第4話 紅いコブシ


赤 赤 赤 、赤は何色?


紅 紅 紅 、紅は血の色




EASY4  『紅いコブシ』


気が付けば俺は満天の星空を眺めていた。

キラキラと光輝く眩い星たちは、幾光年の彼方にある壮大なスペースオペラ。

今見ているあの星たちの光は、何万年も前の光で、現在はとっくに消滅している星もあるという。

それだけここ地球と、あの星たちの間には気の遠くなるような距離があるということだ。

そう思うと宇宙というのは、何と幻想的で神秘的なのだろうか?

この宇宙船地球号は、遥かなる悠久の時から旅を続けている。それは何故、何のために?

今、その宇宙船のクルーになっている人間たちの、成すべき使命とは何であろうか?

そんな普段考えもしないことを、俺はボンヤリと考えていた。

いや、ムリにでも高尚なことを考えようと追い詰められていたのかもしれない。


コブシは真っ赤な血で染まっていた。


俺は自分のコブシについているヌルヌルの赤い液体を、親指で軽く拭ってみた。

それは鬱陶しくまとわりつき、サッパリ取れないどころか、ますますにじむようにして広がっていった。

感触としては、『イカの塩カラ』のビンを開けた直後の塩カライ匂いと、そのイカ以外のワタの液体が手についたような、そんな不快な感触に似ていた。

うまいお茶を飲むと、何故かお茶漬けが食べたくなる連鎖反応のように、コブシについた血が塩カラを連想させ、それでふとお茶が飲みたくなった。

俺は、車の中の小銭を取ろうとして、駐車場のコンクリートの輪留めから腰を上げて歩き出した。

車のノブを触れる時に、血がつかないか一瞬ためらったが、どうでもよくなってかまわずに開けた。

そしてダッシュボードの小銭入れをまさぐって硬貨を見つけ、、ペットボトルのお茶を購入し、もといた駐車場の輪留めにまた腰掛けると、ペットボトルのフタをキリリとひねって開けた。

冷たいお茶を選択したのだが、想像以上に冷えていたのが嬉しい誤算であった。

というよりは、普段よりも乾ききった喉を潤したことが、普段よりも冷たく美味しく感じたのだろうか。

意外と俺は冷静であった。


ものの数分前。

この場所で起きた出来事について、俺は思い返す余裕が少し出来た。

何故、思い返さないといけなかったかというと、思い返したくなかったことだが、あえて脳が勝手に働いて思い返してしまったのだった。

まわりくどい言い方だが、ようするにイヤな出来事ほど、思い出してしまう人間のサガってトコだろうか。?

俺は星空を眺めながら目をパチパチと瞬きさせ、この時間が夢の中の出来事ではないことを実感した。

もうすべてがイヤになってきた。

思い返せば思い返すほど、思い返すのがイヤになるぐらいの出来事を思い返して、ますます思い返すのがイヤになった。

俺はペットボトルのお茶をグビリと飲みほすと、ゴミ箱などあろうはずもない方向に向かって、ペットボトルを投げつけた。そしてそれは暗闇の中にカランコロンと音をたてて転がっていった。

そんな子供じみた自分の行為で、ますます俺はみじめな気持ちになった。

とにかく今日は帰ってふとんに潜り、全てを忘れて爆睡したかった。

明日、考えよう。

これ以上、自分の脳ミソを酷使することは、余計に疲れるだけだと思ったので、俺は車に乗り込んで運転し、アパートに帰り、ふとんに入り、そして目を閉じた。

情けなさと虚しさで、ちょっぴり涙が出てきた。そんな一日だった。


それから何時間眠ったのだろうか?

不快な音が頭をつんざき、ムリヤリに起こされる。

気がつくとカーテン越しに薄明かりが差し込んでいた。

(朝か・・・それにこの不快な音は何だ?・・・チャイム・・・・)

俺はぼぅっとする頭を無理矢理起こすと、玄関のチャイムが鳴っていることに気付いた。

(まだ六時だぞ・・・誰だよ、こんな朝早くに一体・・・・)

俺は反射的に飛び起きると、その不快な音を止めるべく玄関へ向かい、ドアの鍵を外そうとした。

その瞬間。

俺の脳裏に、昨夜の忌々しい記憶が蘇ってきた。脳内の血液が一瞬にして沸騰し、高密度の圧力で全開に噴出したような感覚。そうかと思えば体全体にある栄養素を、お尻の穴から全て掃除機でバキュームされるような脱力感。ドッと噴出す油汗。だが不思議にも、俺の体はドアのカギを開けるのを拒まずに、そのまま吸い込まれるようにしてカギを開けてしまったのだった。

ガチャリ。

その音を聞いた玄関先でチャイムを押した人物は、ドアが開くのを確信し、ドアノブを至極当然のようにガチャリとまわしてきた。


ケーコだった。


その瞬間、俺は昨晩の出来事を走馬灯のように思い出してしまった。

発端はささいな事であった。

俺とケーコは、夜に飲みに行き、そこそこの量のアルコールを摂取した。

ケーコは女のクセに・・・いや『女のクセに』というのは、今では差別用語になるのであえて言い直すが、

なかなかの酒豪であった。それで良い気分で酔っ払っているうちは楽しかったのだが、ちょっとした口ケンカになるとタチが悪い。

もうそれは男同士のケンカのように取っ組み合うのである。

普通の女の子だったらこんなことは絶対しないハズである。

ところがケーコは、俺が手を出す前に、『グー』で殴ってくるのである。そしてそれ以上のダメージがデカイのが、ツメを立てた『引っ掻き』である。

女の引っ掻きを経験した人ならわかると思うが、ツメが肌に食い込む痛さというのは、殴られたダメージとは種類が違う。腕力のない女性が、拳で殴らずに引っ掻きをするのは、至極当然だと思う。

そして俺は顔を引っ掻かれ、血がにじんだ。今までは男として押さえに抑えてきた感情。


『女を殴らない』


という人生の約束事が、頭の中でプツンと切れて真っ白になった。

考えてみれば、何故、男が女を殴ってはいけないのだろうか?

そりゃ体力的格差はあるとしても、だったら、男が何をされても女を殴ってはいけない理由なんてどこにもないし、何か間違っている気がする。

時には男の腕力を見せ付けて、女にキツイお灸を据えてやるのも、間違ってはいないのではないか?

いや、むしろ、いま男の腕力を使わずしていつ使うのか?

この拳は正義の拳、正拳なのだ。それを正義の為に使うだけだ。

そして俺の闘争心はイッキに高まり、ファイティングポーズを決めて体中に力が入るのを感じた。

そして俺は、握り拳に力いっぱい込めて、全力でケーコに向かって放った。

グシャン。

小気味のよい感触が、右腕に伝わってきた。

ケーコの左頬にヒット!

ケーコの顔がひしゃげて、首が横に曲がっているのが見える。

だが、ヤツの暴走はまだ止まらない。そのパンチに屈することなく、飽くなき闘士を見せ付けてきた。

よし!このヤロウ、そうこなくちゃ!

俺はケーコに放ったパンチが一発で終わってしまわなくて、とても嬉しかった。

だって、こんなに気持ちよいことを続けることができるのだから。

女を殴った感触は、はじめての経験でもあり、非常に気持ち良かった。

詳しく説明すると、殴ること事体よりも、誰もが恐れている禁を破ったことへの快感が、俺の全身をくまなく麻痺させ快感へと誘ったのだ!


学校をサボってはいけない!

タバコを吸ってはいけない!

お酒を飲んではいけない!


こんなどこの誰でも破れるような、簡単で単純で安直な禁ではない。

誰しもが破れない禁であるからこそ価値があるのだ。

男とは女を守るべきもの。太古の昔から、男に課せられた当然の使命。

地球の人間界の社会では、暗黙の了解で、それを破るのは最低の行為。

百人中百人が、口をそろえてこう言うだろう。


「最低ッ」って。


でも俺は今、禁を破ったのだ。

もう最低と言われようがどうでもよい。俺は誰しもが破ることのできなかった事を、本能のまま動いてそれを実行したのだ。誰かに相談した訳でもないし、躊躇しながらやった訳でもない。

全力だ。全力で俺は女をグーで殴ったのだ!

それはもう『快感』などという安易な言葉では表現出来なかった。

エンドルフィン、アドレナリン、ドーパミン・・・全ての麻薬的興奮分泌液が脳内はおろか、体中を無尽に駆け巡っていくのを実感できた。射精を超えた快楽がそこにはあったのだ。

この思いもよらに快楽の味を知った俺は、体力が底を尽き、ヘトヘトになるまでその行為を続けた。

女の腕力なんて知れたもの。

俺は足払いでガツンとケーコを倒し、そのままマウントポジションで馬乗りになった。

そしてケーコの顔めがけて渾身の力で拳を振り下ろした。

ラッシュ!ラッシュ!

酔った体では、フラフラして思うように狙いが定まらないし力も入らなかったが、それでも俺のケーコに対する怒りは、ヤツの顔にアザをつくり、口や鼻から血を噴出させるには充分だった。

自分の身に危険を感じたケーコは、必死にガードしてカメの様に固まった。

俺はなんだかその防御の姿勢をフェアじゃないと感じてムッとした。

やるんだったら正々堂々とやれ!と思ったので、ケーコの胸倉を掴んでグイイと立たせて起こした。

しかし、そこで俺の体力が限界に達し、しばしの休憩を体が欲したのがいけなかった。

そのスキにケーコは逃げて、車の中に入ってカギをかけると誰かに電話していた。

俺は卑怯で卑劣なその行為に憤慨し、ドアを何度も蹴った。

「この野郎!出てきやがれッ!」

いくら叫んでもケーコは出てこなかった。俺の方をキッと睨んだまま、目を逸らさなかった。

俺の目からは殺意が発せられていただろう。だが、それはケーコも同じであった。

俺を睨みつける目・・・それはまさに殺意の目であったことを俺はしっかり憶えている。

ケーコを車からひっぱり出そうとして難儀しているうちに、ケーコのとった作戦が効果を出した。

10分ほど後。

疲れ果てた俺は、車の近くに座って、ヤツの動向を探っていた。

どうしてもヤツを車から引きずり出し、そして俺の一撃を、どうしても、もう一度食らわしてやりたかったのだ。意地というか何というか、それはもう俺の生理的欲求であったのだから仕方がない。


そんなフラストレーションバリバリのところに、一台の車が駆けつけてきた。

一瞬、頭をよぎった言葉。

『警察・・・!』


ヤバイ!

いくら男女間の痴話喧嘩でも、相手に暴力を振るえば、それは犯罪として成立してしまう。

俺は真っ青になり血の気が引くのを覚えた。

こんなくだらないことが原因で、俺は暴行の現行犯で逮捕されてしまうのだろうか?

イヤだ!絶対にイヤだ!

だって俺は悪くない。悪いのはケーコの方なのだ。俺をイラつかせたあいつに原因があるのだ。

だから俺は逮捕されるべきではない。ケーコの野郎!余計なことしやがって!

俺はこの瞬間、最大限にこの女のことを恨んだ。憎くて殺しても殺し足りないくらいに憎んだ。

そして車から降りて来た人物2人がこちらにやってきた・・・


それはケーコの両親だった。

前に一度、挨拶した程度だったが、その顔などの特徴を俺は忘れていなかった。

その特徴は、何と言うか表現しづらいのだが、『貧素で粗野』だった。

けしてお金持ちの家のパパとママではなく、どちらかというと貧乏な家のオヤジとオバハンであった。

そのオヤジとオバハンをここに呼んだのは、間違いなくケーコだとわかった。

たぶん、俺に殴られているのを車の中から携帯で連絡したのだろう。

携帯電話というのは時に便利な道具だが、この時だけはいらない機械だと思った。


ケーコのオヤジとオバハンの形相は凄まじかった。

ニワトリ小屋のタマゴを取る時に、親鳥に見つかったように、一気に俺に噛み付いてきた。

「何してるのよッ!」

猛然とこちらに向かってくるケーコの両親。俺は思わずたじろいてしまった。

ところが、両親は俺の前を素通りし、ケーコに向かって行ったのだった。

そしてカワイイわが娘を案じるというよりは、バカな男に殴られたバカな娘を叱りつけているようだった。

ア然としている俺のところにオヤジがやって来た。

「殴られることしたから当然やろ、アイツもバカやなぁ」と俺に言った。

俺は自分の耳を疑った。

自分の娘を殴った男が目の前にいるのに、その男に向かって娘のしたことを愚弄するとは・・・

何かが違う・・・どこかネジの外れたすっとんきょうな思考。

俺がそんなこと言える立場ではなかったが、それが俺の印象であった。

とにかくその場は、ケーコの両親が来たことで俺も冷静になって考え、自分の犯した罪を詫びた。

地面に頭をつけて謝った。

なんだか虚しいというよりは、何で俺が謝らなければならないのか納得いかなかったが。

涙は出なかったが、とても悔しかった。


そんなこんなでハードな一夜が終わった。

そしてその次の朝・・・俺の夢のような悪夢が、この女の登場によって、間違いない現実として蘇った。


「ケーコ・・・何で・・・・」

それ以上、俺の口から言葉は出なかった。

だって、昨晩この女をボコボコにブン殴ってから5時間ほどしか経ってないのに・・・

なのに何故この女は、次の日の朝に、自分をボコボコに殴った男の玄関のチャイムを鳴らし、ドアの前に立っているのだろうか?

全てが説明つかないこの現状に、ケーコが最初にとった行動はなんと・・・・

『あいさつ』であった。

「おはようっ」って笑って俺に微笑みかけたのだった。

俺はこの瞬間、背筋がゾッとした。


(ありえない!こんなこと不自然だ・・・なぜ自分を容赦なく殴った男に、この女は微笑みかけることが出来るのか?それともひょっとしたら、背中に隠している刃物で俺をブスリと刺すつもりだろうか?

そうでなければツジツマが合わない・・・この笑顔はこの場面では場違いな感情なのだから・・・・・)


俺はとっさに身構えてしまった。

ケーコがいつナイフを刺してきてもいいように体勢をとった。

だがケーコは、後ろに組んでいた手を前に組みなおし、またニコリと笑った。

刃物などの凶器の類はどうやら手にしてはいなかったようだ。だがこの笑顔をこのまま素直に受け入れるほど俺の神経はおかしくない。この状況がおかしいということは、誰にだってわかるはずなのだから。

「入っていい?」

そう言うが早いか、ケーコは俺の返答を待たずに中に入り靴を脱いだ。そしてそのまま、俺が寝ていたふとんに自ら入り込み。

「昨日は遅かったから眠いね。おやすみ」

そう言ってふとんに入ったまま目を閉じてしまった。

俺はそんな様を見てめまいを覚え、おでこに手をついた。


悪夢のような昨夜の出来事はまだ覚めていなかった。

それは、この女の不可解な行動からもわかるように、

これから俺に起こる不幸の前兆であった。

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