第9話 メス


脈打つ心臓を鷲掴みにされ 常識が闇の中に消える


捻れた紫色の毒素が 背中いっぱいに気だるくまとわりつく


ありえない程ひしゃげて潰れるのは やっと生まれた自由だった




EASY9  『メス』


俺は今、『カサンドラ』で飲んでいる。

サユとのあの出来事があってから2日後の事だ。


「はぁ・・・・」

ため息が自然と吐き出されてしまう。その時の俺の顔は、暗く濁っていたに違いない。

「お疲れの様子だね、アキラ」

ムウさんがカクテルを差し出しながら言った。

「お疲れどころじゃないっスよ・・・もうヒサンっスよ・・・」

俺はぐったりして、両腕の間に顔をうずめた。そしてカウンターで働いているサユをチラリと横目で見た。

するとサユは、俺の視線に気づいて笑顔でウインクを返してきた。

俺はドキリとして、また顔をうずめた。


それにしても・・・女というのはわからない・・・


あの時の出来事は、サユはどう考えてしたことなのだろうか?

あの時の出来事というのは、もちろん『キス』のことだ。

サユの突然のキスには、どんな意味があったのだろうか?

俺が今、窮地に立たされている状態で、なぜサユは笑っていられるのだろうか?


「ムウさん、男と女ってなんなんでしょうねぇ・・・」

俺は死んだ魚のような目で、照明の光をぼーっと見上げた。

「この2日間でいろいろとあったようだな、アキラ」

さすがムウさん。ズバリ見抜かれている。

と言うより、見抜かれて当然の状況なのかもしれない。

「ただいまっ」

俺の隣に、トイレから戻ってきた女が座った。

ケーコだった。


この状況はどういうことか、簡単に説明させていただきますと・・・

まずは2日前。サユと朝まで飲んだ俺を、車で迎えに来ていたケーコは驚くほど冷静だった。

てっきり泣き叫びながら、狂ったように殴りかかってくるものだと思ったが、それはなかった。

そこがかえって怖かったが、どうやらサユとの衝撃の現場は、ケーコに見られてはいないようだ。

もしあの現場を見られていたらと思うと、背筋が凍るほどゾッとしてくる。

とにかく、ムウさんと一緒に飲んでいて遅くなってしまったと、『ウソ』の言い訳をした。

ウソをつくことは好きじゃなかった。けど、そのウソで事が穏便にすむのだったら、それも仕方ないと思う。

そして次の日の夜。

ケーコは、俺がカサンドラでバイトをすることを反対した。もちろん俺はそれを反対したが。

そして本日の夜。すなわち今だ。

いつもは料理屋にバイトに行くケーコだったが、突然その店を辞めたという。

そして俺に、カサンドラに連れていって欲しいとしつこく言ってきた。

今日はバイトが休みの日だったので、俺は仕方なくケーコを連れてきた。

それはどこか、ケーコに対して負い目を感じていたからかもしれない。

まぁ、簡単に説明するとこんな状況。そして俺にとっては悪夢のような状況だった。


「あ、このカクテル飲みたい!すいませーん!」

ケーコがサユを呼ぶ。座っている席からはムウさんの方が近いのに、わざわざ遠くのサユを呼んだ。

「えっとぉ、ケーコはモスコミュールとカンパリソーダ飲むの!アキラは何にする?」

普段とは違うキャピキャピした態度のケーコ。少しはしゃぎすぎのように見える。

「俺はこれ飲んでるからいいよ。それにしても頼みすぎじゃねぇか?」

「いいの!この前アキラが遅くまで飲んでたから、今日はケーコが飲むの!」

俺は何も言い返せなかった。それにしても、今日のケーコの態度はいつもと全然違う。

妙にハイテンションで、やたらと俺にベタベタしてくるのだ。それはどこか、サユに対してのあてつけのように思えたのは、俺の気のせいなのか?


サユは接客している客がいたので、俺とケーコとムウさんの3人で話をしていた。

「アキラ、さっきの話だけど、男と女とはどういうものか、俺はこう考えるな」

「どんな考えですか?教えてください、ムウさん!」

ケーコは人見知りしない性格なので、すぐにムウさんと打ち解けていた。

というより、誰にでも簡単に打ち解けすぎる。悪く言うならば、軽そうな女に分類されるのだ。

「それはね、ケーコちゃん。男と女の関係をたとえるならば、男が右腕、女が左腕なんだよ」

「へぇ~、そうなんですか」

俺でさえ意味がわからないのに、頭の回転の鈍いケーコに、今の言葉の意味がわかるはすがない。

どうせわかったフリをしているだけだろう。俺はムウさんに意味を尋ねた。

「いったいどうゆう意味なんですか?」

「右手で右肘を掴めるかい?」

「そんなの簡単!よっと・・・アレ、掴めないよ!」

はたから見ているケーコはかなり滑稽だった。自分の右手で右肘を掴めるわけがない。

まるで、酔っ払ってカンフーのモノマネでもしているように滑稽だった。

「だからね、右手で右肘を掴もうとしても掴めないが、右手で左肘なら掴める。左手でも同じこと。自分自身の手の届かないところを掴んであげる。それがすなわち男と女の関係なんだよ」

「あっ、なるほどね!さっすがムウさん」

こいつは本当にわかっているのか?とツッコミたくなり、俺はケーコを白い目でチラリと見た。

でもなるほど。確かにムウさんのいう言葉も一理ある。男の不足している部分を女が補い、女の不足している部分を男が補う・・・そうやってお互いが支え合って生きていくことが、本当の男と女の関係なのかもしれない。

だとすると。俺とケーコのしていることは一体何なのだろうか?

けしてお互いを支え合っているなどと言えるキレイな関係ではない。

自分達の弱さに甘えながら、一緒になって堕落していくような関係なのだ。

これではお互いが得るものなどない。お互いが高めあうなど愚の骨頂なのだ。まさに大笑いだ。

ムウさんがいった言葉をずっと考え込んでしまった。だから俺は酒を飲んでも酔うことは出来なかった。

ケーコはその後も何杯もカクテルを飲み続け、ベロベロに酔って陽気になっていた。

そしてその勢いで、サユの前までカウンターを移動し、一緒に何やら喋っていた。

俺はその様を見て、ハラハラして落ち着かなかった。とても落ち着ける状況ではなかったのだ。

もしケーコが、サユと俺がキスしたことを知ったらどうなるだろうか?

考えたくないが、考えるまでもなく、ケーコはサユにこの場でケンカを売るだろう。

ところかまわず暴れだすだろう。大声で泣き叫び、辺りの物を破壊するだろう。

とにかく、そうならなくて助かった。ケーコとサユは、にこにこと笑いながら話していたのだから。

「お、おいケーコ、そろそろ帰るぞ」

そう言おうとしたのは、夜遅い時間になったからではなく、サイフの中身が心配になってきたからだ。

ケーコが調子に乗って何杯もカクテルを飲んだので、その料金が心配になったので帰ろうと思った。

するとケーコは、サユの前ですうすうと酔いつぶれて寝てしまっていた。

やれやれ・・と思いながらタクシーを店の前に呼び、ケーコをおぶってタクシーの後席に乗せた。

「アキラくん、忘れ物!」

サユが俺の携帯を店の入り口まで持ってきてくれた。俺はタクシーから降り、サユから携帯を受け取った。

「あ、ありがとう」

俺はサユの顔を見ずに礼を言った。あの出来事があって以来、サユの顔を見づらい。いや、サユの口元というのが正しいのかもしれない。少し厚ぼったいが色気のある下唇を見ると、あの夜の出来事を思い出して鼓動が少し早くなってしまうのだ。

たかが唇を合わすだけの行為なのに、なぜこんなに緊張するものだろうか。

俺たちは無言のまま、店のカゲに隠れてキスをした。

二度目のキスは、一度目とは比べ物にならないほど濃厚な感触だった。俺の鼓動はますます上がった。

寝ているとはいえ、ケーコの目の前でこんなことをしてしまっていいのだろうか。

もしかすると、後ろめたい罪悪感が、ますますふたりの心を燃え上がらせてしまうのだろうか?

とにかくこれでひとつわかったことがある。

サユとの一度目のキスは、ただのきまぐれではなかったのだ。

俺はこの瞬間決意した。危険な恋の入り口に、足を踏み入れることを。

しかし、サユの放った一言が、俺の決意を早くも鈍らせるのだった。


「キスのことケーコちゃんにバレちゃった。宣戦布告だってさ」


俺の頭の中は真っ白になり、意識がぐらんと揺れたのを感じた。

そして、寝たふりをしながら、ケーコはタクシーから一部始終を見ていたのだった。

それを俺が知ったのは、まだ先の話になる。

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