第5章Aパート

 我那覇暁は末道悠の命を奪い取ろうと走り出した時、一瞬夢想した。

 



 二一年前の沖縄、暁少年の足元に転がる両親の遺体。彼の両親は悪魔の契約者に惨殺された。

 小学校から帰ってきた暁は冷たくなった両親の前に佇む大男と邂逅する。大男は自分は絶対に記録に残らない力を持つと豪語し、そして暁の両親を死に至らしめたナイフを暁に手渡した。


「いつか俺に復讐しに来い」


 その大男は幼い彼に呪いの言葉を残してその場から立ち去る。それが彼と悪魔の契約者との出会い。




 暁は状況証拠、それに手に握っていたナイフが決定的な証拠となって両親殺害の犯人とされた。あの大男は「どこにも存在していない」ことになっていたのだ。

 年端も行かない彼は逮捕後、精神病院に搬送された。そして無慈悲な世界に、仇討ちできない無力な自分に絶望したその時、「悪魔の契約者」を根絶やしにするに相応しい「悪魔の能力」を手にする。




 退院後、何とか容疑が晴れた彼は孤児院で多くの時間を過ごすこととなった。殺人容疑のあった子供を引き取る大人などいなかった。

 その後、両親を殺害した大男への復讐を果たすため、彼は警察官を志す。

 悪魔の契約者を狩る悪魔の契約者。いつしか彼は契約者から「印狩り」と呼ばれるようになっていた。

 しかし、暁の悪魔の契約者を執拗に追う捜査手法と、殺人事件の容疑者だったという彼の過去が問題となり、上司と衝突。冴えない地方の交番へと島流しにされた。




 その地方都市こそが、末道悠と出会ったこの町なのだ。

 悠は心優しい少年だ。だが同時に、不運な星に生まれたが故の危うさを内包していた。悠のすぐ隣にはいつも絶望の影がある。


「自分のような思いをする子供を増やしたくない」


 そう思い、暁は悠を見守り続ける。




 それから更に五年後――能力を手にしてから二〇年後――ある街の悪魔の契約者による連続殺人事件に関わった際、悪魔の契約者である少女と暁は出会う。

 彼女は「鈴木」と名乗り、事件解決の協力者として一時的に行動を共にすることとなったのだ。

 なぜ暁は悪魔の契約者である彼女を先に殺害しなかったのか。それは彼女の能力が余りに強大だったためだ。

 彼女の能力「共鳴死彗」は指をならすことで「不可能を可能にする」能力。逆に、実現する可能性のある事象は一切扱うことができない。人間の持つ可能性を否定する能力。 

 暁は驚愕した。なぜこんな女の子が、こんな禍々しい能力を持っているのか。暁は彼女に計り知れない闇を感じた。

 だが彼女は正義感の塊のような女の子で、自分の街を守るためには能力の使用に躊躇がない。

 彼女の代償は「自分自身に不可能な事象が無作為に起こる」こと。彼女は常に予測不能な恐怖に晒されている。

 それでも正義を貫かんとする彼女の意思はまさに狂気そのものだった。




 暁はいずれ彼女を始末するためにも同盟を結んだ。彼女の信頼を得て、隙を見て彼女を殺すためだ。

 そして二人は激闘の末に、連続殺人事件の犯人を捕らえることに成功した。



 

 鈴木が暁と同盟を組んだのには訳がある。彼女は代償の「不可能な事象」により、「悪魔の契約者を呼び寄せる体質」を得てしまったのだ。

 それは彼女に無用な戦いと能力の使用を招いていた。

 そこで暁と彼女の利害は一致した。鈴木は能力の使用を極力避けつつ街を守り、暁は彼女が呼び込む悪魔の契約者を狩る。

 彼らはこの不思議な同盟関係を結び、悪魔の契約者を次々に捕えていった。




 しかしこの奇妙な同盟関係は突然終了する。

 ある日彼女に呼び出された暁は同盟の解消を求められる。その時の彼女の様子は、今も彼の目に焼き付いて離れない。


「正義の味方ごっこはもうやめにしたわ。特別な力を手にしても特別な人間になる訳じゃない、そのことにやっと気が付いたの」


 彼女は何かを悟ったようにも見えたし、何かを諦めたようにも見えた。

 彼女と暁は、ただの悪魔の契約者と印狩りの関係に戻ったのだった。もう暁があの指をならす乾いた音を聞くことはない。

 彼女と悠。二人が話してくれる日常の他愛のない話が、青春時代を暗闇で過ごした暁にとって本当に愛おしいものになっていた。そんな中での突然の同盟解消に、暁は少なからず動揺した。

 そして彼は誓う。今や唯一、ありふれた日常に触れさせてくれる悠だけは、こんなことに関わらせてはいけないと。自分が悠を守らねばならないのだと。




 彼女と同盟を解消した年の三月末のある日、

 悠が暁のいる交番に突然大金を落し物として届けに来た。

 暁は目を疑った。大金そのものにではない。「不運な悠が大金を持ってきた」という事実にだ。

 嫌な予感がした。それは最初、小さな疑念に過ぎなかったが、それはやがて確信に変わった。

 そして、確信に変わった以上、彼は「印狩り」としての使命を果たさなければならない。 

 暁は気が気ではなかった。自分が守ると誓った悠を、自分自身の手と意志で殺害しなければならないのだから。




 鬼の形相、そういう表現がある。鬼の顔なんて見たことないし、絵本なんかに出てくる鬼の顔はいつもやられ役なせいか、愉快な顔をしていた。だが、今の暁さんはまさしく鬼の形相としか表現できないような表情で、激しい憎しみを僕に向けている。


「暁さん! やめてください! 何で、何でだよっ!」


 全力で逃げながら叫ぶ。


「それは君が悪魔の能力を手にしたからだ。契約者をのさばらせる訳にはいかない」


 暁さんは僕を追いかけながら冷静な口調でそう言った。


「そんな……暁さんだって、暁さんだって契約者じゃないか!」


「そんなことは分かりきっている。最後には俺も命を絶つ。全ての契約者を始末した後でな。さあ悠君、もうそろそろ追いかけっこはおしまいだ」


 いつの間にか廃工場の奥の方へと逃げていた。暁さんの声が冷たいコンクリートに囲まれた部屋の中で反響している。

 まずい、風の抜ける音が聞こえない。この部屋には窓もなければ、換気口もなく、入口は一つのようだ。

 必死に逃げいていた僕は見事に袋小路へと誘導されていたのだ。

 もしこのまま追い詰められ入口を封鎖されれば、契約失効になり、まず最初に手で物に触れなくなり、最終的には「どこまでも落ちて行く」ことになる。

 選択肢は二つ。このまま殺されるか、暁さんと戦うかだ。こんなところで死ぬ訳にはいかない。まだやり残したことがたくさんある。


「覚悟はできたかい? 悠君」


 追いついた暁さんが静かにそう言った。天井に設置された非常口の緑色の光が、ぼんやりと暁さんの顔を照らす。やはり厳しい表情を僕に向けている。

 本当にそうだろうか? いや、そうではない。気が動転していて気が付かなかったが、良く見ると暁さんの目はうっすらと潤み、唇は少し震えている。


「そうだ、暁さんだって辛いんだ……」


 ぽつりと独り言。暁さんは印狩りとしてこれまで戦ってきたかもしれない。それは事実だろうし、僕が想像もできないような過酷な経験の末に辿り着いた結論なのかもしれない。

 だけどいつも一人だった僕と一緒に遊んだり、優しく声をかけてくれたことも事実だ。僕がそう信じたいだけかもしれない。だが、僕が暁さんを信じるのに理由なんていらなかった。

 僕の心の中には、暁さんが僕を倒さなければいけない状況になったことへの申し訳なさと、それでも自分と暁さんを信じる気持ちが、両方同時に膨れ上がっていた。

 そして心は一つに決まった。ここは絶対に切り抜ける。こんなところで死ぬ訳にはいかない。

 祖父やラッキー、翔や慎の顔や、まだ未解決の事件のことが僕の心の中で引っかかっている。

 そして何より、篠原さんのこと。ここで終わっていいはずがない。

 少し、ほんの少しだけ僕らの間に沈黙が走った。そして僕は口を開く。


「覚悟を決めましたよ、暁さん。僕は必ずここから脱出する。生きてここから出なきゃいけない訳がある」


「君が俺に勝てるとでも?」


「あんまり舐めてると怪我しますよ」


 掌の印に意識を集中させる。その瞬間、赤く禍々しい光が両腕を覆っていく。


「悠君、言い忘れていたが俺の代償は、能力使用中と使用後数分太陽を浴びると激痛が走ることだ。まあ、この廃工場ならそんな代償はまるで問題ではないけどな」


 暁さんは自分の誓約を淡々とこなす。


「それともう一つ、良いことを教えてあげようか。君が俺に勝つには、俺を倒すだとか、二四時間戦い続けるだとかそんな無茶なことをする必要はないんだ」


「……一体、何のつもりです?」


 暁さんの不気味な言葉に思わず喉を鳴らす。


「簡単さ、俺を君の能力の『弾』にしたらいい。そうすれば俺を殺せるばかりか、君は強大な力を得ることができる」


 暁さんが低い声で笑った。


「そんなことは……そんなことは絶対にしない! 暁さんが印狩りだと分かった今でも、暁さんは暁さんのままだ! 僕の、大切な兄さんみたいな存在なんだ」


「……強情だな。だが、現実はそううまくはいかないものさ」


 そう言うと暁さんはゆらりとナイフを取り出し、切っ先をこちらに向けた。今まで感じたことのない威圧感を肌が、心臓が感じている。一歩間違えば確実に殺される。

 呼吸を整え、赤い光で覆われた右手でコンクリートの地面を鷲掴みにする。 

 そして地面から銀色のゴツゴツとした塊を取り出す。それと同時に体から力が抜け、地面に膝をつく。


「はあ……、はっ、暁さんこれが何だか分かりますか? これはこのコンクートの『強度』です。そして『弾』には僕の『体力』を使った。この『強度』の塊で」


 右手に持った『強度』を、まるで粘土をこねるかのように両手で変形させる。


「盾を作る」


 僕の左腕は、盾と言うよりは篭手のようになった銀色の塊で覆われた。


「そして、『体力』の消耗でできた『疲労』を取り出す……!」


 今度は輝く右手で自分の胸を貫く。そして胸から青白いドロドロとした塊を取り出し、そのまま勢いよく右手を払う。すると青白い塊はその勢いで長い棒状に変形した。


「これが『疲労』の槍。ただの疲労じゃない、能力で消費した体力と、僕の精神的な疲労の結晶です。少しでも触れたらまともに動けなくなると思いますよ……!」


 槍を作ったと同時に、自宅の自転車が跡形もなくバラバラになる映像が頭の中を通り過ぎた。


「へえ、やるじゃないか。確かに一筋縄じゃいかなそうだな」


「これで暁さんは迂闊に僕に近づけない」


「その程度で俺に勝ったつもりかい。素人の槍捌きで俺を止められるかな?」


 暁さんはそう吐き捨てると僕の槍など気にせずに前傾姿勢で突っ込んできた。

 一度深呼吸し、向かってくる暁さんを槍で突く。しかし暁さんは、真っ直ぐ突いた槍に合わせてスライディング。いとも簡単にかわされた。

 だがこんなことは予想の範囲内。暁さんが槍の下にもぐりこんだと同時に、槍を真下に叩きつける。

 すると暁さんはスライディングした足を軸足にして起き上がりながら回転し、叩きつけた槍を回避。その動作と連動して暁さんはナイフを僕の胸目掛けて突き出した。

 その瞬間、恐怖のあまり思わず体の前で手を交差させ、両目をつぶった。駄目だ、こんなにあっさりと終わってしまうのか。

 甲高い金属音が部屋の中でこだまする。虫が体中をはいずりまわるような衝撃に襲われ、僕の体は宙に吹き飛ばされた。

 偶然、コンクリートの「強度」の籠手で覆われた左腕を前にしていたおかげで、何とか難を逃れたようだ。しかし今のは強運がなければ心臓を一突きされていたところだ。

 座ったまま槍をぶんぶん振り回しながら、何とか暁さんとの距離をとる。

 その格好はかなり無様だったに違いないが、そんなことは言っていられない。


「さすがに強運を身につけただけあって、そう簡単にはいかないね。だがいつまで耐えられるかな?」


「はあ、こっちから攻めれば僕のペースに巻き込めるはずだっ!」


 このまま攻め続けられても、暁さんの言う通りいずれは仕留められてしまう。無謀だが自分から攻めるしかない。分の悪い賭けだが、まるで勝算がない訳ではない。

 暁さんがもし、もしも僕に直接手を下すのを躊躇しているのだとしたらあるいは――




 勢いよく立ち上がり、これでもかと言うほどの大ぶりで暁さん目掛けて槍を下から上へなぎ払う。この槍が普通の槍だとしたら、刃先がコンクリートの地面に突き刺さり槍が折れているはずだ。

 だがこの槍は「疲労」そのもので作られた槍。おかげで地面を貫通して刃先が隠れる。これで少しは不意打ちになると良いのだが。


「そんな攻撃が当たると思っているのかい、悠君」


 暁さんは最小の動作で面倒そうに槍を避けている。しかし、めげずにかわし続ける暁さんを追いかけつつなぎ払い続けた。

 もちろん入口を封鎖されないように警戒も怠ってはいけない。入口のドアは壊れているが、部屋の内側にある防火扉を閉めれば問題なく密室を作り上げることができる。

 どれくらいの時間が経っただろうか。幾度となく攻め続けた。結果、この部屋をぐるぐると何周も回っただけで暁さんには一発も攻撃を与えられなかった。かすりさえしなかった。

 そして疲れ果て、入口の真横に座り込む。


「はあっはあっ」


 ゆっくりと防火扉の方へ近づいてくる暁さんに対して、僕は何もできないでいた。


「こんな異常な状況だと疲労も倍増する。せっかく疲労を抜き出したけど、無駄だったな」


 暁さんは防火扉に手をかけようとした。やはり暁さんは直接殺すのではなく、誓約違反で葬ろうとしている。


「……さよなら悠君。今までありがとう」


「暁さん、まだお礼を言うのは早いですよ」


「何?」


 床からみしみしと小さい音が鳴り始め、それは一気に爆発音のような轟音に急変した。

 崩壊。それは一瞬の出来事。爆音が鳴り始めると同時に暁さんの足元は崩壊した。暁さんが体勢を崩したその瞬間、槍を暁さんに投げつける。僕の手から放たれた槍は見事、暁さんの体を貫通した。


「馬鹿なっ、コンクリートでできた床がくずれるなんて」


「疲労するのは生物だけじゃないですよ。コンクリートは荷重をかけられた時に疲労するんです。限界以上に疲労したコンクリートは、わずかな重みにも耐えられなくなって簡単に壊れる」


「あの大振りは初めから俺を狙ってたんじゃなく……」


「そうです。防火扉の前の床を疲労させる為です」


「はは、こいつはまいったな。久々に追い詰められた。ほら悠君、とどめをさせよ」


「……そんなことはしません」


「まだそんな戯言を言うのか!? 俺はまたいつ君を襲うか分からないんだぞ」


「それでも、僕にはできません……悪魔の契約者でも印狩りでも、僕にとって暁さんは暁さんなんだ!」


「それは買いかぶりだ、悠君。信じる者が馬鹿を見るのさ」


 暁さんは小声でそう言った。しかし、それを聞き逃さなかった。聞き逃す訳にはいかなかった。


「何を言われようとも、僕は、信じることやめません」


 自らの決意を暁さんに投げかける。そして動けなくなった暁さんを残し、一度も振り返ることなく廃工場を急いで後にした。




 どうやって家に帰ったのかまるで覚えていない。泥のような睡眠から覚めると次の日になっていた。昼になってもずっとベッドから出られない。

 昨日の出来事がまだ頭の中で繰り返される。もう暁さんと普段通り接することはできない。それが一番悲しい。あの時は興奮していて感覚が麻痺していたのだろう、よく戦えたものだ。 

 人間そう簡単に割り切ることはできない。だが自分の中で受け入れることは難しくても、昨夜暁さんに言ったことは本心だ。

 午後三時を回り、やっとベッドから出た。一階に下りると、母が雑誌をめくりながらお茶を飲んでいた。


「悠やっと起きたの。どこか具合が悪いのかと思った。おなか減ってない? 悠が理由もなく学校を休むとは思えないけど、ちゃんと顔見せないと心配するじゃない」


「うん、ごめん、大丈夫。母さんこそ仕事はもう終わったの?」


「今日は午前中でおしまい。でもその代わり明日は遅くなるから」


「そうなんだ。久しぶりに暁さんと会って少しはしゃぎ過ぎて疲れたのかも。気分転換にちょっと散歩してくるよ」


「あんまりふらふらしてると危ないから気をつけるのよ」


「分かった。ありがとう」




 どこかに行く当てなんてなかった。ただ、あのまま布団にくるまっていたら、思考が堂堂巡りし続けるに違いない。

 家を出る時、ラッキーが一緒に連れてってくれと目で訴えていたが、到底そんな気分にはなれない。   

 外に出ると目の前には粉々になった通学用の自転車があった。昨日まで自転車だった鉄くずを片づけながら、昨日のことは夢なんかじゃないことを改めて思い知らされた。それにしても明日からどうやって学校に行こうか。

 自転車の残骸を片付けた後、曇り空の中、まるで夢遊病にかかったみたいにどこへ行くでもなく、とぼとぼと町を歩いた。


「どんっ」


 不意に衝撃が襲う。誰かにぶつかってしまったようだが、ぶつかるその瞬間まで相手の存在にまったく気が付かなかった。


「す、すいません、大丈夫ですか」


 すぐさま謝ると、聞き覚えのある声が聞こえてきた。


「痛いわね、まったくどこを見て歩いてるのよ? あれ、末道君じゃない。学校サボってこんな所で何してるの」


「神田さん……?」


「何鳩が豆鉄砲食らったような顔してるの。私がここにいちゃおかしい?」


「いや、そんなこと全然ないんだけど。こんな時にまさか神田さんに会うなんて」


「こんな時? 末道君、もうちょっと顔とか言葉とかに態度が出ないように気をつけた方がいいんじゃない?」


「え?」


 僕の態度が分かりやすいと言うより、神田さんの勘、と言うか洞察力が鋭い気もする。 

 しかし、落ち込んだ顔をしていたことも否定できない。それについ「こんな時」と口走ってしまった。


「能力が原因で何かトラブルが起こったのね。あの事件のことかしら」


「あの事件のこと……ではないかな。詳しく話すつもりはないけど何と言うか、ずっと食べ続けていた好物が実はアレルギーだった、みたいな」


「まったく意味が分からないわ」


「だよね」


「ま、何にせよ自惚れないことね。何が原因でどんな問題が起きようとも、それは起こるべくして起こっただけ。あなたが何をしたとしても、結局起こる出来事だったのよ」


「それは経験則?」


「そんなところかしら。だから他人のために能力を使うのは無駄ってこと……もう行くわ。それじゃ」


 そう言って神田さんは長い黒髪をなびかせて立ち去った。


「起こるべくして起こった、か……」


 もし本当にそうだとするのならば、僕は無力さに嘆くことはないのかもしれない。だが、あの神田さんに限って僕を励ましてくれただなんて考えにくい。

 僕には神田さんのあの言葉は「人間は誰しも、誰にも干渉できない」と言っているように聞こえた。神田さんの世界はそんなにも孤独なのだろうか。ならば僕の世界はどうだろうか。

 しかし、少しの気休めにはなった。伝わらなかったにしろ、こういうどろどろとした感情は外に吐き出すべきだったのだ。

 そうでなくては体中にこのどろどろとした液体が蔓延してしまう。うつむいた目線を少し上に向け、丘の上の公園に向かう。

 丘に面したベンチに座ると、眼下に僕が一五年間生まれ育った町が広がっている。時折吹く風が夏だと言うのに生温く心地いい。そしてその風を思い切り吸い込み、落ち着いた気持ちで昨日のことを考えてみる。

 僕が悪魔の能力を手にしたのは間違いだった。だが、暁さんの行為を認めていいことにはならない。あの時、早くとどめを刺すよう言った時の暁さんの表情は、なぜか安堵しているように見えた。

 暁さんは誰かに自分を止めて欲しいんだ、そう思った。それにきっと、暁さんを止められるのは僕だけだ。

 そして、その前に記憶障害傷害事件の決着をつける。誰が犯人かまだ分からない。だがこれ以上、暁さんに罪を重ねさせてはいけない。

 確かに神田さんの言う通り、起こったことは僕がどうしようと起こるべくして起こったのかもしれない。

 だが、まだ起こっていないことは、僕にもどうにかできるかもしれない。

 神田さんに会ったおかげなのか、この見晴らしのおかげなのか、はたまた篠原さんとデートした思い出のベンチだからなのか、何とか心の整理をつけることができた。何てことはない。目の前のことをやるだけだ。

 記憶障害傷害事件、これを解決するのが先決だ。




 翌日、木曜日。学校へ行くのが少し怖い。慎と翔の二人に何で学校を休んだのか聞かれるのが恐ろしい。


「よう悠! そろそろ期末テストが始まるけどよお、勉強してるかあー?」


 教室に入ってすぐ慎の威勢のいい声が飛んでくる。不安は杞憂に終わった。


「暑さで頭が沸いたのか慎。お前からまさかテストの話題が出るとはな」


「んだと翔!? 朝っぱら喧嘩売ってんのかよ。おい、悠、お前も何か言ってくれよ!」


 どうして二人は何も聞かないのだろうか。油断すると涙がこぼれそうになる。


「あ、あ、あはは、慎、普段の行いって奴だよ」


「てめっ、お前まで俺の敵かよー!」


 日常は流れ行く。何があろうとも。




 僕らの住むこの地域は年中涼しく、うだるような暑さとは無関係だ。だが一学期末テストが終わると夏休みということもあって、学校はむやみやたらと高いテンションでもんもんとした空気になっていた。

 もちろん慎も例外ではない。僕らは今日のテストが終わった後も、教室に残って三人で勉強会だ。

 図書室は今時期満杯で、近付くだけでも嫌になるほどの熱気だったので、僕らはさっさと教室に避難してきた。


「くそぉ見てろよテストの野郎。問題用紙が日焼けか文字か区別付かないくらい夏を堪能させてやるぜっ」


「お前は何を言っているんだ?」


「うるせえ翔。俺は何でもいいからテストの野郎に罵詈雑言を吐かないと気が済まねえんだ」


「それって罵詈雑言なの?」


「細けえこたあ良いんだよ! お前も何か言ったれ」


「ええ!? ああ、うん。その問題、解き尽くしてやろうかっ」


「……正攻法だな」


 慎のテンションがおかしい分、翔は冷静だ。


「そう言えば悠、テストも重要だが事件もなんとかしなくてはな。暁さんから何か情報は聞けたか?」


 来た、この話題。


「あー、それなんだけど結局あんまり深入りするなって忠告されただけで終わったよ」


 本当はこんな嘘はつきたくなかった。心がちくりと痛む。


「マジかよ、結構暁さんは乗り気だと思ったんだけどなー」


「暁さんも一応普通のお巡りさんな訳だ、そう簡単にはいかないだろう。話は変わるが、慎、悠、二人は夏休みどうするつもりだ?」


「俺は夏休み部活漬けだぜ。合宿とかあるからな、あんまり会う機会はねーかもしんねー」


「僕は今の所予定はないかな。単身赴任してる父さんがお盆前に帰ってくるくらいで……」


 八月の中旬に行われる祖父の初盆は親戚一同介することになる予定だ。祖父は祖母に先立たれ、僕の家の近所の自宅に一人暮らしをしていた。その家も今は誰も住んでおらず、たまに母が掃除しにいっているだけになってしまった。

 祖父が亡くなってから、僕は一度もあの家に一度も訪れていない。初盆も誰もいない家で行うことはないだろうから、お世話になったお寺で行われるはずだ。

 そんなこんなで、あそこは行こうと思わなければ行かない場所になってしまった。

 だからこの夏休み、祖父の家に僕も掃除に行こうと考えていた。二人にはそんなこと言えないけれど。


「そうか、それなら事件の調査は悠が中心になって動くことになりそうだな」


「え? どういうこと?」


「何となく予想つくけどよお。続けてくれや」


「実は俺は夏休み忙しくてな。東京で行われる日本最大の同人イベント『コミックカーニバル』と創作限定同人イベント『コミリア』に参戦せねばならんのだ!」


 翔は右腕を空高く掲げ、鼻息を荒くした。


「同人……って何?」


「まー平たく言えばファンコミックだな。にしても『コミカ』と『コミリア』両方参加すんのか。金あんのかよ?」


「俺には『コミカ』貯金があってだな……まあ、それは今はいい。ともかくそういうことで俺も慎も夏休みは忙しい。三人揃ってパトロールも数回しかできないだろう」


「何だかそうみたいだね」


「うむ。だから悠よ、時間のあるお前が中心となって事件を追うのだ!」


 アニメや漫画なら間違いなく集中線が指先に描かれるような勢いの良さで、翔は僕を指さした。


「しょうがねえなあ悠、お前に私設パトロール隊隊長の肩書きを一時的に譲ってやるぜ!光栄に思えよ!」


「え、急に、そんな」


 そもそも慎がいつ隊長になったのだろうか。でも二人の頼みなら断るわけにもいかない。それにやることはいつもと変わらないのだし。

 一瞬、無言の慎と目が合う。


「……分かったよ、臨時パトロール隊隊長の任、お受けします」


「よく言ってくれた。もちろん俺だってただ遊びに行くつもりはない。様々な筋の人間から記憶に関する情報を収集するつもりだ。慎、お前も単独でも聞き込みを続けるんだぞ」


「分かってるっつーの。俺は隊長だぜ?」


 慎は得意げに自分の胸を叩いた。だからいつ慎が隊長に。


「各自集めた情報は、そうだな、盆明けにでも集まって共有するのはどうだ?」


「さすが翔、いいね」


「だな! それにしてもよお、せっかく高校一年の夏休みだってのに、色気のねえ計画だと思うわねえか?」


「何を言ってる高校球児。夏休みはまさに野球シーズンだ。それに事件も重要だ」


「でも慎の言うことも一理あるかもね」


「だろ? 何も海に行ってねえちゃんをナンパしようぜとか言ってる訳じゃなくだな、何と言うかその、高校生らしい爽やかな一夏の青春を感じたいってことよ!」


「ドラマの見過ぎだ」


 僕と慎は口をあんぐりと開けて、一瞬固まってしまった。まったく翔はどの口からそんな台詞を吐いているのやら。


「でも慎なら野球部のマネージャーとかチア部とか、色々機会がありそうなもんだけど」


 僕がそう言うと慎は急にスイッチが入ったかのようにぐるりと僕の方へ首を向ける。


「あのなあ悠、地区大会の一回戦で負けるような弱小校にチア部なんてあると思うか? そんな部に可愛いマネジが寄りつくと思うのか?」


「あ、あっはははは……」


「何か教室から馬鹿みたいにでかい声出してる奴がいると思ったら、やっぱり馬鹿だった」


 そう言いながら純が教室に入って来た。これはもしかしてと期待していると、後ろから篠原さんと舞も続いてやって来た。


「馬鹿とは何だ馬鹿とは! いいか俺達は今、高校生活を楽しむための大切な話をしてたんだっつーの」


「どうせ女の子と遊びたいとかそんな話でしょ」


「な、う、え?」


 慎は口をパクパクさせて返答に困っている。


「で、でもでも私、小野寺君……達とさっき話してたお祭りに行くのもいいかなあ……って思ったりなんかして」


 舞はおずおずとつぶやいた。


「確かにー! 小野寺君と一緒っていうのはいいね! もれなくおまけ付きだけど」


「おまっ、おまっ……何を勝手に話を進めてんだよ。そんな扱いされちゃあ、行きたいものも行きたくなくなるっつーの。ま、お前らがどーしても、どーしてもってなら行ってやってもいいぜ? なあ、悠」


「あ、うん。僕は行ってみたいかな。でも翔が来なきゃ意味ないし、翔次第だけど」


「二人がそう言うなら行っても構わんが。その祭はいつなんだ? 予定が合わないかもしれんしな」


「夏休みが終わる直前……だよ」


 舞は聞こえるか聞こえないかくらいの大きさの声で話すので、皆つい耳をそばだててしまう。


「それならおそらく問題ない」


「ホント?じゃ、きっまりー! 繭ももちろん行くよね? 夏休み中はずっと家族と旅行行くとか言ってたけど」


「う、うん。夏休みの最後の方なら多分大丈夫かな」


 皆で夏祭りに行くことがトントン拍子で決まった。篠原さんは浴衣姿で来るのだろうか。想像しただけで心臓がざわつく。

 女の子と夏祭りに行くという起爆剤を手に入れた僕らは、勢いそのままに期末テストを乗り切った。

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