第2話「白布」

 よく友人から、お前の話にはオチがないと文句を言われる。

 結局、何なのかよく分からないと。

 だが私に言わせれば、それは全くの誤解で、そもそも眺める方向が間違っているのだ。

 私の語る話は、出来事エピソードであって、物語ストーリーではない。

 出来事とは時間と共に流れて過ぎ去るもので、いわば通り雨と同じ。それだけの事にドラマチックなオチなどあろうはずもないではないか。そんな余計な装飾は、かえって滑稽こっけいなホラ話にしかなりないだろう。

 何かがあった、それだけの事実が残れば充分なのだ。

 そう、私は考える。

 ――ともあれ。

 次の話もそんな断片のようなエピソードである。

 あれは、群馬から長野へ抜ける山道を歩いている時の事だった。

 私が行方不明の義姉あねを探し求めて数年が経過した頃で、歩き旅にもだいぶれ始めていた。

 軽井沢などの避暑地や観光地も近い事から、道はけわしいと言うほどではないが、それでもまわりは民家もない深い山の中で、人とすれ違う事は滅多になかった。

 少しばかり道をはぐれて、細い枝道へ迷い込んでしまった時の事である。ちょっとした不注意で、うっかり地図を見誤みあやまってしまった。

 道の左側は谷で、下には細い川が流れ、反対の右側には、急な斜面が遥か上の方まで続き、見渡す限りみっちりと竹林たけばやしが広がっていた。

 なかなか風情のある場所だなとは思ったが、のんびりとはしていられない。土地勘とちかんもない不慣ふなれな山中だし、熊やいのししにでも出くわしたら大変だ。陽が暮れる前に早く本道にもどらねばまずかろうと、さすがの私も少しあせり始めていた。

 そんな時――。

 不意に何かの気配を背後に感じた私は、思わず立ち止まった。

 背中に強い視線を感じる。

 恐る恐る振り返ると、しかし山林の中に曲がりくねった一本道が伸びるばかりで、特に何者の姿も見当たらなかった。

 多少、風で木々がざわめいているくらいだ。

 気のせいかしらと思い直して、再び歩き始めるのだが、しばらくすると、また何かの気配を後ろに感じる。だが、立ち止まって見てみると、やはり音も姿もないのである。

 ただ、少し獣臭いなと思った。

たぬきやムジナだろうか?)

 そう言えば、来る途中に立ち寄った食事処の女中が、この辺りでは昔、ムジナのたぐいがよく現れたのだと言っていた。旅人が通ると、人をかして悪さをするから、暗くならぬうちに山を越えて、先の村落へ抜けた方がいいと。

 そんな民話のような話、今時あるわけがないと、話半分に聞いていたのだが、あるいは、私がこうして迷ってしまったのも、そう言う不条理な力が働いたのではと、少しゾッとなった。

 だが私も現代っ子だ。

 その程度でひるむほど、迷信深くはない。

 気を取り直し、本道へ戻る道を探して歩き始めると、今度は明らかに竹藪たけやぶの方でガサリと音がした。

 どうやら何かがいるのは確かなようだ。

 一番怖いのは、やはり熊だろう。

 近年は、山中で熊に襲われるケースも少なくない。

 こんな逃げ場のない林道で熊に出会ったら、完全に終わりだ。熊に遭遇するくらいなら、物のかされた方が、むしろマシかも知れない。

(どうか熊ではありませんように)

 必死にそう祈った。

 息を殺して動きを止め、ゆっくりと竹林の中の様子をうかがう。

 どれくらいそうしていたのか定かではないが、取りえず熊が現れる事はなく、それらしい姿も見えなかった。

 ひとまず安堵あんどの息をく。

 しかし油断は出来ない。

 私は注意深く周囲を観察しながら、出来るだけ先を急ぐ事にした。誰かが車で通りかかってくれたらありがたいのだが、残念ながらそう言う様子は全くなく、空は陽が暮れ、すでに暗くなり始めていた。

 しかも遠くで雷鳴まで聞こえるではないか。

 風も急に強くなって、嵐でも来そうな気配だ。

 全く悪い事と言うのは重なるものである。

(これで雨でも降ったら最悪だ)

 そう考えた途端に雨が降り始めた。

 それも並みの雨ではない。バケツを引っくり返したような雨とは、こんな雨を言うのだなと思うくらい、見事な土砂降どしゃぶり。

 あまりの豪雨のために行く手すら見えない。

 雨具を用意する間もなく、私は全身ズブれになって、山中を彷徨さまよう羽目になった。未舗装の地面は踏むそばからドロドロ崩れ、雑草が風雨で倒されて、道が全く分からない。

 私は少し落ち着こうと深呼吸をり返した。

 あせったら危ない。

 何しろ左側は直ぐ谷だ。

 高さも傾斜もそれほどはないし、草木もしげっているので、落ちただけでは命に別状はないだろう。しかしその下の川は、この雨で増水しているだろうし、流れも早くなっているに違いない。

 見た目は浅そうな川ではあるが、実際はどれほどの水深なのか不明だ。万が一にも落ちたら、流されておぼれてしまう危険はある。

 用心するに越した事はないだろう。

(それはそれとして――)

 こんな状況の中でも、何故か竹林が気になった。

 視界のはしに見える竹林に、先ほどからチラチラと何かが見えていたのだ。ぬかるむ足元に意識を集中していたので、最初はハッキリと分からなかったが、ずっと白っぽい大きなぬのらしき物体が、ヒラヒラとはためいて見えていた。

 気になったのは、その動き。

 吹き荒ぶ暴風にあおられてはためくと言うより、何か自然現象とは別の法則で動いているように見えた。

 そこだけスローモーションがかかっているみたいで、とても緩慢かんまんでゆっくりとした動作だったのだ。

 これだけの豪雨をともなった強風の中で、あんなにゆるやかに動くなんて、どうにも奇妙に思える。

 私は白い布の事が、どんどん気になり始めていた。

 半ば谷の方へ足を取られかけている状況で、そんな余計なものを気にしている場合ではないのだが、何故だかとても気になる。足元に集中していた視線も、無意識のうちに少しずつ竹林へ向けられて行った。

 まるで正体不明のあらががたい強い力が、私の自律神経を乗っ取って、コントロールしているかのようだ。

 ついには好奇心に逆らえず、思わず首ごとそちらを向いてしまった。

 その途端、案の定、危惧きぐしていた通りの最悪な事態が起こった。谷の傾斜に足を滑らせて、ズルリと見事に転落してしまったのだ。

 私は正直、もう駄目だと思った。

 このまま斜面を転がって、増水した川の濁流だくりゅうまれて死ぬのだと。

 だが、思った瞬間、世界がとどこおった。

 あたかもスロー再生されたコマ送り動画のように、視界に映る全ての景色が、一瞬にしてゆっくり流れ始めたのである。

 おそらく死の恐怖で興奮し、視覚神経が一時的に活発になったのだろう。

 顔にたたきつける風雨の雨粒まで、ハッキリと認識する事が出来た。

 そして、転落と同時にゆるやかに遠ざかって行く、前方の景色の中、私は確かにそれを見たのだ。

 それはおどっていた。

 白い布。

 いや――布ではない。

 女だ。

 地肌に白い着物を羽織はおった女が、竹林の中で踊っている。着物だけでなく、女自体も真っ白だ。顔も身体も、長い髪の毛も、全てが雪のように白かった。

 皮白症アルビノよりも更に真っ白い肌だった。

 ただ――目だけが黒い。

 瞳だけではなく、眼孔がんこうそのものが、深い穴のように真っ黒だ。

 その黒い目が、落ち行く私をじぃっと見つめ、何か呪文のような言葉をさかんにささやき続けていた。

 女は、不意に私に向けて手を伸ばした。

 私もつられ、反射的に女へ手を伸ばす。

 白く長い手が、私の手首を強くつかんだ。

 死人のように冷たい手だった。

 ゾクッとした。

(……怖い。とても怖い。どう見てもあれは人間には見えない。怖くて仕方がないが、しかし彼女のこの白い手を振り払ったりしたら、私は川に落ちてどこまでも流されてしまう。私は死にたくない。おぼれて死ぬのは、白い女より尚怖い。誰も知らないところで一人で死にたくない)

 ――そう、ほんの一瞬で目まぐるしく思考がまわる。

 思考の回転と同時に風景も回り始めて、やがてグルグルと渦巻きの中にいた。グルグル渦巻きの中で、私は白い彼女とグルグル踊っていた。グルグル踊って、いつしか一つに溶け合った。

 耳にかすかに歌声が残っている。

 回れよ回れ――と彼女は歌う。


  回れよ回れ 雨風あめかぜ回れ

  雨風回って 草木よ踊れ

  草木よ踊って 目を回せ

  グルグルお前よ 目を回せ 


 変な歌だった。

 朦朧もうろうとした意識で、確かに聴いた。

 聴いた事のない女の声色に、私は得も言われぬ愉悦ゆえつのようなものを感じて、半ば失神しかけていた。

 まるで万華鏡のような歌声だった。

 それきり、私の記憶は残っていない。

 再び我に返ると、広い国道に立っていた。

 すでに雨も風も止んでいて、空には満月が輝いている。

 時刻は分からなかったが、おそらく真夜中のようだ。

 今起こった事が現実なのか、夢なのか、直ぐには判断出来ず、私はしばらく夜風に当たりながら、ぼうっとしていた。

 ――あれから二十年が経つ。

 今でも私は時折、その界隈かいわいへ訪れると、あの竹林のある枝道を探してみるのだが、もう二度と迷い込む事はなかった。


(おしまい)

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