第16話 プロスポーツの闇世界

ビル・ラッセルの告白の地味な話には、非常に驚かされました。ビル・ラッセルはとんでもない事で悩んでいました。プロの世界ではよくある事かしれませんが、ケビンにとっては「空いた口が塞がらない」話でした。ビル・ラッセルとほぼ同じ年のチームメートにK.C. Jones(ケーシー・ジョーンズ)という選手がいました。ケーシーはビル・ラッセルにとっては無二の親友で有り、メルボルンのオリンピックで一緒に金メダルを撮った朋友でした。ケーシーは父親が同じ発音のCasey(ケーシー)という名で息子に同じ名前にしようとしたのですが、法的には綴りを変えるかJunior(ジュニア)を付けるしかなく「K.C.」、と付けたという事です。

ケーシー・ジョーンズの家庭は決して裕福ではなく、特に子供の頃は貧さに耐える事ばかりの「栄養失調気味」の子供でした。特に彼が9歳を迎え両親が離婚した時は、彼の人生で最悪といっていい頃でした。人種差別に絶え、火災用の放水バルブの水を飲み、ゴミ箱を漁って生きた少年時代でした。しかし、頑張り抜いて素晴らしいアスリートに成長したそうです。ビル・ラッセルとはサンフランシスコ大学で一緒になり二人でチームをNCAA(全米のカレッジのバスケット協会)の優勝まで導きました。二人の関係は兄弟以上に密接だ、と言われていました。さらに、ケーシーはセルティックスに入団する年には、何とNFLのロサンジェルスRams(ラムズ)指名を受ける位にアメリカンフットボールでも有能な選手でした。(実際は、不幸にも練習中に足に大怪我をしてしまい、プロのアメリカンフットボール選手と云う選択は諦めざるを得ませんでした。)しかし、セルティックス二は、ビル・ラッセルもいましたし、185cmと云う小さな選手でしたが、チャレンジ精神の強いケーシーにとってはバスケットボールも、とても魅力のあるスポーツと云う事でセルティックスに入団したのでした。二人は初年度から大活躍し、ボストンには欠かせない選手となっていました。新聞紙の記者もテレビのコメンテーターも二人の身長差をもじって凸凹(デコボコ)コンビと称して大々的に報道していました。

ビルはそんな朋友のケーシーについて悩んでいたのです。ビルはケーシーの不幸な少年時代の事を聞いていましたし、もう少し栄養が行き届いていれば成長をしてバスケットでは重要な身長ももっと伸びていた筈なのです。ビル自身よりもっと優れたバスケットボール選手になっていた筈です。やっと、プロのアスレーツになって金銭的には食うに困らない生活が出来る状態になった今、不幸が続いていたのです。初めは若くして結婚していた奥さんが交通事故にあい、命には別条なかったものの入院や手術費が大きくケーシーにのしかかっていたのでした。それに、実の弟が薬物で廃人同様になっていたので更正設備に入っていました。父のいない家族ではみんながケーシーを頼り、やっと抜け出せたと思っていた地獄に逆戻り状態だったのです。さらに、ケーシーはギャンブルに手を出し、「ローンシャーク」、と呼ばれる取立屋の訪問を毎晩のように受けていたのです。取立屋はその筋のプロです。プロのバスケットボール選手には大金がうごく事をよく知っています。ケーシーはビルには話していましたが、コーチや他の選手には話していなかったのです。ビルは金を貸す事を申し出ましたが、ケーシーはガンとして受け取らないのです。彼は、精神的に落ち込んでいたのです。


そんなある日の日に、ケーシーはビルと試合で頑張っていた時にビル・シャーマンとボブ・クージーとの間でちょっとした揉め事が発生しました。明らかにフリーの位置にいた二人にはボールをパスせずビル・ラッセルにしかパスをしない、と誤解が生じたのでした。これは、完全な誤解でしたがまわりの選手や監督、コーチにかなり強く起こられていました。ボブ・クージーと仲がよかったレポーターがこれを聞きつけ、ケーシーの周辺を調査し、暴力団の取立屋とケーシーが関係している事を突き止めた様なのです。さらに、この記者は、「セルティックスの八百長疑惑」、と云う推測を記事にしようしていると云うのです。そんな記事が表に出れば、まさにケーシーはバスケットボールすら出来ない本当の地獄に落ちてしまいます。ビルはそれで悩んでいたのです。ビル自身も人種の見えない影に落ち込んで行く様にも思っていましたし、ビルも「ニガー」、と云う差別用語に敏感になり、彼自身も殴り合いの喧嘩をしていたのです。ビルはケネディー時期大統領との約束の事も有ります。


ケビンは相談に乗ってくれたビルへの協力を惜しむつもりは有りませんが、若いルーキーに「何が出来るのか」が分かりませんでした。それから、一週間ほど経ったある日の試合前の練習に、観客席にジョージ・マイカンさんが座っているのを、チームメートが見つけました。マイカンさんはプロになりたてのケビンに会いに来たのです。観客席に駆け寄って挨拶するケビンをチームメート全員が見ていました。ケビンは練習中である為、一言二言話しただけでしたが、それだけでもチームメートはみんな、どんぐり目をしていました。マイカンさんはマイカンルール (ペイントエリアと呼ばれるゴール下はペイントされており、そのペイント内には3秒しかいてはならないルールが有り、あまりにも得点を重ねるマイカンさんをゴールから遠ざける為に生まれたルール)で有名でしたし、丁度、いまプレイをしている選手の殆どがマイカンさんのプレーを見て育ったので、やはり羨望の的の選手だったのです。それに、1949年から1954年の間の6年間で5度のファイナルを勝ち進んだミネソタ・レーカーズの黄金期を築き上げた有名な選手ですから知らない人はいない位でした。あだ名は「Mr. Basketball」、と呼ばれ、いかにマイカンさんがすごい選手だったかを物語っています。


試合のあとロッカールームにマイカンさんが現れ、ケビンは夕食を食べる約束をしました。通常、関係者以外は絶対に入れない事になっていましたが、多分、マイカンを止める勇気のある警備員は居なかったのでしょう。特に、3連覇がかかっていたその年のセルティックスでは特に警備が厳しかったのですが、マイカンさんには「No」、と言える関係者はいないでしょう。


マイカンさんがケビンを訪ねて来たのには、実は理由が有りました。1958年にゼネラルマネージャーの要請でロサンジェルス・レーカーズに戻り、1957-58シーズン途中からレーカーズのヘッドコーチに就任していましたが、成功せず、マイカンさんはシーズン終了後に解任されていました。その後は法律の仕事に専念し、不動産法関連の会社で成功を収め、6人の子供の父親はようやく経済的安定を取り戻した。その直後にNBAからの要請で倫理委員会の手助けをしていた時に、ケーシーの八百長疑惑を知り、丁度、ケビンがいるチームであったので、「様子を伺いに」ボストンに来ていたのでした。食事中にその話を聞かれた時に、ビルから聞かされていたケーシーの話をケビンはマイカンさんに報告しました。ケーシーは、借金があるものの、八百長はしていないと云うビルの話をしたのです。マイカン氏は、その話を信じてくれ、翌日、倫理委員会の人間としてビル・ラッセル、ボブ・クージー、そしてケーシー・ジョーンズを始め、多くのセルティックス選手にインタビューを行い、八百長疑惑を完全に否定する声明を発表しました。また、その発表に「黒人問題が起因した誤解から発生した問題」、という内容を加えました。さらに、マイカンさんはコート内で「ニガー」などの差別用語を使用した選手は即刻退場と云う、厳しいルールの採用をNBAに提案しました。今や、黒人抜きではNBAは成り立ちませんし、プロのスポーツの世界とはいえ子供たちのあこがれの存在、つまりヒーローでなければならない選手が差別用語を使うことは許される事ではありません。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る