第4章Aパート
物事が始まる前兆。地震の前に動物は騒ぎ出し、雨の前夜には月に
五月の第四週、高校に入って最初の定期試験が行われた。幸運とそこそこの学力があったので何の問題もなかった。
「アニメを楽しむには周辺知識がなければ駄目だ。アニメを見たからと言って知った顔するのはにわかに過ぎない」
と語っていただけあって、翔はやたら色んな分野に詳しく、それは学校の勉強でも抜かりはなかった。おかげで学力はクラスの中でも上位に入る。片や慎は相当苦労しているみたいだ。
「まったくよー、テストなんかで俺の何が測れるってんだよな。そんなんで俺を評価できると思ったら大間違いだっつーの!」
まだまだ慎の愚痴は続いていたが、余りに多いので僕は聞き流していた。
テストの日程も折り返し地点に到着し、残るは消化試合のみ。教室はもはや終戦ムードに包まれていた。一部を除いて。
そんな中、今日は神田さんの姿が見えない。テストを受けないつもりだろうか。まあ神田さんも勉強ができるので問題はないのかもしれないが。
今日の授業は午前のテストで終わりだったので、僕ら三人は久しぶりに学食に行くことにした。今日の僕らのランチは日替わり定食五〇〇円なり。
「それにしても人間やればできるもんだよな。普段の調子なら俺はもう一日目で完全に頭から煙を出して、今頃家で寝込んでるはずだったぜ」
慎は日替わり定食をテーブルに置くやいなや、勝ち誇った顔をして話し始めた。
「昼飯食べてやる気出したら家帰ってちゃんと勉強しろよ、慎」
翔が浮かれ始めた慎に釘を刺すと、慎は気のない返事で答えていた。
「たまに学食に行くけど、結局この日替わり定食にしちゃうよね」
三人とも同じメニューなのに気が付く。学食のメニューの数はそう多くはないが、それでも三人ともまったく同じメニューというのは珍しい気がする。
「椀物がラーメンだろーが」
「ああ、椀物がラーメンだからな」
二人は口を揃えて言った。確かに。
「おい、二人とも気が付いたかよ? 今日神田さん休みだったんだよなー」
と慎が神田さんの心配をし始めたが、僕はまるで違う方向を見ていた。そこから目を離すことができる訳もなかった。
なぜなら僕らのテーブルのすぐ前の席に篠原さん達仲良し三人組が座っていたからだ。二人は背を向けているのでそのことには気付いていない。
すぐに視線を二人の方へ戻し、相槌を打つ。もちろん盗み聞きは良くないと思いながらも、しっかりと聞き耳は立てていた。
「大丈夫、繭? 何だか顔色悪いよ?」
「大丈夫。やっぱり一夜漬けは高校じゃ通じないみたいだね、おかげで寝不足。そう言う純だって眠そうだよ?」
「繭、心配しないで……どうせ純は漫画読み過ぎたとかなんだから……」
「さっすが舞、うちのこと分かってるう」
「でも本当に大丈夫、繭……? あんまり食べるのも進んでないみたいだけど……」
「ありがと、舞。昔から小食なだけだよ。それに寝不足も重なっちゃって」
今の彼女たちの会話を聞いて、思わず箸を止めてしまった。麺が箸から椀に戻っていく。なぜ僕は今、箸を止めてしまったのだろう。
「おい、悠、聞いてんのか?」
「え?」
ようやく二人がこちらを見ているのに気が付いた。
「だからよお、俺たちの事件捜査が決定したっつー話」
慎がそう言うと、翔が補足を入れてくれる。
「昨日の深夜にまた被害者に記憶が残っていない傷害事件が発生したのだ」
「そっか、もし次に事件が起こったらって言ってたもんね。じゃ、なおさら慎にはテスト頑張ってもらわないと」
「おいおい、それと何が関係あるん――」
慎が言葉を言いきらないうちに翔が釘を刺す。
「結果が散々で補習にでもなってみろ。せっかく意気込んで捜査しようとしても、言いだしっぺが補習やら部活やらで忙しくて行けないでは格好がつかないだろう」
「むむむ……」
慎に反論する勢いは残っていなかった。
そして定期テストは無事終了した。僕と翔はもちろんのこと、慎もぎりぎり補習対象にはならなかったようだ。
テストから数日後、僕らは翔のバイトと慎の部活の予定が噛み合ったので、ついに深夜のパトロールに出てみることにした。
翔がバイト先の先輩から今回の事件現場を詳しく聞いていたので、ひとまず駅に集合し、その現場に向かう。
「翔、今日もそのチャリなんだね」
翔はまた例の痛チャリに乗っている。反射テープが貼ってあり、夜だと言うのに街灯に照らされやけに目立っている。
「当たり前だ。移動はイカロス号以外に考えられない」
「イカロスってまたロウツバかよ……」
さすがの慎もこれには呆れ返っている。目立たないように行動した方がいい気がするのだが。
しばらく自転車を走らせると現場に到着した。現場は繁華街にほど近く、三人の家からは僕の家が一番近い。
「本当にここで事件が起こったのか? 今は午前一時ちょうどだが、まだまだ人が多いぞ」
翔がやや不安げな表情で翔に尋ねた。
それもそのはず。二件目の事件現場は居酒屋などが多く建ち並ぶ通りだ。平日だというのに、飲み会帰りのサラリーマンが多く、辺りは喧騒に包まれている。多くの目撃者がいたこの場所で、事件は発生したのだ。
しかも犯行時刻にはその場所にいたと証言する人も数多くいるが、実際の目撃者は被害者を含め誰もいない。
「そのはずだけどよ……こんなところで誰にも気が付かれずに人を襲うなんて、確実に不可能だよなあ」
慎は辺りを見渡しながら言った。翔と僕も現場周辺を捜索してみる。しかし、周りは肩を組み歌っているサラリーマンや、合コン終わりらしい男女のグループが居酒屋の前で騒いでいるだけで、特に不審者は見当たらない。
三十分ほど補導に怯えながら通りを見まわったが、何の収穫も得られなかった。
「……最初の事件現場にも行ってみる? そんなに遠くなかったよね」
このままでは埒があかないので、とりあえず提案してみる。
「だなー。そう簡単に犯人見つかっちゃあつまんねーしな。テンション上げてくか!」
「おい慎、これは遊びじゃないんだぞ。面白いかどうかは関係ない」
「堅えな翔は。わあってるっつーの」
最初の事件現場。深夜になると地元の不良が集まる、町の高台に位置する公園だ。
ここは景色がいいので、昼間は子連れやカップルもよく来る場所だ。この公園は二件目の事件現場よりも更に僕の家に近い。実際、僕もいつものラッキーの散歩コースに飽きると、よくこの公園に来る。
「ここもまた開けた場所だな。さっきよりは人目は少ないけどよお、こんな所で誰にも見られずに犯行を起こすなんて無理だぜ」
慎はため息をつきながらそう言った。
おそらく最初の事件で襲われたのはここにたむろしていた不良グループだろう。気性の荒い彼らが仲間を攻撃されて反撃しないなんてとても考えられない。
「確かに、今回の事件は噂が肥大して広まった都市伝説なのかもしれんな。アニメなら都合よく今ここで悲鳴が聞こえたりするだが」
翔はブランコに腰をかけながらそう呟いた。
この公園は危険だと言う噂が広まったのか、今夜は辺りに不良らしき集団はいない。
「何も起こらないなら、それでいいんだけどね……」
手持ち無沙汰になり、何となく公園にある展望台に向かう。展望台と言っても、公園から町の景色を臨める場所に木製の屋根とテーブルが立てられた簡素な場所だ。子供も多く訪れる公園だけあって、展望台の周りはしっかりと柵で囲まれている。
両手で柵に体重をかけ、ぼんやりと眼下の夜景を眺める。多くの家庭が寝静まり、灯りはまばらだ。
この静かな町で不気味な事件が起こっている。確実にただの傷害事件ではない何かがある。根拠のない確信が胸の内にある。
その時だった。どこかそう遠くない場所から人の悲鳴のようなものが聞こえた。それと同時に、現実感のないあの赤い閃光。
「二人とも! 今の聞こえた!?」
既に意気消沈していた慎と翔に呼び掛けると、二人はきょとんとした表情をしていた。
「今、人の悲鳴みたいなのが聞こえたんだ、急いで向かおう!」
「マジか!」
急いで自転車に跨り、悲鳴と赤い光があったと思われる場所へと急ぐ。
やや遅れて二人がついてきた。翔はイカロス号のおかげなのか身体能力が高いおかげなのか、あっという間に僕に追いついた。
「気のせいかと思ったが、やはりあれは人の悲鳴だったか」
「うん、僕も半信半疑だったけど、翔も聞こえたなら間違いなさそうだね」
慎も野球部の意地を見せ、追い付くどころか僕らを追い抜いてしまった。
「やべ! 俺、場所知らないんだった!」
そう叫ぶと、慎は急ブレーキをかけ、またも僕らを追い抜いてしまうのではないかという速度で全力疾走。僕らのところに舞い戻ってきた。
現場に辿り着くとそこには、うずくまっている男性がいた。犯人はもう近くにはいないようだ。僕らは急いで救急車と警察を呼ぶ。
「おい、そろそろずらかるか。マジで補導されちまう」
慎はそそくさと逃げる準備をしている。
「ちょっと待って、あの男の人が何か言ってる」
「う、うう、何だ急に、この体の痛みはっ」
本当に記憶がないらしい。やはり暴行を受けた様子だ。
間違いない。あの赤い光、そして現実には起こり得ない現象。この事件には確実に悪魔の契約者が関係している。
「何だって?」
翔はメモ帳を準備しながら聞いてきた。
「やっぱり何も記憶がないみたいだ」
「そうか……」
翔は一応メモしている。
「おい、早くずらかろうぜ!」
慎がそう言うと僕らは深夜の住宅街を急いで抜け出した。
この事件、本当に嫌な予感がする一方だ。
これまでの僕ならば、嫌な予感というのは必ず当たっていた。しかし幸運を手にした今ならどうだろうか。
果たして、嫌な予感が当たることが幸運なのか、外れることが幸運なのか。
翌朝、新聞には昨日の事件のことがさっそく載っていた。「記憶障害傷害事件、静かな地方都市を襲う不気味な犯行」という見出しだ。僕らが知っている以上の情報はなく、僕らのことは書かれていなかったのでとりあえずは安心だ。
「まさかこの町でこんな事件が起こるなんてねえ」
母も心配そうにそう呟いた。この事件は今のところ大きな被害は出ていないが、被害者や目撃者に記憶がないという特異性から、町では誰もが知るほどの事件となっていた。
学校へ行くとやはり皆、例の事件のことを話している。事件の内容より、この町が新聞で扱われたことにはしゃいでいるようだ。
「よう、悠。俺らもこの事件の関係者になっちまったなー」
慎が上機嫌で話しかけてきた。自分達が話題の中心のようで気分がいいのかもしれない。
「慎、分かってると思うけど、昨日現場にいたなんてこと言いふらしちゃ駄目だよ」
「分かってるって。そういや、昨日の事件が記事になって野球部の監督びびっちまってさ、今日はミーティングだけで部活終わるから、久しぶりにゲーセンでも行こうぜー」
「それは名案だ」
教室に入ってくるなり翔が会話に入ってきた。翔はアニメ一筋のためゲームはあまりうまくないが、見るのは好きらしい。
皆が昨日の事件の話しでざわついている中、神田さんが教室に入ってきた。
神田さんが僕の方をちらりと見た。彼女は僕を疑わっているのだろうか。だが彼女は何も言わずそのまま自分の席着き、興味なさげに窓の方を眺め始めた。
「今、神田さんに見つめられなかった? 俺」
慎はいつでも幸せそうだ。
授業は二時間目になったが、今日は篠原さんがまだ姿を見せていなかった。今日まで一度も休んだことがなかったので余計に珍しい。
そんなことを考えていると、授業の静寂を切り裂くように教室のドアが開いた。
教室にいるほとんどの人間がドアの方を振り向く。
「すみません、遅れました」
篠原さんがよろよろとした、おぼつかない足取りで教室に入ってきた。
「篠原が遅刻とは珍しいな」
国語教師も驚いているようだ。しかし篠原さんはすみませんと言うだけで、何のいい訳もすることなく席に着いた。寝坊でもしたのだろうか。
そして授業は何事もなかったように再開した。
放課後、僕と翔は誰もいない教室で慎が戻ってくるのを待っていると、
「悪い、待たせたな!」
慎は遊ぶ気満々の様子で僕らの元へやってきた。入学時、グラウンド見学にまで来ていた彼は、どこに行ってしまったのか。
自動ドアが開いた途端、騒音が溢れ出る。そこは外とは別世界。目に映るものすべてから音が出ているようだ。
中学校の頃、こういった賑やかな所に行くような友達もいなかったので、未だにこの雰囲気に慣れない。うるさい音に感覚が麻痺して、少し眠くなるくらいだ。
「さてさて、やっぱりここに来たからにはこれだぜ!」
慎はそう言うとレーシングゲームの座席に座り、硬貨をゲーム機に入れた。翔はいつも見ているばかりなので相手は僕だ。
「よっし、今日こそ勝つぞ」
「俺様の前を走ろうなど百年早いわ!」
「悠、ぶっちぎってやれ」
翔は僕の方の座席によりかかり応援。翔がいるだけで万の軍を得たかのような強気になれるから不思議だ。
二台のレーシングカーが激しくぶつかり、勝負は接戦となった。激突の振動で激しく座席が揺れるのがこのゲームの売りだ。
結局、勝負は僕が勝った。
「ビギナーズラックでも俺様に勝つとはやるじゃねえか。練習はこれで終わりだぜ! もう一回、もう一回だ、悠」
慎は納得のいかない様子だ。
「何回やっても同じだって」
僕には幸運がついているので僅差の勝負には強い。
「おい、ちょっと待て。向こうで盛り上がってる三人組を見てみろ」
翔はそう言うとUFOキャッチャーの方を指差した。
「汚いぜ翔、俺がそんな手を食うと思ったのか?」
慎は翔が指差した方を少しも見ることなくハンドルを切っている。僕は勝負の最中だったが、つい翔が指差した方向を見てしまった。
しかし、その先にはゲームの振動など吹き飛ばすほどの衝撃が待っていた。
そこには篠原さんとその友人の純、舞の三人がゲームセンターで遊んでいたのだ。
ちょうど僕が篠原さん達の方を見た時、純がこちらに気がついた。
「あ! 見て見て繭、舞。あそこに小野寺君いる! あとおまけも」
「本当だ、小野寺君だー」
舞は明らかに声の調子を高くした。
「もう、よそ見したせいで人形落しちゃったじゃん。あれ、本当だ」
篠原さんは少しがっかりした様子だ。篠原さん達はしばらく三人で何か相談した後、僕らに近づいてきた。まさかの事態に、もはやレーシングゲームどころではない。
「あのさ、私達と一緒に遊ばない? せっかく同じクラスになったんだし」
彼女ら三人組の中で一番積極的な純が話しかけてきた。目線は明らかに翔を見ている。
「おお、いいねいいね! 俺らもそうしようと思ってたところ!」
本当に慎は調子がいい。しかもちゃっかりレースは慎の勝ちになっている。
そんな慎を、翔はそんなこと言ってなかっただろと言わんばかりに睨んでいる。
「それじゃ決まりだね」
篠原さんが嬉しそうに微笑んでいるのを見て僕の思考は完全に停止した。翔は少し面倒臭そうだったが、僕ら二人の様子を見て断るのは無駄だと判断したようだ。
僕らはテストが終わったということもあり、思いっきり遊んだ。
銃でゾンビを倒すゲームでは男子チームと女子チームで勝負したり、やけに取りにくい位置に景品が置いてあるクレーンゲームを皆で攻略したり。こんなことは初めてだった。
教室で少し言葉を交わすのと、こうして仲良し六人組のように遊ぶのはまるで違う。それはいつしか僕が夢見た光景だ。
「ねえねえ、皆で遊んだ記念にプリクラ撮ろうよ!」
皆がほどよく打ち解けた頃、純が提案した。
「うん……私もいいと思う。一緒に撮ろうよ、小野寺君」
舞はおとなしそうな見た目の割に、終始翔に張り付いていた。それだけにプリクラにも乗り気だ。
「いいねいいね! なあ翔?」
「あ、ああ。いいんじゃないか。悠は?」
いきなり話を振られて翔は少し困惑した様子だ。
「プリクラって撮ったことないけど、別に構わないよ」
「あ、あのさ、私あんまりプリクラ好きじゃないんだ……」
「え? 繭、プリ嫌いだったんだ?」
純は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている。
「うん、ごめんね。撮るなら外で待ってる」
「繭が嫌なら……しょうがないね」
舞も乗り気だった割には、あまり落胆した様子はない。
「そうだな、嫌なことを無理にすることはない」
「皆で撮ってこそだもんな。一人抜けてちゃ意味ねーし」
慎も皆の意見に同意した。
「そうだね、重要なのはプリクラじゃないよ」
僕も何の不満もなく皆の意見に賛同した。
「ありがとう、皆」
篠原さんはほっとした様子だ。代わりにカラオケでもいかないかと純が提案したが、カラオケのような密室は僕の誓約には確実に危険だし、おそらく翔はアニメソングばかり歌って、ものすごい雰囲気になることは間違いなかったので却下させてもらった。
そんな訳で今日はこれにて解散。
家に帰った僕は顔がにやけるのを止められず、母親に不気味がられたのだった。
ゲームセンターで遊んでから数日が経った放課後、怪我の経過を診てもらいに病院へ向かう。
すぐに名前を呼ばれ、診察室に入る。怪我の様子を診た医者は「不思議なほど治りが早い」と驚いていた。治癒力さえも幸運の範囲の内なのだろう。
病院を出ると、十字路でどこかで見たことのある後ろ姿を見つけた。何だか気になって少し付いて行く。
この辺りの道は入り組んでいて、大通りに出るまで曲がり角が多い。そのため、その人物の後ろ姿を一瞬追うしかできない。
しかし行き先は分かった。どうやら病院の近くにある高校に行くらしい。
予想通り病院近くの高校に到着。そしてようやく後ろ姿の人物の正体が判明する。その後ろ姿の正体はなんと篠原さんだった。篠原さんの家は僕の家の近所で、この高校とは逆方向のはずだ。
もしかしてこの高校に彼氏がいるとか、そういうことなのだろうか。その場合僕は安心していいはずだ。篠原さんが幸せなら、それで。
高校の授業がちょうど終わった頃らしく、多くの生徒が下校している。僕の高校とこの高校とは距離が離れているため、僕の高校の生徒がここを訪れるのは珍しい。
それが理由なのか、篠原さんが際立って綺麗だからなのか分からないが、篠原さんは酷く注目されていた。篠原さんは衆人環視の中、人の目を気にすることなく校門に近づき様子を覗っている。誰かを待っているようだ。
やはり彼氏なのか。僕はその様子をまるで不審者のように、路地の曲がり角から覗かずにはいられなかった。
もちろん引き返すことや、篠原さんの前へ出ることなどは、最初から選択肢にはない。
しばらくすると、篠原さんの所に二人の人物が近づいてきた。驚くことにその二人は僕も知っている顔だったのだ。
それは矢納屋と奈緒だった。僕は矢納屋の顔を見た途端に、体が熱くなり、どうしようもないほどの怒りを覚えた。
しかしすぐに自分が引き起こしたことなのだと自分に言い聞かせ、我に返る。よく見ると矢納屋の腕に奈緒がひっついている。そうか、そういうことか。再び胸の奥がじわじわと熱くなるのを感じる。
なぜこの二人と篠原さんが、彼らの高校で今更会っているのだろうか。そしてついに矢納屋が口を開いた。
「おい、何だよ。今更呼び出して」
矢納屋は面倒臭そうに言った。
「何言ってるの? 呼んだのは矢納屋君でしょ?」
篠原さんは当然のよう言い放つ。
「はあ? 本当なの、陽?」
奈緒が矢納屋を睨みつける。
「ああ、ごめん。俺が篠原を呼んだった」
矢納屋は自分が何を言っているのか理解しているのだろうか。少なくとも僕は理解できていない。
つい数秒前に自分で言ったこと否定しているのに、矢納屋は何事もなかったかのような顔をしている。まるで狐につままれたような気分だ。
「今日呼んだのは、卒業式の日のことを謝りたかったんだ。あの日は酷いことを言って本当に悪かった。実は篠原のことがずっと好きだったけど、周りの目が怖くてついああ言ったんだ」
矢納屋は正気なのか。あんなことを言っておいて何を今更……
「何言ってんの陽!? 自分が何言ってるか分かってんの!?」
奈緒は顔を真っ赤にして怒鳴った。
「言うことはそれだけ?」
篠原さんは至って冷静だ。
「もし許してくれるなら、俺と付き合ってもらえませんか?」
矢納屋は突如告白した。その瞬間、奈緒が思い切り矢納屋の顔を平手打ちした。矢納屋は微動だにせず、まっすぐ篠原さんだけを見つめている。
「なんなの? 最っ低!」
そう吐き捨てると、奈緒は酷く興奮したまま高校から逃げるようにして走り去って行った。
冷静だった篠原さんが、今まで見たこともない冷酷な笑みを見せた。口元は笑っているが、目が少しも笑っていない。その目はまるで道端の石ころを見ているかのような、まったく色を持たない目だ。
「許す訳ないでしょ? 二度と私に近寄らないで」
矢納屋は魂が抜けたかのように気の抜けた顔をして、その場に棒立ちしている。
そんな矢納屋を尻目に、篠原さんは後ろを振り返り、その場から立ち去ってしまった。
篠原さんが後ろを振り返ったその時、夕日に照らされた彼女の顔には一筋の光の線ができていた。
未だにあの光景が信じられない。なぜ矢納屋は突然あんなことを言ったのだろうか。夕日に照らされた彼女の表情が、瞼の裏側に焼き付いて離れない。
矢納屋達の一件を見てから、数日が過ぎた。篠原さんはあの日以降も、何ら変わりなく日常を過ごしている。
だが当然、本人に理由を問うことも、見ていたことを告げることもできる訳はなく、あの時の記憶は次第に薄れていった。
春から夏へ。季節は巡っていく。七月に入り、夏も涼しいこの地方でも、ようやく暑さを感じられるようになってきた。そして記憶障害傷害事件は日に日に被害を広げていた。
暇さえあれば三人でパトロールを行っていたものの大した成果はなく、被害が甚大になっていくのを見守ることしかできなかった。
「はー、なかなか事件が見えてきませんなあ末道君。今日は七月の第四週。第一週と比べて激増と言ってもいいくらい事件は頻発してるっつーのにな」
慎が購買で買ってきたパンを頬張りながら言った。
「食べながら話すなよ、汚いな。結構事件が多くなってきているのに、あれ以来全然遭遇できていないよね」
思わずため息をつく。
「俺達も事件現場のすぐそばに来ていたが記憶がなくなっている、という可能性もあるな」
翔は既に昼食を終え、今月のアニフォメーションをぱらぱらとめくっている。
「なるほど! 確かにそいつはあり得るぜ。にしてもよお、何で記憶障害になるんだろうなあ」
慎は両手で頭を抑え、必死に頭を回転させているようだ。
「現実的に考えればやっぱり薬品だよね。もしくは催眠術?」
とりあえずそれらしいことを言っておく。
この謎について答えを知っているが、もちろん言える訳がない。
それは悪魔の能力を使った犯行。目撃者の記憶を消す能力とか、体を透明にする能力だとかそんな感じだろうか。
僕の能力で対抗できるか不安だ。できることなら神田さんの手をお借りしたいところだが、神田さんのあの態度では事件がもっと激化しても傍観を決めこむだろう。
「催眠術は俺達が見てないから違うとしても、薬品はあり得るな……」
翔が付録のアニメのポスターを広げながら頷いた。
「そうだ! いいこと思いついたぜっ」
「慎が閃いた時点でいい予感がしないんだけど」
僕が笑いながらそう言うと、慎は勢い良くサムズアップさせた右手を突き出し、
「マジでいいアイデアだって! 今までいつ補導されるかビビってたけどよ、今度はこっちから警察に探りを入れるってのはどうよ?」
「本気か? そっちの方が補導されるよりよっぽど危険と思うが」
翔は雑誌の特集記事を見て顔がにやけているが、表情に反して言葉は冷静だ。
「んなこたあ分かってるって。俺もそこまで馬鹿じゃねー。俺達には頼りになる悠君がいるじゃねえか」
「え、僕?」
「おう、悠と仲がいい暁さんにちょっと情報洩らしてもらってよお。あの人なら結構ノリ良さそうだし大丈夫じゃね? 俺達が町を守ろうとしてるっつー熱ーい気持ちを伝えれば」
こいつは僕を暁さんにスパイ行為をしろと言っている、まったくとんでもない奴だ。
「慎にしては悪くない提案だ」
「え?」
なんと翔が慎のアイデアに賛成するとは思わなかった。
「あの事件は解決しそうですか、とか言って。なんなら飯でも食いながら何気なく聞くとかな。悠は幸運だから問題ないだろう」
翔がいつの間にか雑誌を鞄にしまい、いつになく真剣な眼差しを僕に送っている。
「頼む悠! これは、お前にしかできない作戦なんだ……!」
慎もまた、僕に刺さるような熱視線を送っている。とても断れる雰囲気ではない。
「わ、分かった、分かったよ。それじゃ今度交番に行ってみるよ。でも二人とも外で待機してて。何かあったら困るし」
「OK。まかせろ。二人して、泥棒だ! とか言って騒ぎ立ててやっからよ」
騒ぎ立てるということに関してだけ言えば、慎は頼りになりそうだ。
僕らが作戦会議をしていると、舞と純が僕ら三人に近づいてきた。ゲームセンターで一緒に遊んで以来、僕らは学校でもよく話すようになっていた。
「末道君、ちょっと頼みたいことがあるんだけど」
純が珍しく翔ではなく僕にだけ話しかけてきた。
「僕に? いいけど、何?」
「今日も繭学校休んだから、ノートのコピーとか渡して欲しいの……私達がお見舞いに行きたいんだけど、部活もあるし、その、家の方向逆だし……」
舞は両手をもじもじさせながら僕に言った。
「もう一週間くらい休んでるし、メールではちょっと体調悪いだけだから心配しないでって繭は言ってたけど、やっぱり心配で……」
純はいつものどこまでも響く声とは対照的な、低い声色でそう訴えた。
思いがけない依頼に少し心躍ったが、それ以上に最近篠原さんが休みがちなことが僕も心配だった。
「そういや、毎週一、二回くらい休むようになったよな、篠原さん」
慎もさすがに真面目に答えた。
「そうなの、なんだか風邪が治りきらないみたい……繭優しいから私達が行くと余計な心配しちゃうかもだし、お願い……」
舞は心配そうにそう言った。
「悠、女子の家に行くからって変なことするなよ」
翔が急にそんなことを言うので、そんなつもりは少しもなかったのについ焦ってしまう。
「ば、馬鹿っ! する訳ないだろ!」
「まあ、末道君なら大丈夫でしょ。おとなしそうだし」
純はまるで僕のことを警戒していないようだ。いや、ここは信頼されていると思っておこう。
「それじゃあ……えっと、よろしくね末道君。私たちがすっごく心配してたって伝えてね」
舞が少し目を潤ませて僕に言った。
「うん、任せて」
こうして篠原さんに書類を私に行くという大役を任せられたのだった。
放課後、篠原さんの家の住所を確認するために一度自宅に戻る。
「ただいまー」
「あら、おかえり」
「あれ? 今日は帰るの早いね」
いつも夕方過ぎに帰ってくる母親が今日は珍しく家に帰ってきていた。
「悠は今日出かけるの?」
「ええっ?」
僕の声色一つで今日の大イベントを見抜かれたのかと思い、声が裏返る。
「今日は早めに帰れたし、買い物ついでにラッキーの散歩に行くから、出かけるなら家の鍵を持って出かけなさいよ」
「あ、なんだ。そういうことか。分かった、鍵持って出かけるよ」
以前は僕しかラッキーの散歩に行ってなかったが、ラッキーが足を失ってからは母親も散歩に行くようになった。
その理由は僕にある。ラッキーは僕のせいで足を失ってしまった、それを思うとラッキーと顔を合わすのが辛いのだ。
しかし、いざ散歩にいくとラッキーは以前と変わらず僕と接してくれる。それはもちろん、僕の能力のせいで事故が起きただなんてラッキーには分からないからだろう。だがそれが余計に僕を散歩から遠ざけさせた。
「あったあった。篠原さんの家は……」
連絡網の住所を見ると、近所だとは思っていたが予想以上に僕の家に近い。見晴らしの良いあの公園のすぐ傍だ。
鞄を置き、篠原さんの家に向かう。もちろん家の鍵も忘れずに。
用があるとは言え、こうして女の子の家を訪ねることになるとは、中学までの僕では考えられなかった。
結局のところ僕は能力を得て、運を手にしたことで甘い汁をすすっているのだ。この事実が篠原さんの家に一歩一歩近づくにつれどんどん心の中で大きくなり、罪悪感で押し潰されそうになる。「私利私欲のために能力を使わない」だなんて大層なことを誓って、何かが変わっただろうか。いくら考えても答えは見つからない。
そんなことを考えていると、もう篠原さんの家の前に到着した。
考え事をしていたせいで全然心の準備ができていない。インターホンを目にすると、急に心臓が激しく動く。
家の前の駐車スペースには車は停まっていない。篠原さんは一人っ子なので、家には篠原さん一人で間違いなさそうだ。大きく深呼吸をし、覚悟を決める。
「ピンポーン」
ごくありふれた呼び出し音が、これは間違いなく現実であることを強調する。家の中から階段をゆっくりと下りる音が聞こえてきた。
「はい、篠原です。どちら樣ですか」
どうやらインターホンにカメラはなく、音声だけのようだ。篠原さんの声はかなり疲れた声をしていて、まだ風邪がよくなっていないことを窺がわせる。
「あ、あの、末道です。芳野さんと緒形さんに頼まれて、ノートのコピー渡しに来たんだけど……」
「そうなんだ、ちょっと待ってて……」
少し待つと、鍵が開く音がして玄関のドアが開いた。篠原さんはわずかに開けたドアの隙間から顔を出している。明らかに顔色が悪い。
「あ、篠原さん……! はい、これ。それと、芳野さんと緒形さんもすごく心配してた。早く良くなってね」
ファイルに入れた書類を篠原さんに渡す。たったこれだけだが、どれだけ緊張したことか。
「うん。ありがとう、それじゃ」
そう言うと篠原さんはすぐにドアを閉めようとした。あんなに緊張したのに、こんなにもあっさり頼み事が終わるのが少し悲しくなった。それになんとか気持ちだけでも篠原さんを元気づけたかった。
そんな思いが、ドアが閉まりきる一瞬のうちに頭を駆け巡り、つい予定していないことを口走る。
「ちょ、ちょっと待って篠原さん!」
「えっ、何?」
沈んだ表情をしていた篠原さんが少し驚いた表情を見せた。
「あ、あ、あの、ア、 アイス!」
咄嗟に篠原さんは甘いものが大好物ということを思い出し、詰まりながらも必死に叫んだ。
「あ、アイス?」
篠原さんの声色が少し明るくなった。良かった。
「そう、アイス、アイスクリーム! 気晴らしにアイス食べに行かない? ずっと部屋に閉じこもりっぱなしも体に悪いし……おいしい店知ってるんだ」
「そうなの!? 行こうかな……うん、ちょっと待ってて、着替えてくるから!」
や、やった! 心の中で何度もガッツポーズを繰り返す。うまく行くとは思ってなかった、ともかく篠原さんの表情が明るくなってほっとした。
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