地の文で説明などしちゃいけないんです。
例題の文体は、Web小説では御馴染みの『説明的地の文』多用の形式です。
一般文芸文学に馴染んだ読者が、なぜ説明的地の文を受け付けないかというと、楽しみを奪われてしまうからなんです。そりゃ、説明してしまう方が語る側は手っ取り早くていいでしょうが、読者にしたら押し付けがましいし、ウザいです。
例題では地の文で、敵対側の代表を端的に解説してしまってますが、これは読者が自分で発見した方が楽しいと感じる部分です。台詞や行動などから「こいつって、もしかしてこういう奴?」と思いながら読み進めていくと、果たしてそれを裏付けるかのような事件を引き起こすのを見て、「やっぱりね、」と溜飲を下げるわけで、それが一般文芸文学を読む際の大きな魅力なわけです。一般の読者にとっての読書体験とはそれなのですね。読者が自身で発見する。
説明的地の文は、これを削いでしまっている形式です。
《例題から抜粋》
コイツ……!
解かっててやってやがる、自分が何をしてるか、解かって扇動して……、なんて性格の悪い野郎だ。
そうだそうだ、とか、無責任なヤジが飛び始める。お前ら、何を言われたか、解かってねぇだろ。
異常事態に人々の冷静さが失われているとはいえ、あまりにも短絡だ。一部に過激分子が居るんだろうが。
だったら、良識派が押しのけられて沈黙しているなら、この状態も頷ける。後ろの方の連中は、申し訳なさそうな顔で俯いてる。扇動に乗る連中なんてのは、単純思考の奴等と相場は決まってる、か。くそったれ。
《ここまで》
何度も読み返してしまうと、最初に受けた違和感を失ってしまって問題の箇所を見つけ辛くなってしまうんですが、このページだとここが大きく説明調になっていまして、これが文学文芸読みには耐え難い不快な表現なのですね。
ちょうどお節介な母親あたりが横からゴチャゴチャ口を挟んでくるような、そんな感覚を読者に与えてしまうんです。だからWeb小説というのは、読者が完全に主人公と一体に感じられる一人称が多いのではないかと思うくらい。
そうでないと、三人称でそれをやられたら、面白いどころの話じゃなくなりますからねぇ。
三人称は二つの視点が存在してしまい、読者は主人公を重ねれば俯瞰して見ているもう一つの視点が、俯瞰の視点に自身を重ねれば主人公の独白が、という具合でどっちに転んでも「説明の地の文がウザい」という事に気付かざるを得なくなります。
私も自身の原稿を精査する時、推敲する時には、Webのあの独特の感覚に流されないように、間に何冊か市販の小説作品を挟むようにしています。
京極作品とか、島田作品とか、出来れば有名どころを挟むことで感覚のリセットをして、一般人の感覚を取り戻すようにしているんですが。
Web小説が読書の中心にある人は、この感覚が鈍っているわけです。だからなぜこれが悪いのかが解からないわけです。けれど、逆にWeb小説に馴染みのない読者はまずこの違和感を克服する事から始めねばならないから敷居が高くなるってことで、しかもこの違和感はせっかく克服しても、私がやってるように一般小説を読めばすぐリセットされる性質のものなのが問題なのですよね。
こういう事もあって、私は、Web小説もどんどん一般小説の形式に近づいていき、今ある説明文体というものは一過性であろう、と感じている次第です。
ギャル文字が生まれたのと同じ流れじゃないかなーと思ってます。
そして一時の流行で終わる。
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