第4話 焼失

「Hさん、Hさん。大丈夫ですか!」

 救急隊員の幾度かの呼び掛けに対しても、全く応答が無かった。男性は既に意識を失っていた。すぐに隊員が、男性の異変に気付いた。

「Hさん、入りますよ!」

 部屋の扉は開いていた。

 午前十時、消防からの要請を受け、小松、中原の両巡査は現場に駆け付けた。ある小さな商店街に程近い、二階建ての古アパートだった。現場には、どこか猟奇的な殺人事件現場を連想させる、異様な空気が立ち込めて見えた。アパートの前には、十数名ほどの人集りができて、何が起こったのかと心配そうに見ている。到着とほぼ同時に、救急隊員が担架を携え、アパートの一室から出て来た。そこで目にしたものは、我々の想像を大きく上回る恐ろしい光景だった。

 救急の通報があった。男性が酷い火傷を負ったと言う。ところが、男性の所持していた携帯電話からは、消防へ電話は掛けられていないと判明した。となると、誰か他の者が現場に居て、通報してきたと言うことになる。凄惨な現場を前にして、恐怖して立ち去ったのか。あるいは自分自身に疑いの目が掛かることを避けてのことか。それとも、何か事件と重要な関わりを持っているのだろうか。謎は深まる。

 担架で運び出されたのは、三十代くらいの男性だった。彼は完全に右腕を失っていた。その切断面だけが真っ黒に焦げ、腕は骨もろとも焼け落ちていた。失った右腕や、出血の痕はどこにも発見できず、その他に外傷は無かった。ただ部屋の床には、何か物が焼け焦げたような残滓ざんしが見つかった。現場には、仄かに焦げ臭い空気が漂っていた。一体何をどうすれば、こんな事が可能なのだろうか。全く不可解な事件であった。

 まるでプラスチック製のオモチャを焼き切ったふうに、人体が燃焼してしまっている。――これに近い事例が、世の中に超常現象の一つとして報告されている。人体自然発火現象である。その中には、身体のほとんどを跡形も無く焼失してしまった事例も存在した。その真相は、未だ解明されていないが、まさにそれと酷似した事件に、我々は遭遇してしまったのだ。

 手掛かりは極めて少なかった。幸い男性は右腕を失ったものの、命には別状は無いと言う。こんな奇怪な事件は、初めてだった。これは事件に分類されるものなのか。そうだとして、我々がこれ以上、出る幕があるのか。もしあるとすれば、最初に消防へ電話をしてきた人物を見つけ出すことくらいだろう。小松、中原巡査はこの周囲の住宅地を回って、事件発生の時間帯に、現場から立ち去った者は居ないか、聞き込みをすることにした。

 二人の必死の捜索にも拘わらず、目撃者は現れなかった。誰しもその時間帯は、忙しくして他人の事など構っている暇は無いと言う口ぶりだった。もうこれ以上、事件の手掛かりは得られないと思われていた。が、思わぬ所から情報が寄せられた。

 男性の収容された病院からだった。その病室に不審な人物が現れたのだと言う。男性の家族とは、未だ連絡が取れていなかった。近所付き合いも悪く、彼をお見舞いに来る人物は居ないはずだ。ひょっとすると、事件現場から消防へ電話を掛けてきた人物が現れたのではないだろうか。

 小松、中原巡査は急いで、男性の入院する病院へ向かった。男性は未だ面会謝絶の状態であった。そこには、もう誰も居なかった。看護師の話では、その人物は男性の病室から、ふっと抜け出して来て、屋上の方へ上がって行ったと言う。我々もその人物の足取りを追って、急いで屋上を目指した。有力な手掛かりが、得られるかも知れない。その人物が唯一、事件の真相を知る者なのだ。

 階段を上る間も、誰ともすれ違わなかった。幸い屋上へ向かうには、この階段を使うしか無いから、行き違いになる可能性も少ない。中原は屋上の重い扉を押して、人影を見つけた。我々は遂に重要な目撃者に、たどり着いたと思った。が、二人がそこで目にしたのは、意外な人物だった。屋上には、男性本人が居た。我々は目を疑った。確かにその男性は、未だ意識不明のままのはずだ。とても独りで歩き回れる状態に無い。では別人なのか。我々の前に現れたのは紛れもなく、男性と瓜二つの人物なのだ。全く見分けが付かない。ただ目の前に居る人物には、ちゃんと両腕が揃っている。もし男性なら、右腕を失っている。本当に男性では無いのか。

 小松、中原がその人物に近付き、話し掛けようとした。すると、急にその人物の様子がおかしくなった。激しく苦しみもがくような格好した。が、声一つ立てていない。二人が見ている前で、それは見る見るうちに、黒色に染まっていった。完全に黒くなると、全く影と同じになった。そればかりか、その体からは激しい黒い炎が立ち込めているふうに見えた。それが次第に業火へと変貌し、黒い体を燃え尽くす勢いなのだ。気付いたときには、影のような体は跡形も無く焼失してしまっていた。我々は、幻を見ていたのだろうか。

 その時、誰かが血相を変え、両巡査の後を追い掛けて来たように現れた。看護師だった。二人の間に、徒ならぬ緊張が走った。もしや男性の身に、何かあったのではなかろうか。看護師は、男性が病室から姿を消したと言った。いや正確には、男性の身体が焼失してしまったのではないかと言い換えた。我々がたった今、目の前で目撃した現象と同じ事が、男性の身に起こったのだと悟った。

 小松、中原は慌てて、男性の病室へ向かった。ベッドの上に、男性の姿は見えなかった。その代わり、何か衣服が燃えたような跡が残されていた。病室には物が焼けた臭気が漂っていた。男性の体は、本当に焼失してしまったのか。我々は又しても、有力な手掛かりを失ってしまった。

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