第3章Bパート

 ゴールデンウィーク明けた五月一八日。高校に入って初めての定期テストがもう三日前に迫っていた。僕には僕自身制御できないほどの幸運がついているので何の心配もない。

 しかし慎が是非勉強を教えてくれと珍しいお願いをするものだから、図書室で勉強会をすることとなった。




 図書室に入ると既に大勢の生徒が集まって勉強していた。

 図書室と言えば静かな場所の代名詞。だから図書室は締め切った空間になっているのではないかと心配になる。

 しかしこれも幸運の加護のおかげか、図書室の戸は開きっ放しになっていた。教室とそう変わらない広さのこの図書室は、大勢の人が入ると蒸し暑くなるからだろう。

 勉強する学生の中に篠原さんと仲良しの二人もいた。

 陸上部に所属していて細身で長身、ベリーショートでところどころ跳ねた髪と大きな声が特徴の芳野純。

 吹奏楽部で小柄、ふんわりとした髪をツインテールにして毛先を胸の前で垂らした髪型の緒形舞。

 純は積極的で男勝り、舞は恥ずかしがり屋でいつももじもじしている。そんな正反対の見た目と中身のデコボココンビだ。三人とも可愛らしいのでクラスの中でもかなり目立っている。

 僕は何気なく篠原さん達の姿が見える席に座り、慎と翔をそこへ誘導する。


「む、篠原さん達も集まっているな」


 翔が目ざとくつぶやいた。


「おお! やっぱり篠原さん、見れば見るほど美人だよなあ。あ、俺は神田さん派だからな! 勘違いするなよな」


 誰もそんなことは聞いていないが、慎はすばやく付け加えた。

 いざ勉強に取りかかろうとするも、篠原さんの席が何やら賑わっているのがどうも気になって仕方がない。


「ねぇ繭ー、勉強もほどほどにしてさあ、あのお店にもう行っちゃおうよー」


 活発な純の声は静かな図書室によく響く。


「うーん、でもまだ勉強終わってないし……何のお店だったっけ、舞?」


「あのね。クレープ、クレープ……だよ」


「えっ、クレープ?」


 急に篠原さんの声が大きくなったので、思わず体をぴくりと反応させてしまった。


「本当に繭は甘いものに目がないよねー」


「……うん。本当に人が変ったみたい」


「もうっ、純、舞、からかわないでよー! それよりさ、早く行こっ!」


 急にはしゃぐ篠原さんの声を聞いて、心の奥深くに「篠原さんの好物は甘いもの」と深く刻み込んだ。

 篠原さん達三人は勉強を切り上げ、足早に図書室を出て行った。どうやら最後まで僕らには気が付かなかったようだ。


「今思いついたんだけどよお、俺らがあの三人組と仲良くなったら最高じゃね? 三対三だしな! ああっ、でも俺には神田さんという人がっ……」


 慎はかなり浅はかなシミュレートをして苦悩しているようだ。


「大丈夫だ慎。アニメでは彼女みたいなきつい女は最後には優しくなる。所謂ツンデレだ」

 

 翔がノートに問題を解きながら慎を励ます。


「そうじゃないかと思ってたぜ。そうと分かりゃ留年なんてしてる暇はねーな! うお、やる気出てきたっ、頑張ろうぜ!」


「僕と翔は問題ないよ。危ないのは慎だけ」


「うるせー、分かってるっつーの!」


 そう言いつつも慎はペンを回して遊んでいる。出たはずの慎のやる気は一体どこへ行ったのだろうか。




 僕と翔が黙々と問題を解いているその間、慎はもう勉強に飽きているようだった。机にうつぶせになり、「うー」とか「あー」とか唸っている。

 もしかしたら以前勘ぐった通り、本当は慎も悪魔の能力者で「五分以上勉強してはならない」とか、そういう誓約があるのかもしれない。いや違う、それでは誓約の意味がない。

 そんなくだらないことを考えていると、突然翔が問題集からペンを放し、ぽつりと話し始めた。


「……二人とも、最近奇妙な事件が起きた話、知っているか?」


「奇妙な事件? ニュースで何かやってたっけ? 都会?」


 誰となく聞いてみる。


「いや、この町の話だ。三日前の深夜、若い男が何者かに襲撃されてな。幸いかすり傷で済んだらしい。だが……」


「なんだよそれ。全然奇妙じゃねえな」


「最後まで話を聞け。ここからが奇妙なんだ」


 翔はテーブルの上で手を組むと、張り詰めた表情で再び話し始めた。


「その若い男は仲間と一緒にいた。しかし男が襲われたことを、男自身も男の仲間も誰一人として覚えていないらしい。あるのはいつの間にか襲われたという事実だけ」


「え? どういうこと? 襲われたのに誰も記憶がないって。頭を強く打ったとか?」


「ギャグアニメじゃあるまいし、全員が全員同時に頭を打つか? そこがこの事件のミステリーなのだ。被害としては男一人がかすり傷を負っただけなのだがな」


 翔は僅かに唇の端を上げて語った。確かに、それが本当ならミステリーだ。

 仮にその事件がまた発生し、規模が大きくなったとしたら、自分が住んでいるこの町が悲しみに包まれるかもしれない。

 少し妄想が入っているが、些細なことで日常が崩れることを学んだためか、本能なのかこの事件には何かあると感じた。


「よっしゃ! テスト終わった後、またその事件が起こったら俺らで調べてみてねえか?」


「面白そうだけど、翔はバイトあるし、慎は部活あるんじゃないの?」


「事件は深夜に起きてるんだぜー動くのは深夜。俺たちゃ私設パトロール隊ってな訳よ!」


 慎はノリノリだ。


「ふむ、それはいいアイデアだ。俺たちの町は俺たちの手で守る……!」


 翔は胸の前で握りこぶしを作り、決意を秘めた目でそう言った。やはりテレビの見過ぎはこの男で間違いなかった。 

 しかし僕も興味が出てきたし、おそらくこの事件には何かがあるという確信がなぜか僕の中にはある。


「分かったよ、僕も参加する。でも暁さんに補導されたら洒落にならないから、慎重にやろう」


「オッケーオッケー分かってるって。そうと決まりゃ最初の敵、テストを叩き潰すのみだなっ!」


 慎は制服の袖をめくり上げ、ペン先を真っ白なノートに走らせる。五分後、彼のノートは真っ白のままだった。




 しばらく勉強を続け、きりのいいところまで終わったので帰ることにした。

 学校の玄関から見える空は藍色と橙色が混ざり合い、ちょうど帰る頃合いだと示している。


「ちっと勉強し過ぎちまったぜ。明日熱出るかもな、こりゃあよお!」


 慎はそう言いながら頭の後ろで手を組み、こちらの方を見たまま後ろ向きに歩いている。


「大丈夫だ、慎。お前に知恵熱が出るほど知恵はない」


 翔は冷静に断言した。


「確かに。でも気にしなくて大丈夫だよ、慎。そこが慎のいい所だし」


「おいっ、お前らなあ!」


 この三人でいると話が止むことはない。あの時壊した沈黙は、あの日あの瞬間の沈黙ではなく、僕ら三人が織りなす空間の沈黙だったのかもしれない。

 話をしながら正門前の横断歩道を歩いていると、周りから突如大きな音が聞こえた。僕達三人は話に夢中で、その轟音が近づいてくるのにまったく気が付いていなかった。


「危ない!」


「慎!」


 僕と翔が同時に叫ぶ。


「う、うわああああ!」


 迫り来る巨塊。慎が振り返り悲鳴を上げた頃には、居眠り運転のトラックは慎の目前だった。

 まずい、このままだと間違いなく三人ともトラックと衝突してしまう。

 特に、位置的に慎が轢き殺されることは濃厚だ。どんなに僕が幸運を持っていようとも。迷っている時間はない。

 咄嗟に能力を発動させ、自分の両腕が負傷するイメージを頭に描いた。こうでもしないと後で二人に怪しまれる。そして目の前に迫ったトラックへ向かっていった。


「おい、悠!」


 翔が叫ぶ。衝突する瞬間、赤く光る手でトラックから「速度」そして「慣性」を抜き出した。

 速度は水色の渦のような円形の物体で、手の中で激しく不規則に暴れている。曲がりくねった赤い筒がいくつも絡まったこの物体は慣性だ。まるでエンジンのように規則的に振動している。

 それらを抜き出した瞬間、トラックはその場で一寸たりとも進むことなく静止した。


「慎! 翔! 今のうちに逃げて!」


 その場に立ちすくむ二人に出来る限りの大声で呼びかける。慎と翔は戸惑いの表情を浮かべながらも、何とか歩道まで非難した。

 二人に続いて非難しつつ、手に持っていた慣性と速さそのものでできた物体をトラックへと投げ返す。

 するとトラックは止まっていた時間が動き始めたかのように、それまでと変わらず走り始めた。運転手はきょとんとした表情を浮かべている。

 そしてすぐに激しい痛みが両腕を襲った。どうやら腕の打撲だけでは済まなかったようだ。体のあちこちが鈍く痛む。

 そうか、今日は一八日。契約記念日。だから頭に思い描いた以上の代償なのか。

 だがその時、初めてまともに弾を制御することに成功したのだ。誰かを消費することなく。

 ともかく助かったことに安心し、急に体の力が抜け、その場に座り込んでしまった。


「お、おい! 悠、大丈夫かよ!?」


 慎が血相を変えて僕の傍に駆け寄る。


「悠、腕を怪我したのか? 腫れが酷いな、これはすぐ病院に行った方がいい。それにしても今のは一体何が起こったというのだ……」


 翔は心配してくれているが、同時に唖然としている。


「トラックのブレーキがちょっとだけ間に合わなかったみたいだね。スピードの落ちた車なら腕で止められると思ったんだけど、甘かったかな」


「お前、なんっつー無茶を! だけどやっぱり悠の強運半端ないな! マジ感謝」


 慎は僕がとりあえず無事だと分かるとほっとした表情で軽口を飛ばした。


「確かに。これは事件解決への大きな味方になるな」


 翔はそう言うと肩を貸してくれた。




 翔におぶられ、市立病院に連れてってもらった。今頃慎が三人の自転車を必死に僕らの家に届けているはずだ。


「ここまで来たら大丈夫だな。ちゃんと安静にしてるんだぞ。それじゃ、また明日な」


 ゆっくり僕を背中から降ろすと、まるで父親が息子にそうするように僕の頭を軽く叩いた。


「ありがとう翔。慎にもよろしく」


 僕が翔の背中に向かって叫ぶと翔は爽やかに片手を上げて帰って行った。

 病院に入ると、消毒液の匂いが鼻につき春休みのことが無条件に思い出される。思わず顔を背けた。




 診察を終え包帯を巻いてもらい、塗り薬を処方してもらうと、そそくさと病院を出た。自分の責任とは言えあまり長居はしたくない場所だ。

 市立病院から直接家に帰ろうと歩いていると、こんな場所では出会わないであろう人物に出くわした。


「こんにちは、末道君」


「いつもこんな所通って帰ってるの?」


「どこを通って帰ろうと私の勝手でしょう?」


 僕が尋ねると、彼女は腰まで伸びた長髪を風になびかせて、いつもの毅然とした態度で答えた。そう、その彼女とは神田景だった。


「末道君ちょうどいいわ、話があるの。ちょっとそこまでついて来て」


 そう言うと神田さんは僕の返答も聞かずにずかずかと早いペースで歩き始めた。宿泊研修での一件が気になっていたため、もちろん断るつもりもなかった。まさか向こうから行動を起こしてくるとは思っていなかったが。




 神田さんはやがて人気の少ない路地で足を止めた。辺りは暗くなり、犬の鳴き声が路地にこだまする。住宅街から忘れられた道。ここは悪魔と契約したあの路地にどこか似ている。


「もう歩くのは終わり?」


「ええ、この辺りなら人もいないし」


 それなりの距離を歩いたが神田さんは息一つ乱していない。


「末道君、あなた私がご丁寧に忠告してあげたのにまるで反省してないのね」


「やっぱり、神田さんは悪魔の……」


「そう、私もあなたと同じ悪魔の契約者よ。だからってあなたを襲ったりしないから安心して」


 襲うとはまた物騒な話だ。しかし契約者だとばれたら警戒、もしくは攻撃してもおかしくないことくらいは僕にも理解できる。


「それで、反省だって? 確かに神田さんからご忠告受けるまでは他に契約者がいるとは考えもしなかったけど、極力印は人に見せないようにしてるつもりだけど」


 彼女は顔をしかめ、僕を睨みつけた。


「さっき白昼堂々能力を使ってたの見たの。あなた正気?」


「正気とはなんだ! ああでもしなかったら皆死んでた」


「そうかもね。でもあんなことする方がよっぽど危険だわ。それにあなた幸運らしいし、ほっといても助かったんじゃない? ま、助かったのはあなただけになっていたかもしれないけど」


 僕の反応を見た彼女は壁に背を預けると、面倒くさそうに答えた。


「確かに、誰かに見られたかもしれないし、僕だけ助かったかもしれないけど、僕は二人をどうしても助けたかったんだ!」


「ふうん、契約者のくせに自分のためだけに能力を使わないなんて変な人。だから反省してないって言うのよ」


「何だって? どういうことだ!」


 僕が数々の失敗の果てに辿り着いた能力の使い方を馬鹿にされているようで、無性に腹が立ってきた。


「能力がタダじゃないことくらい十分承知してるとは思うけど、あなたが必死に守った人たちが守る価値もないような人だったら、相手がそれを当たり前だと感じていたら、そう考えると……馬鹿らしいでしょう?」


 時折、路地の間を風が通る。もう五月中旬だというのに肌寒い風が僕らの頬を撫でた。神田さんは手で長い髪を抑えながら続ける。


「悪いことは言わないわ。今のうちに正義の味方ごっこから手を引いて、ひっそりと能力を使うだけの生活にすることね。必ず後悔するわ」


「……僕は変えない。この力は人のために使う。これ以上、僕らと同じ契約者を増やさないためにも」


「それはご立派ね。あなたがどこまでやれるか陰ながら見守らせていただくわ。面白そうだし。ただ、『印狩り』には十分注意することね。警告はしたわよ」


「『印狩り』だって? それは一体?」


「悪魔の契約者を狩る悪魔の契約者。私はそう呼んでる。くれぐれも油断しないことね。それじゃ、お大事に」


 そう言うと神田さんは僕の目の前から消えるようにしていなくなった。

 神田さんのあの口ぶり。おそらく経験から基づく忠告なのだろう。だがもう決めたのだ。篠原さんのような人も、祖父やラッキーのような人も二度と僕の目の前から生み出さないと。

 それにしても印狩りとは危険な話だ。一体この世界にどれだけの悪魔の契約者が存在するのだろうか、どれだけの絶望が見過ごされてきたのだろうか。

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