綾香の花火
進常椀富
第1話隠された欲望
「あなたも次元接続体かもしれません」
テレビで政府広報のコマーシャルが流れている。
しかし
鏡の中の自分の顔に集中する。
現在三十三歳だが、三十代になってから日々化粧の乗りが悪くなっている気がした。
テレビが続けている。
「怪我が瞬く間に治癒してしまったり、難治性の症状が消えてしまったなどという体験をされてませんか? 次元接続体には起こりうることなのです」
綾香は手首を捻って、ファンデーションの塗り方に一工夫してみた。
細分を見るには部屋の明るさが足りない。
電灯のスイッチを入れるか、カーテンを開くか。
「……などの能力が現れたのが平成十三年以降のことでしたら、是非、最寄の医療機関、保健所などにご相談ください」
綾香は自然光を選択し、閉ざされたカーテンに向かって左の手のひらを広げる。
カーテンまでは三メートルあるが、ドレッサーの前を離れる必要はない。
手のひらを向けて、花火を出すだけだ。
パチッと軽い音がして、手のひらから紫とピンクの火花が散ると、一瞬遅れてカーテンが開く。
陽光が差し込んでみると、化粧の具合は思っていたよりずっと良かった。
「あなたの能力、最適な使い道を発見しましょう。我々と一緒に!」
政府広報はそう締めくくった。
長くて意味不明だとの批判を受けているが、止まらず流されている。
もちろん綾香にとっても、大した意味のないコマーシャルだ。
ペットボトルで試したが、動かせる力は一キロ弱、力が及ぶ距離は六メートル前後。
これでは手品師になるのが関の山だった。
政府が税金で、種ナシの手品師を雇ってくれるだろうか。
それどころか、近所の物笑いの種になりかねない。
綾香は間違いなく、次元接続体だった。
話題のケイオスウェーブなど見たことも感じたこともないが、十日ほど前にこの能力が現れた。
はじめは赤やら青やらの火花が、手のひらから自在に出せるだけだと思っていた。
一人息子で小学四年生の
「お母さんすごい! 花火だ、花火だ!」と、目を輝かせて喜んだ。
そして、この花火が優輝にも飽きられてきた五日前、綾香は手を触れずに、離れた物を動かす力があることを知った。
だから何だ、とも思う。
射程六メートルでは、別に立って歩いて行ってもいいのだし、二リットルペットボトルは重すぎて、もう動かせない。
綾香は鏡を覗き、メイクの仕上がりを確認しながら、独り呟いた。
「次元接続体っていっても、誰もがスーパーヒーローってわけじゃないのよねー」
そんなことより。
綾香は気持ちを切り替えて立ち上がった。
そんなことより、夕飯の材料を買いに行かなければ。
日曜の午後だけあって、スーパーはほどほどに賑わっている。
本売り場のそばを通った時、「子供の喜ぶ野菜料理」というタイトルが目に入った。
綾香は興味を持ち、内容を確かめるため、棚の前に行って本を手に取る。
ふと視線を上げると、前方一つ向こうのコーナーにいる青年が気になった。
青年はこちらに背を向けていたが、ちらりと横顔が見える。
間違いない。
優輝の担任の
篠原先生はまだ二十代だが、息子の優輝によると、
「先生ってカツラなんだよ! だって頭の皮が動くんだもん! みんな言ってるよ!」
ここから見る限り、先生の髪はまったくカツラには見えない。
しかし、だからこそ!
消し難い好奇心が、地鳴りのように綾香の心を揺らす。
常人では望めない、おあつらえ向きの力があるではないか。
実は今までのところ、「花火」を人に向けて放ったことはない。
何事にも初めてはあるものだ。
綾香はゆっくりと右手を上げた。
小さな破裂音とともに、赤と黄色の火花が散る。
目で照準を付けることができるので、力は間違いなく篠原先生の頭頂部に届いているはずだ。
こう、ちょっと上の方へ、くいっくいっっと。
綾香の思うとおりに、先生の髪の毛が上方に引っ張られる。
残念、どうみても自毛だ。
篠原先生が急にくるりと振り向いた。
綾香は慌てて顔を伏せ、知らん振りしようとした。
少しの間を置いて、『万野原の母親じゃないか』、と篠原先生の声がした。
確かにそうなのだが、口の利き方がおかしい。
綾香はややキツイ目付きをして顔を上げた。
目が合うと、篠原先生はぺこりと会釈して笑顔で言った。
「万野原優輝くんのお母さんですよね? 担任の篠原です」
ほぼ同時に、『やはりなかなかの美人だ』、とも聞こえた。
綾香は何とか平静を装って返事をした。
「はい……万野原です。いつもお世話になってます……」
これは、もしかすると……心の声が聞こえる……と考えてよいのだろうか?
「優輝くんはいつも元気で、クラスのムードメーカーなんですよ」
快活そうに笑う篠原先生。
だが、彼の裏の声は綾香を戦慄させた。
『母親がこれだけ美人なら、優輝もそりゃあカワイイわけだ』
その心の声は、確かにセクシャルなイメージを帯びていた。
「優輝にッ……!」
優輝に何かしたら許さない、と言いかけて綾香は口を噤んだ。
その言葉を発すれば、余計な注意が優輝に向けられてしまうだろう。
相手は一日の半分を優輝とともに過ごしているのだ。
何をされるか分かったものではない。
彼を公に糾弾するにしても、何を根拠にすればいいのか。
そもそも、思っているだけなら自由だ。
綾香は強い自制心をもって言い直した。
「……優輝にはもっと落ち着いて注意するように……言ってるんですけど」
「いや、男の子は元気なのが一番ですよ」
『元気でカワイイ、カワイイ元気な男の子、フハハ』、とも聞こえた。
もうこれ以上この男のそばにいたら、自分が何をするか分からない。
「それでは、また」
そう言って綾香は足早に離れた。
もう買い物ができる精神状態じゃなく、店の出入り口へ向かう。
『おかしなところのある母親だな。美人にありがちなことか』
篠原の心の声はまだ聞こえていた。
綾香は気を引き締めて無視し、足を速める。
『直弥もカワイかったが……』
その名を聞いて、綾香は動けなくなった。
優輝と仲の良かった友達だが、最近家に遊びに来ない。
『優輝はどうやって落としてやろうか……』
綾香の全身を震えが走った。
恐怖によるものか、怒りによるものか分からない。
来た方向を振り返ったが、もう篠原の姿は見当たらない。
声も途絶えた。
探し出して突進し、殴りつけて、尋問したい。
しかしそんな事件を起こしたら、後になって次元接続体として能力が認められたとしても、いま優輝を守る者がいなくなってしまう。
いや、そんな事件にはならないだろう。
篠原は綾香よりも頭一つ分背が高く、男の基準でいってもがっしりした体格だ。
武器を持っていても、腕力では敵わない。
ここは引くしかなかった。
綾香は震えて笑う膝をなんとか動かして、強烈な敗北感とともに乗って来た車に戻った。
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