金魚鉢6 墓所~花火夜空

「早く、こっち」

 硝子ガラスでできたアーケードの屋根を、フクスとミーオはけていた。お互いに手を繋ぎ、少女たちは飛ぶように走る。

 フクスは空を仰ぐ。月は西の空に傾いて、綺羅星きらぼしがその輝きを増していた。ぴしゃんと、足元で水の跳ねる音がする。そちらに視線をやると、赤い金魚に混じって白い銀魚ぎんぎょが水の中で泳いでいる姿が見えた。

 ――とっておきのものを、見せてあげる。

 ミーオの言葉を思い出す。

 夜の都である金魚鉢が寝静まる明け方の直前に、ミーオはフクスを起こしたのだ。寝ぼけているフクスに、ミーオは散歩に行こうとはずんだ声をかけてきた。

 ミーオの誘いを受けて、フクスは金魚鉢をおおうアーケードの硝子天井を駆けている。ミーオに手を引かれ、水音がする方向へと向かっている。

 やがてその音は、轟音ごうおんとなってフクスの狐耳に届いていた。

 すずやかな冷気が、フクスの頬を撫でる。ミーオが立ち止まる。目の前に広がる光景に、フクスは眼を見開いた。

 琥珀湖るりこ大瀑布だいばくふとなって、深い谷に水を落としている。金魚鉢の建物はその大瀑布すれすれまできずかれており、透明とうめいな硝子の壁が水飛沫から都市を守っていた。あおく煌く水は轟音をたてながら、深い谷へと落ちていく。

 谷底は夜空よりも暗く、うかがうことができない。

「金魚鉢の、お墓」

 ぽつりと、ミーオが口を開く。フクスはミーオを見つめた。彼女は暗い眼で谷を覗いている。

「死んだ娼婦しょうふたちの死体はね、ここに放り込まれるの。死にたい子も、ここに身を放り投げる……。死にたくなったらここに来るといいよ。金魚鉢で自由になれるたった1つの方法」

 言葉を紡ぐミーオの手はかすかに震えていた。その震えをとめたくて、フクスはつないだ手を強く握りめる。

「フクス……」

 そっとミーオがフクスを見る。彼女の眼は、かすかに涙ぐんでいるように見えた。彼女も昔、ここに身を投げたいと思ったことがあるのだろうか。

 蒼色あおいろキンギョと持てもてはやされる彼女が、どうしてそう思ったのかフクスにはわからない。ミーオにどう声をかけていいか分からず、フクスは困惑に狐耳をゆらしていた。

「この谷の先にね、お父さんが住んでる村があるの……。お父さん、そこで花火師をしてるんだ」

 ミーオが顔をあげ、谷の向こう側にある暗い森を見つめている。うるんだ眼を細め、彼女はフクスに微笑んでみせる。

「とっておきのものは、この谷じゃないよ。見て、空――」

 ミーオが猫耳で上空を指し示した。フクスは空を仰ぐ。刹那せつな、光が走って大輪の花火が夜空を彩った。

 轟音ごうおんがする。光が瞬く。たくさんの花火が夜空に咲いていく。

「どうして……」

 唖然あぜんとフクスは眼を見開いていた。自分がここに来ることが分かっていたかのように、花火は夜空を彩っていくのだ。

「あなたがここに来ることは、前から知らされていたから。私のフナになるかもしれないってことも。だから、父さんに頼んでお祝いの花火を打ち上げてもらったのっ」

 弾んだ声でミーオが言う。

 フクスは思わずミーオに振り返っていた。

 フクスの狐耳にミーオが手を伸ばす。狐耳に違和感いわかんを覚えて、フクスは手を伸ばしていた。耳についていたものを取り、目の前に持ってくる。

 白いジャスミンの花がフクスの手にはにぎられていた。

「どう、して……」

 声が震えてしまう。その声に応えるように、フクスが言葉を続けた。

「それは、あなたのお兄さんから。あの人ね、私があなたの面倒を見るって知ってて、それをしたの。渡しただけで、私には何にもしなかった。フクスをよろしくって、私に頭下げて言うんだよ。変な人だよね」

「ほんと、変な人……」

 翠色すいしょくの眼をフクスは潤ませていた。見つめているジャスミンの花が歪んで、自分が泣いていることに気がつく。眼をぬぐい、フクスはミーオに微笑んでみせた。

「また、私を買いに来るって。あなたに渡したい花が、まだあるんじゃないかな」

 ミーオが笑顔を浮かべ、言う。

 そっと彼女は、フクスの狐耳をでていた。柔らかな手の感触にミーオの愛撫あいぶを思い出し、フクスはすっと頬を苹果色りんごいろに染める。

 くすりと笑い声を漏らし、ミーオは空に輝く花火を仰いだ。瑠璃色の眼が、悲しげに細められる。

「私も耳飾りにする花、欲しいな……」

 空を仰ぐ彼女の横顔を、花火が照らす。その花火の光を雲がさえぎり、ミーオの顔に暗い影を落とした。瑠璃色の眼が影の中で光る。

 寂しげに、ミーオの眼は花火を見つめていた。

 ――あれ、俺の娘なんだ。寂しがってるみたいでね。友達になってくれると、有難ありがたい……。

 フクスは、船頭の言葉を思い出していた。蒼色キンギョであるミーオの父親だと男は名乗った。飾窓の中で、ミーオは悲しい眼差しを自分ではなく、父である船頭せんどうに送っていたのだ。

 ミーオはきっと父親が恋しいのだ。

 どうしてミーオの父親は、彼女に会いに行かないのだろうか。それなのに、金魚鉢の船頭をやって娘の様子を見守っているらしい。

 ――ほんと、可愛げのない妹をもってとっても光栄だよ……

 兄の言葉を思い出す。

 レーゲングスは自分に別れを告げることなく、ミーオに花を託して帰ってしまった。ミーオの父親は娘に会うことなく、花火を打ち上げることで娘の心を慰めている。

 どうして彼らは、自分たちの気持ちを告げてくれないのだろうか。どんな後ろめたい気持ちが彼らのあるのだろう。

「ここに落とされた子たちは、どんな思いで死んでいったのかな?」

 ミーオが呟く。

 彼女の眼は、深い谷に向けられていた。ここで死んだ亜人の少女たちはここにほうむられる。谷の闇は深く、底を覗くことはできない。眼をらして眺めていると、その闇に吸い込まれそうな気がしてしまう。

「あなたも、私と同じ目でこの谷底を見るんだね……」

 ミーオが囁くように声をかけてくる。はっとフクスはミーオへと顔を向けていた。瑠璃色の眼を暗く染め上げ、ミーオはじっと谷底を見つめている。

「この闇の中に落ちていったら、またあの人は笑ってくれるのかな?」

 谷底から視線を放し、ミーオは寂しげな眼をフクスに向けてきた。悲しげにきらめく瑠璃色の眼を見て、レーゲングスの眼を思い出してしまう。

 別れ際、兄は一瞬だけフクスを見つめてきた。

 自分と同じ翠色の眼は、悲しげで、苦しそうで。

 フクスは、逃げるように去っていく兄から眼を逸らすことが出来なかった。

 兄は、自分との別れを悲しんでくれているのだろうか。そしてミーオも、誰かを思って悲しげな眼をフクスに向けてくる。

 金魚鉢は亜人少女たちの苦界。一度入ったら二度と出られず、美しい奴隷どれいのまま一生を過ごす。

 金魚鉢の風評をフクスは思い出す。びやかな遊郭都市の闇が、谷の底にわだかまっている気がした。


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