第6話 人面犬

 犬は、顔に酷い怪我を負っていた。野良犬だったか、飼い主が在ったか分からないが、顔を何か鈍器のような物で殴り付けられ、潰されていた。事件の目撃者が現れなかったために、犯人の特定には至らなかった。犬に対して、相当な憎悪を抱いていたのだろう。あるいは、それが犬の飼い主へ向けられたものだと言うことも有り得る。

 近頃、ある町の界隈で、人面犬を目撃したと言う通報が、多く寄せられている。人間の顔をした犬が、本当に存在するのか。にわかに信じ難いことである。小松、中原両巡査は現地に赴き、調査を開始した。が、結局のところ、人面犬の発見には至らなかった。

 そこは何の変哲も無い小さな田舎町だった。付近の家々を回り、住人に聞き込みを行ってもみた。確かに、薄気味の悪い犬の噂を耳にしたと言う人は多かった。この町のほとんどの住人が、人面犬の話を自慢げに語った。その大概は、人伝いに聞いた噂話であった。三丁目か、四丁目の路地で、偶然その犬に出くわしたのだと言う。「あれ、どこの犬だろう?」と眺めていると、その犬がこちらを振り返り、「オイ、何じろじろ見てんだ。この野郎!」と怒鳴り付けられたと言う。

 夜の公園で若い男女が、ベンチに座っていると、不意にどこからか彼らをからかう卑猥な言葉を浴びせ掛けられた。最初は完全に無視していたのが、あまりに下品な声に彼らは腹を立てて、声の主を捜した。が、それらしい人影は、とうとう見つからなかった。ただそこに居るのは、妙な小犬一匹だった。何だ。小犬かと思っていると、その犬が人の言葉をしゃべったのだと言う話だ。中にはどこどこの犬の顔が、その飼い主の顔に瓜二つだったと話した人もあった。それらの噂の出所は、はっきりしていなかった。ただこの付近で人の顔をした犬が出現していると、誰もが口を揃えて話す。それでも、実際にその人面犬を目撃した人物は現れなかった。

 我々の調査は、完全に空振りに終わった。やはり通報は、悪質な悪戯だったのか。その後は、同様の通報も寄せられていない。これで人面犬騒動も、収拾したかのように思われた。その矢先に起こった事件だった。

 工事現場近くの空き地で、滅茶苦茶に殴り付けられたように、悲惨な顔をした小犬を目撃したと、警察に通報があった。犬同士の喧嘩や、交通事故による負傷とは考えにくいほど、惨い状況であったと言う。

 小犬の生死は確認が取れていない。が、最初に見つけたときには、まだ息があったと言うことだ。犯人はどの様な理由で、こんな残虐なことを行ったのだろう。単なる動物虐待が目的だったのか。無抵抗な小犬に対して、これほど残虐な行為を行うには、何か特別な理由があってのことか。たとえそうだとしても、許されることでは無い。

 その後、犬の死骸にレントゲン撮影を行った結果、意外な事実が判明した。死骸はちょうど頸骨の中程で、人為的な処理が加えられた可能性があると言う。頸骨の形状が、そこを境に上部と下部とでは、全く一致しないのだ。死骸の首から下は、間違い無く犬の物であった。が、頭部はそれとは明らかに異なっていた。別の動物の頭を持って来て、すり替えてある。それが、小犬が死んだ後に施されたものなのか、それとも生きている間に手を加えられたのか定かでは無い。もし生前だとしても、やはり処置後は、その犬は生きていないだろう。ところが、小犬は発見当初、まだ息をしていたのだと言う。普通なら考えられない話だ。

 死骸は首から上を除けば、ほとんど外傷は見られなかった。顔面を殴打されたことが、直接の死因と考えられている。実際は、犬の頭部が別のそれと付け替えられ、まだ発見されていない。その頭部こそ、本当の死因を特定できる重要な部分なのだろう。あまりにも惨たらしい顔の様子にばかり目が先に行って、何か重大な事実を見落としている気がしてならない。しかし、証拠も少なくこれ以上、事件に進展は望めなかった。

 巡回途中の小松、中原は物静かな路地で、一匹の小犬に出会った。人面犬騒動の後もあってか、その犬には妙に興味を引かれた。勿論、ただの小犬だったのだろう。犬はあちらへ茶色の毛の体を向けて、その顔は見えなかった。どこの犬だろう。それともこの辺りの野良犬か。側にはそれらしい人影は見当たらない。両巡査はもう少し近くに寄って、犬の顔を確かめたかった。しかし、小犬はとてもすばしこかった。

 小犬はどこへ向かうのか。後に付いて来いと、我々を誘うようでもあった。小犬は近づこうとすると、急に駆けだし逃げて行く癖に、犬との距離が離れると、こちらが追い付くのを待っている。ちょうど曲がり角に立ち止まっている。それでも、小犬は一度も真面にこちらへ顔を向けようとしないから、その顔を認めることはできなかった。どうにも気になって仕方が無い。ただその犬の顔を確かめたいだけなのだが、それをなかなか思い通りにさせてくれない。歯痒かった。

 高が犬一匹に、いつまでも構っているわけにはいかない。小松、中原はとうとう犬を諦め、職務に戻ろうとした。その時だった。小犬は何かを察知したふうに、徐にこちらへ振り返った。体はそのまま、首だけ曲げてこちらを顧みたのだった。

 小松も、中原も驚いたふうに目を見開き、しばらく言葉を失った。こんな奇妙なことが世の中にはあるのか。――小犬は、人間の顔をしていた。まるで中年男性の顔そのものだった。それが、こちらへ向かって何か呟いたように見えた。いや確かに、「お巡りだ! やべー」と言った。それから、すぐさま走って逃げてしまった。二人はしばらく呆気に取られていた。急に我に返って、その犬を追い掛けた。既にどこかへ姿を消して見えなくなっていた。捕らえて、確認したわけでは無いが、無用に動物を捕まえ、怯えさせるのも気の毒な気がして、それ以上、捜さずにそっとしておくことにした。あれは、本当に人面犬だったのか。今となっては、その真意ははっきりとは分からない。単なる見間違えだったのかも知れない。あまりに衝撃的な出来事に、両巡査も確信は持てないと言う。

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