金魚鉢2 亜人~遊郭都市

 ぴしゃんと、闘魚とうぎょ――ベタと呼ばれる淡水魚たんすいぎょ――が水面から跳ね上がる。ぼうっとしていたミーオは我に返り、ひっと声をあげていた。

「フクスっ」

 たしなめるように、前方にいる青年に声をかけられる。フクスは居住いずまいを正し、体を青年へと向けた。

「ごめんなさい。レーゲングス兄さん……」

 しゅんと、赤い狐耳をたらしフクスはうつむいた。ゆらぁんとフクスたちを乗せた船が傾いで、嘲るように闘魚の跳ねる音がする。フクスは眉根を寄せ、闘魚の泳ぐ暗い川面を睨みつけていた。

「お前は亜人とは言え由緒正ゆうしょしいリッター家の令嬢れいじょうなんだ。少しは自覚を持てっ」

 そんなフクスの狐耳に厳しい兄の言葉が響く。

 彼を見つめる。フクスと同じ翠色すいしょくの眼を鋭く細め、レーゲングスはフクスを睨みつけていた。

 くくっと小さな笑い声が聞こえる。

 驚いて前方を見つめると、船を漕ぐ船頭せんどうが必死な様子で笑いをこらえていた。

 兄が船頭を睨みつける。船頭はぎょっと眼を見開いて、何事もなかったかのように前方へと顔を向けた。

 気まずい沈黙ちんもくが船上に流れる。そんな沈黙を嘲笑あざわらうように、鮮やかな闘魚たちが水面から顔をのぞかせる。

 フクスは、情けなくなって顔を俯かせていた。

 船頭の嘲笑はもっともだ。没落ぼつらくした名家の子女に自覚など必要ない。フクスはめかけが産んだ亜人の少女で、その名門家の借金を返すために遊郭ゆうかくに売られようとしているのだ。

 フクスは、水路を覗いてみる。

 蒼色あおいろや、緑の闘魚が淡い提灯ちょうちんの光を受けて、橙色だいだいいろに輝いていた。

 顔をあげるとフクスの眼に金魚の提灯が飛び込んできた。提灯は、水路を取り巻く平屋ひらやの建物に、鈴なりに吊るされている。

 この先にある、金魚鉢への道筋を示すものだ。

 金魚鉢。

 某国ぼうこく租借地そしゃくちであるこの島には、巨大な遊郭都市がある。

 金魚鉢はその遊郭都市の名だ。

 金魚鉢は、島で1番大きな瑠璃湖るりこに浮かぶ水上都市でもある。水上に浮かぶ遊郭を無数の水路が結び、その上を金魚が泳ぐ硝子張がらすばりのアーケードが覆っている。

 アーケードの硝子天井を泳ぐ金魚にちなんで、遊郭都市は金魚鉢と呼ばれている。

 金魚鉢には、キンギョと呼ばれる亜人の高級娼婦こうきゅうしょうふたちがいる。色鮮やかな亜人の獣耳が、闘魚や金魚のヒレを想わせるため、金魚鉢には亜人の少女たちが集められているという。

 フクスは、水面に映る狐耳を眺めた。この耳だけは、いつ見ても好きになれない。自分を生んだ母親は嫌なことがあるとこの耳を引っ張り、フクスに辛く当たった。

 自分が亜人であることが、母は気に食わなかったのだ。

 亜人はここ数百年、世界中で産まれている人間の変異種へんいしゅだ。頭部に獣の耳を持ち、体を獣のような産毛でおおわれた亜人たちは人間とはみなされていない。

 亜人は普通の人間から突然生まれてくる。異常気象や、核兵器の使用による遺伝子の損傷そんしょうなど様々な説が唱えられているが、亜人が生まれる理由は解明されていない。

「お嬢さん。あんたの売られる場所が見えてきたよ」

 船頭に声をかけられ、フクスは顔を前方に向けていた。水路が終わり、凪いだ瑠璃色の湖面がフクスの視界いっぱいに広がった。

 蒼い月光と、光り輝く綺羅星きらぼしが湖面を煌めかせる。その中央に、光り輝く都があった。

 燭台しょくだいともしびように、紺青こんじょうの夜闇を遊郭都市の明かりが彩っている。風に乗って、優美なソードゥアン―― 硬材で胴が作られた高音の擦弦楽器――やソーウー――椰子やしからで作られた低音の擦弦楽器――の雅な音色が響いてくる。

 その様子はまるで、楽園のようだ。

「あそこが苦界だなんて、信じられない……」

 フクスは、美しい都市に見とれていた。

 ――金魚鉢は、亜人少女たちの苦界。一度入ったら二度と出られず、美しい奴隷どれいのまま一生を過ごす。

 この島に住む者なら誰もが知る、金魚鉢の風評だ。だが湖面に浮かぶ遊郭都市は光輝き、暗い影をうかがうことすらできない。

「そうだ、フクス。お前が行くところは苦界なんかじゃない。高官方も政治の話し合いの場として使う、大切な場所だ。お前はそんな方々のお相手が出来る幸せな場所にいけるんだよ。亜人であるお前には、勿体無もったいないいぐらいの職場だ」

「下半身の相手が、主だがね」

 レーゲングスの言葉を聞いて、船頭が笑う。兄は、船頭をにらみつけていた。

「おぉ、怖い。実の妹を売り払った金であんた、金魚鉢の女を買う訳じゃないよな? そう言う奴が、亜人の娘を売る野郎には溢れるほどいるもんだ……」

 冷たい船頭の嘲笑が、レーゲングスに向けられる。レーゲングスは気に食わない様子で顔をうつむかせる。彼は、後方に座るフクスを睨みつけた。

 こんな奴、売られる他に価値はない。

 そう、父を説得していた兄の姿をフクスは思い出していた。首を縦に振らなかった父を説き伏せたのは、そんな兄の姿を見たフクス自身だった。

 兄は妾だったフクスの母が気に入らないらしい。前妻が亡くなり、その後釜あとがまとして本家にやってきた母と兄の仲は、険悪そのものだった。

 その上母が産んだ自分は亜人だ。亜人が親族にいることは、恥以外の何者でもない。

 母に抱きしめられた記憶が、フクスにはない。父だけがときおりフクスの頭を優しくでてくれた。そんなとき、父は困ったような悲しいような複雑な表情を浮かべてみせるのだ。

 そして、フクスに言う。

 ――お前が亜人じゃなかったら、みんな幸せなのにな。

 その言葉を繰り返し聞かされたフクスは、金魚鉢に行くことを自ら決断した。 

 亜人の自分がいなくなれば、借金に苦しむ家族の重荷は和らぐだろうから。

「私、あそこに行くのが楽しみよ。兄さん」

 兄に微笑んでみせる。

 レーゲングスは驚いたように眼を見開いて、嘲笑を浮かべてみせた。

「まったくお前はかしこい奴だよ、フクス。人間じゃないお前たちの幸せは、この世界では保証されていない。統治国が定めた法律でも、亜人には必要最低限の人権すら認められていないんだ。お前がまともに働ける場所と言ったら、金魚鉢ぐらいなもんだ。それをよく理解しているから、お前は父さんに金魚鉢に行きたいって言ったんだろう?」

 兄の言葉は、まるで言い訳のようだった。

 違う。この人はフクスを売り飛ばす言い訳を探しているのだ。実の妹が亜人といっても、売り飛ばすとなったら世間は良い顔をしないものだ。売る人間には罪悪感も生じる。

 兄はフクスを売るもっともな理由が欲しいのだ。

「兄さんは、少し頭の作りが弱いのかしら……」

 笑みを深め、レーゲンスに言葉を返す。兄は眼を見開き、固まった。船頭の軽快な笑い声が船上に木霊する。彼は船を漕ぎながらフクスに笑ってみせた。

威勢いせいのいいお嬢さんだ。それなら、金魚鉢でも十分やっていける。こんな兄貴のところにいるより、いい生活が出来るんじゃないかぁ?」

「ほんと、可愛げのない妹をもってとっても光栄だよ……」

 船頭の言葉に、兄が苦笑を浮かべてみせる。

 どこか悲しげに見える兄の眼を見て、フクスは胸が痛むのを感じていた。

 そっと、フクスは狐耳に手をやる。兄が幼いころ、耳によく花を飾りつけてくれたことが脳裏を過ったのだ。

 無邪気に笑いながら、幼いレーゲンスはいつもフクスの狐耳を優しく撫でてくれた。

 幼い兄はフクスに優しかった。成長するにつれ、兄はフクスに冷たい眼差しを向けるようになったのだ。

 父の言葉が、フクスの狐耳に響く。

 ――お前が亜人じゃなかったら、みんな幸せなのにな。

 金魚鉢は亜人を必要としている。亜人をいらないと思う人間はいないだろう。

 家にいるよりずっと良い。

 少なくとも、あそこには自分の居場所があるのだ。

 フクスは立ち上がり、湖面に浮かび上がる遊郭都市を見つめる。船が近づくたびに、擦弦楽器が奏でる心地よいメロディが狐耳に鳴り響いた。


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