短い話

こもり匣

第1話「指環」

 それは旅の途中、とある山深い村落の宿場にまった時の話だ。

 その宿場は、ち果てる寸前の古民家に若干じゃっかん手を加えて、そのまま利用したとおぼしき古びた木造の安宿やすやどで、どの部屋も簡素で部屋数もそれほど多くなかった。

 案内された部屋の扉を開けると、中は畳部屋ではなく、六畳ほどの広さの板間で、板の上に厚めの茣蓙ござが直接敷いてあるのみ。正面奥の壁面には飾り気のない四角い木枠きわくの窓があって、窓の外には遠くまで続く山並みと、森や桑畑などの田舎風景が広がっていた。

 窓の手前には、アンティークな木製の机が一脚いっきゃくある。これと言って高価そうな物ではないが、色や形に雰囲気があって、あしのフォルムにも独特の品の良さがあった。

 卓上には、これもまたレトロなシェードつきの西洋ランプが置かれていて、気紛きまぐれに引き出しも開けて探ってみたが、残念ながら中は空っぽで、好奇心を満たすような品物は何もなかった。

 他にする事もなく、景色でも眺めてやろうかと窓に近づくと、どこかでコロンと小さな音がした。

 どうやら床の上の何かを飛ばしたらしい。

 見ると緑色の石のまった指環ゆびわが一つ、足元の直ぐそばに転がっている。

 何気なくひろって見てみると、リングの部分は金細工きんざいくのようだが、石は本物の宝石ではなく、おそらく安物の模造品イミテーションだろうと思われた。きっと前の客の忘れ物か、あるいは宿の中居でも作業中に落としたのかも知れない。

 とは言え宿泊部屋は二階で、わざわざ一階の受付まで届けに行くのも面倒だし、気にするほど高価な代物でもなさそうだったので、中居でも部屋へ顔を出したら渡せばいいだろうと、取りえず机の引き出しを開けて、拾った指環を放り込んだ。

 けれども、楽しみにしていたひのきの温泉浴場に入ったり、安宿のわりに豪勢な食事や美味い地酒に至福のひと時を味わったりしているうち、指環の事など直ぐに忘れて、長旅の疲れと酔いも加わり、気づけば布団にもぐり込んでグッスリ熟睡していたのであった。

 そうして真夜中の事――。

 何とも言えない奇妙な寝苦しさに目を覚ました。

 暑いわけでも寒いわけでもないのだが、何故だか空気がとても不快で、全身に悪寒のような嫌な感覚と震えがあった。身体もひどくだるくて、寝返りを打つ事さえ辛い。

 ただっと、正体不明の苦悶くもんえていると――。

 不意に「カタン、カタカタ」と音がした。

 音は窓の方から聞こえるようで、そうっと布団から首を伸ばしてのぞいてみると、暗闇の中で何かが動いていた。

 最初は真っ暗で何だか分からなかったが、次第に雲間から月が現れ、わずかな月光に照らされて、その奇妙なものの輪郭りんかくが見えた。

 それは巨大な蜘蛛くもあしにも似た幾本いくほんもの細いくだのような物体で、窓際の机の引き出しから伸びているようだった。カタカタと言う音は、おそらく引き出しの開いた音だったのだ。

 目にした途端に身体からだが金縛りにあって、どうにもこうにも一切身動き出来なくなった。恐ろしさと好奇心の相まった複雑な気持ちで、目の前の異形いぎょうをひたすら凝視していると、やがってシュッと何かをる音がして、部屋の中が急に明るくなった。

 ――ランプだ。

 異形の物体が、西洋ランプに灯を点したらしい。

 そのほのかな明かりの中ではっきり見えたのは、引き出しから現れた奇怪な物のの正体だった。

 それは「腕」である。

 死人のような青白くて異様に細長い複数の腕が、引き出しの虚空から草のように生えだし、天井に向かって伸びている。

 あるのは腕ばかりで、頭も胴も脚もない。

 気を失いかけながらも、持ち前の強い好奇心で、どうにか踏ん張って観察し続けていると、一本の腕が、何か小さなものをつかんで、月に照らすように高くかかげた。

 見れば、あの指環ではないか。

 緑色の石が、ランプの光に輝いている。

 指環に気づいた瞬間、耳元で誰かがボソボソささやいた。

 何を言われたのかは、ほとんど覚えていない。何故ならば、その直後、完全に気を失ってしまったからだ。ただ、消え入るような弱々しい女の声で、形見かたみがどうのと言っていたように思う。

 目覚めた時にはもうすっかり朝で、部屋の中は、窓から差し込む朝日に明るく照らされていた。

 ランプの灯も消され、引き出しも閉じている。

 怪異の痕跡こんせきは一つも残されていなかった。

 起きてから、あの指環を探してみたのだが、不思議な事に床にも引き出しの中にも、部屋中どこにも見当たらない。

 あきらめて荷物をまとめていると、昨日部屋へ案内してくれた中年の中居が再びやって来て「ゆっくりお休みになられましたか?」と、笑顔で声をかけて来た。よほど深夜の恐ろしい体験を聞かせてやろうかとも思ったのだが、考え直して何も言わずにそのまま宿場を後にした。

 数年後、再び村落を通りかかると、あの宿はすでに営業しておらず、くずれかけた屋敷の廃墟はいきょだけが、たけの高い草叢くさむらに囲まれて、あたかも黒いみのようにたたずんんでいるのだった。


(おしまい)

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