第6章Aパート
「――末道君、変わったよね」
「――でも篠原さんだって、何て言うか、その、すごく綺麗になったと言うか……」
人間は鈍感だ。長い時間同じ時を過ごしている恋人達でさえ、二ミリ切った前髪なんて気づくはずもない。目に見える変化にだって気付くことは難しい。目に見えない変化なら尚更だ。
けれども、いつだって誰かに気づいて欲しい変化に限って、自らその身を隠す。僕は、鈍感だ。でもまだ――
夏祭り翌日。あの後町中をかけずり回ったが、結局篠原さんは見つからなかった。心配で気が狂いそうだった。電話もメールもしたが、一向に連絡がない。
夏祭りから二日後、篠原さんからメールが届いた。
「祭の日は急に帰ってごめんなさい。急に体調悪くてなって帰っちゃったの。今はもう大丈夫だから心配しないでね」
良かった。篠原さんは無事だった。携帯電話を手に持ったまま音を立てて、ベッドに倒れ込む。安心のあまり脱力してしまった。
だが、倒れ込んだ瞬間あることに気付く。否、思い出す。
彼女はどこかへ行ったのではない。絶叫した後、僕の目の前から忽然と姿を消したのだ。それも一瞬で。
そして携帯電話で地元のニュースサイトを見てみる。やはり祭りの夜、記憶障害傷害事件が起きていた。
夏祭り以降、今まで事件が起こらなかったのが嘘のように、再び事件は発生していた。むしろ事件の発生件数、頻度は以前に現れていた事件の法則をなぞるように増加していた。
僕らはパトロールを続けたが、僕らのやる気とは裏腹に、何の進展もないまま二学期を迎える。
二学期に入り、事件は増加の一方、僕らに収穫はなしと、僕らは自身の無力さを痛感していた。
しかし僕の頭の中にある犯人像は、これまで起きた様々な出来事を紡ぐことで確実にその輪郭を露わにしている。
その仮説だけはどうしても否定したかった。だが悪い予感はよく当たる。ついに僕の仮説を肯定せずにはいられない事態が生じてしまう。
九月八日土曜日の深夜、僕らは内心どうせ何も見つからないだろうと思いながらも一歩でも事件解決へ向かうため、地道なパトロールを続けていた。
事件発生の法則に当てはまる地域を自転車で巡回。これが僕ら三人にできる精一杯の対策だ。
自転車を走らせていると、パトカーのサイレンの音が聞こえてきた。速度を落とし、パトカーが向かう方向に自転車を飛ばす。
事件現場は郊外のコンビニの目の前。既に現場には非常線が張られ、その中には暁さんの姿もあった。
コンビニから少し離れた角から事件現場を覗てみる。警官達の会話から、やはり起こった事件は記憶障害傷害事件らしい。
しばらく覗いていると、暁さんが自分の足元にあった何かを拾うのが見えた。何だろう。拾ったのは何かの破片か小石だろうか。その小さな何かを透明なジップロックに保管すると、暁さんはそれをポケットに入れた。
そして暁さんはコンビニの店内に入り、監視カメラを指差して何か話している。
そうか、そうだ。なぜ僕はこのこと忘れていたんだろうか。暁さんの能力「負九胎典」は、肉眼で印を見ると、その能力や契約者の詳細が分かる。また、映像でも印を見れば契約者のおおまかな居場所を感知できる。
動揺で僕の視界が歪む。その歪んだ景色の中、パトランプに照らされて光る金属片が足元にあるのに気が付いた。
「これは……」
ちょうど暁さんがしたように、僕はそれを拾い上げてみた。それはどこかで見覚えのある金属製のビーズだった。独特の模様、間違いない。
冷や汗が止まらない。最悪の結末を想像すると震えてしまう。
もう、自分の仮説を否定している場合ではない。このままでは僕らが真相に辿り着くよりも先に、暁さんがこの事件の犯人を捜し当て、殺してしまうだろう。
僕の仮説上の犯人を、篠原繭を。
九月十日月曜日。篠原さんは何事もなかったように学校へ来た。
なるべく不自然にならないよう彼女を観察する。彼女は不思議なくらいいつも通りだ。もしかしたら翔の言う精神異常、もしくは二重人格か何かで事件の記憶が自分自身にもないのだろうか。
篠原さんを見ていると、普段学校にいるはずのない人物が視界に入った。
制服姿から露出した黒い肌。見間違う訳はない。暁さんがこの学校に来たのだ。恐らくあの手作りのアクセサリーの一部からこの学校に辿りついたのだろう。
「ねー繭、聞いてるのー?」
「え、あ、うん。ごめんね純、何々?」
「もーう、繭ったら全然話聞いてないんだからっ。廊下に誰かいたの?」
「ううん、なんでもない」
篠原さんも暁さんが通るのを見ていたのだ。その瞬間の怯えるような篠原さんの表情は、僕が今まで見たこともないものだった。
今ので僕は確信してしまった。犯人は、彼女は犯行の時の記憶があると。
そして、もう一つ。あの夏祭りの時の絶叫。存在する事件の記憶。犯行を隠すための記憶障害現象と、それに矛盾するように拡大、重大化する事件。これらから考えられること。
それは彼女には、動機がないと言うことだ。
九月十四日金曜日。事件は月曜日を境に目に見えて増えていた。
そして事件の増加に同期して火曜は遅刻、水曜は遅刻早退、そして昨日今日は欠席と、篠原さんの学校に来る頻度が減ってきている。
「ここにきて事件が爆発的に増えてきたな」
翔は深刻な顔つきだ。
「ああ、夏休み中に事件がなかったってのは充電期間だったってのか? 犯人の野郎、許せねえ。早く何とかしねえと」
慎も珍しく真面目な顔をしている。
「一八日の夜、必ず何かが起こるはずだ。いつもより早く、そして遅くまでパトロールを行うべきだと思うのだが、どうだろう二人とも?」
「さすが翔、俺もちょうどそう思っていたところだぜ! 悠ももちろん賛成だよな?」
僕は迷っていた。彼らを危険な目に合わせるなんて絶対にできないし、かと言ってパトロールをやめようと言ってこの二人がやめるとは思えない。
――やはりここでは断れない。それにここで断ると、空気を読まないと、また一人になってしまうかもしれないから。
「悠、どうした?」
翔の声で僕は我に返った。でも――
「……う、うん。そうだね、一八日の夜にパトロールしよう」
慎が僕の顔をその細い目でじっと見ていたのに気が付き、頭の中が見透かされているような感覚に陥る。そしてそんな慎の視線から。必死に目を逸らした。
その日の放課後、意を決して交番へ向かった。避けているだけでは何も始まらない。
もし篠原さんの能力が僕の想像通りなら、僕一人では彼女に到底太刀打ちできない。だから新たな契約を結ぶつもりだ。
彼女を守るために暁さんと、契約を。
夕日が目に沁みる。交番の入り口のドアは上部に窓ガラスがはめられていて、いつもならそこから暁さんが読書をしている姿が見える。
しかし今はガラスが夕日に照らされて中の様子が分からない。あと一歩前に出れば暁さんの顔が見えるだろう。もう既に覚悟を決めたはずだと言うのに、僕の体はがたがた震え、その一歩が出ずにいた。
「行こう、迷ってる暇はないんだ」
自分にそう言い聞かせて一歩踏み出す。
交番に入るなり、暁さんの厳しい視線が僕に突き刺さる。だが無言でパイプイスに座る。我ながら中々ふてぶてしい。
「まさか君が再びここに来ることになろうとはね。しかも一人でとは大した度胸じゃないか悠君。見違えるよ」
「冗談はよして下さい」
「ははは、何だか切羽詰まってるね。話があるんだろ? 大丈夫大丈夫、ここで事を荒げようとはしないさ」
「……暁さん、記憶障害傷害事件の犯人の目処はつきましたか?」
「……! ああ、目処はついてる。このタイミングで来たということは何か知っているんだね、悠君」
「はい。だから暁さん。僕と契約を結びましょう」
「何?」
九月一八日火曜日、夜十時。僕達三人は丘の上の公園に集まっていた。
「ふう、まだ九月だってのによお、今夜は一段と冷えるな」
慎はダウンジャケットに軍手をしている。
「同感だ。だがな慎、今日は事件が起こるかもしれないと言うのに、防寒ばかり気にして、防御を怠ると言うのは本末転倒だぞ」
僕と慎は翔の格好を見て唖然とした。ロウツバのキャラクターで覆われた痛チャリに跨るイケメンハーフ。その装備はアメリカンフットボールの防具で身を固めている。
「ん? ああ、これか、これは親父のお古を拝借してきた。高校の頃、アメリカでやってたらしい。これならいつ直接対決しても大丈夫だ」
「た、頼もしいなあ」
「そうだろう」
翔は誇らしげに笑っている。
「ばっか野郎、俺だってホレ、バット持って来たんだぜ」
慎は空高く金属バットを掲げた。
「野球部の武器が金属バットとは安直な」
「うるせえ! まー、あれだ、三人集まったしパトロール始めるか!」
「ちょっと待って慎。あと一人、今日のパトロールに参加する人がいるんだ」
僕がそう言うと、二人は顔を見合わせた。
「そんな話聞いてないぞ?」
「誰なんだよそれって?」
翔と慎は疑問を僕に投げかける。
そうしているうちに、街灯に照らされた一つの影が僕達に近づいてきた。
「おいおい、君達見るからに不審者だね。ちょっと署で話を聞こうか」
「は、はぇあいっ! いえ、俺達ぜえんっぜん怪しい者じゃあ……」
突然話かけられて慎は素っ頓狂な声を出した。笑わずにはいられない。
「冗談冗談、驚かせてすまないね」
「って、え? 暁さんっすか? お巡りさんの?」
「ああ、久しぶりだね二人とも」
「お久しぶりです、ゴールデンウィークはお世話になりました。もう一人の参加者とはあなたでしたか。しかしどうして?」
翔は特に動揺することなく挨拶した。
「この事件は非常に難しい事件だ。警察も追っているが未だに核心に迫れなくてね。悠君達が面白いプロファイリングをしてると聞いたもんだから、ちょっと一枚噛もうかとね」
慎は明らかに不審そうに暁さんを見ている。暁さんの顔や、少しだけ笑顔がひきつっている。
「ほら、いつまでもお巡りさんでいるのもいいけど、一丁ばあーっと功績を挙げて出世しようかなーなんてね」
暁さんは自信満々で二人に説明した。
しかしこれはかなり苦しい嘘だ。市民が逮捕に協力して感謝状もらうんじゃないのだから、そんなにほいほいと出世する訳がない。
むしろ深夜に高校生を連れ回して危険を冒すそうとしていることが問題になりそうな気がするが……
「なるほど、さすが暁さん。あなたは男だ!」
翔は感動のあまり、胸の前で握りこぶしを作っている。
「へへへ、逮捕した暁には俺のことも新聞とか雑誌とかにヒーローとして紹介してくださいよお。『勇敢な高校球児、世間を騒がせたあの事件解決に大きく貢献! 』みたいな感じで」
「ああ、まかせろ慎君!」
「ええっ」
なぜ二人は疑問を抱かないのだろうか。まあ、いいか。そこが彼らのいいところだし、とりあえず細かいことは置いておくことにする。
暁さんは鞄からトランシーバーを取り出し、翔に手渡した。
「まず2人ずつに分かれてパトロールをして、このトランシーバーで連絡を取り合おう。連絡は十五分おきに。突然の犯人との接触には通話ではなく、コールボタン連続二回押しだ。使い方は分かるか?」
暁さんは淡々と説明した。
「ええ、大体は。コールボタンを押しっぱなしで通話、ボタンを離すと通話終了ですね」
「おい翔、トランシーバーなんか触ったことあるのかよ?」
「いや、ないぞ」
「じゃあ何で……あ、いや、いい、分かった」
慎はいつも通りアニメ知識だろうと思ったのか、僕の方に視線を投げかける。そして僕は無言で頷く。
「じゃあ僕と暁さん、慎と翔の二手に分かれてパトロールしよう。僕らは丘の上の公園周辺の警戒、慎と翔の二人はこの公園から町へ下る方向へパトロールして欲しい」
事前に暁さんと取り決めていたことを二人に説明する。
「なるほど、犯人が出てきた所を追い、連絡を取りつつ挟み撃ちにする訳だな」
翔はうんうんと頷きながら言った。
「ご明答。さて、各々配置に着こうか」
暁さんがそう言うと、僕らは顔を見合わせ、自転車に乗り込んだ。
午後十一時、僕と暁さんは篠原さんの家の周囲で待機。まだ動きはない。
今でも自分の判断が本当に正しいのかどうか不安になる。不安を飲み込め、自分を信じるんだ。
その時だった。篠原さんの家の二階の窓が開き、黒い影が外へと飛び出した。
「来た!」
自転車のペダルを踏み後を追う。二人組の内、片方がトランシーバーで連絡を取りながら走り、もう片方が全力で犯人を追う段取りだ。
こちらは僕が、向こうは翔が連絡役だ。激しいトランシーバー争奪じゃんけんの末、慎が追跡役になったため、翔のアメフト装備は慎が着ることになった格好だ。
僕は手に持ったトランシーバーで翔に連絡を取る。
「翔、犯人が動いた。今町を下ってる」
「了解」
そして犯人の影を暁さんが自転車で追っている。犯人は住宅の屋根を飛び移って移動している。本当にあれが篠原さんなのだろうか。いや、予想が正しければあれは……
犯人を追う暁さんの背中を僕が追う。犯人は飛び移る先の家が遠いと見ると、すぐさま道路に移動した。
その隙を見逃さなかった暁さんは全速力で近付き、犯人に飛びかかろうとする。すると犯人がぐるりと首を回し、暁さんの方を見る。
刹那、犯人の周囲一メートルほどが禍々しい赤い光に包まれる。光に暁さんが包まれたかと思うと、飛びかかろうとしていたはずの暁さんの体は地面に叩きつけられていた。
暁さんの自転車は勢いそのままに電柱に突き刺さった。前輪が激しく歪み、とても走行できる状態ではない。
急いで暁さんの元へ走る。
「暁さん! 大丈夫ですか!?」
「くく、中々ふざけた能力だね。概ね君の予想通り、『人を操る』能力だ」
「本当にそうだったとは……」
「ああ、だが実際はもう少し性質が悪いようだ。契約した悪魔は『支配の蝶』そしてその能力『中心世界』は、基本的には自分の半径一メートルの球の中にいる人間一人を、その球の中にいる限り自由に操ることのできる能力」
矢納屋が陥れられたのはこの能力という訳だ。
「そして操られた本人は自分の考えでその行動や思考に至ったと考えてしまうため、操られていたことにすぐには気が付かない」
「え? それだったら大規模な記憶の消失なんてできないはずじゃ」
「痛てて、今は時間がないから彼女を追いながら話す。悠君、君の自転車に乗せてくれ」
暁さんは僕の自転車に乗った。警官が二人乗りとはいいのだろうか。今はそれどころではないけれど。
犯人追う道中、暁さんから篠原さんのもう一つの能力と誓約、代償を聞き、怒りで身が震えた。
悪魔、まさにその呼び名に相応しい。あいつを僕が倒すことはできない、だが必ず彼女を僕が守ってみせる。
犯人を見失ってしまうのではないかと心配したが、どうやら暁さんはしっかり仕事をしてきたようだった。
「悠君に心配されるとは俺も堕ちたもんだな。問題ない、しっかりと発信発光器を奴の衣服に仕掛けておいた」
つまりはこういうことだ。篠原さんを犯人と仮定すると、犯人の能力が「記憶を忘れさせる」だけでは眼帯の件や矢納屋の件の説明がつかない。
従って彼女の能力はおそらく「人を操る」ことになる。しかも広範囲に能力を発生させることができる。
僕らが犯人と対面しても、犯人は僕らに犯人を忘れさせることができるということだ。
ならば、発信器によって犯人の居場所を、発光によって目視による犯人の補足を可能にすればいい。
もし発信発光器を外されても、暁さんの能力で大まかな位置を探し、また発信発光器での補足を繰り返して追い詰める。
暁さんはこの土日でその機器を用意してきたのだ。
しばらくすると翔から連絡が来た。
「こちら小野寺、どうぞ」
「翔、犯人は?」
「今点滅する光を見つけたので慎が追っている。発見次第また連絡する」
だが予想以上に次の連絡は早かった。コール音が二回、犯人と接触したようだ。全力でペダルを漕ぐ。
「こちら小野寺! くっ、犯人を見つけた、慎が犯人を追ってる途中、カーブを曲がり切れずに派手に転倒した。幸い怪我はないようだが、自転車がパンク。至急応援頼む」
僕と暁さんは急いで二人の元へ急ぐ。町を下り、駅前まで犯人は動いていたようだ。駅前の銀色のモニュメントが風に揺られ、きしきしと音を立てる。
「慎! 大丈夫!?」
「へへ、ちっとミスっちまったな。犯人はまだ近くにいるはずだ」
慎は翔の防具のおかげか、怪我はないようだ。良かった。
「うむ、自転車は壊れたが、そちらのと合わせてまだ自転車は二台ある。犯人が光に気が付く前に追いかけるべきだ」
ようやく捕まえた犯人の尻尾に翔も興奮気味だ。
――でも、もはやここまでだ。怪我がないとは言え、慎が被害を受けた。分かっていたことだった。ここで言わなければ、例えこの後また孤独に戻ろうとも。
「慎、翔、本当にごめん」
「ん?」
「あ?」
慎も翔も口をぽかんと開けている。
「ここから先は僕と暁さんに任せて、二人は帰って欲しいんだ」
「はあ!? それマジで言ってんのか悠」
慎は明らかに怒りの表情を露わにした。
「悠、犯人は我々から今も遠ざかっているんだ。そんな冗談につき合っている暇はないぞ」
翔も珍しく言葉に怒気が込められている。
「冗談じゃないんだ。いつかきっと訳は話すよ。だから、だからここは引いてくれないかな」
「悠! どうしたんだ一体、危険だと言うのならお前も危険じゃないか!」
「翔、ここは引こうぜ」
「え?」
「何だと?」
僕と翔は慎の意外な一言に驚かされた。説得が難しいのは翔より慎だと思っていたのに。
「だけどよお悠、必ず何があったのか教えろよ。じゃなきゃ許さねえ。んじゃまた明日学校でな。いいか、遅刻すんなよ」
「慎! お前、いいのか」
「ああ、行くぞ翔」
「……悠! 俺のイカロス号、役立ててくれ。そして明日俺にちゃんと返すんだぞ。俺は愛車が心配で眠れないだろうからな。俺を不眠症にしないでくれ」
「うん、分かった。ありがとう」
「じゃあな、悠。男を見せろよ」
そう言うと慎は腕を翔の肩に回し、駅から離れていく。
二人の背中からしばらく目を離すことはできなかった。
「いい友達じゃないか。中学校の頃に君が彼らに出会っていれば悪魔の能力に手を出さずに済んだのかもな。たらればの話だけどな」
「はい、たらればですよ暁さん。僕がどうしようと起きたことは起こるべくして起きたんですから」
「……その言葉、誰かの受け売りだろ?」
「分かります?」
正直、俺は納得していなかった。悠を信頼して我が愛車を預けてきたが、なぜ悠が俺達を返したのかも、なぜ慎があっさり帰ることを承知したのかも分からなかった。
「なあ慎、直前まであれほど犯人を捕まえるのに躍起になっていたお前が、なぜ急に帰ることにしたのだ?」
「ああ? それはなあ、って、あれ? あれは、あのお姿は……」
これまた急に慎が話すのをやめた。本当に訳の分からない男だ。あのお姿だと? こんな夜中に、この寂れた駅前を誰かが歩いているとでも言うのか。
だが本当にそこには人がいた。それも女の子だ。
「何だと、なぜこんなところにいる? 神田さん」
「あら、小野寺君に織川君、こんな所でこんな時間に会うなんて奇遇ね」
「こんばんはーっす、神田さん! 夜の散歩ってヤツ? ここらは危ないんで家まで送っちゃうぜ」
「いえ結構よ、織川君。私はその危ない所を見に来たの」
「神田さんが何を知ってるかは知らんが、これ以上先に行くのは賢明ではないぞ。俺達ももう帰るところだ」
俺がそう言っても神田さんはまるで気にしていない様子だ。
「ところで末道君はどこ? 彼もここに来てるんでしょ?」
「……悠は、残った」
ぽつり、慎はその一言だけ言った。
「そう。本当に馬鹿みたいね彼。初めからあなた達をここに連れて来なきゃいいのに。もっとも、ぎりぎりまで断れなかったんでしょうけど」
「おい、神田さん。いくら神田さんでも悠の悪口は許せねえ。取り消して
くれ」
俺は不覚にも驚いてしまった。慎のことだから、調子良く神田さんに同調するかと思っていたのだ。
「あら、何か文句でもあるの? 末道君を置き去りにしてきた癖に。結局のところ、我が身の可愛さに引き返してきたんでしょう」
「違う、そんなんじゃねえ!」
慎は激昂した。
「あいつはいつもどこか一線を引いて俺らと付き合ってた。俺達が馬鹿言っても何も反論することなくついてきた。それが不本意なことでもだ。多分、あいつは過去に何か傷があるんだろうよ」
慎は一転して独白するかのように静かに語った。
「だから今日ここに来るのが危険だと分かってても、俺らの提案を断れなかった。そうしなきゃ俺達から仲間外れにされるだとか馬鹿なこと考えたからだ」
俺も薄々感じていたことだ。暁さんのところへ偵察に行こうと提案した時も、普段一緒にいる時も。あいつがノーと言ったことは一度もなかった。決まって目を逸らす。
「だけど、さっき俺らに帰れと言った時の目は、そんな自分のことしか考えてねえ奴の目じゃなかった。ああ、あの時もそうだ。俺が車に轢かれかけた時も、普段見せねえような強い意志を持った目で俺に逃げろと言ってた」
神田さんは一言も反論せず、腕を組んで黙って話を聞いている。
慎はなおも続ける。
「そう、あの時と同じ目をしてたから、俺は何の説明もないまま悠の言った通り引いたんだ。だが、俺は自分の安全のために引いたんじゃねえ! あいつのことは心配だし、俺達も残りたかったけどな、あいつの覚悟に、振り絞った勇気に応えるために引いたんだ!」
この時ようやく慎の真意を理解できた。こいつ、そこまで考えていたのか。
「だから神田さんよお、さっきの言葉取り消してくれねえか。俺のことはチキン野郎だって馬鹿にしても構わねえけどよ」
「ふふ、中々熱いこと言うじゃない。分かったわ、さっきの言葉は取り消す。ちょっとは織川君のこと見直したわ」
「へへ、ありがとう神田さん。んじゃあ、見直したついでに今度俺とデートなんてどう?」
せっかく見直してくれたというのに、こいつは何を言っているんだ。まったく、生粋のピエロだな。本性を隠すのに必死という訳か。
「ええ、いいわよ」
「え?」
「何?」
「えぇーーーーーー!!」
自分で言っておいて慎は絶叫している。どうやら本気で神田さんからOKがもらえるとは思ってなかったらしい。
そしてその瞬間、慎は糸の切れたマリオネットのようにその場に崩れ落ちた。驚愕と幸福が同居した奇妙な表情を浮かべたまま。
「お、おい! 慎、大丈夫か?」
どうやら慎は興奮のあまり失神してしまったようだ。
「こんな顔で失神するなら、デートのお誘い断った方が良かったかしら」
「違いない」
「でも、正直織川君があそこまで思い巡らせていたとは思わなかったわ」
「ああ。だが、ムードメーカー、いや、ピエロって奴は他の誰よりも周囲を盛り上げようとしているからこそ、観客をよく観察しているのかもな」
「ええ、本当。最後の最後まで本心を隠してるんだから。ほら、彼の掌」
そう言われ、失神している慎の握りこぶしを開いてみた。慎の掌は強く握りすぎで血が滲んでいる。
そしてそれはほとんど乾いていた。これは今できたものではない。
「悠の前で少しの不安も見せないよう我慢していたとはな。格好いいじゃないか」
俺は思わず口角を上げた。
「まるでオリバーのようね」
「まるでオリバーのようだな」
「ん?」
もしや神田さんはロウツバを視聴していたのか? まあ、社会現象を巻き起こしたほどだから、見ていてもおかしくはない。
しかし、この場面で彼の名前を出すなどかなりのロウツバフリークと言わざるを得ない。
「神田さん、あんたイケる口だな」
「あなたこそ。小野寺君」
俺達は妙なシンクロに笑ってしまった。
ロウツバファンの神田さんが口を開く。
「それで、小野寺君はどうするの?」
「失神した奴を戦場に連れて行っても邪魔だしな。慎の言う通り、悠の覚悟に応えるためにも今日は引くさ」
「あなたも納得してるの? 末道君を置いてきたことに」
「ああ、俺ができるのはありのまま過ごし、ありのままを受け入れることだけだ。悠のあの決意がありのままのあいつなんだ。俺達はそれを信じている」
「そう、それじゃ私は行くわ」
「さっきも言ったが危険だぞ」
「見届けることが、私の義務だから」
彼女の真意は分からない。しかしこれも彼女が覚悟を決めたことなのだろう。彼女の目がそう言っている。
「それじゃ、おやすみなさい小野寺君」
「ああ、また明日学校でな」
「ええ、また明日」
暁さんが携帯電話で発信器からの信号を確認する。どうやら犯人はまだそう遠くには言っていないようだ。
「さて、覚悟はいいかい悠君」
「はい」
「彼女を止める覚悟はもちろん、失敗した時、俺に殺される覚悟だ」
「はい」
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