金魚鉢7 金魚~蒼猫狂想

「フクス、フクス……。朝だよ、起きて」

「うぅん」

 寝返りをうつと、まぶしい朝陽ようこうが閉じた瞼をつらぬいた。

 はっとフクスは眼を見開き、ガバリと上半身を起こしていた。視界に屋根裏部屋の太い柱が映り、ミーオの笑顔が眼の前にあった。

「ごめん、ミーオっ。朝ご飯の支度したく――」

「朝ごはんだったら、ここにある」

 得意げなミーオの声とともに、フクスの目の前にセラドン陶器の器が差し出された。美味しそうなジョーク――柔らかいモツや薬味が品よく並べられたおかゆ――が器の中に盛られ、白い湯気をたてている。

「美味しそうでしょ。私の得意料理なんだっ」

 器を持ったミーオがフクスの顔を覗いてくる。得意げに笑う彼女を見て、フクスはがっくりと狐耳をたらしていた。

「ごめん、私の仕事なのに……これじゃ、見習いフナ失格……」

 フクスは乾いた笑みを浮かべていた。

 フナという身分は、見習いおよび下級の遊女たちを意味する。金魚鉢に売られた少女たちは、フナとして見習い期間を終えたのち、選ばれた者だけが部屋を持つ高級娼婦キンギョになることを許される。

 見習いフナであり蒼色キンギョ付きのフクスの仕事は、ミーオの世話をすることだ。

 けれど、ミーオは仕事の着付きつけから朝食の支度したくまで全て自分でこなしてしまう。掃除は苦手らしく、ミーオが脱ぎらかした服を片付かたずけるのがフクスの主な仕事になりつつあった。

 それから、はだかで遊郭をうろつこうとするミーオを止めるのもフクスの仕事だ。なぜか彼女はフクスの言葉に素直にしたがう。

 フクスに嫌われることを、恐れているようだ。

 けれど、そのせいで――

「フクス、最近元気ないよね」

 しゅんと狐耳をたらすフクスに、ミーオが声をかける。フクスは狐耳をぴんとたて、彼女を見つめた。

 ミーオの眼に、鋭い光が宿っている。すっと瞳孔どうこうを細め、彼女は言葉を続けた。

「そう言えば、私があげたかんざしどうしたの?」

「簪……」

 フクスの脳裏に、ブーゲンビリアを象ったセラドン陶器とうきの簪がチラつく。翠色すいしょくの美しい簪は、ミーオがフクスに贈ってくれたものだ。

 なくしただなんてミーオにはいえない。

 簪の居場所を知っている人物に心当たりがあることも――

「やっぱり、大部屋で何かあったのね」

 冷たいミーオの言葉が、フクスの狐耳に響く。彼女はすっと眼を細め、フクスを睨みつけていた。

 大部屋は、フナである娼婦たちが生活を共にする場である。キンギョになれなかった娼婦たちはフナのまま大部屋で客をとるのだ。

 一階に設けられた大部屋の前方は客を取るために使われ、後方はフナたちの寝起きの場所となっている。見習いフナであるフクスは、大部屋の後方で他のフナたちと寝起きを共にしている。

 もっとも、フクスと共に屋根裏部屋で寝ることのほうが最近は多いいが。

「ちょっと、大部屋にいってくる」

 フクスの膝にジョークの盛られた器を起き、ミーオはベッドから去っていく。フクスは器を脇に置き、急いでミーオの後を追う。

「ミーオ!」

 ミーオを呼び止める。大股に歩いていたミーオは立ち止まり、フクスに振り返った。ミーオの眼が鋭く細められている。

 剣呑けんのんと煌くミーオの眼を見て、ひゅっとフクスは背筋が寒くなるのを感じていた。






 廊下を走るフクスの狐耳に遊女たちのざわめきが聞こえる。遅かったと後悔しつつも、フクスは大部屋の門をくぐっていた。

 まだ夜着姿よぎすがたの遊女たちが、ひそひそと囁き合いながら何かを取り囲んでいる。彼女たちの獣耳が不安げに蠢いている。

 フクスは大きくため息をついて、部屋の中央に集まるフナたち見つめた。

 ミーオの鋭い眼差しを思い出す。

 あのあと自分を振り払うようにミーオは屋根裏部屋から出ていった。慌てて彼女を追いかけたが、間に合わなかったみたいだ。

 ミーオはフナたちに取り囲まれていた。

 ひゅっと瞳孔を縦に開いたミーオの前には、少女が蹲っている。うさぎの獣耳をブルブルと震わせる彼女は、水にれていた。

 彼女を見下ろすミーオの手には、水に濡れた器と簪が握られている。

「ミーオっ!」

 何があったのか察し、フクスはミーオのもとへと駆けていた。

「あっ、フクス!」

 冷たかったミーオの眼に光が宿る。彼女は嬉しそうに眼を細め、器を床に放る。

「フクスっ。取り戻したよ、フクスっ!」

 嬉々ききとした声をあげ、ミーオはフクスに抱きついてきた。形の良い胸を押し付けながら、ミーオはフクスの顔を覗き込んでみせる。

「見て、フクスの宝物。ちゃんと見つけたから……」

 うっとりと微笑みながら、ミーオは翠色の簪をフクスに向けてきた。

「これね、本当はレーゲングスさんがフクスにこっそり渡して欲しいって私に預けてくれたものなの。本当、見つかってよかった……。家族がくれた宝物を隠すなんて、異常としか思えないわ」

 ゆったりと首を巡らせ、ミーオはずぶ濡れの少女へと顔を向けていた。ミーオの眼が妖しく煌めき、桜色の唇に鮮やかな笑みが浮かぶ。

 彼女の顔を見て、フクスはひゅっと背筋が寒くなるのを感じる。

 少女を見つめるミーオの視線は異様だった。まるで獲物えものを狙う猫のように、ミーオの眼は爛々らんらんと輝きを宿している。

「ねぇ、あなた」

 ミーオの唇から艶めいた言葉が放たれる。びくりと兎耳を震わせ少女は顔をあげていた。怯える少女を楽しげに眺めながら、ミーオは言葉を続ける。

「人の大切なものを傷つけたり、盗ったりしちゃ駄目よ。された方はとっても痛いし、悲しいの。残酷ざんこくだって思うでしょう?」

「はっ、はい。蒼色キンギョ《あおいろきんぎょ》さま……」」

「おりこうね。わかればいいのよ」

 ぎゅっとフクスを抱き寄せ、ミーオは笑みを深めてみせる。ミーオは楽しげに鼻歌を歌いながら、周囲の少女たちを見つめた。

「みんなも人が嫌がることはやっちゃ駄目よ。やる方は楽しくても、やられる方はとっても痛いの。痛くて痛くて、仕返しがしたくなっちゃうぐらい相手のことが憎くなっちゃうの。だから、弱い者いじめは駄目だめだからね」

 蒼い顔をしたフナの少女たちに、ミーオは弾んだ声をかけてみせる。少女たちは黙ったまま、首を縦に振ってみせた。

「何をしている、お前たち?」

 鋭い声が、大部屋に響く。自分たちを取り囲んでいた少女たちが慌ただしくその場を離れていく。その崩れた人垣の隙間すきまから、オーアが顔を覗かせた。

 ずぶ濡れでうずくまる少女を見つめながら、オーアは形のよい眉を吊り上げた。

「ミーオ……」

「別に……。ちょっと悪い子がいたからお仕置きしただけだよ、オーア」

 フクスから体を放し、ミーオは明るい声で答えてみせた。はぁっとオーアはため息をついて狐耳を掻きむしってみせる。

「そうか、問題がないならいいが……。それよりミーオ、仕事だ。政治家のお偉いさんたちが例の件でお前に話があるらしい」

 オーアの言葉を聞いて、ミーオはすっと眼を細めた。彼女の眼に鋭い光が浮かびあがる。

「ミーオ……」

「ごめん、フクス。お客様が来たから、おもてなし用の服を用意してくれないかしら?」

 ミーオの声は、驚くほど冷静だった。フクス頷き、ミーオとともに大部屋を後にする。

 後方から、ひそひそと小さな囁きが聞こえる。そっと振り向くと、大部屋の少女たちは怯えた眼差しをフクスに送っていた。

 その日以降、大部屋にあるフクスのものが無くなる事はなくなった。同時に、フクスに声をかけてくるフナの少女たちもいなくなった。



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