第3話 包丁 それから
早朝、先日我々が保護した女が姿を消したと通報があった。ほんの少し目を離した隙に、行方を眩ましたのだと言う。まさかと思い。小松、中原両巡査は再び丘の住宅地へパトカーを走らせた。近所の住人に教わった、女が家族と暮らすと言う青い屋根の家を目指すことにした。道は行けども行けども偉く入り組んで、なかなかその家屋は見つからなかった。既に住宅地から、随分と外れていた。辺りには鬱蒼とした森林が迫っていた。本当にこんな寂しい所に、女の住む家が在るのだろうか。まるで人の行き交った形跡が見いだせない。地図と景色とを何度も見比べながら、周囲を入念に捜索することになった。
しばらくして先頭に立って、必死に茂みを掻き分けて進んでいた中原巡査が、こちらへ向かって声を上げた。
「在りました!」
「在った?」
中原の後を懸命追っていた小松が、思わず声を明るくした。
「どこ?」
「あっ、こっちです」
中原の声と、頻りに草木を分ける音とが、茂みの中で交互に響いた。
「あっ、あれじゃないですか?」
青い屋根の家は、本当に存在した。小松巡査は、中原が指し示す所へ目を留めた。ようやく女の住む家を発見した。そこは、まさに森の要塞だった。四方を鬱蒼とした草木に囲まれ、出入り口さえ見当たらない。どこから入って行けばいいのか。本来玄関だった所が、荒廃により完全に茂みで覆われてしまったようだ。目的の家を見つけたものの、これでは近づくこともできない。まるで我々の侵入を、その家が拒んでいるふうであった。両巡査は半ば強引に藪の中を突き進んで、その家へ近づいて行った。長い間ここを訪れた者は居ないのか、人が通った痕跡が途絶えていた。家の屋根には、割れた瓦を押し退ける格好で、ぼうぼうに雑草が生え出ていた。その無残な姿は痛々しくもあり、自然の中で人工物が残酷に朽ち果てていく過程を見せつけられているようでもあった。女やその家族はこんな場所で、どうやって暮らしていたのだろう。
「Aさん、ごめん下さい」
小松が玄関口で呼び掛けるも、何の応答も無い。やはりこの家には誰も住んでいないのだろうか。何度か呼び掛けた後に、二人は家の裏手に回ることにした。そこは完全に扉が壊れて、家の中の様子まで窺える悲惨な状態であった。既に廃虚化が進んでいる。枯れ葉の腐ったむせ返るほどの臭気が辺り一面に充満し、家内の至る所で苔やカビが繁殖していた。床はゴミで散乱していて、足の踏み場も無い。そこは、人が暮らしていけるような場所とは思えない。確かに表の古びた表札には、女の家族と共に、彼女の名前が刻まれていた。が、この様子からして、それさえ疑わしくなった。
その時、二階で物音がした。
「二階?」
小松が、中原に目配せして合図を送った。中原は足を忍ばせ、そっと家から離れ、外から二階を見上げた。その窓際に白いパジャマ姿の女が見えた。すぐに、こちらに気付いたふうに姿を消した。
「二階に居る?」
「えっ、刃物持っていたの?」
「持っていた。すぐ中に入って!」
一瞬にして、二人の間に緊張が走った。
しかし、家の中は所狭しと家財道具が置かれ、その廊下や部屋は迷路のようだった。あっちこっちへと迂回させられ、思いの外先へ進みにくい。二人は女が姿を現した二階へ向かうため、階段の上り口を目指していた。ところが、幾ら探してもその階段が見当たらなかった。外光が遮られた暗い室内には、家具やゴミが散乱し、中は複雑に入り組んでいて、方角すら見失ってしまいそうだった。小松は一度、外に出てみることにした。同じ所を何度も回っている気がした。
「在った。在りました!」
家内で、中原の声がした。小松は慌てて中へ飛び込んだ。階段がようやく見つかった。
「どこ?」
「こっちです。ここです」
「ここ? えっ、ここが階段なの?」
不思議な構造だった。部屋の隅にある押し入れの中へ、隠されるように階段の上り口が姿を覗かせた。その押し入れも、ちょうど扉が古い箪笥の真後ろにあって、完全に塞がれる格好になっていた。そこは随分と昔の建築様式で、まるで梯子を這い上がるように、木造の狭い階段が急な傾斜を作り、一歩一歩足を運ぶたびに、ぎーぎーと不気味に軋んだ。
何とか無事に階段を上り終えた小松は、二階の有様を目の当たりにして、思わず眉を顰めた。二階は一階に負けず劣らず、荒れ放題だった。足の踏み場が無い。天井や壁が見えなければ、そこはただのゴミ置き場と何ら変わらない。これだけのゴミを溜め込むだけでも、相当な苦労を要するだろう。が、驚いてばかり居るわけにもいかない。両巡査は、女が現れた二階の窓際へ急いだ。
廃虚の窓辺に見えるカーテンが風に翻るのを、幽霊だと錯覚すると言う話があるが、まさにその様な光景だった。ぼろぼろに裂けた薄汚れたカーテンが、辛うじて窓の端にぶら下がっている。それが女に見えたのだと言われれば、現状からして返す言葉も見つからない。二階には誰も居なかった。確かに窓際に女の姿を見たはずだった。その確信がもろくも崩れようとしている。本当に見間違いなのか。ここへ女は訪れていなかったのだろうか。二人がもう諦め掛けようとしたときだ。階下で人の声がした。今度は、二人にはっきりとその声が聞き取れた。
「下だ!」
小松が再び眼光を閃かせた。中原が黙って頷いた。その表情は硬く強張っていた。あるいは武者震いに近かった。
「早く下りて、下りて!」
両巡査は慌てて駆けだした。急な階段に手こずらされ、すぐには下りられないのが歯痒い。階段を下りたの同時に、女の悲鳴が辺りに響いた。
「どこからだ!」
全ての五感を研ぎ澄まし、声のする方向を見定める。家の中からなのは間違いない。が、周囲に物があふれ過ぎて、なかなか女を発見できない。とにかく一刻を争う事態だ。一通り一階を回ったが、女の姿は見つからなかった。もう戸外へ逃げ出してしまったのか。そうなると、周囲は深い森林に阻まれ、見つける手段が無い。すると、再び悲鳴が起こった。耳をつんざくほどの恐ろしい女の悲鳴だ。女は、まだ家の中に居る。どこかに身を隠しているのだ。
程なくして、ゴミに囲まれた箪笥の中から女が見つかった。箪笥の内部には、女がやったのだろうか、刃物で切り付けたようなおびただしい数の傷跡が残されていた。女はときどき人とも獣とも区別が付かない奇声を発し、錯乱状態にあった。その手には、先日と同様な刃渡り十五センチ以上の包丁が握られていた。包丁を取り上げると、ようやく女は正気を取り戻したふうに静かになった。その包丁が彼女を狂わせていたとでも言うのか。それは、どこにでも在りそうな百円の包丁であった。
その後、この女に関して不吉な話を耳にした。どこから持ち出して来るのか、何度取り上げても、女の手には包丁が握られていた。そのたびに、酷く凶暴になったと言う。そんな物を、看守の目を盗んで持ち出すことは不可能なはずだ。不審に思って、レントゲン検査を行ってみたところ、女の体内に奇妙な影が見つかった。彼女の背中からは、折れた刃物の先端らしき物が摘出された。それは随分と古い物だった。恐らく女がまだ幼い頃に、背中を突き刺して折れた物だと思われる。こんな物を体内に残していたなら、激しい痛みに耐えられないはずだ。どうして今まで、それが体の中に残されたままだったのか疑問は残る。
それ以来、女が包丁を手にすることは無くなったと言う。が、奇妙な出来事は、そこで終わらなかった。彼女の体から摘出された刃物の先端で、数名が怪我をしたらしい。偶然の事故だったかも知れないが、念のためにそれを神社に納め、供養してもらったようだ。
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