだろうか。


「着いたー」


 篠原さんは昨夜のことがなかったかのように元気がいい。


「うーん、相変わらずいい景色だね」


 少しずつ紅葉に染まる町は、重荷から解放されたおかげか、いつも以上に綺麗に感じる。


「ねえ、末道君は私の能力の誓約、知ってるんだよね」


「う、うん。最低三人に両目を見せなくてはならない」


「そう。私、一人っ子だったからさ、両親を除いてあと一人に絶対見せなきゃいけなかったの」


 篠原さんは物憂げに頭上の紅葉を見上げた。


「引っ越す前なら、小さい頃からの知り合いがいたから目のアザを隠す必要なんてなかったんだけど、中学一年の頃引っ越してきた時から眼帯を付け始めたの。いじめられるんじゃないかって、とっても不安で」


 篠原さんはくるりと後ろを向き、腰の後ろで手を組んだ。その姿は高校に入ってから活発そうに見えた篠原さんの姿とはかけ離れていて、酷く朧に見えた。


「ずっと周りに隠してたから、あと一人に両目を見せることに抵抗があったんだけど、能力を使えば誰も何も言わなくなったの。それは本当にすごい解放感だった。卒業式であんなこともあったし、これからが本当の私の人生なんだって思った」


 そして彼女はゆっくりとこちらを振り返り、やや自嘲気味に微笑んだ。


「その後はあの悪魔の言う通り。能力に取り憑かれちゃって、駄目だとは分かってたんだけど、誘惑に負けちゃったんだ」


 一呼吸置いて彼女は続ける。


「あの悪魔が動く時って、私の体を使うから、私が体を動かせなくても悪魔が見た光景は私も覚えてるんだよね」


 彼女は少し眼を伏せて、


「事件が段々大事になってきて、私なりに頑張ったこともあったけど、駄目だったの。だから、本当に助けてくれてありがとう、末道君」


「僕だけじゃないよ、翔に慎、そして暁さんが助けてくれたから、篠原さんを救えたんだ」


「もう一つだけ、私のわがまま聞いてもらっていいかな?」


「もちろん」


「誓約は最低三人に両目を見せること。だから、末道君に最後の一人になって欲しい」


「うん、喜んで」


「ありがとう」


 そう言うと、篠原さんは大きく深呼吸をして、ゆっくりと眼帯を外した。

 その目は瞼が潰れていて少ししか開いておらず、瞼全体があの日彼女の全身にあったような青黒いアザで覆われている。

 だがそれでも、僕を真っ直ぐ見つめる彼女の両目は、きらきらと光っていて黒く澄み、その瞳は確実に宇宙とつながっている。一瞬、そんな感覚に捕らわれる。

 そして彼女は静かに微笑んだ。

 彼女は紛れもなく、僕の世界の中心だ。

                                 完

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中心世界 麻生ボルゲ @b_asou

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