第3章Aパート

 網膜に刻まれたあの路地の景色、祖父の遺影、ラッキーの傷口。目をつぶっても消えはしない。人の眼はその人の見てきた、網膜に刻まれた光景が結ばれてできている。

 病院から帰ってきて鏡を見た時そう思った。




 ラッキーが病院に運ばれてから一〇日が経過した。ラッキーは無事退院し家に帰ってきたが、まだ歩き慣れないようで歩行はふらついている。

 学校の方はと言うと、僕はすっかり学校になじんでいた。あんなに後悔したのに幸運はまだ残っているというのも皮肉なものだ。

 そして篠原さんはすっかりクラスの中心的存在になっていた。女子にも男子にも慕われている。

 一方、あの神田さんもクラスの男子に人気だ。モデルのような抜群のプロポーション、腰のあたりまで伸びたさらさらの黒髪と、何よりきつい態度と目つきが一部の人間にはたまらないらしい。




 新しい生活にもようやく慣れた四月一七日。今日は一年生全体で親睦を目的とした一泊二日の宿泊研修だ。舞台はこの町から少し離れた湖畔。深い森に囲まれ、お世話になる施設では民芸品の販売作製を行なっている。

 以前の修学旅行と違い、何のトラブルもなく湖畔のホテルに到着。その後、生徒達は事前に希望調査してあった様々な体験活動に出かけた。

 僕と慎、翔は三人とも湖で釣りだ。釣った魚はその場で焼いて食べることになっていたので、皆のやる気は十分。

 ボートには二人一組で乗り、僕は慎と、翔は神田さんと同じボートだ。神田さんは特に希望調査を出していなかったので、人数の少ない釣りグループに決まったらしい。

 それにしても翔と神田さん、どうも奇妙な組み合わせだ。はた目から見れば美男美女でお似合いなのだが、あの二人だとあまりそんな感じがしないのが不思議だ。二人は特に会話をすることもなく、黙々と釣りをしている。

 そんな中、僕は幸運のおかげで大量の魚を釣り上げることに成功していた。


「おいおい、何かズルしてんじゃねーのか、悠? おれが釣れてねーってのにおかしいだろ!」


 近くで釣っている翔も驚いている。


「もちろん釣った魚は仲良く山分けだよな? そうだよな? な?」


「分かった、分かったってば」


 慎のあまりに真剣な態度に思わず笑ってしまう。


「お? 笑いやがったな、この野郎。むかついたから俺はこの湖の主を釣ってやるぜ! 主なら何匹釣ろうと俺の勝ちだからな!」


 慎は高らかに宣言した。いつから勝負になったのか分からないが、僕も何だか燃えてきて、俄然やる気が出てきた。


「おい、悠! これは間違いなくマジで主だ。か、かなり重い。手伝え!」


 慎の竿がこれでもかと言うほどしなり、みしみしと音を立てている。


「本当だ! もしかすると、もしかするかも」


 狭いボートの上を移動し、慎と一緒に竿を引っ張り上げる。


「うおおおお、きたきたきた!」


 慎が叫んだと同時に小気味良い音が聞こえた。


「うわっ!」


 僕と慎は釣り糸が切れた衝撃で、ボートから湖に放り出されてしまった。なんてことはない、ただの根かがりだ。

 どうやら慎のテンションを僕の幸運でカバーしきれなかったらしい。僕らはまだ近くで釣りをしていた翔と神田さんに救出してもらった。


「まったく、はしゃぐのはいいけど、こっちにまで迷惑かけないで」


 神田さんはそう冷たく僕らに言い放ったが、慎はなぜだか嬉しそうだ。


「慎、お前はフラグ立て過ぎだ」


 翔も慎を引き上げながら冷静に言った。しかし笑いをこらえているのか、小刻みに震えている。

 神田さんが差し伸べた手に掴まり、なんとかボートの上に上がる。なぜだか神田さんの眼は僕を射抜くような鋭い視線で見ている。その時、突然彼女が僕の耳元でささやいた。


「君の手、きれいな模様があるのね」

「え?」


 まさか僕の掌の印のことを言っているのだろうか。まさかな。ともかく僕らは二人に岸まで運んでもらうと、早々宿泊施設の部屋に引き上げた。

 せっかく僕が釣り上げた魚も一緒に湖へと帰ってしまったので、結果的に僕らは二人とも魚釣りで負けてしまった格好だ。


「いやー、悪かったな悠。つい興奮しちまってよお」

「まあ、いいけど。面白かったしね」


 正直そのことより、さっきの神田さんがささやいた一言の方が気になっていた。必死になってあの日のことを思い出す。薄ぼんやりと、あの暗い路地の記憶がよみがえってくる。


(三)人間は悪魔の力を使うたびに代償を支

 払う。力を使うと印が赤く光り、印や

 光は契約者にしか見えない。


 そうだ、間違いない。今まで考えたこともなかったが、僕の他にも悪魔の契約者が存在し、そして彼女も悪魔の契約者なのだ。もはやそれしか考えられない。

 しかしなぜ、わざわざ彼女は僕にそれを言う必要があったのだろうか。


「それにしてもよー、俺は見逃さなかったぞ」


「ええっ?」


 まさか慎まで悪魔の契約者だというのか?

 僕の高校生活は早くも破綻しまうのか?


「お前よお、神田さんに何耳打ちされたんだよ!」


「耳打ち? ああ、なんだ。そのことか」


「なんだとは、何だ! うらやましい奴め」


 慎に限ってそんなことはなかった。とりあえず適当に誤魔化す。


「織川君って楽しい人ねって言ってたんだよ」


「え……? おいおいマジかよ。俺にも春到来の予感! 湖に落ちて良かった。ありがとう湖の主、マジ感謝!」


 慎は両手を組み、天に祈りを捧げた。慎は信仰だとか宗教だとかは絶対に持っていないだろうが、祈る姿が様になっていて奇妙に神聖だ。

 体がすっかり渇いた頃、翔が部屋に戻ってきた。


「大丈夫か慎?」


「今の俺の情熱の前では、湖の水温ごとき敵じゃねえぜ!」


「なあ悠、どうしたんだこいつ? 頭でも打ったか」


「さ、さあ。そう言えば、あの後魚は釣れたの?」


「坊主のせいでボウズ。バッドエンドだ。脚本家は一体何をやっているやら」




 夜。大広間に集まるむさい影。暗躍する糸目の坊主頭。膨らむピンク色の妄想。夕食中に練られた慎発案の「露天風呂覗き計画」は、翔の「ベタにも程がある」というツッコミを無視して、大多数の賛成派を生んだ。しかしそもそもこの施設には露天風呂はないことが判明し、計画はおじゃん。

 そんな訳で僕ら三人は大人しく部屋に戻った。部屋の戸を閉めるその瞬間まで慎は、


「嘘だろ! 嘘だと言ってくれええっ」


 と叫んでいた。今夜は寝ずに愚痴を聞かされる思っていたが、慎は不貞寝を決めこんだ。

 一方の翔もお約束通り朝まで語り明かすのかと思いきや、早々に布団に入ってしまった。

 おそらく二人とも遊び疲れたのだろう。

 そのおかげで暇を持て余すことになったが、今日は寝ないつもりだ。いつ誰が戸を閉めるか分からない。




 視界が滲み、瞼が勝手に降りてくる。まずい。部屋にいても二人の寝息が聞こえるだけで、ちっとも時間が進まない。その退屈さが眠気を加速させる。僕も遊び疲れたようだ。

 ベランダに出て外の空気を吸う。雲に隠れた月が湖の上で怪しく揺れている。四月中旬とは言え、夜はまだ少し肌寒い。眠気覚ましと考え事には丁度いい。

 それにしても彼女、神田 景。彼女は一体何者なのだろうか。


「月を見ながら考え事? 末道君ってそんなにロマンチストだったんだ」


 真上の階のベランダから、悪戯っぽくもあり、それでいて心の琴線に触れる美しい声が届く。上の階を覗くと、そこには篠原さんが身を乗り出して僕に話しかけていた。

 雲間から月の光が差し、篠原さんの姿がはっきりと見える。篠原さんの上着は皆と同じ学校の指定ジャージだが、肩や腕の辺りの余った生地が彼女の華奢な肉体を強調させる。

 月光のおかげで、ビロードのような艶めかしい光沢を持った黒髪が肩に垂れているのがよく分かる。思わず生唾を飲み込む。


「枕が合わなくて全然眠れないんだー。ねえ、あのさ……」


 あまりに出来過ぎた状況に嫌が応にも警戒してしまう。もしかして僕がしたことを彼女に断罪されるのだろうか。


「な、何?」


 歓喜と恐怖の入り混じった、なんとも間の抜けた調子で尋ねる。


「お散歩、しない?」


 篠原さんが、あの日あんなにも傷つけてしまった篠原さんが、僕を散歩に誘ってくれている。だが僕に篠原さんとそんなことをする資格などない。頭では十分すぎるほど理解している。いや、しているつもりだった。


「う、うん。いいね。支度して外に出るよ」


「うんっ! 私もすぐ出るね」


 抗えなかった。衝動に少しも抗えなかった。

 そしてまた、自分自身を納得させるためにしっかりと言い聞かせる。

 普段は罪悪感を持って過ごさなければならない。だが避けられない状況になれば全力で能力でも何でも使って彼女を守る。そうでなければラッキーや祖父にも申し訳が立たない。

 そう、夜道を女の子一人で歩くのは危険だからしょうがない。もちろんこれはどう考えても言い訳なのだが。




 外に出ると蛙の鳴き声が聞こえてくる。心地よい蛙の合唱を乱す不協和音。その発生源は間違いなく僕の胸の奥だ。

 そわそわしているうちに、少し遅れて篠原さんがやってきた。


「お待たせー」


 ほどいた髪は中学校の頃の髪型にそっくりで、あの頃がひどく懐かしく思える。一瞬、違和感を感じたが、その正体は分からない。

 そんなことより、うまく話せるかどうかの方が心配だ。何とか話題を探そうと必死に考えを巡らしながら歩いたが、頭は真っ白になるばかりだ。


「末道君元気ない? やっぱり眠い?」


「そんなことないよ! 何だか緊張しちゃって……。あ、あのさ、そのブレスレット……すごくきれいだけど、どうしたの?」


 苦し紛れに篠原さんが右手にしていたブレスレットについて質問する。学校指定の白と青のジャージには不釣り合いな代物だ。


「お眼が高いですなあ、末道君。これはね、今日のお昼に皆で作ったんだよ。私、伝統工芸品作製体験のグループだったの」


 まるで骨董品屋の店主みたいな口ぶりをする篠原さんが可愛くてたまらない。いけない、いけない。こんなのは駄目だ。


「へえ、うまいもんだね」


「えへへ、いいでしょお。部品を選んで紐を通しただけだけど。あ、そういえばさ、聞いたよー。末道君達、湖に落ちたんだって?」


「あ、あはは。聞いたんだ。格好悪いな。慎の奴が興奮しちゃってさ」


「織川君って、いっつも騒いでるもんね」


 くすくすと篠原さんが笑っている。良かった。見た目は少し派手になっても、以前のままの明るい篠原さんだ。


「それにしても末道君、変わったよね」


「そ、そうかな? そう言われてみると変わったかもね。でも篠原さんだって、何て言うか、その、すごく綺麗になったと言うか……」


「ホント? ありがと。でも末道君の方が変ったよ。明るくなったっていうか、自信が出てきたって言うか。そんな感じ」


 さすが篠原さん。芸術家肌なだけあって第六感も鋭いのだろうか。

 そんな平和な会話をして、夢のような散歩はあっという間に終わった。全長徒歩三〇分の湖畔の遊歩道が、一分程度にしか感じられなかった。


「じゃあね末道君。おやすみー」


「うん、また明日。おやすみ」


 自分の体が自分のものではないような高揚感のまま部屋に戻る。部屋に戻ってから、散歩のことを思い出す度に顔が緩んだ。そしてそれはしばらく続いた。

 興奮してしまっているから今夜は眠らずに済むだろう。そんな風に考えていた矢先、急に周囲の景色は暗転し、意識が遠のいていく。




 目を覚ますといつかの真っ黒な空間にいた。目の前には大きな古びた扉。ここは印で僕と悪魔を結ぶ館。


「何で急に……」


 そうつぶやきながら、あの時のように扉を開ける。以前と同じく、薄い布の奥には確かな存在感。


「久しぶりだな悠よ。どうだ? 能力の調子は」


 悪魔の嘲笑を含んだ声がこだまする。その質問には答えたくない。


「ふふふ、だんまりかの。どうだの? 悠。因果を操った感想は?」


 その一言に黙っていられなくなった。


「感想だって? こんな能力のおかげで僕は、僕は大事な人をっ……いや、僕のせいなのは分かってるんだ」


「ほうほう、少しは成長したようだの。しかし、どんどん因果を操るがよい。運も因果、未来も因果。お主はいずれ周りの人間がただの『弾』にしか見えなくなってゆく。その時こそ、真に人間を超えた存在となれるのだ」


「ふざけるな! もう、自分勝手な理由のためにこの能力を使わない。そう決めたんだ」


「ふふ、まあよい。悠、主を呼んだのはこんなことをするためではない」


 それなら黙ってろ。


「今日は何の日か知っておるか?」


「今日だって? 四月一七日、いや、もう〇時を回ってたから四月一八日か。なんだろう。でもこっちとそっちじゃ暦が違うような気もするけど」


「そうではない、それに暦は人間界を基準にして構わん。悠よ、まだ気付かんか。ちょうど一ヶ月前、お主は我と契約したのだ」


 そうか、もう一ヶ月も経つのか。


「そう言えば。だけど、それが何?」


「人間が誓約を守ったり破ったりすると、悪魔はエネルギーを得ると言ったのは覚えておるだろう。そのエネルギーを毎月人間から回収するのが契約した日なのだ」


 悪魔は更に続ける。


「そして悪魔がエネルギーを得たその日一日、つまり二四時までの間、誓約、負荷、能力、すべてが増大する」


「なるほど、おとなしくしてれば大丈夫なんだろ? 増大っていうのは一体どのくらい……?」


「それは詳しくは分からん。だが契約上、契約して最初の契約日に話す決まりとなっておってな」


「詳しく分からんって……」


 僕が悪魔に詰め寄ろうとすると、悪魔はそれを遮るように発言する。


「用はこれにて終了。今度こそもう当分会うこともあるまい、さらばだの」


 そう悪魔が言うと、再び意識は閉ざされた。

 目を覚ますと外は既に明るく、小鳥のさえずりが聞こえる。携帯を見ると朝食の時間が近づいていた。

 二人を起こして朝食に向かう。唐突に分断され、唐突に再開した日常。この奇妙な時のつなぎ合わせは、いつもと変わらない日常などとうの昔に失われていたことを暗示しているようだった。




 橙色に染まった小道を泣きながら歩く一人の少年。背丈から想像するに、小学校一年生くらいだろうか。手にはぼろぼろのランドセル、着ているシャツは泥だらけだ。

 そんな彼の前に座り込み、優しく頭をなで、話を聞いてくれている青年。青年の笑顔が、なでてくれる手の温もりが、本当に嬉しくて、どんな時でも青年が味方だと信じることができた。だからいじめられてもめげなかった。

 泣いていたあの少年は、いつかの僕だった。




 何だか酷く懐かしい気分で目が覚める。

 宿泊研修が終わってから二週間後。ゴールデンウィークに入り、僕と翔と慎の三人は少し遠出することになった。自転車で隣町のテレビで紹介された有名ラーメン店に行くのだ。

 慎は野球部に入部したものの、先輩が恐ろしいために、よくサボりの口実を見つけては僕らを巻き込んでいる。今回の小さな旅もその一つだ。僕ら三人が共通してラーメン好きというのも大きい。

 今回は朝九時に駅前に集合だ。駅と言っても、遠く離れた大都市とこの町を結ぶ路線しかないので、隣町へ行く手段はやはり自動車か自転車だ。高校生である僕たちは実に狭い世界で生きている。




 集合時刻。慎は早めに駅前で待っていた。


「おっはよおーっす! これから三時間は自転車漕ぎっぱなしだからなー。気力は十分かあー?」


「いたって健康。問題なしだよ」


 春休みに能力の練習ついでに走り込みなんかもやっていたので、僕は帰宅部の割には体力がある。能力の使用を禁じた今でも、「閉じた空間にいてはならない」という代償が、僕の生活を内から外へと確実に向かわせているのも皮肉なものだ。

 慎と挨拶をかわして間もなく、翔がやって来た。僕と慎は、朝一番からまたも翔に驚かされた。

 シティサイクルにしか乗ったことのない僕なんかがもし翔の自転車に乗ったら、五メートルと進まずに転んでしまうだろう。彼はそんな本格的なロードバイクでやってきた。そこまではいい。問題はそのロードバイクである。

 原色に近い赤を基調とした光沢のあるボディに白字でアニメのロゴやロボットの型番、架空の国の国旗で装飾されている。そして車輪はプラスチックの板で覆われ、前輪にはヒロイン、後輪には主人公のロボットの絵が板の全面に描かれているのだ。もちろんそのデザインはロウツバのもののようだ。


「……おい、翔。一応聞いとくけどよお、こりゃ一体何だ!?」


 慎が恐る恐る翔に尋ねた。


「む、これか。痛チャリだ。自動車は持っておらず、買う金もない。故にこの自転車に溢れんばかりのロウツバ愛を注いだのだ」


 翔は当たり前のように言い放つ。彼の顔と言動にはあまりにギャップがあり過ぎて、これはドラマのワンシーンかと錯覚するほどだ。


「でも結局お金かかるんじゃない? この自転車」


 僕は少し呆れたように翔に言った。


「そのためのアルバイトだ。部活勧誘の断り文句は『金と時間はアニメに』だからな」


「短い青春をそんなことにばかり費やしていいのかよっ!」


「ふっ、自身が青春を感じられなくなった時が青春の終わりなのだ」


「かっこいい……」


 つい口から思いがけず称賛の言葉が漏れてしまった。翔が言うとそれだけ説得力がある。


「いーや、俺は憧れねえぞ。こいつは正真正銘のアホだ!」


 慎は呆れるという感情を通りこしてもはや笑うしかないと言った感じの表情だ。


「人の目は関係ない。己の愛を貫くのみだ」


 その台詞は違う場面なら確実に格好いいはずなのだが。


「ちっ、負けたぜ。お前の勝ちだ。ブレない姿勢、嫌いじゃないぜ」


 翔と慎は満足げな表情をしていた。それは互いに全力で戦ったスポーツ選手のような清々しさだった。




 そんな朝から小さな旅は始まり、僕らはしょうもない話をしながらひたすら自転車を漕ぎ続けた。ほぼ翔のロウツバの話と、慎の神田さんへの熱い思いを聞いただけに感じたのは恐らく気のせいではない。


「ところでよおー、悠。篠原さんと宿泊研修で何かあったのかよ?」


「えええ? 急に何を……」


 馬鹿話から一変、返答に困る質問が飛んできたものだから、つい声が上ずってしまう。


「アニメでもそんなに分かりやすい反応は珍しいぞ」


「やっぱ何かあったんだなっ、この野郎。もしかして一人で勝手に大人の階段登っただなんて言うんじゃねえだろうなあ?」


「べっ別に何もなかった、よ」


「悠、『もちろん何かあった』と顔に書いてあるぞ」


「ホント?」


 反射的に自分の顔を触る。しまった。


「わははは、面白い奴っ! さあ言え、ほら言え、言えおら! 俺らに隠し事なんてナシだぜ」


 言わなければ嫌われてしまうに違いない。それに「沈黙を砕いた」という大きな隠し事だってある。これ以上隠し事をしたらどうなってしまうのだろうか。

 しかしいざ言おうとすると、やっぱり恥ずかしい。たかが散歩だと言うのに。


「あの、あ……実は」


「おい慎、もういいだろう。いずれ悠が話したくて仕方がなくなる時が来る。秘密というものは内に溜めるには熱すぎるものだ」


「翔の言ってることは意味わかんねえけど、まあいいや。今日は勘弁してやるぜっ」


 慎は無邪気に笑っていた。




「確かこの辺りなんだけどよお、あっれー、おっかしーな。昨日ネットで調べたハズなのに、そんな店どこにもねーぞ!」


 隣町に到着したまでは良かったが、慎はどうやら地図を印刷してこなかったようだ。

 隣町は僕らの町よりも寂れていて、あまり目だった建物がない。僕らの街であれば、郊外にはお決まりの全国展開のファミレスチェーンや家電量販店なんかがあるが、この隣町にはそれすらない。

 携帯の地図アプリは灰色で埋め尽くされ、建物の名前を示す文字もない。僕らはここまで来て迷子になった。


「あれほど準備を怠るなと言ったろう」


「うっせーな。そんなに文句言うならよお、事前に協力してくれてもいいだろがっ」


「俺は色々忙しくてな。主にアニメの予定で」


「徹底してるやがりますねえ、ちっ」


 慎と翔は明らかにいらだっている様子だ。


「まあまあ、まだ時間に余裕あるんだし、そうかっかしないで」


 能力を、友達を得るまで体験したことのない空気。能力を使えばこんな空気すぐに壊せるだろう。だが能力は使わない。自分の言葉で伝えるのだ。


「とは言ってもよお、なかなか店は見つからねーわけよ」


「む、人だかりを発見。あそこの可能性アリ」


 翔の言っている人だかりへと向かう。しかしそこは明らかに人気ラーメン店ではない。そもそもラーメン屋なら人だかりではなく、あるのは行列のはずだ。

 そこは事件現場のようだ。人だかりの中に入るとそこで意外な人物と遭遇した。


「おや、こんな所で何しているんだい悠君」


 その人物とは、僕らの町の頼れるお巡りさん、暁さんだった。


「暁さんこそ何しているんですか、こんな事件現場で。暁さんは交番勤めじゃないんですか?」


「前にもあっただろ? 出張とか言っていなかったことがさ。あれは今日みたいに、色んな場所で起こった事件の捜査のお手伝いをしてるんだよ」


「何でそんなことを……」


「ま、そこは企業秘密ってやつだね」


 暁さんはにかっと笑いながら僕らにそう説明した。

 思い返してみると暁さんが出張していたことが何度かあった。小さい頃は何の疑問も抱いていなかったが、言われてみれば確実におかしい。しかし暁さんはその理由を教えてくれる気はなさそうだ。


「あの! お巡りさん、すっげーいいタイミングで会えて嬉しいっす! ちょっと助けて欲しいっす!」


 慎がここぞとばかりに暁さんに助けを請うた。


「ん? どうしたんだい?」


「俺らー、この前テレビで紹介されたラーメン店行きたいんすけど、ちょっとばかり迷っちまったんすよー」


「ははあん、また悠君の不幸のせいか」


「え? 悠はむかつくほど運がいいっすよ」


 と慎があっけらかんと言った。これはあまり好ましくない話の流れだ。

「すいません暁さん。今忙しいですよね」


 僕はやや強引に話を切ろうとする。


「あれだろ、豪竜亭。昨日そこで昼飯食ったんだよ。よし、地図描いてやるからな」


 そう言うと暁さんは手帳のページを一枚破り、店までの簡単な地図を描いてくれた。


「ありがとうございます!」


 僕ら三人は声を合わせて暁さんにお礼を言った。


「おう。じゃ、二人ともこれからも悠君と仲良くしてやってくれよ!」


 暁さんは慎と翔の肩を軽く叩いてそう言うと、僕ら三人に向かって敬礼。綺麗な型の敬礼を決めた暁さんは踵を返して現場に戻っていった。

 まるで暁さんが僕の保護者のようで、少し恥ずかしいような嬉しいような。


「それにしてもまるでアニメのキャラのように爽やかな人だったな。さっきの暁さんという方は」


 翔は暁さんの誠実な対応に感心した様子だ。


「うん、僕が小さい頃からお世話になってる人でね。これでもかってほど爽やかなんだよ」


「企業秘密、か。暁さんの正体はFBIだと俺は睨むぜー」


 慎が妙に真剣な表情で言った。あまりに真剣な顔で言うので思わず僕ら二人は吹き出してしまう。


「慎、それ本気?」


「な、なんだよ二人とも。本気で悪いかよっ。じゃあお前ら何だと思うんだよ」


 慎は真面目に言っていたらしく、少し顔を赤らめている。


「そうだなー、僕の予想は超能力捜査官とか」


「まったく二人ともテレビの見過ぎだな。彼はきっと数々の功績を上げたが上層部と衝突。交番に更迭されたが、その捜査能力はいまだ健在。警察が誇る秘密兵器。こんなところだな」


 よくもまあそんなにほいほいと設定が出てるものだなと、つい翔を尊敬しそうになる。




 暁さんと別れた後、地図のおかげで何とかラーメン店に辿り着くことができた。

 三時間も自転車をこいだおかげで、この店の看板メニューである「男のスタミナあっさりとんこつラーメン」は、舌がとろけ、頬が落ちるという形容がぴたりとはまるほど、おいしく感じた。

 ラーメンを食べに行くだけの小さな旅。そんな些細な事でも僕には十分楽しく新鮮なものとなった。

 そしてそんな小さな旅を無事ゴールまで導いてくれた暁さんは揺るぎない僕の誇りだ。

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