七幕:掌握之支配者

「私は割と全知全能でね」

 海牙が先導する道は人通りがなかった。裏路地を選んで走っているらしい。バイク並みの時速数十キロを出してローラースケートで疾走するところなんて、目撃されたくないだろう。オレとしても、人目がないのはありがたい。緋炎や警察に見付かったら、厄介だ。


 やがて、県境の高原地帯に入って、広々とした邸宅に到着した。まわりには人家も店もない。


「目的地ですよ」


 海牙は、さすがに軽く息を弾ませていた。ローラースケートから革靴に履き替える。


 そういえば、とオレは思い出した。


「方向音痴と言ってたが、今日は迷ってなかったな」


 海牙は、波打つ髪を撫でつけた。苦笑いしている。


「いくら何でも、通学路では迷いませんね」


 なるほど確かに、オレの家から一旦、大都高校のそばまで行った。そこから改めて、この邸宅へと向かった。位置関係からすると、大回りになっている。


 ひとがメットを取った。


「このお屋敷が海ちゃんちってこと?」

「いえいえ、まさか。ぼくはここに住ませてもらってるだけですよ。総統の何番目かの持ち家で、お気に入りの別荘だそうです」


「ふぅん。そういや、大都はほとんど全員が寮生だっけ? 海ちゃん、違うんだ?」

「縛られるのが苦手でね。監獄ですよ、あの寮は」


 海牙の案内で、バイクを駐車場に置いた。黒服の守衛にメットを預ける。


 普通だ、と感じた。意識を研ぎ澄ませてみても、違和感はない。それでも、オレは海牙に念を押した。


「信用していいんだな?」

「守衛さんのことだったら、どうぞ信用して。父君の形見に傷が付かないよう、見張ってくれますよ」

「阿里海牙という人間のことは? 信用できるのか?」

「んー、まあ、そのへんは、個人の見解ってものがあるでしょうね」


 理仁がやんわりと間に入ってきた。


「まずは話を聞かないとね~。でしょ、海ちゃん?」


 海牙は笑って、先に立って歩き出した。


「こっちへ、ついて来てください」


 枯山水の庭を抜けていく。西日を浴びた池がオレンジ色にきらめいている。


 松の木の陰から不意に、巨大な黒い犬が現れた。ガッシリとデカい頭が、オレの胸の高さにある。オレでもギョッとした。鈴蘭が喉の奥で悲鳴をあげた。


 黒い犬が口を開いた。ゴツい牙と薄い舌を持つ口が、器用に動く。


「よぉ、おかえり、海牙。友達でも連れて来たのか?」


 しゃべった。犬がしゃべった。低い男の声で、普通にしゃべった。


 聞き間違い? じゃないよな。鈴蘭も師央も理仁も、目を見張って固まっている。


 海牙は平然としていた。


「ただいまです、アジュさん。こちら、総統がお呼びの皆さんですよ」


 アジュと呼ばれた犬が笑った。犬の口から、普通の男の笑い声が出てきた。


「ああ、四獣珠の面々か。そう驚いた顔をするな。おれも能力者だ。これでも人間だよ」


 師央が恐る恐る進み出た。犬の姿のアジュと、あまり目の高さが変わらない。


「変身、できるんですね? 人間の姿から、この大きな犬の姿に?」

「こういう家系でね。預かってる宝珠の関係で、犬絡みのチカラを持ってる。坊やは何者だ? おれを探ろうっていう波動を感じる」


 理仁が茶々を入れた。


「師央が変身能力を習得したとしてもね~、こんな強そうなワンちゃんにはなれないよ。チワワになっちゃうと思う」

「ぼくって、チワワなんですか?」


「かわいい子犬系男子でしょ。あっきーは、パッと見、狼系? の割には、実は草食系男子だよね~。ね、じれったいっしょ、鈴蘭ちゃん?」

「なな何でわたしに話を振るんですか!」

「理仁、いちいちふざけてんじゃねえ!」


 アジュが豪快に笑った。笑われるこっちとしちゃ、気分がいいものでもない。


「おいおい、そうにらむなよ。銀髪の悪魔だっけか。噂は聞いてたんだが、意外に普通の高校生だな」


 耳を疑った。


「オレが、普通?」

「おじさんの目には、そう映るってこった。よかったな、海牙。愉快な友達ができて」


 海牙が苦笑いを浮かべた。


「友達になれるかどうかは、未確定ですよ。今日これからの話次第ってとこですかね。まあ、とにかく彼らを総統のところへお連れしてきます」

「おお、そうか。引き留めて、すまんな」


 アジュは前肢の片方を軽く挙げて、立ち去った。海牙が歩き出しながら言った。


「気さくな人でしょ、アジュさん。これから夜勤なんですよ。守衛の仕事に就くときは、あの姿なんです。普段は人間の姿で生活しています」


 犬にありがちな匂いが、そういえば、しなかった。


「ここには、能力者がたくさんいるのか?」

「一定数は、いますよ」


「能力者を集めて、何をするつもりなんだ?」

「総統が集めておられるのは、違います。能力者ではありません。彼らを雇っているのは、失業者対策というか。とにかく、能力者が集まっているのは副次的なものなんです」


 師央が海牙の背中に尋ねた。


「組織に所属している、と言ってましたよね? ここの人たちもみんなそうなんですか?」

「ええ、まあ、そうですね。組織といっても、社会的公認ものじゃなくて、もっと緩い集まりなんですよね。総統が個人的に雇用してる人たちとか、ぼくみたいに、厄介になってるだけの人間もいるし。一応、KHANカァンってチーム名はあるけどね」


 K、H、A、N、と海牙は綴りを言った。鈴蘭が小首をかしげた。


「何かの略称ですか?」

「さあ? ぼくは知りません」


 つかみどころのないやつだ。


 屋根瓦を見上げると、何かの紋章が入っていた。家紋と呼ぶにはシャープなデザインだ。目を凝らすと、文字も見えた。KHAN、と刻まれている。


 邸宅は、天井の高い平屋建てだった。靴を脱いで、長い廊下を歩いていく。相変わらず、海牙は足音をたてない。


 広い中庭を見ながら、廊下の角を曲がった。そのとたん、海牙が足を止めた。つられて立ち止まったオレの背中に、鈴蘭がぶつかった。


「離れろ」

「す、すみません」


 廊下の先に、男が一人、立っている。薄暗い雰囲気の男だ。二十代半ばってところか。細身で、額にヤケドの痕がある。体のさばき方が異様にひそやかだった。まばたきの少ない目が、えらく据わっている。


 海牙が笑顔をこしらえた。完全に、作り笑顔だった。今までは案外ほんとに笑っていたのか。


「お久しぶりです、世良せらさん。こちらの邸宅にいらしていたんですか」

「どうも。後ろのかたがたはお友達ですか?」

「総統のお客さまを案内してるんですよ」

「ああ、なるほど」


 世良が、オレに視線を向けた。ピンと来る。こいつ、本当はオレたちのことを知ってる。とっくに探ってあるくせに、知らんぷりをしている。


 海牙が世良に会釈して、再び歩き出す。世良の脇を通り過ぎるとき、ピリリと神経が緊張した。


 目が合ったのは一瞬だった。世良は深い礼をした。オレは世良のそばを離れた。不快なやつだ。巧妙に隠されていたけど、確かに世良は殺気を抱えていた。


 十分に距離を置いてから、海牙が息をついた。


「大人げないところがあるんですよね。世良しょうへいさん、確か二十五歳。ぼくは嫌われてるみたいです」

「嫌われてる、か? それ以上じゃないのか?」

「さあ? 彼なりに必死なのは伝わってくるんです。彼の兄貴分がまた必死な人でね。総統のお目に叶いたいって、頑張りすぎてるんですよね」


 ようやく目的の場所に着いた。黒服の護衛が両脇に控える部屋がある。意外に質素なデザインのふすまだ。と思ったら、違うらしい。理仁が襖に顔を寄せて、口をあんぐり開けた。


「南宋画ってやつだよね~。すげー、これ本物っしょ?」

「値打ちものだ、とだけ聞いてますよ」

「値打ちのスケールが違うって」


 海牙が襖に手を掛けた。それを引くよりも先に、襖が開いた。中から、白髪の老人が顔をのぞかせた。背筋の伸びたスーツ姿だ。


「総統がお待ち兼ねだぞ、海牙」


 海牙は老人に首をすくめてみせた。振り返って、紹介する。


「総統の執事の天沢あまさわさんです」


 天沢が襖を大きく開けた。数十帖の畳の部屋が広がっている。天沢がオレたちに背を向けた。スーツに切れ込みが入っている。そこから大きな黒い羽根が生えている。


「能力者!?」


 ばさり、と天沢は羽根をはばたかせて浮き上がった。低い空中を、部屋の奥へと飛んでいく。


 理仁が開き直ったようにつぶやいた。


「もはや驚かねぇぞ~。何が起こっても驚かねぇからな~」


 天沢が降り立ったそばに、男がいる。羽織袴の出で立ち。堂々とした体格の男だ。一目でわかった。あの男が総統だ。


 威圧感が、違う。


 羽織袴の男がこっちを見た。その瞬間、膝がわなないた。震えたわけじゃない。ひれ伏せ、という無言の圧力に屈しそうになった。背筋に冷汗が流れる。


 男が口を開いた。


「そんなところで突っ立って、どうした? こちらに来るといい」


 口調は静かで、穏やかですらある。なのに、強烈だ。従わざるを得ない。足が勝手に動き出した。部屋に踏み入る。畳の匂いがした。


 ひれ伏したい衝動が消えない。でも、衝動に抵抗する。オレは顔をまっすぐに上げて、男の目を見て歩いた。目の奥が焼け付く。まぶしい光を見つめ続けているみたいだ。


 畳二帖ぶんほどを隔てたところで、足が自然と止まった。オレはまだ男の目を見ていた。

 男が名乗った。


「私の名は、ひらてっしん。きみたちのことは知っているよ。ご足労、ありがとう」


 朗々とした声。風格、威厳。圧倒されそうになる。年齢は、五十歳くらいか。

 平井がオレを見た。整った顔に、ゆったりした笑みがある。


「四十八歳だよ。きみの父君が生きていれば、私より四つ年下だ」


 思ったことを読まれた?

 平井がオレたちを順繰りに見やった。鈴蘭が目を伏せた。師央が息を呑んだ。理仁が眉をひそめた。三人の様子を確認して、オレは平井に向き直った。平井がオレにうなずいた。


「伊呂波あきらくんだな。きみはいい目をしている」


 上から目線かよ、えらそうに、と思った。恐れ多いお言葉を頂戴した、とも思った。二つの思いがオレの中でぶつかり合った。


「ああ、これはすまないね。見下しているわけではないんだ。かしこまることはない。若者は、大いに反抗しなさい」


 また、読まれた。

 海牙を横目に見る。表情を消している。オレと目が合って、かすかに微笑んだ。オレは唇をなめた。短く深呼吸して、低い声を放った。


「オレたちに話があると聞いた。用件は何だ?」


 平井は、ひとつ、うなずいた。


「お話ししよう。まずは、自己紹介を続けさせてくれ。諸君もお察しのとおり、私も能力者だ。それも、少し特殊な能力を持っている。私は割と全知全能でね」


 まるで自分が神であるかのような言い草だ。が、平井はかぶりを振った。


「神ではないよ。私は、世界の創造などしていない。老いるし、たまに風邪もひく。動き回れば、筋肉痛にもなる。ただ強いチカラがあるだけの人間だ」


 肉体的に普通の人間だとしても、だ。心の声を、平然として聞いている。全知全能ってのは、どれだけのものなんだ?


 平井は少し間を取った。鈴蘭を見て、うなずいた。


「安豊寺鈴蘭さん、きみの考えるとおりだ。私は今、力を抑制している」


 全員の心の声を、平井は同時に聞いている。その上で、平井ひとりがしゃべっている。不気味でアンバランスな会話だ。


「怖がらせてすまないね、伊呂波師央くん。でも、テレパシーは小さなチカラだ。これを抑えておくのは、かえって難しいんだよ」


 まるで、目の粗い網だ。大きな獲物を捕らえるために、小さな獲物を見逃すような。


「その例えは至極正確だよ、伊呂波煥くんと長江理仁くん。二人とも、頭の回転が速いんだね。少しまじめに勉強すれば、テストも満点だろうに」


 余計なお世話だ。点数なんか、どうでもいい。卒業さえできればいい。

 オレの悪態を聞いたからか、平井は笑った。そして、のんびりとした口調で言った。


「単刀直入に話そうかな。用件というのは、四獣珠のことだ。きみたち、四獣珠を私に譲ってくれないか? 年単位の契約で貸してくれるだけでもいい」


 衝撃が走った。息が止まる。海牙以外のオレたち四人、とっさに同じ仕草をしていた。服の上から、胸に提げた四獣珠に手を当てる。手のひらでそれを守ろうとするように。


 海牙が、詰襟の内側から玄獣珠を引き出した。口元が笑っている。


「無理やり奪おうってわけじゃなくてね。実際、ぼくはこうして玄獣珠を身に付けている。総統のお話を耳に入れてもらえますか? 少し長いお話になるけどね」


 平井が海牙の言葉を引き継いだ。滔々とうとうと語り始める。


「私は強すぎるチカラを持っている。それを抑えるために、全身に結界をまとっている。結界は、目の粗い網のようなものだ。さっきも言ったとおりだね。目の隙間から、小さなチカラはすり抜けてしまう。まあ、テレパシー程度なら、危険は少ない。私が使い方に気を付ければいいだけだ」


 テレパシーを小さなチカラと言う。じゃあ、オレのチカラは? 人を傷付けたことがある。一生残るヤケドを負わせたことがある。このチカラも、平井にとっては小さいのか?


 平井は、ゆったりと微笑んだまま続けた。


「私がまとう結界のエネルギー源が宝珠だ。宝珠のことは、どれだけ知っているかな?」


 四獣珠も、宝珠の一種だ。宝珠は、代償と引き換えに人の願いを叶える。奇跡のチカラを秘めている。宝珠の預かり手は、能力を持って生まれる。オレたちのような異能の人間がいるのも、同じ数だけの宝珠がこの世に存在するからだ。


「むろん、私も預かり手の一人だよ。生まれたときから、このチカラを持っている。私が物心つくまでは、両親が苦労したようでね。結界の宝珠も、赤ん坊のころから身に付けていた。ところで、きみたち。宝珠にも等級があることを知っているかな?」


 平井の問いに、オレと師央は首を横に振った。鈴蘭たちは知ってるのか。まあ、親から話を聞けないのは、オレと師央だけか。


 平井が説明を続けた。


「宝珠にも等級があるんだ。四獣珠は中国大陸由来の宝珠だね。同じく中国大陸の宝珠を数えてみようか。まず、陰陽を司る二極珠。方位と季節を司る四獣珠。木火土金水を司る五行珠。五行の陰陽を区分する十干珠。方角と時間を区分する十二支珠。季節の巡りを区分する二十四気珠。星の巡りを占う二十八宿珠。比較的チカラの大きなもので、八十三の宝珠が存在する」


 平井がしゃべった順に等級が高いのか? だったら、四獣珠は二番目だ。


「そういうことだ。母数が小さい宝珠ほど、等級が高い。つまり、叶えられる奇跡が大きい。四獣珠はチカラの強い宝珠だ。それを預かるきみたちの能力も、四獣珠のチカラの強さに均衡する形で、比較的高い」


 比較的、という言い方に引っ掛かった。やっぱり上から目線じゃねぇか。

 平井は小さく笑った。


「四獣珠は、二極珠に次ぐ等級だったが、数十年前から違う。私の先代のころ、二極珠が平井家に譲られた。今、もとの預かり手の家系に能力者はいない。二極珠はここにある」


 平井が両方の袖をまくった。鈴蘭が喉の奥で悲鳴をあげた。平井の上腕に、宝珠が埋まり込んでいる。右に純白の。左に漆黒の。それらが二極珠だ。


 平井は袖を元に戻した。


「不気味なものを見せてすまないね。私は、全身がこんなものだ。妻も初めは怯えていた」


 喉が干上がっている。声に、それでも、力を込めた。


「四獣珠も、そうして取り込みたいのか?」

「すぐに、とは言わんよ。無理強いもしない。いきなりは信用できないだろう? ぜひ、海牙くんのように、じっくり私を観察してくれ」


 オレは海牙を見た。海牙はうなずいた。


「総統は、ぼくたちより、はるかにお強い。ぼくたちを屈服させることは、本当は簡単です。でも、そうなさらない。おもしろいから、観察させていただいてます」


 オレたちより、はるかに強い? どれほどのものなんだ? まさかハッタリじゃないよな? チラリと、そう思った。ケンカの血が騒いだ。


 平井が、くすくすと笑った。


「元気なんだな、伊呂波煥くん。銀髪の悪魔と呼ばれる最強の不良、か。青春だね。うらやましいよ」

「バカにしてるのか?」

「いやいや、カッコいいなと思ってね。だが、ハッタリではないよ。チカラを見てみたいかね?」


 平井の全身がぶわっと膨れ上がる錯覚にとらわれた。平井の気が爆発的に噴き上がっている。


【息を殺すのと同じように、気を体内に抑え込んでいたのだ】


 声が轟いた。有無を言わせず意識に飛び込んでくる声が。

 理仁が青ざめている。


「な、何だ、この声? おれの号令commandと同じ?」


【似ているはずだよ、長江理仁くん。発する言語が属する次元が同じだからね。ただ、決定的な差がある。私の声のほうが、はるかに強い!】


 鈴蘭も師央も反射的に耳をふさいだ。違う。耳から入ってくる音じゃない。凄まじい大声。押し潰されそうな圧力。


【ひざまずけ!】


 一瞬、自意識が粉々になった。気付いたら、オレは畳の目を見つめていた。膝を屈して、頭を垂れている。


 何だ、このチカラ?


【言っただろう? 私は割と全知全能だと。私の能力は、掌握rule。人間はもちろん、神羅万象すべてを支配する】


 オレも、鈴蘭も師央も理仁も、海牙や天沢までも、ひざまずいている。全身を冷たい震えが襲う。頭を上げたら命がない。そんな恐怖の妄想が、脳内に植え付けられている。


 いや、ふざけんな。平井の意のまま、ただ一声で、自由を奪われる? 恐怖による支配? 絶対的に強力な異能?


 オレの意志は、オレのもんだ。


【骨があるな、伊呂波煥くん。きみの強さは、能力だけに依存していない。いいね、おもしろいよ】


 だから、さっきから言ってるだろうが。上から目線は気に食わねぇんだよ。


【一つ、きみに、いい体験をさせてあげよう。少々怖い思いをすることになるがね】


 は? ふざけ……。


 ストン、と場面が切り替わる。浮遊感。巨大な手のひらにわしづかみにされる錯覚。薄明るい意識野に、声が響く。


【襲え】


 え?


【きみが最も襲いたくない相手を、最も守るべきだと信じる相手を、きみのその手で】


 おい、何言って……。


【襲え、伊呂波煥】


「おそう?」


 この手で? 最強と謳われる、この体で?

 オレは、銀髪の悪魔。戦うときには一切容赦せずに、潰す。血も涙も忘れて、相手の痛みなど考えずに、壊す。


「襲う」


 最も弱くて、最もうまそうで、最も美しい。それは誰?


【さあ、襲え】


 知っている。オレは、オレの本能を知っている。意識が赤く染まっていく。ケダモノの色に満たされていく。


【本能を突き動かして、襲え】


 外されるリミット。アクセルはフルスロットル。オレの顔が歪む。笑いの形に歪む。オレは牙を剥く。爪を研ぎ澄ます。


「あ、煥、先輩?」


 怯えて揺れる青い目。すくんだ体。細い肩をつかむ。力を加えるまでもない。

 襲いたい。


 女の体にのしかかる。震える女の唇を手のひらで押さえる。うるさい女は嫌いだ。

 加速する衝動。本性を現すケダモノ。理性と迷いを断ち切る、支配者の命令。


【最も襲いたくない相手を襲え】


 繰り返された命令に、しかし突然、本能が叫んだ。

 矛盾だ!


 本能は知っている。戦うことの意味を知っている。オレが悪魔になれるのは、それが守るための戦いだからだ。壊すためじゃない。壊すことは望んでない。


 襲うことは望んでない。


「あああぁぁぁぁぁああっ!!」


 オレは叫んだ。鈴蘭の肩口に顔をうずめて、喉が裂けそうなほど叫んだ。息をつく。鈴蘭の甘い髪の匂いがした。畳の匂いがした。


「煥先輩、大丈夫、ですか?」


 鈴蘭のかすれ声が聞こえた。

 頭が痛い。胸が痛い。意識が、本能が、引き千切られそうになった。


 戦いの手段は、破壊することだ。オレは破壊が得意で、それを楽しむ本性を確かに隠し持っている。

 戦いの目的は、守ることだ。守るためだからこそ強くなれて、絶対に守りたい存在を理解している。


 自分自身を怖いと思った。壊すことも守ることも紙一重で、どちらを選ぶのか自分の意志ひとつで、オレの意志は弱い。


 オレは起き上がって、鈴蘭から離れた。師央と理仁が鈴蘭を助け起こす。オレは目を閉じた。呼吸を整える。ゴトゴトと走る心臓。恐怖が去っていかない。


 平井の声が聞こえた。


「怖かっただろう、伊呂波煥くん? 守りたいものを、一時の衝動で破壊しそうになる。自分に力があるからこそ、破壊できてしまう。それがどれほど怖いことか。今、わかってもらえただろう?」


 沈んだ響きだった。まじめな口調だった。オレは目を閉じたまま訊いた。


「自分はいつもその恐怖を感じている、と言いたいのか?」


 平井が答えた。


「そのとおりだ。私は、途方もないものの預かり手だから」

「途方もないもの?」

「この地球上で最も大きな宝珠だ。人類にとって最も重要な球体だ。私が預かっているものの正体がわかるかね?」


 平井の問いに応じたのは、師央だった。


「まさか、地球?」

「そのまさかだよ。だいせいしゅ、つまり地球。そんなものを、一人の男が預かっている。人の身に余る能力を授けられて、な」


 平井が持つチカラ、掌握rule。全知全能と言えるほどの、結界で抑えなければならないほどの、あまりに強すぎる能力。その根源は、圧倒的に巨大で重大な宝珠を預かるため。


「地球の、支配者か」


 平井は静かに言い放った。


「そうだ。私は地球の支配者だ。別の言い方もできる。私は運命の預かり手だ」


 運命、という言葉。最近よく意識するモノだ。目に見えない。存在するのかどうかもわからない。

 いや、それが存在するとして。平井がそれを感知できるのだとして。


「運命は、変えられるのか?」

「変えられるよ、伊呂波煥くん。正確には『運命の一枝』を変えられるんだ」

「一枝? ひとつの、枝?」


「運命は、大きな樹の形をしている。未来の可能性は、枝分かれを繰り返す。私が預かるのは、そのうちの一枝だ。枝は、分かれる可能性を持っている。運命の一枝は、つねに変化の可能性を持っている」


 師央が、震える声を絞り出した。


「運命の、この一枝は、ぼくが未来からきたことで、変化がありましたか?」


 沈黙があった。オレは目を上げた。平井の顔に、予想外の表情があった。不安、だ。


「変化し、不安定だ。今の大地聖珠、この一枝は、半月前から、ひどく“重く”なった」


 半月前。師央が突然現れたころだ。

 オレは師央を見た。師央は目を伏せて、唇を噛んだ。蒼白な顔。師央の唇が再び動いた。


「ぼくは、変えます。運命のこの一枝の未来を、必ず変えてみせます。失われた幸せを、取り戻すために」


 苦しそうな師央を見てられない。オレは平井をにらんだ。


「あんたは、何もしないのか? 異変が起こってるのをわかってる。そのくせ、ここで黙って見過ごすのか?」


 平井はうなずいた。あきらめたような、静かな顔だった。


「私は、何も為してはならないのだ。すべてを知っている。すべてに影響を及ぼすことができる。強いチカラがあるからこそ、禁忌もまた大きい」


 不自由なもんだ。全知全能イコール、何もしちゃいけねぇとは。


「そうだな、伊呂波煥くん。因果の天秤は均衡していなければならないからね。ああ、もう一つ教えておこう。宝珠の預かり手は、因果の天秤の預かり手でもある。狂った均衡を正すため、きみたちはチカラを試されるのだ。精いっぱい、暴れてきなさい」


 ギリギリまで必死になって戦わなきゃ、ほしい未来は手に入らない。そういう意味だと思った。

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