第13話 プロへの道

チャールズ・オズボーンヘッドコーチとケビンはオハイオ州立大学のバスケットボールチームを全米のトップレベルまで引き上げました。万年弱輩チームであったバッカイズ (バッカイは、オハイオ州の州木である栃の木の実)はビッグテンコンファレンスで優勝争いに食い込めるようになりました。エイドリアンじいさんとの約束は立派に果たしました。それどころか、大学の全米選手権に挑戦する実力がありました。マイカンさんは引退していましたが、ビルのオーナーなどをする実業家の仕事の片手間に、ミネソタのレーカーズのコンサルタントの仕事をこなしていました。時々、ミネソタ州とイリノイ州との直線距離からは外れるのですが、「友人」、としてオハイオまで訪ねてくれました。オズボーンヘッドコーチとは勿論、すぐに打ち解け、マイカンさんを歓待しました。特に、バッカイズのセンターの動きを教えたり、チームストラテジー(チーム戦略)を教えたり、チームでは勿論、もろ手を挙げて歓迎しました。なんといっても、あのスーパースターのジョージ・マイカンさんですから。地元新聞やテレビもケビンとマイカン氏の関係を報じたり、「今のバッカイズを強くしたのはオズボーンヘッドコーチとマイカン氏だ」と、報じたりしました。


試合のない週末には、ミミが来ることもありました。チームメートもバッカイズ・バスケットボール関係者もミミの存在は知っていましたし、あの有名なサトとの話も有名で、サトの妹だ、と言うこともみんなが知っていました。しかし、二人はよく手紙を書きました。とにかく、ペンをいつも持ち歩いて、レストランのナプキンや紙製のテーブルマットの裏にも思いついたら二人とも手紙を書きました。大概、送られてくる手紙は分厚く何が入っているか不明でした。時にはトイレットペーパーさえありました。書いている内容は他愛のないものですが、高い電話代を払わなくても、十分に会話できました。ケビンもミミの生活が手に取るようにわかりましたし、彼女の日々の生活を理解するのに十分な情報量でした。ミミの友達や近所の人のことは一通り知っていましたし、ミミが進学した地元のノースウェスタン(シカゴ)での生活も理解していました。勿論若い二人のことですから会いたくてしようがありませんが、スポーツと勉学に必死のケビンにも、自宅通いのミミにもアルバイトもできないため、あまり会うためや電話で使うお金はありませんでした。だから、メモ作戦となったわけです。現在では携帯電話で話したりEメールで即座に質問の答えが得られますが、その当時は配達される手紙には「心待ちにする」、と云う興奮刺激剤が加わると内容が数段重くなるのでした。


ケビンが21歳の時に、ミミは19歳になっていました。1961年のことです。ケビンは進路を決めるときとなっていました。最近のケビンのメモには、進路ことについて書かれていました。大学時代は勉強とバスケットボールであっという間に過ぎました。しかし、これから、ケビンは本当の決断をしなければなりません。何の仕事をするか、と言うことを決めなくてはならないのです。幸い全米のプロバスケットボールチームからの誘いもあれば、スポーツ学科のある大学への講師としての仕事もありました。勿論、オハイオ州立大学に残り、博士号を取得することも可能です。プロになるのであればマイカンさんの意見を聞くこともできます。進路は十分に豊富です。誰でもいつかは通過する未来に対する不安と、どんな仕事ができるか…という期待で一杯でした。不安も大いにあります。プロバスケットの世界では、もう楽しんでバスケットボールをプレーすることが少なくなるでしょうし、怪我をすればプロ生命は終わりです。スポーツ学科の道を選ぶと言うことは、どこかの学校でバスケットボールに限らずクラブの選手の面倒を見ることになるでしょう。もしそれがいやになったらどうしよう。不安ばかりが募ります。エイドリアンじいさんにも相談しようとも思いましたが、母さんのクリスティーナも含めて「自分の好きなようにしなさい」、と言うに決まっています。


そんなある日、ボストンのセルティックスのスカウトが訪ねてきました。ボストンのセルティックスと言えば、以前、ハイスクール全国大会の決勝戦でボストン・ガーデン(正式名称はバンクノース・ガーデン)で戦った記憶がある、ボストンのホームチームです。しかも、エイドリアンじいさんがシャムロック・スターの名付け親でボストンのロゴはこのシャムロックであることから、エイドリアンじいさんが好きなチームでした。ビル・ラッセルという若い選手やボブ・クージーと言う選手が活躍していました。


特に、ビル・ラッセル選手はマイカンさんが引退した頃に鳴り物入りで入団した選手です。ラッセルはメルボルンのオリンピックでアメリカのチームを優勝に導いていたので、「金メダルを引っさげて」の入団でした。208cm、102kgと云う体型でルイジアナ州モンロー出身の黒人選手でした。ポジションはセンターで相手のシュートをブロックする事が非常に上手でした。シュートブロックとは相手が放ったシュートを空中で叩き落とす事で、ラッセルはその叩き落としたボールを味方へのパスにできる選手でした。このプレーをするには、叩き落とす強さ、角度が分かっていなければなりませんし、味方の位置も理解していなければなりません。しかも、咄嗟の判断で行わなくてはならないのですから、難しいのです。10人の選手が激しく、入り乱れて動き回るバスケットボールのゲームでは敵味方の選手の位置を常に「目」で追っている事は、普通の人には無理です。よく「頭の後ろに目がある」、と言う表現を使いますが、ラッセルは天性の能力の持ち主の様でした。よく「芸術の域まで高めたブロック」、と言う表現を新聞などで使っていました。


さらに、このビル・ラッセルと言う選手はリバウンドからの得点を含めシュートポイントを量産する選手です。オリンピックではラッセルの得点力で金メダルを手に入れた様なものです。しかし、セルティックスでは得点力のあるビル・シャーマン、ジョン・ハブリチェック、トム・ハインゾーンと言う得点力のある選手がいましたのでラッセルの主な役目はディフェンスでした。いずれにしても人気を一身に集める選手で、アシストが抜群のボブ・クージーと共にセルティクスを代表する選手でした。ただ、マイカンさんの「裏情報」によるとラッセルは気が弱く、時には重要な試合の前にはよくトイレでもどすそうです。また、まだまだ人種差別があった時代ですので、黒人の彼には罵声も多く、チーム内でも「ニガー」、と言う軽蔑の発言もあった様です。そんな時、ラッセルは間髪を入れず飛びかかって殴り合いとなりました。観客には手をだしませんでしたが、ロッカールームではモメ事も多かった様です。チームプレーを要求されるバスケットボールでは問題でした。

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