第1章Bパート


 篠原さんが教室で告白をしていたのだ。それが現実なのかさえ分からなくなり、体から力が抜けていく。


「はあ?」


 相手の男の顔がちらりと見えた。相手の男は美術部の矢納屋だった。


「はー、何を勘違いしてんだか……ったく、いい加減気付けよな」


 僕が驚いた直後、矢納屋は信じられない言葉をいとも簡単に言い放った。


「え……?」


 篠原さんは唖然としている。


「よくもまあ、そんな醜い面して歩けるよな。もう皆知ってるぜ。その眼帯の下は化け物みたいだってな」


 矢納屋は立ちつくす篠原さんの周りを歩きながら続ける。


「俺が描いて絵だって、眼帯の下を面白おかしく描いただけさ。それをお前が大絶賛して芸術話になるんだから、笑いをこらえるのが大変だったぜ。まあお前が帰った後に、奈緒とか他の部の皆と大いに笑わせてもらったけどな」


 こんな発言を聞いても篠原さんの背中はぴくりとも動かない。


「そのお前が俺に告白なんて、また話すネタが増えちまったな。けど卒業したら二度と話しかけんなよ、同類だと思われるからな。じゃあな化け物!」


 矢納屋が教室から出てくる前に静かに、そして限りなく速くその場から立ち去った。一目散にどこかへ走った。行き先など考える余裕は少しもない。もう何も考えられない。

 ただはっきりしていることは、彼女は僕と話した修学旅行のあの日から化け物を見る目に晒され、あげく僕が忘れ物を取りに来たその時、彼女の好きな人が最も彼女を迫害していたことを打ち明けられたということだ。勇気を振り絞った告白と引き換えに。

 引き金は明らかに僕だった。犯人。元凶。疫病神。それら全てが僕そのものだった。

 その上、自分が傷つきたくないがために、絶望に打ちひしがれる彼女を置き去りにして逃げ出した。現実から逃げ出した。そのことにしばらく走った後で気が付いた。


「あっ、あっ、ああああああ……」


 走るのをやめ、その場にうずくまり声にならない声を嘔吐した。


「僕が、関わるべきじゃ、なかったんだ。好きになるなんて、以ての外、なんだ」


 真っ黒な感情が胸の奥から溢れ、一気に全身を支配する。体が動かない。いや、もはや動かす気もない。彼女への罪悪感、自分への失望、矢納屋への怒り、それらはまさに絶望。絶望。絶望。目の前が、閉ざされる。



 

 顔を上げると辺りに光は一切なく、見知らぬ路地でうずくまっていたことに気が付いた。


「ここは……どこだろう……?」


 生まれてからずっとこの町に住んでいるが、こんな路地は見たこともない。しかもまだ夕方のはずなのに真っ暗だ。

 そうか、僕はダメになってしまったのかもしれない。だからこんなありもしない場所に迷い込む夢を見るのだ。

 どこかから水滴がぽた、ぽた、と落ちる音だけが路地の中で反響している。やけにじめじめしていて、石畳の冷たさは春のそれとは明らかに異なっている。

 途方に暮れていると、どこからともなく人工的な光が近付いてきた。ぺたぺたと爬虫類が這うような音とともに何かが近づいて来る。そしてその何かが近づくにつれ、鼻を突く腐ったような臭いが辺りを包む。

 近づいてきたのは、ぼろ布で身をくるんだ汚らしい老いた小男だ。


「道にお迷いですかな、お若い方」


 その小男の声は、なぜだか体が凍りつくような寒気を覚える。だがそれでいて、不思議と話に耳を傾けずにはいられない。


「は、はい。この町にこんな路地ありましたっけ?」


 不気味な路地、この小男への不信や恐怖、それに加えて絶望感で頭が混乱する。自分自身がとっくに正常な精神状態でないことだけは理解できた。


「ずっと昔から、誰しもが一度はここを通り家へ帰っているのです。もちろんあなた様も」


 小男は、僕が彼の言っていることを少しも理解できていないことに気が付いたようで、面白そうに顔をにやつかせた。


「もう分かっておられるでしょう? この路地がどこなのか」


「全然、分かりませんよっ! もう教えてください!」


 心が、乱れる。激しく、ざわつく。


「ええっへっへっ。ここは、『絶望に跪いた者』が辿り着く路地」


 小男は両手を大きく広げ、


「そして私は『絶望に跪いた者』を『悪魔』の下に跪かせることを生業としている者でございます。私に名前などはありません。ただ『印屋』と呼んで下さいませ」


 と印屋は、にわかには信じがたい内容の話をさらりと言った。しかしそれは、何一つ嘘ではないだろう。目の前の光景と止まない悪寒が有無を言わさずに、これが現実で、真実であることを告げている。


「『悪魔』だって? それって聖書とかに出てくる……?」


 ちっぽけななりをした印屋から飛び出る突飛な話。奇妙なちぐはぐさに、あれほど恐怖と混乱でいっぱいだったにもかかわらず笑いがこみ上げてくる。


「そのようなものは人間が思い描いた偶像でございます。私が言っている『悪魔』とは、人間とは違う次元の住人のこと。便宜上彼らを『悪魔』と呼んでいるのです」


 印屋は出目金のような目を更に見開き、話を続ける。


「悪魔の方たちは皆人間の世界を覗いていて、この路地に辿り着いた人間を気まぐれに下僕としているのです」


「下僕? さっきも悪魔の下に跪かせるって」


「左様でございます。私は悪魔と人間を、印を介して主従関係の契約を結ばせるのです。そして人間は悪魔の力を少しだけ扱えるようになるのでございます」


 と満面の笑みで印屋は語った。


「悪魔の、力……」


 自分自身が悪魔のように異形な姿に変貌したりするのだろうか。


「所詮違う次元に住んでいる者同士。印を介する以外に関わりあう方法はありません。つまり、『悪魔の力』とは悪魔が人間に物理的な干渉を及ぼすものではありません。そう、精神的な力なのです」


 印屋の目は僕の目を捕えて離さない。否応なく彼の声が頭に入ってくる。


「あなた様の選択肢は二つ。このままこの路地を抜け絶望を抱えたまま日常へと戻るか、それとも悪魔の下僕となり人知を超える力を持って絶望を打破するか。さあ、お選びくださいませ」


 印屋の歪んだ二つの怪しい瞳の輝きは、質問を口にするのを許さない。相手に即答を強制させる、そんな目だ。

 これは、岐路だ。一瞬の間が無限にも思えるほどに思考を巡らせる。

 この不幸な体質を、他人をも絶望へと追いやるどうしようもない流れを、ここで変えることができるのではないだろうか。 

 教室から逃げたあの時、僕は篠原さんの顔を見ようとしなかった。自身の精神的衛生のために迷わず逃げ出したあげく、ここに辿り着いたのだ。だとしたら、僕の進む道は一つしかない。

 どんな悪魔と契約するか分からないが、その力でこの不幸の連鎖を断ち切らなければいけない。

 それが篠原さんへの罪滅ぼしなのだ。


「悪魔の下僕になります。今を変えたい。方法が何であれ」


 もう、戻れない。


「あなた様は賢明にございます……契約を結ぶ前に三つのルールをお伝えします。それを聞いた上で最終的にお決めください」


(一)悪魔との契約は死ぬまで破棄できない。


(二)人間は悪魔の定めた「誓約」に従わねばならない。破れば罰が与えられる。


(三)人間は悪魔の力を使うたびに「代償」を支払う。力を使うと印が赤く光り、印や光は契約者にしか見えない。


「以上、これがルールでございます。ルールを聞いた今でも、御決意にお変りはありませんかね?」


 印屋の眼がまた怪しく光った。


「それでも、契約を結びます。現状を変えられるのなら何にだってすがるんだ!それがたとえ悪魔でも……」


 自分でも驚くほどの大声で叫んでいた。こんな大声を上げたのは初めてだ。


「承知いたしました。その心意気、必ずや悪魔の方もお喜びになるでしょう。それでは、両掌をお出しください」


 そう言われ、僕は迷いなく両方の掌を印屋に差し出す。

 すると印屋は僕の掌に複雑な図形をなぞり始めた。印屋がなぞった部分が焼けるように激しく痛み始めた。痛い。痛い。自然と涙がこぼれる。なんなんだ、これは。

 痛みが暴れるような激痛から、どくどくと脈打つような痛みに変わると、両方の掌には悪魔の印が描かれていた。

 それは一見、太極図のような図案だ。だが、点のある場所にはもう一つの対極図が描かれている。その中の点は二つ並べられ、まるで蛇をかたどったようだ。

 印屋は僕の掌から手を放すと、随分疲れたような声色で、


「……これで、刻印は終わりました。後は悪魔の方と直接お話しください」


「うう、ちょ、直接……?」


 息絶え絶えで印屋に尋ねる。


「左様でございます。印によってあなた様と悪魔の方は一部、世界を共有したのです。悪魔の方とあなた様は印という『館』で面会ができます。精神で、ですが。まあ、実際に館へ赴くのが早いでしょう」


 印屋がそう言った直後、急に体が自分の掌に引き込まれるような感覚に陥る。意識が徐徐に薄れ、あんなに耳に付いた水滴の音さえ聞こえなくなった。

 



 気が付くと、先ほどまでいた路地よりも更に真っ暗な空間にいた。目の前に古びた木製の大きい扉が見える。館の門なのだろうか。

 扉を開けると蝶つがいがぎりぎりと不気味な音を立て、悪魔の下へと誘っている。門をくぐった瞬間、巨大な物体が地面に落下したかのような大きな音を立てて扉が自動的に閉じられた。

 咄嗟に門の方を振り返る。だがそこにはここに来た時とまったく同じ状態で扉がたたずんでいるだけだった。しかし体を前に向き直すと、そこにはヴェールが張られ、その向こうには玉座の影が現れていた。


「よく来た人間よ。悠と申すか」


 ヴェールの向こう側から、男のものとも女のものとも判断のつかない不思議な声が聞こえてきた。その声はヴェール越しだというのに暗闇に広く響き渡る。


「あなたが僕と契約した悪魔……」


「そうかしこまらんでもよい。取って食おうと言う訳ではない。我は『渇望の蛇』。主はただ悪魔と呼べばよい。ただ、無駄な質問はするでないぞ。馬鹿は嫌いでな」


「わ、分かったよ。それじゃあ質問するけど、僕の『悪魔の力』って何?」


「主の使える我が能力は『強盗無形』。目には見えないものを扱う能力。簡単な例えを挙げるなら、自分のストレスを体から抜き出して握り潰す、と言ったところかの」


「『目に見えないものを扱える』だって? す、すごい! それなら何だってできるじゃないか!」


「悠よ、もう忘れたのか? 悪魔の能力には『誓約』と『代償』があることを。それと我の能力は特殊でのう、能力を使うには誓約とは別に『弾』を込める必要があるのだ」


「そうか、誓約と代償……それに『弾』だって? 拳銃みたいに弾がなきゃ使えないのか」


「『弾』は何を込めてもよい。主にとって価値があるものなら物体でも、精神でも」


「価値……。弾を込めたらどんなものも扱えるの? そんな訳はないと思うけど」


「ふむ、ようやく分かってきたか。無論、扱うものによって必要な価値は変わる。複雑なものほど大きな価値が、自分から離れるほど大きな価値が必要となる」


 悪魔は更に続ける。


「自分より空間、空間より他人、他人より因果。そして因果は因果でしか扱うことはできぬ」


「なんだかややこしいね。でも習うより慣れろって奴なのかな」


「そんなところだの。主が弾を決めなかった場合は印が相応の弾を選び、消費する」


 随分丁寧に説明してくれる悪魔だ。悪魔と言うからには、もっと凶悪な人物像を思い描いていたけれど。


「そして最後に誓約と代償について説明しよう。悪魔と人間は主従関係。その理由はここにある。人間が誓約を守るか破るすると悪魔は力を得るのだ。特に誓約を破った時、悪魔は豊饒な力に満たされる」


「誓約を破らせたいようだね」


「ふむ、頭は悪くないようだの。我の誓約は、『閉じた空間にいてはならない』こと。空間とは箱。部屋の意なり」


「引き籠りがちな僕への当てつけ? ドアは開けっぱなしにしろってことか……」


「ふむ、よかろう。代償とは、悪魔の力を人間が人間の世界で使うには強大すぎるために支払うもの。我の代償は『能力使用中から使用後、しばらく物質的なものに手で触れられなくなる』こと」


「もし破れば?」


「誓約を破った場合、能力を使っていなくても物に触れられなくなる。そして破る度に触れらなくなる部分が広がるのだ。最終的には体中がその状態になり、永遠にどこまでも落ちていく。どこへも辿り着けずにのう」


 さも面白い話題を話すかのような悪魔の声の調子に、冷や汗が流れる。


「説明はこれで終わりだ悠よ。ふふ、恐れておるな。当然だの。今能力を使ってその恐れを取り除いてみるといい」


「でも僕はまだ何も誓約を守っていないけど」


「初回特別キャンペーンというヤツだ、誓約と代償、弾は気にしなくてよい。印に精神を集中させて、扱いたいものをイメージするのだ」


 やけにサービス精神旺盛な悪魔は、逆に警戒の対象だ。しかし能力を使ってみなければ始まらない。


「ふう……よし!」


 静かに両目を閉じ、未だ痛みの消えない両手の印に意識を集中させた。僕のこの恐怖を砕く、頭をそのイメージで塗り潰す。

 すると印から赤く眩い光が溢れ出した。放たれる光線はセロファンを重ねたような不自然な色彩で、うねり、暴れている。そして何より、その異様な光は余りに現実味を欠いている。

 意識を手に集中させ続けると、やがて光は収束し手を包みこんだ。まるで赤い光でできたグローブを装着しているかのようだ。

 その瞬間、即座に自分の能力を理解した。これなら触れる。この恐怖心を。光で覆われたその手を自分自身の胸に突き刺し、そこから心臓を握るように何かを体から引き抜く。 

それはまさに、この信じられない現実への僕の恐怖心そのものだった。黒や紫の不規則なグラデーションがかかった物体は、局所的に隆起し、脈打っている。


「悪魔の心臓みたいだ……」


 僕はそう呟き、当然のようにそれを握りつぶす。恐怖心は粉々に砕け散り、きらきらと輝く粉末はどこかへと消え去った。

 するとどうだろう、錯覚なのか、暗示なのか、本当に現実の能力なのか、少しも分らなかったが確かに恐怖心は消えている。目の前にいる悪魔がまるで、普通の人間であるかのように違和感を覚えない。


「自分の力が分かったかの。さあ、現実に戻るがいい。さらばだ」


 また両手の印に引き込まれるような感覚。これが夢でないなら、きっと世界が変わっているはずだ。きっと。

 



 気が付くとまたあのうす暗く、じめじめした路地に戻っていた。仰向けに倒れている僕の顔を、ぐしゃぐしゃに潰れた柿みたいな印屋の顔が覗きこんでいる。最悪だ。石畳の冷たさは紛れもなく現実。両手の印の痛みも、これが現実だとはっきり言っている。


「お戻りになりましたか。このランプを差し上げます。これを持って路地を真っ直ぐお進みください。そこにはこれまでとは違った日常が待っているでしょう。ええっへっへ……」




 朦朧とした意識の中、印屋からランプを受け取り、のろのろと歩み始める。ランプの光は暖かく、あの時の赤い光がいかに異質なものかを示唆していた。

 路地を抜けると今度は目の前が真っ白になった。路地どんどん小さくなり、最後には泡と消えた。

 次に目を覚ますと、見慣れた僕の部屋のベッドの上にいた。

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