第5話 サトとの絆

サトは日系アメリカ人でサト自身はアメリカ生まれのシカゴ育ちで日本語の方がむしろたどたどしいと言っていました。1924年に合衆国移民法(排日移民法)により日本人の移民が全面的に禁止される直前の1923年に彼の両親は移民しています。したがってサトは二世になります。サトが生まれたときに太平洋戦争が勃発し、彼らは両親ともアーカンソー州ジェロームの日本人強制収容所と送られ大変つらい思いをしたと聞いています。もちろん、サトは何も覚えていませんが、両親はいまだに涙ながらの苦労話をするそうです。サトは、自分では120%アメリカ人だと思っていますので、ケビンと何も違いはありません。アジア系としては珍しくサトは190cmを越す男でしたが、リング下でのシュートがうそのように下手で、その代わりすばやい動きやロングシュートが上手なため、ポイントガードやシューティングガードをしていました。チームはサトのことを「ビッグハナ」、と呼んでいました。もちろん、ケビンに付けられたあだ名は「ビッグマック」。です。


そんな二人の絆が決定的な出来事が起こります。それは二人がミドルスクール最後のアマチュア・バスケットボール協会主催の全国大会に出場したときでした。インターステートの大会では順調に勝ち進みイリノイ州の代表にはなることができました。全国大会が後、一ヶ月に迫ったときにサトが急に練習中に倒れました。病院の検査の結果、急性白血病と診断されました。そういえば、最近サトは体重が減少し、風邪だと思っていたのですが発熱したり、寝汗などがひどいと言う症状が出ていたりしたそうです。決定的だったのは急に体力がなくなっていた事です。最初の病院では原因がわからず、そのまま練習を続けていたのですが、急に倒れこんだのでした。その当時、白血病は不治の病(今でも同じですが、まだ骨髄移植やより効果的な投薬技術が発達しています。)とされ、本人はもとより、家族がつらい生活を余儀なくされました。ケビンやチームメートとサンダーのヘッドコーチのアラン・ハミルトンは練習後、深夜まで話し合いました。サンダースコーチは「みんなつらいのは判る。私も同じ気持ちだ。サトはもうバスケットボールを触ることはないだろうし、たぶん寝たきりになるだろう。もうすでに強い薬を飲み始めているから、これから、どんどんやせて、毛も抜けるだろう。しかし、君たちにはサトが大好きなバスケットボールをプレーできる健康な身体を持っている。サトが彼の病気のせいでチームが乱れたと、本人が知ったらどう思う?俺がサトなら、君たちに全国大会で活躍してほしいと思うな。いや、彼のためにもベストを尽くすのがサトのためじゃないかな?サトの抜けた穴は大きい。しかし君たちががんばる事が、ある意味では最大かつ最良の薬になるのだと思う」。この言葉で選手全員が目を腫らしながら誓いました。絶対に勝つと。


優勝候補は、残念ながらサンダーではありませんでした。カリフォルニア州、ニューヨーク州、フロリダ州のそれぞれの選出チームが有力視されていました。確かにケビンは全米で注目されていましたが、チームとしての評価はそれほどでもなかったのです。今年の大会はマサチューセッツ州ボストンで行われます。大学や高校のコートで予選が行われ、決勝戦のみ会場はボストン・セルティックスのホームコートのボストン・ガーデン(正式名称はバンクノース・ガーデン)で開催されます。チーム移動で飛行機に乗ったのは全員の選手が初めてでした。それまでのシカゴの空港であったミッドウェー空港に変わって、新築の巨大オヘア国際空港がシカゴの空の玄関として変わったので、学校集合の後、バスでオヘア空港まで移動しました。とにかく大きな空港(今でもダラスの空港に継ぐ世界第二の大きさで最も離着陸の多い空港)で選手たちはダグラスC-54スカイマスターのプロペラ機に乗り込みました。当時は、ジェット旅客機が飛び始める直前で、プロペラ機では途中2度の給油で離着陸しなければなりませんでした。旅客機がちょうど庶民が利用できる乗り物になってきたこともあり、その年から始めてアマチュア・バスケットボール協会主催の全国大会に飛行機移動が認められた年でした。それまでは、バス移動で東西の移動には一昼夜かけなければならなかった事を考えると夢のような速さの移動でした。


ボストンのローガン空港には日も落ちた午後7時でした。選手は疲れていましたが初めての飛行機の経験と明日から始まる大会に興奮していました。宿舎は古いYMCAで居心地はホテルとは比べられませんが、そのせいでじっくり寝られた選手はいませんでした。みんなは「サトのために」を心にじっとベッドの上で夜が明けるのを待っていました。いよいよ、明日から負けると終わるトーナメント方式の大会です。全米から32チームが集まるはずです。優勝までは5試合連続で勝たなければなりません。初日は一試合だけですが、日によっては2試合ずつ、と言うハードなスケジュールでした。


初戦は、ワイオミング州のジャガーズというチームで背の高い選手の多いチームで正確なシュートでリバウンド争いが、強いチームでしたが細身で背の高い選手が多いので、バウンドパスを多用したローリング作戦で相手を翻弄しました。20点の差をつけて楽勝でした。第二試合はミネソタ州のキングスと言うチームでマイカンさんのホームのチームです。このチームはサンダーと似たチームで、パスを多用し、パスによってリズムを作ってくるチームです。同じタイプの2チームが対戦するとよく「縺れる(もつれる)」、と、よく言われますが、案の定、接戦となりました。相手チームに3ポイントシュウターがいて、ガードが甘いと一気に離されました。ケビンはみんなでマークを厳しくスティールを狙うように支持しました。後半、14点のビハインドをある程度挽回するまでハミルトンコーチはマンツーマン・ディフェンスを支持しました。相手のローリングに対しこちらもローリングで対抗し、本当にめまぐるしいゲームとなりました。結果は体力勝負となり、サンダーが近差で勝利しましたが、会場からは割れるような拍手と賛美のうなりに似た声援が響きました。メディアもフラッシュを止め処もなく焚きました。余談ですが、相手チームの選手がこぞってケビンに握手を求めてきました。「マイカンさんによろしく」、とまで言われました。例のフリーセッションの話を知っていて、ケビンとマイカンさんが仲のよい友達と思っているのかもしれません。


次の日、地元の新聞でも地方欄で取り上げられていました。(アメリカの新聞は半分位、地方版でスーパーのクーポンまでチラシではなく新聞紙に刷られています。)ちょっと気分のいいものです。少ない小遣いを使って新聞を買いあさる選手もいましたが、ハミルトンコーチはもっと大きな記事を狙え、と諭しました。第三試合は点の取り合いとなりました。連戦のためか、お互いに疲れが目立ちボーンヘッドを繰り返し双方のコーチが怒鳴るシーンが多かった試合です。結果は勝ちましたが、全員くたくたになってバスの中で眠り込んでしまい、宿舎のYMC着いてもほとんどの選手はおきませんでした。ようやく、全員が降りて、シャワーを浴びた後食事しましたが、食欲もない状態です。せっかくハミルトンコーチがカンパして予算オーバーのステーキを食べられたのに、パスタやピザをたのんでいました。ケビンは違いました。ワンポンド(約450g)ステーキを平らげました。山のようなサラダも一人で平らげました。


きょうは、いよいよ第四戦目です。相手はニューヨーク州のチャージャースでもう片方はフロリダ州対カリフォルニア州です。予想通りの強豪が出揃いました。ニューヨークのチームではパワーフォワードの選手が怪我をしたと言う情報でしたが、こちらにはサトがいません。ハミルトンコーチはイーブンだから、気を抜くなと試合前に注意しました。(ここだけの話ですが、パワーフォワードは筋骨隆々の背の高い選手が多く、代わりになる選手はそういるわけではありませんが、サトの変わりはケビンや優秀なガードが多いサンダースが有利でした。)案の定、試合は意外にも楽なペースで進行し、サードクオーターまで8点差をつけてリードしていました。フォースクオーターで相手は捨て身の戦法で向かってきました。インテンショナルファール(故意のファールで罰則は重い)ぎりぎりのブロックをしてきたのです。これでサンダースのペースは乱れました。パスワークがうまくできず、アウトオブバウンズやインターセプトを繰り返し、とうとう3点差で逆転されました。すかさず、ハミルトンコーチはタイムアウトを通り、みんなに指示しました。全員にレモン水を飲ませ、一言だけ全員の「目」を見てから言いました。「サトのために!」。


選手全員がよみがえりました。動きがまるで違うのです。「全員が頭の後ろにも目がある」、と言う表現をよく使いますが、まるでパス回しが違います。相手チームのプレーヤーのあたりが強いと言うことは前に出てきているわけですから、当然追いつけないパス回しは有効です。それに、今度はカットインがしやすくなりますし、フリーの選手も増えてきます。フォースクオーター残り30秒の時点で一点差の再逆転したサンダーは、あせる相手選手のボールをケビンがスティールし、味方のアリュープショットで決着がつきました。正式には約20秒あるわけですから3ポイントシュートを決めれば同点、延長になるのですが、あまりにもアリュープショットがきれいなショットだったため、最後の相手の無理やりの3ポイントシュートはリングに当たらず、エアーボールとなったときに試合終了のブザーが鳴りました。勝ちです。しかし、このケビンのパスの直後にケビンは相手の強引な体をぶつけてのスティールに、足をすくわれ着地の際、かなり強く強打し捻挫していたのです。


YMCAでは、明日の午後の試合まで時間的には余裕があるため、外食せず部屋でアイシングしながら回復を早める努力をしました。ハミルトンコーチほか選手全員は「マクドナルド君抜きでマクドナルドへたべにいこう!」、と冗談を飛ばしながら出て行きました。もちろんハミルトンコーチはルームサービスのないYMCAに事情を説明し無理を言って、ロースとビーフサンドウィッチとミネストローネスープを手配してくれました。コーチは出掛けに「ケビン、フロントに話しておくから、サトに電話してやれ。ロングディスタンスコールだから手短にな!」。こういうところが、ハミルトンコーチの人柄が出るところで、みんなの信頼を勝ち取っている証拠でした。


一時帰宅していたサトに電話しようとダイアルしましたが、あいにく、ハナムラ家にかけた電話に出るものはいませんでした。サトは自分では動けないはずなので、とっさに悪い予感がしました。急いで、コレクトコールで家に電話して、サトの病院の電話を聞きました。電話に出た母親のクリスティーナは、「急に容態が悪くなったと、ミスター・ハナムラが電話してきたわ。でも、みんなには大事な試合があるから知らせないでくれって。でも、病院に電話しなさい」。ケビンは母のしっかりとした口調でそれがどう意味なのかはわかりました。強い薬で毛が抜け、体重を35ポンドも失ったサトはその日の夕方、ちょうどニューヨークの試合が終わったことに体調が急変し救急車で病院に運ばれていました。


病院に電話をしても、ひょっとしたら取り次いでくれないかもしれないと思いながらダイヤルすると、意外にも部屋まで電話を繋いでくれました。「もしもし、サトの病室ですか?」 「はい、あ、ケビンね」、と妹のミミ(ミサエという名ですがミミと呼ばれていました。)の声でした。何度かサトの家に遊びに行った時に会っていたのですぐにわかりました。「サトは大丈夫?」、と、聞くと「ケビン、覚悟したほうが良いって言われているの。今は、強い薬で寝ていて話せないの。ごめんなさい」。正直言って、病気が病気だけにいつかは覚悟しなければならないとは思ったけれど、こんなに急に覚悟しなければならないなんて…。ミミは落ち込んだケビンの様子を察して「で、今日の試合は?」、と聞いてきた。まともに話せる状態ではなかったのですがケビンはミミが頑張って話しているのに自分が落ち込んでいけないと思って「接戦だったけど勝ったよ。みんなが、サトに捧げる勝利だって」、と、言いました。しかし、これが逆効果でミミは「ありがとう」、と言ったきり、言葉になりません。お互いに泣いているのは判っていましたが、ケビンは落ちる涙も拭かず、「明日の決勝戦は、ラジオ放送があるはずだから、医者が良いと言ったら、聞かしてやってくれ。そのほうが、俺たち選手も『サトが聞いていてくれる』と思って頑張れるから」 「判ったわ。明日頑張ってね?」。


それ以上、会話を続けることは不可能でした。この件は、ハミルトンコーチにはそっと話しておこう、みんなには、逆に黙っておこう、と思いました。そのとき自分が捻挫していることに気づきました。今のケビンは神を恨むことより、神にすがることが正しい判断だと信じました。結局、ケビンが眠りに就いたのは、朝の清掃車が通る5時ぐらいでした。

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