第3話戦い方

 玄関のドアを勢いよく開けて篠原が入ってきたとき、綾香はトイレの中で息を潜めていた。

 トイレは玄関を入って右の位置にある。

 綾香は荒くなりそうな呼吸を必死に抑えて、頭を巡らせた。


 まだ勝算はある。まだ戦える。


 思いもしない事態に遭遇した時、人の時間は一瞬止まる。

 その隙に、立てた計画通り、よどみなく、繊細な作業も正確に行えば。


 綾香はトイレのドアをわずかに開いて、耳を澄ませた。

 レジ袋を置く重い音がしたあと、篠原の足音が居室に入っていく。

 その背中が見えた。


 一、二、と数えて、綾香はトイレを飛び出した。

 出ると左足のつま先でトイレのドアを閉め、右手で玄関のドアを開ける。

 玄関を抜けるとすぐに振り返って、勢いよくドアを閉じた。

 箱を持った不自由な左手の花火でサムターンを回し、同時に右手の花火でドアチェーンをかける。

 ドアチェーンの方は、うまく入ったか確証が持てない。


「誰だ!」と、部屋の中から叫ぶ声が聞こえたときには、綾香は玄関の前の塀を乗り越えようとしていた。

 地面まで三メートルはある。

 しかし骨折さえしなければ、捻挫程度で済めば、勝ち目はあった。

 綾香は飛んだ。


 着地と同時に上のほうでガツンと音がした。

 ドアを開けようとしてチェーンが引っかかった音に違いない。

「くそ!」篠原の悪態も聞こえる。


 飛び降りた衝撃は予想より、はるかに少ないものだった。

 もしかしたら、次元接続体の頑健性によるものか、何の問題もない。


 綾香はつま先立って、階段の上り口にある、端の部屋を目指した。

 向かいながら右手の花火を放ち、その部屋の鍵を開ける。

 その部屋の住人である若い女は、まだ帰宅していなかった。

 頭の上をあわただしい足音が通過していくが、綾香は音を立てないよう、冷静にゆっくりとドアを開けていく。

 素早く中に入り、またゆっくりとドアを閉じながら、覗き穴に目を当てる。

 音が出ないよう、完全には閉めない。


 視界に篠原が入ってきた。

 狼狽して周囲をきょろきょろ見回してから駐車スペースを突っ切り、アパートの敷地から外へ走り出して行った。


 今になって綾香は、自分の息がひどく乱れていることに気がついた。

 心臓が早鐘を打ち、手足も震えてくる。

 そのまま覗いていると、篠原が戻ってきた。

 相手を見失ったとなれば、ほかに盗まれた物が無いか早く確認したいだろう。

 篠原が階段を上って視界から消えると、少しの間を置いて、ドアを閉める音がかすかに聞こえてきた。

 綾香は慎重に部屋を出た。


 結局はこれで良かったかもしれない。

 教師をしている知能があれば、自分の敵が普通ではないと、後になって篠原にも気がつくだろう。

 夕暮れのなか帰宅し、車を車庫入れしながら、綾香はそう考えた。


 パソコンには、いくらか手を加えなければならない。

 体はくたくただったが、頭は冴えていた。まだやるべきことがある。


 パソコンを持って家に入ると、リビングの灯りが点いていた。

 優輝が一人でソファに腰かけ、テレビを見ている。

「優輝!」

 綾香は思わず大声で呼びかけ、パソコンをキッチンのテーブルに置き、急いで駆け寄っていく。

 優輝は面食らったような顔をして、小首をかしげながら言った。

「お母さんどこ行ってたの? そんなカッコで」

 綾香はそれに答えず、優輝の隣に座り、息子の肩を強く抱き寄せた。

 おもむろに右手をかざし、優輝の髪に向かって花火を出す。

「優輝、ほら花火」

「もうそれ見飽きたよー」

 テレビに視線を戻そうとする優輝に対し、綾香は努めて平静を装いながら質問した。

「優輝、お母さんに秘密にしてること、ない?」

「えー、そんなのないよ」

 その声と同時に、『佐山くんに貰ったえっちなマンガ、バレちゃったのかな』と聞こえる。

 綾香は奥歯をかみしめた。

 優輝にそんなものはまだ早い。

 後で探し出して処分しよう。

 しかしそんな声が出てくるなら、優輝はまだ無事だ。

 篠原の毒牙にはかかっていない。

 綾香の胸に温かい安堵が広がった。


 綾香は続けて、次の懸念を口にした。

「直弥くん、このごろウチに来ないじゃない? あんなに仲良かったのに。学校には来てるの?」

「来てるけど、アイツこのごろ暗くなっちゃってさー」

 綾香の目が涙で滲んだ。鼻をすすりながら続ける。

「じゃあ、親友の優輝が元気づけてあげなきゃ。でしょ?」

「お母さん、泣いてるの?」

「ううん、花粉症みたい。直弥くん、お母さんのアップルタルトが好きだったでしょう。明日作っておくから、食べにきてって、ウチに呼ぶのよ」

「うーん」

「絶対よ」

「分かった!」

 明るい返事とともに、もう一つの声が聞こえた。

『お母さん、また変なドラマでも見たのかな?』

 その純真さに触れて、綾香の口もとに微笑みが広がった。


 午前五時。

 灯りを消した寝室のベッドに腰かけ、綾香は明けてゆく空を眺めていた。

 疲労困憊してたが、こんな日に眠れるわけがない。

 篠原のパソコンは、夜中に校長の自宅へ置いてきた。

 警察に行くことも考えはした。

 しかし、そうした場合、まず綾香の身元と能力を明らかにしなければならなかったろうし、綾香自身が窃盗で逮捕される恐れもあった。


 事情を汲んでもらえたとしても、今度は被害児童の特定が始まる。

 綾香としては、直弥くんがさらに傷つくことになるような可能性は排除したかった。

 結果として篠原に下される罰にはいうことないが、他の部分が最善とは言いがたい。


 だから校長宅を選んだ。


 職歴の長い校長ともなれば、ちょっとした地域の顔であり、自宅の位置は綾香も知っていた。

 花火を使って進入し、キッチンのテーブルの上に警告文とともにパソコンを置いてきた。

 パソコンはデスクトップを掃除して、そこに「宝」フォルダを移動させておいた。

 宝フォルダの中身の、直弥くんと特定できるような画像は消去してある。

 子供の下腹部と篠原の顔、そして教室が写っている数枚だけを残した。

 もちろん、全ての画像は綾香のフラッシュメモリに保存されている。


 警告文には以下のようなことを書いた。

 このパソコンが、教師篠原誠のものであること。

 宝フォルダの中身を見ること、他の画像も参考にしてもらいたいこと。

 犯罪は教室で行われており、こちらは被害児童の特定もできている上、証拠も持っていること。


 そして何より、『このような真似のできる自分が見張っている』ということを。


 警察ではなく、なぜ自分の自宅にこのパソコンが持ち込まれたのか、ベテランの校長ならその意味をはっきり理解するだろう。戦慄とともに。

 小心だったり繊細だったりすれば、命の危険を覚えても不思議はない。

 綾香はそこまでするつもりは無いが、今日にでも何らかの動きがなければ、すぐ次の行動を起こす心の準備があった。

 これで戦いが終わったとも限らない。


 だが、それよりもまず。


 疲労がいくぶん回復したような気がして、綾香は立ち上がった。

 それよりも、まずアップルタルトの仕込みに入ろう。

 直弥くんが食べきれないほど作ろう。

 お土産に持たせても余るほど作り、夫にもおすそ分けしてあげよう。













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