第2話悪行の発掘

 窓の外では、春一番らしい風に吹かれて、洗濯物が揺れている。


 綾香は窓辺に立ち、虚ろな表情でそれを眺めていたが、頭の中はめまぐるしい奔流に支配されていた。

 相談すべき夫は明日まで出張だ。

 いや、まず電話しなければ。


 脅威が身近に迫っている。


 優輝には厳しく注意を……いや、しばらく学校を休ませなければ。

 いつまで? 

 こちらはどう対策を立てるべきかも分からないのに。


 篠原はすでに犯罪を犯している可能性が高い。


 その証拠は何かないものか。

 あるとしてどうやって手に入れるか?

 いっそのこと、能力を明かして、篠原と直弥くんを詰問するか?

 それでは直弥くんを深く傷つけてしまうかもしれない。

 だが、途惑っていては優輝が危ない。


「あっ」

 眺めていた洗濯物の、小さなタオルが風に吹かれて、洗濯バサミを離れた。

 綾香は反射的に手を伸ばし、花火を出した。

 しかし、綾香とタオルの間には窓ガラスがある。

 遮蔽物があっては力が届かないだろう。

 だが、綾香は我が目を疑うことになった。

 小さなタオルは風になびきつつ、空中にとどまっている。

 手繰るように引き寄せ、窓を少しだけ開いてタオルを取り込む。

 綾香の心に、一瞬だけ静寂が訪れ、続いて怒涛のような唸りをあげて何かが込み上げてきた。


 この力は!


 物体を貫通して影響を及ぼす!


 綾香は急いで階下に降りていった。

 サンダルをつっかけて玄関を出ると、すぐに振り向いてドアに鍵をかける。

 そうしておいてから、右手を上げ、ドアの向こう側にあるサムターンの辺りに勘で狙いを付けた。

 小さな破裂音とともに、黄色と青の火花が散る。

 続いて、ドアの取っ手のあたりがカチリと音を立てた。

 綾香が手を伸ばして確認すると、ドアは何事も無く開いた。


 篠原の住居の鍵も、構造的に大差ないだろう。


 このとき、日常に背を向けて、自ら歩み去る覚悟が、綾香の魂に刻まれた。


 躊躇している時間はない。

 綾香は急いで寝室に上がっていった。

 寝室に着くとドレッサーの前に座り、化粧を落とし、髪をひっつめに結んだ。

 それからモスグリーンのスラックスを脱ぎ、ジーンズにはき替えると、

 夫のクローゼットから紺色のジャンパーとキャップを取り出して、身につける。

 そして、軍手とガーゼのマスク。

 装束を整えて姿見を覗くと、パッと見は何かの業者に見える。

 それが大事だった。

 綾香の心は決まっていた。

 

 自分はこれから犯罪を犯す。


 不法侵入をし、あわよくば盗みを働く。

 良心の呵責などという甘さは無かった。


 十分後、綾香はコンビニの駐車場に車を停めていた。

 篠原のアパートまでは約百メートル、ちょうどいい。

 住所は、優輝とやり取りされた年賀状で知ることができた。

 綾香の生活圏内だったので、特定は容易かった。


 軍手をはめ、念のために持ってきたダンボール箱を小脇に抱えて、綾香は車を離れる。

 篠原の住処であるコーポ・ロビンソンは、露天駐車スペースの付いた安っぽい建物だった。

 このアパートの二階、階段から二番目の部屋に、綾香の求める物がある可能性は高い。


 綾香はしっかりした足取りで挑んでいった。

 駐車スペースを通りすぎ、階段の上り口に足をかけた時、一番近くのドアが開いた。

 ショルダーバッグを持った若い女が出てくる。

 綾香は怪しまれるのも恐れず立ち止まり、サムターンとドアチェーンの場所を目に焼き付けた。

 これで大分手間が省ける。

 若い女は綾香のことなど気に留めず、携帯で話しながら遠ざかっていった。


 綾香は階段を上った。

 目標の部屋のドアには「篠原誠」と表札が付いている。間違いない。

 問題は篠原誠が在宅かどうかだが、居たとしても大きな問題ではなかった。

 より安全な月曜の明日に、同じことをもう一度やるだけだ。


 綾香は迷うことなく花火を出し、見えないサムターンを頭の中で捻る。

 カチリと音がした。鍵は掛かっていた。

 綾香はドアを慎重に開き、静かに頭を突っ込んでいく。

 玄関に靴はない。

 ドアから左手に台所、右にはトイレのドアがあった。

 正面にある引き戸を開くと居室だろう。


 今のところ人の気配はない。

 綾香は意を決して中に入り、ドアを閉め、鍵をかけた。

 何も反応はなく、もう篠原が留守なのは確実だ。

 土足のまま上がりこみ、正面の引き戸をゆっくりと開く。

 居室の中は綺麗に片付いており、左にベッド、右の壁際に本棚、正面の窓辺には事務机があった。

 机の上にはラックに挟まれた十冊程度の本、ペンたて、デスクライト、丸めた布巾、そしてノートパソコンが置かれていた。


 綾香の求めていたものはこれだった。

 証拠があるとすれば、パソコンの中か、携帯電話の中しかない。


 部屋の中に入ってみると、ベッドのわきの壁一面に、何十枚もの子供の書いた絵が貼り付けてあった。

 生徒に描かせた篠原の似顔絵だ。

 その絵を見て綾香は、自分が重大な過ちを犯してるのではないかと、初めて途惑った。

 しかしよく見ると、書いてある名前が男の子のものばかりだ。

 やはりパソコンの中身は調べなければならない。

 綾香は気を引き締めた。


 篠原の机の前に座り、綾香は軍手をはずした。

 考えてみれば、軍手なんかいらなかった。

 ノートパソコンを開き、ちょっと探したあと、スイッチを入れる。

 パソコンが起動するあいだ、綾香は何気なく机の上の丸めた布巾に目をやった。

 そして息を呑む。


 震える手で取ってみると、布巾と見えたものは男児用の下着だった。


 もちろん新品じゃない。

 綾香の咽喉は詰まり、涙がこみあげてきた。

 これは明らかに犯罪の証拠だったが、それでもこれでは証拠にならない。

 奥歯をかみしめて嗚咽をこらえていると、パソコンが操作できる状態になった。

 綾香はパッドを指でなぞって画像フォルダを開く。

 予想通りのものが出てきた。

 ネットで拾い集めたであろう、少年の裸が写った画像ばかりだ。

 これが小学校教師のパソコンだと思うと忌まわしいが、児童ポルノの単純な所持ではたいした罪にならない。


 もっと他の、自分が見るに堪えないようなものを、綾香は探しださなければならなかった。


 画像フォルダの最後のほうに、「宝」と名前の付けられたフォルダがあった。

 綾香は確信とともにそれを開く。


 中には携帯で撮影されたと思われるサイズの画像が、何十枚も詰まっていた。

 ズボンと下着を下げ、シャツをたくし上げた、うつろな表情の少年。

「直弥くん……!」

 綾香は嗚咽を漏らし、涙をこぼした。

 両手を口にあて、震えながら泣く。

 しばらくそうして感情の爆発が治まったあと、綾香は鼻をすすりながら捜索を再開した。

 被写体はまだ直弥くん一人だけのようだった。


 その中に決定的な一枚を発見した。


 少年のむきだしの下腹部に唇をつきつけ、こちらに視線を送っている篠原の顔を、自分で撮影したものだった。

 背景にはランドセルを置いておく棚が写っている。


 これだけ見れば、被害児童が直弥くんだとは特定できない。

 犯行現場は学校の教室だとはっきりしているうえに、犯人である篠原自身が被写体だ。


 求めるものを見つけ、綾香はパソコンの電源を落とした。

 これは丸ごと奪わせてもらう。

 できることならこの部屋に火を放ち、すべて焼き尽くしてしまいたい。


 綾香はなんとか衝動を抑えると、持ってきたダンボールにパソコンを入れ、玄関に向かう。

 玄関に着き、ドアノブに手を伸ばしたところで音に気付いた。

 レジ袋のガサガサいう音と低い足音が近づいてくる。

 足音はドアの前で止まり、鍵をいじるような金属音が続く。


 この部屋の住人が帰宅した。


 ドア一枚を隔てた向こうに篠原がいる!








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